Fool that I am4月に入ったばかりのとある朝。
ジーザスと一緒に朝食を取っている時、彼が壁のカレンダーを眺めているのが視界の端で見えていた。
すると、ふと彼がにこにこと見つめてくるのに気が付き、ユダはコーヒー片手に顔を上げた。
目が合うとジーザスはより笑みを深め、口を開く。
「えーっとね。ユダ、嫌い!」
その言葉の意味をゆっくりと理解すると、ユダは瞬きをした。
周りの時がしばし、止まった。
窓の外から聞こえる鳥の囀りが、冷蔵庫の振動音がひどく煩い。
頭から爪先までの感覚が鈍くなっていき、体が冷たく感じる。
マグカップを落としてしまいそうな気がしたので、ゆっくりとテーブルに置く。
そんなユダを、ジーザスはいつもと変わらない優しい笑みで見つめ続けていた。
「…そうか」
ユダは静かに頷いてから、やっとそう呟いた。
目を伏せ、テーブルに手を置き、立ち上がる。
そしてジーザスの方を見ないよう、目の前だけを頑なに見つめながら、キッチンから出て行った。
自室で、ユダはしばらく使っていなかったリュックを取り出し、荷物を纏め始めた。
クローゼットから、チェストから衣類を取り出しては押し込み、目についた雑誌やCDも片っ端から放り込む。
引き出しの中のアクセサリーを取り出そうとした時、ユダの手は一瞬怯んだ。
記念日や誕生日に貰った、指輪や腕輪も、クローゼットにかかっている少し良いジャケットも、限定品のCDのボックスセットも全て置いて行くことにした。
思ったよりは、長続きしたな。
そんなことを思いながら、リュックの中に手を突っ込み、ぐいぐいと荷物を押し込んだ。
こんな日が来ることはくらいは、知っていても良かったはずだった。
ジーザスがユダを本当に愛することなどがあり得ないことくらい、分かっているべきだったのだ。
最初のうちは、ちゃんと弁えているつもりだった。
だが日にちが経つにつれ、ジーザスが何度もユダを好きだと囁くのに慣れてしまい、こんな日々がずっと続くといつしか信じ込んでしまっていたのだ。
そんな自分を、なんて愚か者なのだろうと思った。
一体、何で嫌われたんだろうな。
考えてみても、よく分からなかった。
心当たりが全く無い気がすると同時に、自分の普段の言動を思い返すと、心当たりしか無いような気もしてきてしまう。
あんなに残酷な笑顔で言うくらいなのだから、よっぽど幻滅されたのだろう。
ユダの普段の態度が、よほど悪かったのだろうか。
それとも別に、切っ掛けなどないのかもしれない。
ユダが如何にどうしようもない人間であるか突然気が付き、急に嫌になってしまっただけなのかもしれない。
それも仕方のないことだろう。
一体誰がそんなジーザスを責めることが出来るだろうか?
自分を売り、危うく死にかけるような酷い目に合わせた男を、愛せると言う方がおかしい話だったのだ。
「ーユダ!何してるの!?」
ふいに部屋の扉が開く音がしたかと思うと、背後からジーザスの声が聞こえた。
ユダは溜息を押し殺した。
ああ、くそ。
洗面所の物も回収したかったんだけどな。
何故、ユダが大人しくアパートから出て行くまで放っておいてくれないのだろう。
ひょっとして、何か恨み節を言いたいのだろうか。
だがジーザスには悪いが、ユダはさっさと出て行きたかった。
パーカーを手に持ち、リュックを背負い、床を見つめたままユダはジーザスの横を通り過ぎようとした。
真っ直ぐに玄関に向かい、出て行くつもりだったのだ。
だがジーザスは、ユダの両肩を掴んでしまう。
「どこ行くの?」
ジーザスは、少し低い声でそう言った。
ユダの顔を覗き込むようにしてくるので、目線を避ける。
どこでも良いだろ、勘弁してくれ、と内心思う。
ジーザスが肩を離してくれないので必死に顔を遠ざけていると、もう一度名前を呼ばれる。
「ユダ。今日は4月1日だよ」
それが、何だよ。
そう言おうとして、ユダはふと固まった。
ゆっくりと、ジーザスの顔を見る。
ジーザスは真剣な、それでいて少し焦ったような顔をしていた。
ユダはゆっくりと理解する。
馬鹿みたいな気持ちになってくる。
「エイプリルフールで言ったんだよ、ユダ」
本当に、馬鹿だ。
ずる、とリュックが肩から落ちかける。
全身の力が抜けてしまいそうになるのを、何とか堪える。
そしてユダは必死に平然とした表情を作り、頷いてみせた。
「ああ。分かってたよ」
冗談だって、と言いながら、なんとか少し口角を上げる。
上手く笑えているか、全く自信が無かった。
案の定、ジーザスは少し眉を寄せて、訝しげな顔をする。
ユダの両肩を握る手には、更に力が込められていた。
「…本当に?」
「ああ、もちろん…」
当たり前だろ、と言おうとして、ユダは黙った。
胸から、急激に何かが込み上げてきてしまっていた。
ユダがジーザスから一歩遠ざかると、彼はやっと肩を掴む手を離してくれる。
そしてユダはリュックを地面に置きながらベッドに腰掛け、ジーザスに表情を見られる前に、何とか片手で顔を覆ったのだった。
突然襲いかかってきた感情に、ユダはなす術がなかった。
必死に、せめて声だけは出ないよう堪え、同じ体勢のままで固まることしか出来ない。
頬が、手の平がすっかり濡れてしまうと、ベッドが少し沈み、ジーザスが隣に座ったのが分かった。
ユダの肩を、ジーザスの腕がそっと抱いた。
「ユダ。ごめん」
ジーザスは、黙りこくるユダの耳元で囁いた。
ユダは喋ることが出来ない。
今話せば、声が震えてしまうのは確かだった。
「嘘でも、言わなきゃ良かった」
ジーザスが、唾を飲み込む音がした。
彼の声も、少し震えているようだった。
「愛してる、ユダ。もう分かってくれてると思ってた」
そんなことを言われて、ユダは限界を迎えた。
ついに堪えきれず、嗚咽を押し殺しながらも、肩が激しく震え出してしまう。
ジーザスはそんなユダの頭を抱え、首元に引き寄せて抱きしめる。
彼の涙を、泣き顔を、見ないようにしてくれる。
ユダは諦めて、思い切り涙を流した。
彼の震えが落ち着くまで、ジーザスは黙ってそのままで居てくれた。
「一人にしようか?」
ユダの呼吸が少し整うと、ジーザスはそう囁いた。
ジーザスは、ユダのことをよく理解していた。
確かにユダは一人になるために、この後散歩に出かけるだろう。
気を鎮め、起こったことを振り返り、整理する時間が必要だった。
散歩から帰ってくる頃には、また何事もなかったかのように、穏やかな日々を積み重ねて行くために。
だが、今は。
ユダは鼻を啜り、やっと口を開いた。
「…キスしてくれるか」
ジーザスは、ユダを抱きしめる腕を緩めた。
ユダの、目も鼻も真っ赤な顔を覗き込み、触れるだけの柔らかいキスをする。
そしてそっと唇が離れるとユダは目を閉じ、涙が完全に止まるのを待ちながら、ジーザスの腕に抱きしめられた。