悦ばしき者我は我が愛する者につき
彼は我を戀したふ
ああ、師よ。
貴方は何故あの時、私を受け入れてくれたのか。
どうか教えてくれ。
私は、知りたいだけなのだ。
あの日、貴方は傷付いていた。
私は村の外れで、一人きりで貴方を待っていた。今朝方貴方の生まれ故郷に近付いたかと思うと、貴方は突然一人で行くと私たちに告げられたのだ。私を含めた使徒の誰も、貴方に反対することなど出来なかった。彼らのほとんどが近隣の別の村へと病人を癒しに向かう中、私は貴方を一人で待つことにした。どうせ、私には病魔を祓うことなど出来なかった。私たち十二人に貴方が授けられたはずの力を、何故か私だけが上手く使いこなせなかったのだ。それに村に近づいて行ったあの時の、遠くから家々を見つめる貴方の静かな横顔が、いつもと何かが違う気がしてならなかったのだった。
岩陰で熱い日差しを避けながら、私は貴方をじっと待った。額に汗を伝うがままに任せ、水を少しずつ飲んだ。いくら飲もうと、乾いて仕方ない気がした。初めて出会った時からずっと、私は貴方と居る時だけが満たされていたのだ。
革の水入れがほぼ空になった頃、日はみるみる落ち始めた。赤くなっていく空を眺めながら、私は貴方のことが心配になった。気温は、じきに急激に下がる。貴方は外套をお持ちだっただろうかと、心配になる。村まで迎えに行こうかと、立ち上がる。そして衣服から土埃をはらいながら振り返ったちょうどその時、丘の上に人影が現れるのを私は見た。
貴方は真っ赤な日を背に、一人きりで立っていた。ひどく細く、小さく見えた。初めて会ったあの時と同じように。
ただあの時の貴方は、一人きりでは無かった。私の村へと伝道に来た貴方を初めて見た時、貴方は数十人もの人々に囲まれていた。井戸から水を運んでいた私は水瓶を両肩から下ろすと、岩陰からその様子を見つめた。少し小高い場所に立った貴方が救い主なのだと聞かされて、私は信じ難い思いだった。何故かその時の私には、貴方の姿がひどく小さく見えてしょうがなかったのだ。私たちの民の命運が貴方の肩にのしかかっているなどとは、どうしても信じられなかった。そんなことをすれば、この人は潰れて消えてしまうのでは無いか。だがその印象は、当然私の勘違いだった。あとで近づいてみれば貴方は細くも小さくもなく、結局私と同じくらいの年の頃で背格好の男なのだということが分かった。
ゆっくりと歩く貴方が私のところに着く頃には、日は丘の向こうにほぼ落ちていた。私の前に立つ貴方を、私は薄闇の中でじっと見つめた。
ただの、男。
私を見つめる貴方の顔は、どこか悲しげに見えた。
「どうされたのです」
私は、たまらず問いかけた。貴方のそんな顔を見ることなど、出会ってから初めてのことだったのだ。貴方はいつだって、底が測り知れぬ深い湖のような表情を浮かべていた。貴方はその水を私たちに飲むがままにさせ、いくら飲もうが尽きぬのだとでも言うような顔をずっとしていたではないか。それが今、何故。心の奥底の深い哀しみを、何故今になって私になど見せるのだろうと、そう思った。
貴方は私から視線をふっと外したかと思うと、小さく呟いた。
「あそこの者たちは、信心が足りないのだ」
貴方の声は悲しげだった。私は、たまらなくなった。ナザレで何があったのか、貴方が同郷の者たちに何を言われたのかは分からなかった。だが貴方が泣きたいのではないかと、私にはそう思えてならなかったのだ。だが貴方の眼は、いつものように静かに澄み切っていた。
だから、私が代わりに泣いた。
貴方の足元に膝をついた私に、貴方は何も言われなかった。乾いた砂に涙が何粒も落ちて、吸い込まれていくのを見つめた。私は、貴方の足に手を伸ばした。
「…汝の足は」
触れた貴方の足首は、やはり細くなど無かった。あの日、貴方が足を触らせてくれた時もそう思った。いつの間にか側の岩にふと座った貴方の足が、慣れない靴で傷付いているのに私は気が付いた。思わず指摘すると、貴方は足を差し出して紐を結び直させてくださった。あの時の私は、何故か手が震えていた。
「靴の中にありて」
なのにどうして、あの時も今も、貴方の御足はこんなにも頼りなく、哀れに思えるのだろう。余りにも容易く預けられたこの足を私が突然折ってしまうようなことがあろうとも、貴方はそれを受け入れてしまいそうで怖くなった。私が、守って差し上げたいと思った。
「如何に美はしきかな…」
涙が喉に詰まって、声が震えた。泣きながら、貴方の足の甲に唇を落とした。どうしてこの歌を誦じてしまったのだろうと、自分が理解出来なかった。この詩の意味を、貴方も私も、ちゃんと理解していた。私も、他の誰も、貴方のような人には決して向けてはいけない言葉だった。だが私は思いがけず、貴方に抱く想いをこうして明るみに出してしまった。私は私自身の本心に驚き、戸惑い、胸が引き裂かれた。
貴方は、そんな私の手を握ってくれた。ひどく冷たく、乾いていた。悲しくなって、強く握り返した。温めたいと思った。貴方も私の前に跪いた。顔を上げると、貴方の眼がほんの少し潤んで見えたのは、気のせいだったのかもしれない。眩しい星空を、映していただけなのかもしれない。貴方の息が、唇が、温かいことを私は知った。
貴方が口付けを返してくれるとは、私は夢にも思わなかった。
その晩、月は出ていなかった。暗闇の中、私の外套の上に貴方は黙って私に横たえられた。その身体に触れながら、私は詩の文句を繰り返すほかなかった。自分の言葉など、本当に思っていることなど、怖くて言えなかった。貴方の腿に、腹に、髪に口付けを落としながら、譫言のように呟いた。
汝の腿はまろらかにして玉の如く
巧匠の手にて作りたるが如し
汝のほぞは美酒の欠くことあらざる杯の如く
汝の腹は積かさねたる麦のまはりを百合花を持って囲めるが如し
汝の頭はカルメルの如く
汝の頭の髪は紫花の如し
王その垂たる髪に繋がれたり
繋がれているのは、この俺だと思った。
師よ。貴方は知っていたのか。
私の中に、悪魔が巣くっていたことを。
私の口付けは、悪魔の口付けであったことを。
私が触れた場所は一つ残らず、傷つけられて、血を流す運命だったことを。
私が唇を落とした貴方のその脇腹が、額が、手足が、その背中がどうなるかを、あなたは知っていたのか。茨がその皮膚を裂き、釘が打ち込まれ、私の口付けと同じ数だけ鞭打たれることを知っていたというのか。
知っていたならば何故、貴方は私を受け入れたのか。
この乾きを貴方で満たす淺ましいこの俺を、何故受け入れてくれたというのだ。
「皆、神のみむねなのだ」
共に横たわっていると、腕の中の貴方は星空を見上げてそう呟いた。私は今だけは、今宵だけは、そんな話は聞きたくなくて、貴方の口を塞いだ。貴方と二人だけでこうして過ごすことが出来るのは、後にも先にもこの時だけだと分かっていたから。貴方は、黙って眼を閉じてくれた。貴方の口は、酸いぶどう酒の味がしたような気がした。
私は地獄に堕ちるのだと、この時から既に分かっていた。
知っていながら、私は最後まで足掻こうと思った。貴方を最後まで守ることさえ出来れば、泥に塗れようと、何処まで堕ちていこうと構わなかった。だが冥府に落ちた私をも、貴方は引き上げてくれるのだろうか。もしそうなら、それは私たちの、お前の父なる神に言われてすることなのか。それとも、貴方がしたいことなのか?
教えてくれ。私は、知りたいだけなのだ。
師よ、師よ、師よ。
「名前で呼んでくれ」
夢なのか現なのか、分からない記憶があった。あの時貴方は、私の腕の中でそう言われた気がした。確かでは無かった。貴方の口が動くのを、私は見なかったのだ。見逃しただけだろうか。それともやはり、ただの聞き間違いだったのだろうか。それでも、私は。
「ジーザス」
私は、震える声で貴方の名を呼んだ。貴方の名をやっとこんな風に呼べて、益々愛しくて悲しくてならなかった。貴方の腕が、私にしがみついたような気がした。
「ジーザス、ジーザス、ジーザス」
ジーザス。どうかもう一つだけ、罪を重ねることは許されるだろうか。貴方もただの男でありたいと、一瞬でも願ってくれたかもしれないと思うことを、貴方は許してくれるだろうか。
あの夜、私は貴方と眠った。この世の誰も知らない何処かで、貴方と朝を迎える夢を見ながら。神の恵みを、二人の男としてただ享受して生きていく夢を。あの日が、あの短い夜が、私の最上の時だった。声にならない声が、決して叶うことのない詩の続きが、頭に、夢にずっとこだましていた。
我ら朝に起きて葡萄や芽しし
莟やいでし石榴の花や咲し
いざ葡萄園に行きて見ん
かしこにて我愛を汝に与へん
もろもろの佳き果物
古き新らしき共にわが戸の上にあり
我が愛する者よ
我これを汝のためにたくはへたり