「コンニチワ。ミスターボックス。この度は当選おめでとうございます」
「それ」が現れたとき、ヴォックスは寝起きだった。貴重な休日の朝のことだった。
黒い切り揃えられた前髪が最初に目に入り、次にくりくりとギョロギョロの間の大きな丸い瞳と目が合う。
ヴォックスはゆっくりと冷水が熱湯に変わる速度で起き上がり、大きく伸びをしてコキ、と首を鳴らす。
「それ」はベッドサイドに立ってその一挙手一投足をじっと目に映している。奥行きのないプラスチックのおもちゃみたいな目だ。
「おはよう。いい朝だ。そして俺は"ヴォ"ックスだ」
「コンニチワボックス。この度担当になりましたヲ彁ィ子です」
ヲ彁ィ子はヴォックスの神経質な声にも何にも構うことなく続ける。ヴォックスもまた、ヲ彁ィ子に構うことなく朝の支度を始めた。
「あなたは147826095人目の当選…」
「いい、いい。その話は腐るほど聞いている」
「説明はお聞きにならない?」
「そう言っている」
「……では。ミスターボックス。お願いをどうぞ!」
……"それ"というのは、ヴォックスの世代だと「流れ星」と堅苦しく呼ばれている。(今の若い世代は「ランプちゃんとかプレゼントくんと呼んでいる)
流れ星のことはよく分かっていない。いつから存在しているのか、どこから来るのか。全くの謎である。
分かっていることは「当選」と称して現れてはお願いごとをなんでも一つきいてくれるということだけ。「当選」がなんなのか、なぜそんなことをするのかも分かっていない。
願いに制限は無く、金銭関係から殺人、恋愛にとなんでもひとつだけ叶えてくれる。
しかし。この世にそんな夢のある話があるわけがない。
流れ星は願いを叶えてくれる。ただし、理に適ったやり方で。
例えば「億万長者になりたい」と願ったとする。
願った本人は突然自分の前に使いきれないほどの大金が現れると思うが、実際には何も起こらない。
ふと気づくと流れ星はいなくなっていて、なんだったんだろうなと家に帰る。その一ヶ後あたりに仕事が軌道に乗り出して、コツコツコツコツ……とキャリアを積んで願いもすっかり忘れた頃に流れ星はふらり現れて「調子はどう?」と聞く。そして通帳を確認するといつのまにか億万長者と呼ぶのに相応しい金額が貯まっている……という感じである。
他にも「ギャンブルでできた借金をなくしてほしい」と願えば金貸しが死ぬか債務者の身内が事故とかで死んで保険金がたんまり入ってくる。なぜならギャンブル狂いが真面目に働いて金を稼ぐ可能性はとても低いから。
つまり流れ星は可能性を100%にしてくれる、と言った方がいいかもしれない。コツコツ働いて億万長者になる可能性。金貸しが死んで借金がなくなる可能性。そういうのを限りなく高めてくれるのだ。
とは言ってもそれはあくまで知られている話のほんの数例に過ぎない。ヴォックスを前にした流れ星は「147826095人目」と言っていた。つまり「147826094例」という天文学的な事例の数があるということ。願いをどう解釈されるか、どう叶えられるかかわからないというのが正しいかもしれない。
なお、願いを叶えてもらえる権利の放棄はできない。流れ星の言う「当選」は絶対であり、願うまでどこまでもいつまでもついてくる。
そういうことなので、とにかく慎重にならなくてはいけない。ヴォックスは大事な会議や商談の場に着ていくブルックスブラザーズのスーツをカチッと身に纏い、流れ星をVOX社の最高ランクの応接室に通した。
途中秘書が「今日の予定が…」と一層困った顔をしたが、「流れ星、いやお前の世代だとランプか?まあいい。当選したよ。運悪くね」と吐き捨てるとただ頷いて「……調整します」とオウムのように応えた。
特殊な技術で作られた応接室は"ほぼ"南国で、大きな葉っぱと青い空と青い海、奇抜な色の蝶が飛び回る開放的なデザインである。
ザザーン…と波が打ち寄せる青い音が体の強張りをほぐして、リラックスして商談ができる。よほど上物の客でないと通さない部屋だ。つまりそれほど流れ星を警戒していると言うことである。
「どうかリラックスしてほしい。堅苦しいのは無しにしよう。……飲み物は何がいいかな。なんでも好きなものを言ってくれ」
パチン、とヴォックスが指を鳴らす。すると流れ星の一歩後ろに双子のバニーが現れる。
「私はアイスコーヒーを。君は?なんでもいい、冷えたシャンパンもある」
すると流れ星は平たい笑顔のまま「僕未成年だから」と言い、
「おろぽある?」
と言った。
バニーたちは一瞬「おろ…?」と眉を困らせたが、彼女たちNOはないので「それはどんな飲み物なの?」と丁寧に聞いてやっていた。
そして運ばれてきたオロポを一口飲んで「おいしい!ありがと!」と素直にまぬけに言うので、バニーたちは流れ星が好きになった。
一方のヴォックスは、コーヒーに口も付けずモニター頭に笑顔を映してジ…と固まっていた。願いについて考えていた。後ろの排熱ファンが低く唸り始める。
「ゆっくり考えていいよ。わかんないことあれば聞いてもいいし」
流れ星は物理的に頭を熱くするヴォックスなどお構い無しにバニーたちに膝枕してもらって、お腹の上にお菓子を乗せて食べている。
「ここはプライベートじゃないぞ」
「リラックスしろって言ったのは君だよボックス」
「"ヴォ"ックスだ!」
「ふーん。名前って記号じゃないの?」
「お前は社交辞令もわからないのか」
「うん。わかんない。見た目だけあなたたちと同じように作られてるから」
「……」
ぬるい風が吹く。それに押されるようにヴォックスはソファに沈んだ。話が通じない相手との会話はものすごいカロリーがいる。口が甘いものを欲した。お茶請けのケーキにフォークを突き刺さす。何年振りかの直球の甘さに腹の底で驚いた。コーヒーとは違う頭の冴え方がする。
クリアになっていく頭の中と、物理的に冷えていく頭の中。ヴォックスは空を見上げた。太陽は無く、ただ突き抜けるように青い。ヴォックスは初めてお茶請けを全部食べた。流れ星はお腹を出して寝ている。立派なスーツを着た自分が間抜けに思えた。
しばらくの沈黙が続く。
「……3日後、デートがある」
「繁殖?」
「違う。まだ友人だ」
「友人では繁殖できない?」
「違う。デートは子供を作る前段階だ」
「デートに行かなければ繁殖できない?」
「それも違う。……デート、デートは、そうだな。調査だ。相手のことをよく知るための」
「遺伝子の検査にでも行くの?デートって行為?それとも行動?」
「違う。全部違う。とりあえずデートというものに行くということだけ覚えておけ」
「うん」
ヴォックスは道徳の授業の先生の仕草で肩をすくめ、そして背中を丸めて「それをどうしても成功させたい」と続ける。
「失敗は許されない。これっきりのチャンスだ、必ず成功させたい」
「なるほど!じゃあボックスの願いは明日のデートが成功しますように、だね!いいよぉ。じゃあ契約書に」
「待て待て待て待てッ!このバカ、話を聞けッ」
「聞いたよ」
「"聞く"じゃなくて"聴く"だ。いいね?ミスター流れ星」
「僕はヲ彁ィ子だよ」
「お前たちの言葉は一文字に含まれる情報量が人間の脳の許容範囲を超えているんだよ」
「ふーん。なんでもいいや。じゃあそのデートの成功についてもっと詳しく教えてよ。僕たちは言葉通りの意味しか理解しないよ」
「もちろんだとも……では、プレゼンを始めようか」
南国に似合わない無機質のモニターが空に現れる。ヴォックスが指し棒をビ!とヲ彁ィ子に向けると、ソファがカッチリとしたパイプ椅子に代わり、着崩されていたスーツのネクタイがキュッと締まる。お腹のお菓子とオロポはペンとメモ帳になり、顔の半分くらいの大きなメガネがかけられた。
ヴォックスはありとあらゆるものを駆使してアラスターと言う男について、自分が彼にどんな想いを抱いているか、どうなりたいかを一生懸命にプレゼンした。
Helveticaの文字列がモニターを飛び出し、歌を歌い、踊り……
「ッ、ハァ、ハァ……どうだ、わかったか」
テーブルの上でポーズを決めたヴォックスが呼吸を乱しながら椅子に座るヲ彁ィ子を見下ろした。ヲ彁ィ子はパイプ椅子の上で体育座りをして、どこから出したのかスケッチブックに下手くそなヴォックスとアラスターの絵を描いていた。
「見てー」
「……俺と、アラスターと、この黒いのは?」
「僕」
「……」
「ちゃんと話は聴いてたよ。君はアラスターが大好き、でもアラスターはそうでもない。触れ合いが嫌いなアラスターにどうにかデートの約束をこじつけたからそれがいい思い出に残るような、あわよくばアラスターがまたデートしたいなって思うようになればボックス的にはデート成功ってわけでしょ。で、僕はうまく行くようにお天気とか、周りの状況を整えればいいんだ」
「そう……そうだ!なんだ、やればちゃんと話が通じるじゃないか!」
ザッパーン!と波が一際強く高く打ち寄せる。水飛沫がきらめき、ヴォックスの喜びを彩る。感情のままヲ彁ィ子を抱っこしてぐるぐると回り、頭を撫でくり回し、ポケットにたくさんのお菓子を入れた。
お菓子とケーキを袋に入れてやって、マイリトルポニーのぬいぐるみを持たせてやった。ヲ彁ィ子はご機嫌で、「こんなに歓迎されたのはバビロニア以来だ」と笑っていた。
ヲ彁ィ子が指をくるりと回すと、透明な契約書と金のペンがヴォックスの前に浮かび上がる。
「ミスターボックス。契約書にサインを」
「ウン。期待しているよヲ彁ィ子くん」
ペンを握り、ペン先が契約書につくまでの僅かな間、ヴォックスは考える。
正直、かなりリスクはある。ヲ彁ィ子が本当に正しくお願いを理解しているのかもわからないし、そもそも彼らに何か願うこと自体賢いとは言えない。
それでも願うのは、アラスターのことが好きだから。
ヴォックスはアラスターのことになるといつも自信を無くして、素直になれなかった。ヴォックスはいつも少女マンガの嫌なやつだった。
アラスターはいつまで経っても針のようで話しているだけで痛い。
ヴォックスは心のどこかで、針山のような恋愛に疲弊していたのかもしれない。
そんなときに途方もない天文学的数字のような存在が現れたら、縋りたくなってしまうのも頷ける。
ヴォックスは自分の心を理解していたし、向き合えるくらいにはタフな男だった。だから願った。
契約書にサインする。もう後戻りできない。
「えーと、えーと、この内容のハンコハンコ……」
ヲ彁ィ子がヴォックスの署名の隣に尾を噛んだ蛇の判子を押す。すると契約書がパッと白く輝いて砕けた。そして透き通るガラス製のベルを差し出す。
「デート中に困ったことがあればその都度呼んでね。このベルをチリンと鳴らしてくれたらね、助けます」
「ずいぶん手厚いな」
「そう言うふうに作られてるから」
「?……そうか」
ヲ彁ィ子はふわりと空中に浮いてぺこ!と頭を下げる。
「契約成立だね!楽しかったよ、サービスしておくから頑張って!」
と手を振って消えてしまった。
一人残されたヴォックスは途端に体の力が抜けて、素晴らしい商談の後のような心地よい倦怠感に身を預ける。
蝶がひらりはらりと舞い、ヲ彁ィ子のグラスに残ったオロポを吸っている。
何もかもがうまくいく気がしていた。
「どうしてそんなロクでもないのと契約するんですかッ!」
「お前が言えたことじゃないだろう!それに奴らの要望を満たさない限りずっと付き纏われるのは知っているだろう!」
「もっとまともなことをお願いしてください」
「うるさい!お前のことが好きなんだ!」
ループ32回目。ついにアラスターがこのループに気がついた。ヴォックスが待ち合わせ場所に着いた途端に「アナタ、何と契約しました?」と顎の下にステッキを突きつけられる。
ヴォックスは「やっと気づいてくれた」と「気づかれた」の二つの相反する気持ちを抱えながら全てを話した。
「よりにもよってバースデイ・ケーキ(流れ星)と契約するなんて……アレは精神構造が我々とは全く違います。下手なお願いなんかせずにせいぜい明日のディナーのことでも頼んでおけばいいものを……」
アラスターの鋭い小言は止まらない。ヴォックスは何かを言われるたびに小さくなって、次第に応答する声も窄んでいった。やがて心がポッキリ折れた音がした後、「それでもお前が好きだから…」と小さく、聞き取れないくらいの声で訴える。
アラスターはジジ…と唸るようなノイズを吐き捨てそっぽをむいて紅茶を飲む。
「話を聞くにバースデイの役割はデートを阻害する天候などの外的要因の調整であって、決してデートを延々と繰り返す、ではない」
トトト…と長い爪が机を叩く。パタタ…と耳が煩わしそうにはためき、目が上を向く。アラスターがものを考えている時の癖だった。それはヴォックスだけが知っていた。アラスターですら無自覚だった。
カフェは、カフェだけじゃない。地獄の全てが静まり返っていた。みんないなくなってしまったように思えた。騒がしくないときがない地獄でその光景は不気味で、それでいて知的な会話をするのに最も適していた。
なるほど、ヲ彁ィ子は確かに約束を果たしている。なら、なぜループが起こる?
ヲ彁ィ子との会話を思い返す。
ヴォックスは確かに、「デートが成功するように天候や状況を整えろ、アラスターがまたデートしたいと思うようになれば成功だ」(本当ほもっと細かく言った)とヲ彁ィ子にお願いした。ヲ彁ィ子もそれを人の理で理解したように見えた。
ヴォックスは思い出す。ハリボテの南国、無臭の海、鮮明な色の蝶とヲ彁ィ子の光を吸収する真っ黒い瞳。
「……で、僕はうまく行くようにお天気とか、周りの状況を整えればいいんだ」
「困ったら呼んでね!」
「もちろん。えーと、えーと、この内容のハンコハンコ……」
「契約成立だね!楽しかったよ、サービスしておくから頑張って!」
困ったら呼んで、ハンコ、……契約書成立だね……楽しかったよ、サービスしておくから頑張って……
楽しかった、楽しかった…
「サービス、」
「ハイ?」
「サービスしておくって、言っていた」
「……それじゃないですか」
「ウン」
「はぁ、もう……そんな、ねぇ、」
アラスターため息が大きく過剰に響く。呆れと唖然が混ざった顔は少しやつれているように見えた。目を伏せ爪を見て、ヴォックスなんて見向きもしない。周りがあまりにも静かなので、その沈黙は重くヴォックスにのしかかる。アラスターの態度は彼をひどく傷つけた。
ヴォックスは全ての感情を悟られないように、とっくの昔にやめたはずのタバコを口に咥える。いつもなんとなくポケットに入れていたのはこの時のためだったのかもしれないと口の中で苦笑した。
「やめたんじゃないんですか」
「お前が臭いが嫌だって言うから」
「アナタっていつも私基準ですよね」
「好きだからな」
「……わかりません」
アラスターは空になったカップを傾ける。これも彼の会話の癖だった。もちろん無自覚で、ヴォックスだけが知っている。
フッと横に煙を吐いて、そのまま机に押し付けて火を消す。メンソールの匂いが嫌に目に沁みた。
2本目のタバコに火をつける。紫煙をゆっくり吐き出した。
「……呼ぶか」
ヴォックスは本当に嫌そうな顔でチリ、とベルを鳴らす。
「はーい」
声がしたのは店の奥からだった。赤のギンガムチェックのアメリカンダイナーを着たヲ彁ィ子がなんの脈絡もなくチェリーパイを運んでやってきた。
「呼んだ?」
「呼んだとも」
「なに?」
「このループを今すぐやめろ」
「座っていい?」
「いいとも」
「パイ食べてもいい?」
「好きにしろ」
「……で、なんだっけ」
「このッッくだらんループをッッ今すぐにやめろッッ!」
「君はパイ食べる?おいしいよ」
「いただきましょうか」
ヴォックスだけが必死で、勝手に怒って肩で息をしていた。アラスターとヲ彁ィ子は呑気にパイを切ってむしゃむしゃ食べている。フォークと口元が毒々しい赤色に染まる。
バンッと机に手をついて顔を覗き込むように睨みつけるヴォックスの前に水滴がびっしりついたコーラフロートが現れる。
「落ち着こうね」
「ッッこんの、」
「アナタ聞き方が悪いんですよ。そんなに強く言ったら、ねぇ?」
「ね。悲しい気持ちになります」
「お前は誰の味方なんだ」