寝ても覚めてもエレベーターの数字がのろのろと下がってくるのをついに待ち切れなくなったマリアは、病院の階段を駆け上がることにした。階段の表示板が付いた扉に走り寄り、急いで開ける。手すりを掴んで勢いをつけ、ワンピースを翻しながら、一目散に上へと向かい始める。足が何度かもつれそうになり、マリアは慌ててサンダルを履いてきてしまった自分を内心呪った。それでもマリアは四フロアをノンストップで駆け抜けてみせた。息を切らしながら扉を開ける。すると、連なった長椅子の周辺に見知った使徒達が屯する姿と、座って項垂れる彼の姿がすぐに目に入った。
「ジーザス!」
名前を呼ばれたジーザスは、はっと顔を上げた。手にはハンカチが握られ、顔は涙で濡れている。マリアの顔を見て、ジーザスは新たに涙が湧き上がってきたようだった。真っ赤な目を潤ませ、マリアを見つめながら顔を歪ませる。
「マリア…」
ジーザスの震える声で名前を呼ばれると、マリアは彼に駆け寄りながら手を伸ばした。伸ばし返された彼の手を握って傍に跪くと、ジーザスはしおしおと泣き出してしまった。マリアはその手を撫でながら、息を弾ませながら尋ねた。
「ユダは?」
ジーザスは返事をする代わりに、しゃくりあげながら廊下の端を見る。マリアの心臓が、どきりと強く鳴った。そこには、『手術中』の赤いランプが煌々と輝いていた。
「一体何が…」
すると、誰かの溜息がすぐ側から聞こえた。ジーザスの背後を見ると、ジーザスの背後の長椅子に座ったサイモンが呆れた顔をしてジーザスを見ている。
「大袈裟だな〜。たかが虫垂炎だろ?」
マリアは内心、がくりと来た。朝、ジーザスから『ユダが救急車で運ばれた』とメッセージを貰いすぐに駆け付けたので、事故か病気かさえも知らなかったのだ。それでもさめざめと泣くジーザスの手前、マリアはキッとサイモンを睨む。ジーザスはサイモンの言葉に頷いた。
「そうだよね。でも全身麻酔だから、心配で心配で…」
ジーザスは、顔を青くしてほろほろと涙を流した。手術の同意書にサインをした際、そこに書かれた全身麻酔の危険性についての説明が頭を離れなかったのだ。
「私がもっと早く気が付いてあげられていたら…」
ジーザスは、昨日のことを思い出しては何度も自分を責めていた。なんだか胃が重いとユダが溢したのは、近所に出来たレストランに二人で初めて行った日の夕方のことだった。ジーザスは何ともなかったのだが、食べ慣れない国の料理屋だったので、きっと何かが合わなかっただけだろうと2人とも思ってしまった。軽めの夕飯をユダが吐いてしまった時は、ジーザスは流石に心配になった。だが、ユダは少しすっきりした顔をして、もう大丈夫そうだと言った。そうして頭痛薬を飲んで早めに床に着き、後からベッドに入ったジーザスはその穏やかな寝顔にすっかり安心してしまったのだ。
ようやく異変に気がついたのは、早朝だった。呻き声が聞こえて目が覚めたかと思うと、ベッドにユダが居ない。身を起こすと、ユダが床で脂汗をかいて丸まっているのがすぐに目に入った。一人で支度をしようとしたのか着替えが散乱していたが、結局寝間着を脱ぐことすらままならなかったようだった。そしてジーザスが慌てて声をかけると「救急車、呼んでくれ」と消え入るような声で言われたのだった。
「喧嘩、したばかりだったんだ」
ジーザスは、ほろりと涙をもう一粒流した。きっかけは何だったか分からなくなってしまったくらいに、些細なことだった。だがジーザスは、普段のユダの態度への不満が突然爆発してしまっていた。優しい言葉が、気遣いが欲しかったときに、貰えなかったことが突然気に障ってしょうがなくなった。考えてみればちょうど忙しい時期だったし、二人して神経が立っていたのだろう。結局喧嘩は一週間以上も長引いてしまい、口を聞かない日が数日あるくらいだった。今思うと、ユダは毎日疲れた顔をしていた。喧嘩が、体調が崩れる最後の一押しになったのでは無いかという気がしてならなかったのだ。くだらないことを根に持ってしまった自分に、ジーザスは胸がずきりとした。
「でも、やっと仲直りして。昨日ご飯に行って、すごく楽しくて。なのに」
ユダが自身の異常に気が付くのに遅れた理由も、ジーザスには何となく分かる気がした。腹の具合がおかしいと言い出した時点で、きっとすでに長い時間我慢をしていたに違いない。ひょっとしたら、ランチに行った時から既に具合が悪かったのかもしれない。だがせっかく仲直りをした日にケチをつけたくなくて、何でもないと思いたがったのではないかという気がしたのだ。ジーザスはますます自分を責めるしかなくなっていくようで、片手で静かに顔を覆った。
「もっと早く気が付いてあげていれば、手術を避けられたかもしれないのに…」
サイモンはもう聞いていられないというよう身を乗り出すと、めそめそとするジーザスの肩をがしっと強く掴んだ。
「大丈夫だって!死ぬ確率、100万分の1とかだろ?宝くじよりに当たるより低い数字だぞ」
『死ぬ』という言葉にジーザスがぴくりと肩を震わせたのを、マリアは見逃さなかった。そんな彼を誰も責められないだろう、とマリアは思う。なにせ、互いに一度死にかけた身だ。もし立場が逆だったら、今頃ユダを誰も宥めることは出来ないだろうと思った。
マリアは彼の手をぎゅっと握ると、彼の名を今一度呼びかけた。
「しっかりして」
力強い口調に、ジーザスは少しはっとしたように手の陰からマリアの顔を見る。マリアは真っ直ぐにジーザスの目を見つめ返した。
「ユダが起きて、あなたが目を真っ赤にしているのを見たら、どう思う?」
ジーザスは手を下ろしながら、唇を噛んだ。過去に何度か、ユダに涙を見せてしまった時の彼の様子を思い返す。その時、ユダはジーザス以上にどれだけ辛そうな顔をしていたことか。例え自身の手術後でもジーザスの泣き顔を見れば、きっと逆に心配をかけてしまうだろう。
「頑張らなきゃ。ユダも頑張ってるんだから」
ジーザスはマリアの言葉を聞いて、軽く鼻を啜った。息を落ち着かせるように深呼吸すると、マリアに何とか笑顔を見せる。
「うん…そうだよね。ユダのためにも、しっかりしなきゃ」
ありがとう、とジーザスはマリアの手を握り返した。マリアはその様子に安心して、ジーザスに微笑みを返す。そして彼の手にキスしたくなるのを、マリアは我慢したのだった。
手術が無事終わったと聞かされたのは、それから僅か三十分後のことだった。
使徒達とマリアは胸を撫で下ろした。ジーザスも執刀医が手術着さえ着ていなければ、彼女を抱きしめてキスせんばかりの勢いだった。代わりに感極まってしつこく握手をして感謝を告げていると、彼女は笑いながらマスクを外した。
「お会いになります?まだ少し朦朧とされているかもしれませんが」
ジーザスが何度も頷くと、医者は「後で病室にご案内して」と近くの看護師に指示をする。そうして十分後には、ジーザスたちはユダの病室に案内されたのだった。
「…なんでカメラ構えてるの?」
ジーザスの後ろを歩きながら、ピーターは隣のサイモンに尋ねた。何故か携帯の録画画面を起動しながら、妙に楽しそうにしている。
「全身麻酔後って、寝言みたいに変な発言することがあるらしいぜ。動画とか観たことねえか?」
にやにやしながらサイモンがそう言ったので、ピーターは呆れた。確かに、パートナーに惚れ直すかのような反応をする人たちの微笑ましい反応や、とんちんかんな発言をする人たちの面白い反応を纏めた動画を観たことがピーターにもある。ユダはどんな発言をするだろうとしばし考えて、思わずげんなりとした。
「ろくな発言しなさそう…」
暴言を吐くとか、はたまたとんでもない下ネタを喋り出すとか、そういったことしか思い浮かばない。サイモンも、むしろそういうハプニングを期待しているのだろう。大丈夫かなぁ、とピーターは不安になりながらジーザスの後ろ姿を見つめるのだった。
人数が多いので、大半の使徒達は後で見舞うことになった。ひとまずジーザスとマリアを先頭に、ピーターとサイモンも続いて病室に足を踏み入れる。すると、リクライニングさせたベッドに横たわるユダの姿がすぐに見えた。ぼんやりとした様子で、側にいる看護師の問いかけに軽く首を縦に振ったりしている。ぞろぞろと入ってきたジーザスたちに顔を向けないあたり、まだ意識ははっきりしていなさそうだった。
看護師が離れて行き、四人でユダのベッドの周りを囲んだ。マリアの隣に立ってユダの横顔を見つめながら、別人みたいな表情だなとピーターは思った。眉間の皺が消え、ぽかんと自身の足元を見ている。ひょっとすると、まだ寝ているようなものなのかもしれないと思う。普段から白い肌は余計に血の気が引き、まるで人形のようだった。ベッドの足元に立ったサイモンが「よう」と声をかけると、ユダはやっと目線を上げる。何の感慨も無いような表情で、サイモンを認識しているかも怪しかった。その時、ジーザスがユダの枕元の椅子に座った。
「ユダ」
ジーザスが囁くと、ユダはゆっくりと声の方を向いた。目の焦点を合わせるかのように、何度か瞬きをする。ジーザスはまだ少し赤い目で、ユダに微笑みかけた。
「具合はどう?」
サイモンはこっそりと録画を開始していた携帯を構えると、わくわくしながらユダの顔にピントを合わせた。画面越しに、ユダの表情を観察する。最初は、また何の反応も無いかのように思えた。だがジーザスの顔がはっきりと見えたと思われる瞬間、ふと瞳孔が開いたように見えた。そして、みるみるうちに顔に血色が戻っていくのが手に取るように分かる。そして、顔色とはこんなにも分かりやすく変わるものなのかと感心した、その瞬間。
ぱあっと、まるでつぼみが一気にほころぶように、ユダは満面の笑顔になった。
まるで、赤子が母親に向けるような惜しみない笑顔だった。目に映るその人が大好きでたまらず、その人が存在してくれることがひどく嬉しいのだと、まるでそんな喜びに満ち溢れているかのようだった。
サイモンは、携帯を落としそうになった。マリアも、使徒達も、サイモンのカメラに映るジーザスも、呆気に取られたような顔をしていた。こんな笑顔のユダは、誰も見たことがなかった。普段はせいぜい皮肉な笑みを浮かべるくらいだったし、何かの冗談に笑った時でさえ、こんなに屈託のない笑顔になったことはなかったのだ。
「よう」
全員が固まる中、ユダは嬉しそうにジーザスに話しかけた。ジーザスはユダの笑顔に心奪われて、上手く返事が出来ない。すると、だらんと上手く動かない手をジーザスに向かって伸ばそうとしたので、咄嗟にその手を取る。両手で強く握りしめると、ユダはますます嬉しそうににこにことジーザスを見つめた。
「あんた、可愛いな」
ジーザスは目に涙を浮かべながらも、少し笑った。感極まってユダの指先に、手の甲に何度もキスをする。少しぽかんとした彼の額にも続けて唇を落とすと、ユダは驚きのあまりなのか、ころころと笑い声を上げた。
「なんで、キスした?」
ジーザスは、頬を赤く染めたユダを愛おしそうに見つめ、そっと顔を近づける。
「僕が、君の恋人だからだよ」
優しく、小さな子で囁く。すると、ユダはまた愉快そうに笑い声を上げた。
「まさか」
ユダは面白そうにジーザスを見つめた。まるで、妖精は存在するとでも言われたかのような反応だった。少し切なくなりながらも、ジーザスはユダの笑顔につられて微笑みを返す。ユダの髪を撫でながら尋ねた。
「なんで?」
ユダはその質問も可笑しくてたまらないとでも言うかのように、ふふ、と柔らかく笑う。
「だって。俺なんかが、あんたみたいな良い男と付き合えるもんか」
そう言いながらも、ジーザスの手をぎゅう、と握り返す。
「本当なら、夢みたいだけどな。本当なら…」
ユダは深い憧れを目に宿して、ジーザスを少し真剣に見つめた。
「一生、大事にする」
そしてユダは小さく笑みを浮かべてジーザスの手に頬を寄せると、うっとりと目を閉じたのだった。
ぴろん、とサイモンの動画を撮り終える音が、静寂の中に響いた。
見てはいけないものを見てしまった。
全員が、そう感じていた。ピーターとマリアは唖然とした表情で顔を合わせると、ジーザスたちに背中を向けて静かに病室を去り始める。病室の外に出て、ご飯に行こっか、とげっそりとマリアが言うのが聞こえた。携帯をズボンのポケットにしまったサイモンも、それに続こうとした。
「サイモン」
だが、背後からジーザスに呼び止められた。二人を見るのが何となく気まずくて、少しだけ振り返る。ジーザスは、ユダを見つめたまま言葉を続けた。
「その動画、貰ってもいい?」
「…もちろん」
そう答える他無かった。なんなら、さっさと送ってしまったらすぐに消してしまいたいくらいだ。正直、ポルノ動画を持っているよりも気まずい。ジーザスはサイモンの返事に頷く。そして唇を少し噛んでから、小さな声で付け加えた。
「他の誰にも、見せないでね…」
サイモンは「ああ」と返事をしたが、ジーザスはもう聞こえていないようだった。サイモンがそそくさと去ると同時にジーザスはユダの上に身を屈め、その唇にそっとキスをするのだった。