御手は来たりてHis words were full of comfort,
They cheered my weary soul;
For I had touched His garment,
His grace had made me whole.
冷たく硬い路上に横たわり、衣服はぐっしょりと濡れ、ユダの顔は冷たい雨に打たれていた。
真っ暗で誰も歩いていない真夜中の路地に、激しい雨の音だけが響いている。
冷たさが体の感覚を少しずつ奪っていき、ついに四肢の感覚が無くなり始め、いよいよまずいなと思った。
何故今ここで倒れているのか、ユダはよく思い出せなかった。
今日1日何をしていたのかも、それすら朧げだった。
空腹で仕事を探すどころではなかったし、雨のせいで体を横たえる場所もなかなか見つからなかった。
食べ物を求めて歩き回り余計に体力を消耗し、そうして限界に達して飢えと寒さを忘れるために打った薬が、今回は少しばかり多すぎたようだった。
こんなことなら、適当な男の家に転がり込めば良かったのかもしれない。
だが、具合も金回りも悪い状態で誰かに助けを乞うなど、ユダのプライドがどうしても許さなかったのだ。
そしてこのクソつまらないちっぽけなプライドのために、自分は死んでいくわけだ。
父親は自分を殴り母親と共に酒浸り、絶対に俺はそうなるもんかと誓ったのに、代わりに薬に溺れてこのざまだ畜生。
父親に殴られていた時、母親はこれっぽっちも助けてはくれなかった。
家から飛び出して学校からもおさらばした時、やっと自由になったと思った。
あの日から、一体何がどうしてこうなってしまったのだろう。
その日暮らしの仕事をして、薬をやって、適当な男と遊び続けただけの日々だった。
空っぽの、何も残らない日々。
ああ、ローマのくそったれ。
親父とお袋のくそったれ。
俺の、クソつまらない人生のくそったれ。
頭上の街灯が、異様に眩しかった。
他の誰も道を歩いていないのに、灯りがあること自体が不思議に思えた。
まるで自分を照らすためだけにあるようで、これが最後の光景かもしれないと思うと少し怖くなった。
だが生き残っても良くて肺炎、身体は少なくともこの時に少し壊れて、自分の人生はこのまま悪化の一途を辿るだけだろう。
そう気が付いたユダは、それなら今ここで死んだ方が良いと思った。
もう連れてってくれよ、と目を閉じる。
すると、瞼を透ける光が急に遮られた。
いよいよかと思う。
だが、遠ざかっていくことを覚悟した身体の感覚はそのままだった。
何かがおかしいと思い、ユダは今一度目を開けた。
男の顔が自分を見下ろしていた。
いつの間にか、自分の傍に膝をついている。
逆光のはずが何故か顔の細部までよく見えて、好みの顔だと思った。
少し長めの黒髪にうっすらと口周りに生えた髭、そして濃いまつ毛と大きい鼻が色っぽかった。
全体的に優しそうな顔つきで、大きな目が真っ直ぐにユダを見つめている。
死ぬ間際の頭が見せた幻覚だろうか、と思う。
それともまさか迎えに来た天使か、悪魔だったりするのか?
後者の方がまだ信じられそうなものなのに、その顔はどうしても悪そうなものには見えない。
街灯の光で、まるで男の頭に後光が差しているかのようだった。
天使が皆こんな感じの見た目なら、天国も悪くないのだが。
「可哀想に」
男の口が開き、思いの外高く、優しい声で喋りかけられる。
大きな手が肩に回され、抱き起こされた。
男の胸に抱かれ、至近距離で顔を見上げる。
名前は、と聞かれ、ユダはどうにか答えたらしかった。
男が「ユダ。ユダ」と囁くように己の名を呼びける。
顔に、男の温かい手が添えられた。
「ユダ、もう大丈夫だ。君は救われる」
足音と人の気配がして、他にも何人か男がいることにようやく気が付く。
自分を抱く男がその者たちに何やら話しかけ、指示をしているようだった。
誰かの手に固く握った拳を解かれ、自分が男の衣服をきつく握っていたことにユダは初めて気が付いた。
そうして両脇を男たちに支えられながら立たされて、ユダはこれが幻覚でないことをやっと理解したのだった。
その後の記憶はあやふやだった。
救急病棟に担ぎ込まれ、処置を受けたことだけは何となく覚えている。
医師の顔や病院の天井が、ダイジェスト映像のように場面が移り変わった。
その中には、優しく微笑むあの男の顔もあった。
意識がやっとはっきりしたのは、テントの中で目を覚ました頃だった。
瞬きをして、鳥の声に耳を澄ませる。
外は明るいようで、もう朝のようだった。
身体も頭も重かったが無理矢理身体を起こすと、足元に誰かが座り込んでうたた寝をしていることに気が付く。
あの男だった。
身じろぎをすると、寝袋や狭いテントがガサガサと音を立てた。
物音に目を覚ました男がこちらを見て、ユダを見てにこりと笑う。
「良かった。大丈夫?」
ユダも口を開こうとしたが頭が痛み、呻いて顔を顰めた。
近づいてきた男はユダの肩を掴み、優しく横たわるよう促す。
大きな手のひらがユダの額に当てられる。
あやすような声で、ここは自分たちが人助けをするための場であり、安全な場所だと説明された。
「安心して良いよ。もう少しここで休んでいくと良い」
ユダの視線を受け、男が察したように付け加えた。
「ジーザスだ」
ジーザス。
この男の名前。
これが、出会いだった。
またユダは少し眠ってから、テントの外に出て、ジーザスと男たちに食事を振る舞われた。
オートミールを食べながらそこで聞いた話は、ジーザスがこの団体のリーダーであり、活動を始めてからまだ数ヶ月ということだった。
正直驚いた。
高架下の空き地にはそれなりの数のテントがあり、物資もあるようだった。
5、6人ほどそこに居た若い男たちによれば、ジーザスは1人で活動を始めたと言うのだ。
ここに集まった男たちは、募金活動をしながら演説をするジーザスに惹かれ、少しずつ集まったということだった。
大した人たらしと言うわけだ、このジーザスという男は。
照れたように微笑むジーザスを、活気ある若い男たちが尊敬の眼差しで見つめている。
君たちには僕の方が助けられているよ、とジーザスが言うと、皆が嬉しそうな顔をする。
やっぱり人たらしだ。
まあ、自分には関係ないことだったが。
「もう行くのか?」
少し休ませてもらったあと、世話になったと言ってとユダは出て行こうとしていた。
「ああ。今度見かけたら募金でもするよ」
引き止められたら鬱陶しいな、と視線を外しながらユダはぶっきらぼうに言う。
助けられたことは感謝していたが、見返りを求められたり、必要以上に介入されるのも困る。
だが、ジーザスは驚くくらいあっさりと快諾した。
その代わりなのか何なのか、中古のテントや食料を無理矢理渡される。
いいから、と言われ渋々受け取ると、その上ジーザスはユダの手に名刺を握らせた。
「助けが必要になったら、いつでも連絡しなさい」
「…どうも」
ジーザスはにっこりと笑い、立ち去るユダをいつまでも手を振って見送っていた。
ユダはその後、なんとなく薬から足を洗うことにした。
邪魔なはずの名刺も財布から捨てられず、走り書きのジーザスの個人の電話番号をたまに眺めては、またしまった。
薬くらい、自力でやめてやる。
だが本気でやめるとなると、すぐにそうも言っていられなくなった。
寝袋の中で、ユダはがたがたと震えていた。
涙と鼻水が勝手にだらだらと流れ、汗が吹き出し、寒くてしょうがない。
全身の筋肉と節々がひどく痛かった。
日没が近づいてきている。
適当な建物の物陰に陣取ってから、そこから動けず半日以上経過していた。
離脱症状のピークは明日にも来ると思われたが、まだ1日もあるのかと思うと、本当に死にたくなった。
ユダは、ジーザスの温かい手を思い出した。
震える手で携帯を取り出し、離脱症状が始まってからずっと握りしめていたぐしゃぐしゃの名刺を広げる。
電話番号を焦点の定まらない目で必死に見つめ、嫌になる程ゆっくりひとつひとつ番号を打ち込んでいく。
そうしてやっと発信ボタンを押し、耳に充てた。
「もしもし?」
ワンコールがまともに鳴り終わらないうちに相手が出たので、ユダは驚いてしまった。
1ヶ月ぶりの電話越しのその優しげな声を聞いて、何故か急に声が出なくなってしまう。
「ユダ?」
だが、何故かジーザスはユダだと分かったようだった。
いつの間にか番号を控えられていたのだろうか?
だが、今はそんなことを考えている余裕は無かった。
ユダはなんとか口を開き、状況を手短に説明した。
「今どこだ?」
居場所を、嫌になるくらい震える声で伝える。
「すぐに行く」
電話が切れて、ユダは脱力した。
やがて、食料と水を持ったジーザスが現れた。
ユダはそんなジーザスを驚きの目で見つめた。
他のやつに来させれば良いものを何であんたが来るんだよ、リーダーなんだから他にやることあるだろ。
頭にはそんな言葉が浮かんだが、出てこない。
「大丈夫か」
「…大丈夫に見えるか」
なんとか震える声で返すと、ジーザスはユダを見て本当に辛そうな顔をした。
汗や涙で濡れた顔を丁寧に布で拭かれ、助け起こされて、ペットボトルを口にあてがわれる。
ユダは水を何とか飲むと、そのままうつ伏せに倒れ込んでしまう。
投げ出したユダの手を、ジーザスはきつく握った。
そのまま朝になるまで、ずっと握りしめられていた。
そして、自分でも不思議だがなんとか薬から足を洗うことに成功したユダは、結局ジーザスとよく顔を合わせるようになったのだった。
薬をやっていないと、本当に暇だったのだ。
何とか見つけた仕事もつまらなかったし、前ほど男と寝たいとも何故か思わなくなってしまった。
恩があることは確かだったので、そうしてたまに立ち寄っては活動を手伝ったりしているうちに、ジーザスともよく話すようになった。
ジーザスはいつ寝ているのかというくらい本当に精力的に活動していて、よくこんなに人のために身を粉に出来るものだと、正直感心させられた。
ある時、ジーザスが遣り繰りに苦労している様子だったので、耳を傾けた。
収支がどうなってるのか見せてみろと言うと、ジーザスがぽかんとした顔をしたので、ユダは唖然とした。
「何でちゃんと把握してないんだよ!あんたの仲間どんどん増えてるし、あいつらの行動に目も届かなくなっていくだろうが。リーダーのあんたが把握しないでどうすんだよ!」
ジーザスは相変わらず目を丸くしており、つい声を荒げたユダはしまったと思ったが、やがてジーザスに勢いよく両肩を掴まれた。
「ユダ、ありがとう!君の言うとおりだ。もし良ければ、もう少しアドバイスを貰っても良いだろうか?」
ジーザスの勢いに気圧され、ユダは内心たじろぎながらも頷く。
ユダが話すと、ジーザスは熱心に話を聞きメモを取った。
そして一通り話した後にメモを閉じながら「ありがとう、やってみるよ!」と笑顔のジーザスに言われ、ユダはついに観念したのだった。
「…俺がやるよ」
驚いたように目を見開くジーザスを見て、俺だって信じられねぇよ、と内心呟く。
「他にやることあるだろ、あんたは。他の奴らに金の計算出来るとは思えねぇし。やるよ俺が」
ぶっきらぼうにそう言うと感極まった様子のジーザスに抱きしめられた。
たじろいだが、仕方なくぽんぽんと抱きしめ返す。
やっと離されると、ジーザスは本当に嬉しそうにユダに笑いかけた。
「ありがとう、ユダ。君が仲間だったら良いのに、と本当はずっと思っていたんだ。これからよろしく」
やめろよむず痒い、とユダは首を掻きたくなった。
「…後悔させるなよ」
その代わりユダは、差し出されたジーザスの手を握った。
こうしてジーザスの12人目の使徒となったユダは、間も無く団体がThe Twelvesと名乗りSNSを使い出すようになって一瞬後悔しかけたものだったが、もう乗りかかった船だった。
面倒臭いのでSNSは自分はあまり発信していなかったが、たまにチェックはしていた。
ある時、そんな風に画面を眺めながらジーザスの隣に座っていた。
1人の使徒の兄弟が何やら差し入れをくれに来たようで、少し離れた方で仲間たちが挨拶を交わしている。
「そういえば、あんた家族は?」
特に他意のない質問だった。
家族の話は聞いたことが無かったので、本当になんとなくだった。
ところがジーザスが一瞬固まった気がしたので、ユダは画面から目を離してジーザスを見つめた。
「…父は工務店を経営していてね。私も実は、しばらく手伝っていたんだよ」
優しい人だったよ、とジーザスは笑った。
ユダはふぅんと返事をし、いつまで大工をやっていたのか聞くと、一年程前までだと言われる。
その時ユダは初めて、何故彼が突然活動を始めることにしたのだろうと、不思議に思った。
聞こうと思ったその時、使徒の1人がジーザスに声をかけ、ジーザスは彼に連れられて離れてしまう。
仕方なく画面に目を戻したユダは、眺めていた掲示板の一つの書き込みに目が止まった。
「………。」
目を上げ、仲間たちと笑顔で何やら話しているジーザスをしばし見つめた。
そして画面に目を戻すと、その書き込みを中傷行為としてそのサイトに通報の連絡をする。
他にも同様の書き込みが無いか調べると、とりあえず今のところは無いようだったが、今後も厳しく見なきゃなと思う。
携帯をしまい、煙草を取り出して一服する。
煙を吐き出しながら、今し方見た書き込みを反芻した。
"最近人々の間で人気が高まってきているジーザスは、母親が浮気して出来た不義の子供である。"
ユダは目を閉じて、深呼吸した。
関係ない。
何も知らなくても良い。
このことはジーザスにも他人にも話すまい。
ただ自分1人でジーザスを守ろうと、この時ユダは誓ったのだった。
そうして胸の内にしまいユダ自身も忘れ、この時にもう少し踏み込んでおけば良かったのかもしれないと思う事すら、やがてきたる波乱に襲われた後のユダには無かった。