いつからか、頭の中に夢のような記憶がひっそりと存在していた。異世界のような、まるでゲームのような、そんな浮世離れした国で旅をする記憶。私の傍には誰かがいた。しかし、誰だったかは忘れてしまった。声も顔もすっかり思い出せなかった。
ピピピと鳴る嫌に高い機械音に目が覚める。唸りながらてっぺんのボタンを押すと寝起きの脳に響く音がピタリと止まった。重たいまぶたを開いて、音が鳴っていた方を見ると、時計にはAM6:30と表示されていた。
ご丁寧にその上に表示される日付は1週間の折り返しの水曜日。まだ1週間が半分も残っている事実に少々憂鬱を感じながら、体をゆっくりと起こす。
ぼやけた意識のままなんの意味もなく部屋を見渡してみる。小学生の頃から使っている勉強机に参考書や雑誌、教科書が並べられた本棚が置かれているいつも通りの私の部屋。この世界に生まれ落ちて18年、ずっとこの家で暮らしているはずなのに、何故か懐かしくて、何故か寂しい。
寂しい?自分でも分からない感情に、首を傾げてみるも、そんな感情はどこかに消えていて、気のせいだったかもで考えるのをやめた。
「ユヒルー?起きないと遅刻するよー」
「起きてるよー!すぐ準備するから!」
1階からお母さんが私のことを呼んでいる。
私も同じくらいの大きな声量で返事をする。ベッドから立ち上がって、ウォークインクローゼットにかけられた紺色のブレザーと紺色と赤色のチェック柄のスカートを取りだし、急いで着替えて1階へと階段を降りていく。
「おはよう。もう朝ごはんできるわよ」
「ありがとう!わぁ、美味しそう。これってもしかして、あのパン屋さんの特製イチゴジャム?」
「そうなの。お隣さんが店長さんと知り合いみたいでね?たくさん貰ったから、おすそわけって頂いたの」
お弁当に切り分けられた卵焼きを詰めながら、お母さんは嬉々としてお隣さんとの仲良しエピソードを話してくれる。笑いながら相槌を打っていたが、壁掛け時計を見ると既に7時を回っていた。
一旦お母さんとの話を切りあげて、洗面所へと向かう。普段と変わらず、けれど急いで顔を洗って、歯を磨く。そのまま、鏡で確認しながら入念に髪を整える。
「よし、寝癖はついてな、…?」
まだ寝ぼけているのだろうか?
今、鏡の端に見慣れない何かが反射した気がした。薄紅色の何か。
後ろを振り返るも、左右を確認するも、薄紅色の道具なんて何も無い。あるのは無難な色をしたヘアアイロンやドライヤーだけ。目をこすって鏡を凝視するが薄紅色なんて映っていなくて、ただ間抜けな顔をした私が反射していた。
寝起きで意識がはっきりとしてないんだろうと結論づけて、結局気にしないようにした。薄紅色は記憶の隅に置いて忘れることに決めた。それでも消えない不気味な気持ちを心に押し込んで、洗面所を後にする。
先程のことをお母さんに言うこともなく、朝ごはんを急いで平らげて、いってきます!と台所にいるお母さんにそこそこの音量で伝えて、走るように家を出た。
程よく頬撫でるようなそよ風に、じりじりと照りつける太陽はとても気持ちがいいものだ。
学校までの道なりを楽しみながら歩みを進める。左右に目を配らせれば、ほうき片手に家の前を掃き掃除するお婆さんや、そのお婆さんに元気よく挨拶する小学生が目に映る。
何も変わらない平凡な日常に、胸がすっと軽くなる感覚がした。
綺麗な空気を肺いっぱいに取り込んで、今日の体育はマラソンだったかな、ちょっと嫌だななんて思いながら学校へと足を運ぶのだった。
「つかれた……」
無事、学校を終え、足を引きずるように家へ帰ってきてすぐにベッドへと寝転がる。体育のマラソンが中々にしんどくて、未だに下半身がだる重い。長距離走が苦手な私は、校庭3週目くらいから家のベッドで寝たいという気持ちで胸がいっぱいだった。
寝転がったまま上に向けた足をブラブラと揺らすが、だるさが取れることは無い。仕方ない、入浴後に入念にマッサージするしかないと、足を下ろした。
確か足の裏のツボを親指で押すと効果的なんだっけ。ふくらはぎの解し方も教えてもらったな。いつか、誰かに教えてもらったマッサージ法を思い浮かべて。
手持ち無沙汰な手でベッドの足元に置かれた学生鞄からスマホを取りだして、友達とのメッセージのやり取りに目を通す。
昨夜、今週末の遊びの予定を立てて以降最新のメッセージは着信していなかった。胸の上にスマホを置いて、目を閉じる。体力を激しく消耗したせいか、このまますぐに眠れそうだった。着替えなきゃ、宿題やらなきゃ、そんな考えと私の身体は正反対な意志を持っていた。やがて何とか留めていた意識は、抵抗虚しく夢の中へと誘われるのであった。
眠りにつくと、すぐに夢の世界に辿り着いた。
お母さんとお父さんと休みの日に出かける夢だった。数年前にお父さんが一目惚れして購入した車でショッピングモールに行って、お母さんと一緒に季節物の服を眺めて、気に入ったワンピースを購入して、モール内の5階に位置する映画館で推理物の邦画を鑑賞した。もうそろそろ帰ろうかとお母さんと話していた時、そういえばパソコンのマウスの調子が悪いんだったと思い出して、電気屋に立ち寄った。
陳列された店舗おすすめのマウスを眺める。いくつか候補を見つけたが、家でじっくり悩もうとその場を離れるとすぐ近くのコーナーに目が留まった。最新のゲーム機やそれに使用するゲームソフトがたんまりと置かれたゲームコーナー。スマホゲーム以外はまともに触れたことがない私だが、そのコーナーで流れていた広告に興味を惹かれた。
「なんだろう?シミュレーションゲームかな」
プレイヤー側の選択肢によってストーリーが変わる、そんなゲームの広告だった。広告用に所々カットされているであろうオープニングが流れて、そのゲームに登場するキャラクターたちが次々に表示される。
ずっと見つめていると吸い込まれてしまうと感じる漆黒の髪に髪色と似た黒いマント、向日葵のような燦燦とした髪に特徴的な大鎌、人形みたいに綺麗な銀髪に宝石のような翠緑の瞳、橙色の髪に頼もしい大柄な体躯、ゲームの世界ならではの魅力的なキャラクターばかりだった。
わくわくと沸いた興味心に次はどんなキャラクターが見られるのかと、そのまま画面を見つめていた。
最後に映されたキャラクターに私は思わず息を呑んだ。薄紅色の長い髪をした優しく微笑む青年のキャラクター。
今朝の鏡に映った薄紅色が脳裏をよぎる。興味心で踊っていた胸がざわりと嫌に騒ぐ。
ディスプレイに釘付けになっていると、私を呼ぶ声が背後から聞こえた。
買いたいものは見つかったのかと問われ、家で悩んでから購入することを伝えればお父さんは頷いた。
もし買うものが決まれば言ってくれれば買ってあげるからなと言ってくれるお父さんに笑い返して、ゲームコーナーを後にする。既に入口で私たちを待っているお母さんの場所まで歩いて。
(俺を忘れるんですか?一生引きずると言ってくださいましたよね……?)
ふいにどこからか声がした。
後ろを振り向くが誰もいない。先程まで大きな音を響かせていたディスプレイも、今日は外食にしようかと笑っていたお父さんも、全部無くなっていた。ただ残されたのは私と私を包む暗闇だけ。
「お父さん!?お母さん!2人ともどこにっ。ここ、どこなの…!?」
突然世界と切り離された私は慌てふためいて、暗闇しかない空間に語りかける。しかし誰からも返事は無い。
そんな慰めるように背後から人の腕が伸びてきた。もちろん驚いたが、急な孤独に不安に溺れそうになっていた私の心はその腕をすぐに受けいれた。
そして、その腕を伸ばす人物は耳元で囁くのだ。
「可愛らしい大事な大事な俺のお嬢様。すぐにそちらに、お迎えに参りますからね…」
その瞬間、意識が現実に引き戻され、私は勢いよく起き上がる。あまりのリアルで鮮明な夢に息が上がって、顔には脂汗が滲み出ている。
怖い夢を見ただけ、疲れていただけ。そう納得したかった。シーツをぎゅっと握りしめて、深呼吸をする。それでも心臓は落ち着いてくれない。朝そうしたように記憶の隅に置いてしまおう、そうすればいつか忘れると目を閉じた時。
コンコン。静かな部屋に軽快なノック音が響いた。
過剰になっている心のリンクするようにびくりと肩が跳ねた。
お迎えに参りますからね。夢の中の声は私に向かって確実にそう囁いた。
そんなわけない。心当たりがないのだ。私を迎えに来てくれるようなそんな人、記憶の中にはいない。
きっとこの扉の向こうにいるのはお母さんなんだ。扉を開けたら、エプロンをつけた姿のままこう言うはず。宿題は終わったのって。
そう信じて、ベッドから立ち上がって恐る恐るドアノブに手を伸ばす。じっとりと手汗で濡れている手をドアノブに添えると冷たい鉄が手のひら全体に張り付くような不快感を覚えた。
「お母さん…?」
扉の向こうにいるのはお母さんだと、確認するように声をかける。ドアノブに手を添えたまま。その手を時計回りに捻ることはできないでいる。
扉の向こうから声は返ってこない。何度も聞き慣れた甲高い声は返事をしてくれない。どくんどくんと心臓が嫌な音を立てていて、額や首筋には嫌な汗が浮きでている。
コンコン。さっきよりも力の込められたノック音が扉越しに鳴る。身震いして、隔たりの向こうの存在に大きく脅える。その存在は何も喋らず、ノック以外の行動は何も取らない。
(なに、なにがいるのっ……、誰なの…!?)
ぽたりと額から頬を伝ってひとしずくの汗が床に落ちた。壁1枚を挟んだ向こう、そこにいる人物を見つめるように扉から視線を外さないようにしていると、ふいに小さく声が聞こえた。
_そこに、いらっしゃるんですよね?
低声が確かに私の耳に届いた。この世界では1度も聞いた事のないはずの声に反応して、ずきりと側頭部が痛み出す。
_願いがあるとすれば。俺はあなたに生きていてほしい
引きずり出された記憶の中の声が語る。それは向こうにいる人物と同じ声だった。
(私は、この声をどこかで聞いたことがある……?)
声を引き金に、目の奥にある光景が次々と脳内で流れ出す。
緑が視界いっぱいに広がる平和な散歩道。穏やかなレンガ道を私は5人ほどの仲間たちと言葉を交わしながら一緒に歩いている。隣を歩く青年が蜂蜜色の瞳をとろりと溶かして優しく笑っていた。
はっと我に返り、急に流れ込んできた記憶に戸惑い、ドアノブから手を離してふらふらと後ろによろめいてしまう。抑えが無くなったドアノブがゆっくりと回る。ギィ、とぎこちない音ともに扉が開いていく。
「あ…あぁ…っ」
叫ぶことも出来ず、震える喉からは怯えきった微かな声が漏れ出る。足が絡み、床に座り込んでしまう。
私を丸ごと飲み込もうとする影に、恐る恐る顔を上げると、そこには薄紅色の髪の、まるでこの世界の人間ではないような風貌の青年が立っていた。髪色も瞳の色も服装も、全てが現実離れしている。
影がかっているせいで、表情はよく見えないが、はっきりとこちらを見下ろす瞳は蜂蜜色だった。先程私が見た記憶の中のものとは違う、溶けきってしまい不純物が混じり甘さを失った蜂蜜色。
違う。あれは夢なんかじゃない。あれは私が実際に経験した現実だ。
だって私はこの人のことを知っている。
廃墟と呼ばれる日本から流れ込んできた建物を私と5人の人物で探索した。その5人のうちの1人。ずっと私の側にいて、誰よりも過保護で、何よりも私のことを懸命に守ってくれた人。
危険に遭遇した時、話を聞いて欲しい時、理由も分からず寂しかった時、何度も私は彼の名前を呼んだ。
「……ドロ、シー…?」
吸い込まれそうな闇を潜めた双眸を見つめて呟く。
名前を呼ばれた青年_ドロシーが目を細めて、口元に弧を描いた。
やっと呼んでくれたとでも言うように、瞳は熱い感情を含んで揺れる。
「お久しぶりですね、お嬢様」
こつ、こつと穏やかな靴の音を鳴らして、こちらに歩み寄ってくる。座り込む私の前に膝をついて、冷たい手を頬に添えて。本当に私が目の前にいるのかと確かめるように柔らかく撫でた。
「ずうっとあなたのことを探していました。
俺のことを覚えていてくれてるようで何よりです。またあなたに忘れられてしまっては、堪りませんから」
「なんで、ここに…?」
「俺もこの現象については何も分からないんです。話せることとしては、そうですね…」
目を伏せて黙考する。恐らく、どう話せばいいのかを頭の中でまとめているのだろう。少しして、ドロシーは再び口を開いた。
「俺は、途端に姿をくらましたお嬢様を必死な思いで探していました。そして、数ヶ月経った頃でしょうか。俺を忘れないで、俺を置いていかないで。その俺の願いが積もりに積もって膨大なエネルギーとなったのでしょう。目を覚ましたら、いつのまにかお嬢様がいる世界飛ばされていたんです」
「姿をくらました…?私が……?膨大なエネルギーでこの世界に…?」
すぐには飲み込めない情報に呆然とする。
だって、私にはその記憶が無いのだから。目を覚ましたら、私の部屋だった。前日に友達と放課後に寄り道をして、お気に入りのチェーン店のカフェで新作のパンケーキを食べて過ごした記憶だってあった。まるでずっとこの世界で生きてきたような、遠いところになんて行ったことないような記憶しか、私にはなかった。
「えぇ、本当に焦りましたよ。いつものように地下に行くと、鎖だけを残して、お嬢様は跡形もなく消えていて……。俺の屋敷に訪れる人間なんていませんし、お利口なお嬢様が自らどこかに逃げ出すなんて考えられませんでしたから、神隠しにでもあったのかと思ったんです」
自然と何も触れていなかった左頬に手持ち無沙汰だった片方のドロシーの手が触れる。そして、ふんわりと優しく両頬を包んだ。
お嬢様も俺と同様に強い願いでこの世界に飛ばされてしまったんでしょうか、ドロシーは何気なく笑う。
微笑む彼を見て私は、懐かしい記憶に感動の意を心いっぱいに感じる。なんてロマンチックな展開などなく、私の手は情けなく酷く震えていた。
巻き戻し機能のようにオズの国にいた時の記憶が脳内で蘇る。
4人の死刑囚、案内役のドロシーと廃墟探索に向かう途中の景色、宿で交した好奇心くすぐられる異世界の話。どれも楽しい私の大事な思い出。
平和な場面から一転して、掘り起こされる記憶に身体が硬直した。壁や服に飛び散る血液。喉の奥まで痛くなる程の私の叫び声。
「おや、その様子だと釈放後の記憶も思い出せたようですねぇ。人間の肉を抉るナイフの感触、あなたの目の前で恐怖に震え、痛みに苦痛の声を上げる俺の姿、口内に広がる噎せ返るような鉄の味……」
うっとりとした目で私を見据えて、頬から離れた長く伸びた指が手先、喉元、唇の縁と順番に触れていく。
記憶とともに掘り返された口の中いっぱいに広がる血液の味に、ひゅっと虚しく空気を吸う音が喉から漏れる。
「忘れられていたら、記憶に絡みつくために、心を俺で満たすために、またお嬢様の心の奥底の傷を掘り返さなくてはいけませんでしたから。覚えていてくださって、大変嬉しく思いますよ」
下唇に触れた親指が、小さく開いた隙間からゆっくりと侵入してくる。端正な顔がゆらりと近づく。お互いの吐息がかかる距離。濁った瞳は確実に正確に私を捉えていた。
「さぁ、お嬢様。帰るべき場所に戻る時間です。もうこの世界は堪能できたでしょう?
_いっしょに帰りましょうね、オズの国に」
唇に触れていない方の手を忙しない私の手の上に乗せる。握る訳でもなくただ乗せるだけ。私でも振りほどける力加減。
それなのに、全身に恐怖という鎖が絡まった私にはその手を拒むことなどできないのだ。