無題(あとでつける)「ずっと待ってたよ」
黒い衝動に飲み込まれるままに任せて、電源が落ちたモニターみたいにブラックアウトした意識の先。
いつもなら血と硝煙と腐りかけの死体の放つ異臭に塗れているはずのそこが、何故かうざったいほどに甘い匂いで溢れていた。
しかし、薄目を開くとやはり見慣れた光景が飛び込んできた。見えるものと感じる匂いに差がありすぎて、いよいよ嗅覚がバカになったのだろう。
視覚の次は味覚。その次は嗅覚。
次第に失われていく五感に、いつか来るだろう崩壊の足音を聞いた気がして、気分が良くなる。なんなら歌だって歌えそうだ。
堆く積もった髑髏と腐りかけの肉塊の上で、気が触れたみたいに笑いながら、空から落ちてくる血のように赤い雨を浴びる。
ここではいつもそうだ。
ここでは、生きているものは自分ひとりだけ。
独りきりで、永遠に続くような死にまみれた狂った景色に取り残される。
ステップを踏んだ足が、ふとなにか柔らかいものを蹴り飛ばしたような気がして、ふと動きを止める。ころころと転がったピンク色のボロボロのぬいぐるみが、咎めるみたいにこちらを見ている。
「ずっと、待ってた」
ふと、誰かの声がして、首を傾げる。
生きているものは──もとい、精神世界なのだから、他者はここには──いないはずだ。
死んだものも、声を発せるようなものはここにはいない。
いよいよ幻聴まで聞こえ出して、声を上げて笑った。可笑しいはずなのに、耳に届く声はひどく空虚だ。どうやら中身が空っぽの人間は、笑い声まで空っぽらしい。
「……もう、何がそんなにおかしいの」
幻聴が拗ねたような声を出す。
表情があるなら、きっと唇を尖らせてそっぽを向いていることだろう。失ってしまった愛おしい面影を思い出して、空っぽの胸がじくじくとなにかを訴える。それがきっと痛みなのだとわかって、知らないフリをした。
「まったく。ずっとこんな殺風景なところにいるから性格が歪むんだろ」
君にはたい焼きが泳ぐ海のなかとか、デカい旗が乗ったお子様ランチとか、お気に入りのタオルの切れ端とか。集会でお世話になったあの神社の境内のほうが、ずっと似合ってるよ。
声がそうぼやいた途端、何故かそれまでの景色が一瞬にして変化する。
死体の山はこんもりと盛られたケチャップライスに。どこまでも広がっていた死を体現したような景色は色とりどりの花が咲き乱れる花畑に。地獄の底のように暗かった空は、海の中に落ちたみたいに青く澄んでいて、目の前をたい焼きの群れが横切っていく。
「うーん、これはこれで、ちょっとガチャガチャしてるな……」
幻聴が、背後まで迫ってくる。
それは一瞬、言葉を発しながらしゃがみ込んだときのようにすこし遠ざかり、また元のトーンに戻る。パタパタと、なにかを払う音もする。
「本当に、君ってば大人ぶって物わかりのいい、諦めのいいフリばっかり上手いんだもん」
拾い上げて埃を払ったそれに、なにかを結びつけているのが、気配で伝わる。
「だから、みんな心配で、ちょっとずつこの世界に忘れものをして行くのに、全然気づかないんだもんな」
身体に添わせていたはずの腕が勝手に持ち上がって、なにかを抱えるような体勢にされる。そこでもう、身体すらも自由に動かせなくなるほど狂ったのだと、やっと崩壊がはじまるのだと心臓が高鳴る。
「……本当、報われないよ。たくさんのものを預けて君を引き留めようとするのに、君ってば本当、この世界しか見えてないんだもん」
抱えるような体勢の、空いた腕の隙間に何かが触れた感触がする。毛羽立った、それなりの質量のあるなにかと、ボロボロでくたくたになった、タオル地のようななにか。毛羽立ったなにかはきっと、先程蹴り落としたピンクの物体だ。
「ほら、ちゃんと自分で持って! 落としたらダメですよ。彼女の宝物なんだから」
そう言われて、腕に視線を落とすと、そこにはなにが可愛いのかよくわからない、大きな目のクマのぬいぐるみがいた。そのぬいぐるみには、マントよろしくボロボロにくたびれたタオルの切れ端が括られていて、まるでヒーローのようだった。
震えたような、潤んだような大きな目でこちらを見つめてくるヒーローは、ほんの少しだけ、失った泣き虫のヒーローのことを思い出させた。
「……」
気づいたら、その名を口にしていた。
「はい」
読んだその名に反応した幻聴に、呆れて目を閉じる。殺風景なところにいるから歪むのだと幻聴は語ったが、こんなエキセントリックな世界を目にして、きっと気が狂ったのだ。
気を鎮めるように深呼吸をする。
心臓が動いていることにすこしの苦さを覚えつつ、動いているものは仕方ないとすぐさま気を取り直す。動き続けるなら、止まるまで動かすだけだ。
何度かそれを繰り返すと、己を取り囲む世界が変容したのを感じる。甘ったるい匂いは遠ざかり、今度はエンジンオイルがほのかに香った。不意に愛機のことを思い出した。乗らなくなって久しいそれは、どうしたのだったか。
きっと仲間の誰かが頼みもしないのに、保管して手入れしていることだろう。確信はないが、そんな気がした。
そういえば、愛機には双子ともいえる存在がいた。その持ち主の名をもう一度呼ぶ。
「はい」
そうすると、幻聴が返事をする。
それが非常に腹立たしくて、かっと瞳を開く。
苛立ちすぎたのか、幻聴が朧気に姿をとる。
顔はまだぼんやりとしているが、服装には見覚えがあった。思わず首から提げた指輪を握る。その先には確かに、きらりと光る石がある。
幻が身に纏う服は、あの日の彼と同じだった。御丁寧に凶弾によって流れた血の跡まで再現されていて、自然と眉間に力が入る。いま銃を持っていたら、間違いなく弾切れになるまで撃ったことだろう。
おかしくてたまらなくて、その名を呼ぶ。幻覚は返事をし、その姿がやがてハッキリと、ぼんやりとしか色を感知しないはずの視界に、鮮明に映し出される。
それはやはり、あの日撃ち殺したはずの「彼」だった。
「……もしかして、幻聴のうえさらに幻覚まで見えてきたとか思ってます?」
「……」
「あー、そうかそうか。そうだよなぁ。此処、君の精神世界の底も底。地獄の入口どころか地獄の最深部だもんな。オレが見えてるのは真面な状態なんだって認識するほうが難しいか」
いや幻覚だろ、と言いたいのを堪えながら、目の前の人物を見据える。左が己の心象風景のように先も見えないほどに真っ黒くて、右側が目の覚めるような、光を集めたような眩しい金色の髪をしたそのひとは、あの日失ったヒーローの顔をしていた。つむじを境に色が半分に別れた髪型こそ記憶にあるものと違うが、それはやはりどこからどう見ても、「彼」でしか有り得なかった。
「いや、精神状態がどうとかより前に、死んだじゃん、オマエ」
「あー、はい。死んじゃいましたね。あの状況じゃそりゃ大半は死にますけどね」
「……だな」
両肩を貫いた鉛玉によってほとんど死にかけていたくせに、身投げした己を捕まえる手の力は驚くほど強かった。その力で引き寄せてくれらたら、こんな死のみ現れる世界になんて堕ちなくて済むのにと、願いだってした。
欲しくて堪らなかった。でも諦めたものに、彼は本当によく似ていた。
だから、結局力尽きて抜け殻になった彼の身体を焼いて、二度と離れられない姿に変えて、傍に置いた。骨を石にする技術があることを教えてくれたのは、九井だったか。
救いのヒーローが救えなかった巨悪に縛られるだなんて、本来あってはならないことだ。
ヒーローは死に、巨悪は世に蔓延りながら、ひとりで勝手に壊れて行った。失い続ける人生に絶望しているのに、己の生命は失えない。まるでなにかの罰のように、失い続け零し続ける。初めのうちは抗おうとしたそれに、身を委ねて自ら堕ちていったのはいつからだったか。
辛いときほどよく笑うのだと言われた少年の面影など、いまはもう遠く、遥か彼方。きっともう死ぬまで戻ることもないだろう。
いまはもう、つらくたって楽しくたって、何をしていても笑えやしない。ただ衝動のままに壊して、壊して、壊しまくるだけだ。そうして積み上がった様々なものの頂点から、つまらない世界を眺めるだけだ。たぶん、最後に彼を殺してから、自分もまた死んだのだ。
「まあでも、やってることは相変わらず外道極まりないけど、元気そうで安心した。……ただ、それをやめてくれたら、もっと安心だけど」
なんてことのないように、彼はそう言ってへらりと笑う。
「今度はどうして出てきたの。俺のこと恨んでる? ならさっさと取り殺していいよ。恨みが足りないなら、あの子も、オマエの大事なもの全部殺すけど」
「冗談でもそれは絶対ェ許さねーからな」
「本気だって言ったら?」
「取り殺してやろう、って気持ちがゼロになるだけですね」
「じゃあ冗談だ」
「本気だっただろ。……本当、なんでも壊しておしまいって、子供じゃないんだから。やめたほうがいいよ」
「だってそれがいちばん早い」
「そういうのが子供だって言ってるんだよ。……だいたい、壊してばかりじゃ痛いでしょう」
「別に、痛くねーし。説教とかもうなんの意味もねーし」
「アンタは本当に、隠してばっかのくせに詰めが甘いんだよ。ばかだなぁ」
悪戯ばかりする子供を窘めるように、伸びてきた手が頭を撫ぜて離れる。その手はいつも傷だらけで、腕っぷしだってちっとも強くない。むしろ弱いはずなのに、この世のなによりも強く、頼もしく思えるのだから不思議だ。
「でも、そんなだからみんな、君に心を残したくなるんだ」
腕の中に収まり続けているものに目を細めながら、彼は言う。ちゃんと持てと言ったのは自分なのに、忘れてしまったのだろうか。
誰かの心を残されるような価値が、いまの自分にあるのだろうか。
そもそもきっと、人のこころなんてない。
遠い昔に、そこにあると思ったひとはもう隣にはいない。そのひとが愛し、自分が慈しんだひとも。
掲げた理想の基盤になったひとも、自分の基礎をつくってくれたひとも。
誰もいなくなって、救いようもないほどに堕ちて、自分にすら自分の姿が見えないような闇のなかにいるのに。そこには誰もいないはずなのに、それでもなお、彼はひとりではないのだと、託されたものがあるのだと言う。
「オレも君のこと、放っておけないし、託されちゃったし、ね」
救いようもないものを、救えるという。
救えるのだと信じている。
「ヒナちゃんはどうすんだよ」
「それ、オレを殺した君が言います? うーん、ヒナのことは、あんまり心配してないっす。またいつか会える気がしてるし、ヒナならきっと、どんなオレの背中だって押してくれる」
「それが心中でも?」
「君が死ななきゃ心中は成立しないでしょ」
「こんなんもうほぼ心中だろ」
「だから、君をここから追い出せば済む問題でしょ」
そう言ってくすくす笑う表情は、ひとつ下とは思えないほどに大人びていて、あの過去の日々で目にしたものとまったく変わっていなかった。
それは潜ってきた修羅場がそうさせるのか。それとも元々そうなのか。それは分かりようもないが、わからなくても良かった。
「そう簡単に、死なせてなんてやらねーよ」
やはりこの世界には、神様なんていない。