メノトレ♀「ボス 遅くなってしまい申し訳ありません」
慌ただしいノックのあと返事も待たずに開いたトレーナー室のドアの向こうには、マグカップを手にしたまま目を丸めて固まるトレーナーの姿があった。
しまったと思った次には、居住まいを正し「失礼しました!」と頭を下げる。
謝意を表す最敬礼で床を見つめて、ものの数秒。くすくすいう笑い声の中に「そんなに気にしないで」という言葉を聞いて、フェノーメノはおずおずと顔を上げた。
「し、しかし……いくら急いでいたとはいえ、いきなりドアを開けてしまうなんて」
「いいの。足音が聞こえていたから、なんとなく予想はついていたし。たしかにノックが聞こえてすぐにドアが開いたのには驚いたけど、そんな大げさに謝ってもらうほどのことじゃないから」
──だからとりあえず、中に入ろうか。
穏やかな口調で入室を促され、自分が未だ廊下で立ち尽くしたままであることを思い出す。これでは、はたから見ればトレーナーが担当ウマ娘をむやみに叱りつけているように見えてしまうかもしれない。
自分なりのけじめとよそからのトレーナーへの印象とを天秤にかけて後者を取ったフェノーメノは、もう一度「失礼します」と頭を下げてからトレーナー室へ足を進めた。
「委員会の仕事、お疲れ様。予定より時間がかかったってことは、なにかトラブルでもあった?」
入室早々投げかけられた言葉にぎくりとする。
トレーナーの言う委員会の仕事というのは、フェノーメノが所属する風紀委員会の当番活動のことだ。
トレセン学園は授業が終わって1時間ほどで完全下校時刻となり、それを知らせるチャイムが鳴ったあとの教室棟への居残りは基本的に認められていない。しかし、時折おしゃべりや読書に夢中になって時間を忘れてしまう者もおり、そういった生徒に声がけをする目的で風紀委員会が見回りをすることになっている。今日は、その当番の日だった。
なんの問題もなく予定通りに見回りを済ましていれば、余裕を持ってトレーニングに向かえるはずだった。それが約束の時間に遅れてしまったということは──つまり、問題があったということだ。
「……実は、下校時刻を過ぎても生徒が数名、教室に残っていまして」
「うん」
「その生徒たちは以前にも同じ理由で注意をしたことがありましたので、これを機にきちんと指導を──と思ったのですが」
「……うん」
「その……指導の最中に、泣かれてしまいまして」
ぺとり、と情けなく耳が垂れる感覚がする。相づちを打ってくれていたトレーナーは眉を下げて、「そっかぁ……」とだけつぶやいた。
こういうことは、正直、よくある。フェノーメノの規律を守らんとする強い思いがすさまじい気迫となって、相手を怯えさせてしまうらしい。
特に今日は、相手が中等部の生徒だったこともいけなかった。泣き止んでもらうまでしばらく時間がかかってしまったために職員への報告も遅れ、こうして大慌てでトレーナー室へ駆け込むはめになってしまったのだ。
自分の顔を見てみるみるうちに涙目になっていく後輩たちの顔を思い出して、フェノーメノは思わずため息をついた。肩を落としたまま定位置のソファに腰掛けると、あとに続くようにデスクを立ったトレーナーが背後から近づいてくるのがわかった。
「そんなに落ち込まないで。貴方の一生懸命な気持ち、きっとその子たちにもわかってもらえるよ」
「──そうでありましょうか」
「もちろん。だって、その"指導"だって、その子たちのことが心配だったからしたことでしょう?」
トレーナーの言葉に、はっと顔をあげる。フェノーメノの隣に腰を下ろした彼女は、視線が合うとにこりと微笑みを返してくれた。
──そう。そうなのだ。下校時刻が過ぎれば職員によって教室棟は施錠され、同時に警備会社のセンサーがセットされる。もちろん風紀委員会の見回りのあとも職員による最終チェックがあるが、それでも万が一見逃されて施錠までされてしまったら、学園中に警報音が鳴り響く大事になりかねない。
フェノーメノは、そんな事態を避けてやりたい一心で後輩たちに懸命に訴えかけたつもりだった。だって、一番不安で怖い思いをするのは彼女たちなのだ。無邪気に放課後のおしゃべりに花を咲かせていただけの彼女たちに、怖い思いなんて決してさせてはならない。彼女たちの平穏な日常を守ることこそ、正義の味方の務めなのだ──と。
そんなすっかり誤解されてしまった思いを、トレーナーはわかってくれた。我ながら不器用極まりない心根を、断片的な状況説明をしただけで理解してくれた。──それが、たまらなく嬉しい。
帽子の上にしぼんでいた耳が、ぴんと立ち上がる。それを見たトレーナーは笑みを深くして、「大丈夫」と頷いた。
「貴方の思いは、きっと伝わる。貴方の走りを見た人は、きっと感じてくれるはず。私はそう信じてる!」
「──っ、はいっ!」
この人でよかった。この人と出会えて、本当によかった。
胸の内から溢れる喜びを噛み締めながら、フェノーメノはきゅっと眉を寄せて不器用に笑った。