bar tigerへようこそ 薄暗い路地の突き当りに、ネオンサインの看板がきらめく店がある。
【bar tiger】
黄色く発光する虎の顔面。その真下の扉を開いて更に進むと、数席のカウンターしかない小さなバーが現れる。
「いらっしゃい」
カウンターでグラスを磨いているのは頭部に虎の頭の被り物をした、奇妙なバーテンダー。
首から下はシャツにベストを着た人間なので、恐らく被り物だと思う。
カウンターの左端には先客がいる。
恐らく、前に来た時も会ったことがある奴だ。
そいつから二つ離れた席に座ると、バーテンダーが話しかけてきた。
「しばらくぶりですね。あれから如何ですか? 新生活の方は」
「ああ。まあなんとかやっていけてるよ」
「それはなにより」
初めてここへ来た時は、千冬の店で働き始めたばかりだった。十年も塀の中にいた自分が大人として社会でやっていけるのか。なにより、自分を殺したくて仕方がないはずの相手が仕事でも私生活でも常に傍にいるという状況に、常に神経がすり減っていた。
「どうぞ。当店オリジナルカクテル”タイガードリーム”です」
何を注文するでもなく、バーテンダーが勝手に作ったカクテルを受け取る。
カクテルグラスにはオレンジ色の液体と、カットされたオレンジが添えられていた。
「今日はどうした?」
一口飲み込んだ所で二つ隣の先客が話しかけてくる。
右目の下にホクロと、首筋に虎のタトゥー。
「別に。ちょっと飲みたい気分だったから。アンタは?」
「オレもそんな感じ。というか、最近は毎晩入り浸りだな」
先客の手元ですでに何杯目かであろうウイスキーグラスが揺れる。
「毎晩独りで? 前言ってた好きな奴はどうしたんだよ。もしかして振られた?」
「……」
図星だったのだろうか。
「オレのことより、オマエはどうなんだよ。職場の上司と付き合えることになったんだろ」
「付き合……うというか、まあ、酒の勢いでなし崩し的にそういう関係になったというか……」
仕事だけでなく住まいまで分け合ってくれた千冬に、抑えきれない欲情を自覚したのはいつの頃からか。
そんな気持ちを抱くのは間違いだと思って必死に隠していたのに、勢いとはいえまさか千冬が自分を受け入れてくれるなんて、夢にも思わなかった。
「……いや、止めよう。今アイツの話はしたくない」
「なんで」
「……喧嘩、してるから……」
「……」
先客のあおるグラスの中で、丸い氷が鳴る。
「……理由は?」
「……め」
「あン?」
「こめ」
理由は、こめ。改めて口に出すと、なんかもう恥ずかしすぎて顔を上げられない。
「……仕事、先に上がったから、米を炊いておけって言われたのに、忘れて寝てた……オレが」
「……」
顔を上げられないが、隣の男の視線が突き刺さるのが分かる。さぞ呆れた表情をしているだろう。
「玄関開けるまでは覚えてたんだってッ! でもよ、猫がすっげぇ甘えてきてよ、しょうがねえからちょっと遊んでやってたんだよ。そしたら疲れていつの間にか寝ててよ……」
猫とは千冬と一緒に暮らしている黒猫のペケJのことだ。もう十歳は超えているらしいが、体力がやたら有り余っているようで、よく運動会に付き合わされている。別に寝たくて寝ていたわけじゃないのに、千冬が理由も聞かずに怒鳴りつけてきたのでついついオレも意地になってしまった。
「……フ! あはは、米! あは、ははは……」
「わ、笑うなよ! こっちは悩んでんだよ!!」
千冬になんて言ったら仲直りできるのか、オレはあれからずっと悩んでいるというのに、隣の男は心底楽しそうに肩を震わせて笑っている。
いい気なもんだと呆れて見ていると、男は笑い過ぎて乱れた長髪の、黒と金の隙間からオレを捉えて微笑んだ。
「なんかいいな、そういうの」
「……そうか?」
「うん。いいよ。米。米かあ……」
またクツクツと思い出し笑いを始めたので、勝手にやってろと思い、オレはカクテルを一気に飲み干す。
「オレとアイツもそんな風になれれば良かった」
「……振られた相手?」
「そう。振られた」
よほど辛い振られた方だったのかもしれない。
遠い目をしている男を見かねて、オレはバーテンダーに同じものを彼にもう一杯、と注文した。