移り香「ヒース、いいにおいする!どこの香水?」
ウッディな香りはクロエにとって嗅ぎなれないがとてもかぐわしく、思わず大きな声で呼びかけた。付き合いも長くなり、ヒースクリフも驚くことはなくなった。魔法舎に来たばかりの頃は、クロエの話す速さと声の大きさにたびたび目を丸くしていたものだ。
「クロエ。ありがとう。でもこれ、香水じゃないんだ。お香だよ」
「おこう……」
クロエは愛らしい小鳥のように首を傾げた。
「お香って、西の国にはない?」
「うん、聞いたことないや……」
猫のような瞳がきらりと輝く。きっとすごく興味があるのだろう。こういうとき少し彼に似ている。
「よかったら、今から俺の部屋に見に来てよ」
二人が部屋の前に着くと、扉の前にはシノが立っていた。
「あ、シノ。ごめん、待ってたのか?」
「まあな。まあいい。クロエはどうしたんだ」
「今からお香炊くところを見てもらうんだ。クロエ、お香知らないんだって」
「そうなのか?西の国にはないんだな」
「あはは、うん、聞いたことない」
同じ問答を意図せず繰り返して、クロエが少し笑う。
ヒースクリフの代わりにシノが扉を開け、二人を部屋に招き入れた。整然とした机の抽斗から、ヒースクリフが木箱を取り出す。
「お香っていうのは、燃やすといい香りのするもので、細いマッチみたいな形のものや、粉上になっているもの、小指の先みたいな形の者とか、いろいろあるんだよ。東の国では、貴族階級は基本的にその家の香りというものがあって、家紋みたいになってる。だから俺の香りは、他の貴族とは違うんだ」
「そうなんだ!すごい、すごいオシャレだよ……かっこいい……素敵!」
クロエはうっとりと目を閉じる。クロエにとって貴族とは、いつも一緒にいるお師匠の影響もあり、憧れの存在だ。他国の貴族の文化を知る機会は少ないが、中央の国を隔てた遠い地域の文化はクロエにとって真新しい感想をもたらした。
「そ、そうかな」
「かっこいいだろう。だから俺たち使用人は貴族からの移り香が強ければ強いほど、貴族に近しい上級の使用人だと分かる」
「そっか、直接じゃなくて貴族から移るんだね……なんか、なんかそれ……」
(ちょっとドキドキするねって言ったら、変な空気になるかな……)
「クロエ?」
「あ、う、ごめん!」
「?ううん、大丈夫だよ。そんなわけだから実際に燃やすことはできないんだけど、燃やすまでの手順を見せるね」
「ありがとう、貴重な経験だ……」
クロエがごくりと唾をのんで、ヒースの手元を注視する。そんな真剣な様子に微笑むと、ヒースクリフは木箱の蓋をあけた。
その中に入っていたのは、青銅でできた手のひらサイズの小さな薄い箱だった。ヒースクリフは横にあった壺の蓋をあける。中には白い粉が入っている。
「これが香炉で、こっちが香炉灰。籾を燃やした灰なんだ。これを香炉に入れて……」
細い指が匙を持ち上げて香炉灰を掬い、香炉の八分目ほどまで入れる。その中を軽く箸でかき混ぜると、シーリングスタンプのような器具で表面をぎゅうぎゅうと押し始めた。
「こうやって、平らに均すんだ。この上に実際のお香を乗せるから、なるべく丁寧に」
「うんうん」
香炉灰が均されると、ヒースクリフはその上に香炉と同じ面積の、同じ青銅製の板を置いた。それには取っ手がついており、板は不思議な文様の形に穴が開いている。
「これ、ヒースやシノの魔道具についてる柄と同じだ」
「うん。これは俺の家紋」
その穴を埋めるように、ヒースクリフは今度は茶色い粉を違う匙で流し込み、再び表面を均し始めた。取っ手をもって、ゆっくりと持ち上げると、白い香炉灰の上に、ブランシェットの家紋が刻まれている。
「この後、この文様の端に火をともす。すると、煙と一緒に香りが広がるんだ。俺はさっきまで実家に戻っていたから、香りをつけなきゃいけなくて」
「なるほど……なんだか秘密の儀式みたいですごくかっこいいね……!なんか、なんか……!」
クロエが目を閉じた瞬間、彼の周りにスケッチブックがひらひらと踊り始めた。
「次の衣装のデザインがたくさん思い浮かんできちゃった!ヒース、シノ、ありがとう!俺、ちょっと衣装を作ってきてもいい!?」
「あ、うん、もちろん――」
「出来上がったら真っ先に二人に着てほしい!それじゃあ、またあとでね!バイバイ!」
そう言うと、クロエは踊るように部屋を飛び出していった。ぱたりと扉が閉じて、部屋にはシノとヒースクリフだけが取り残される。
「……クロエ、すごく真剣に聞いてくれてなんだか嬉しかったな。すごく珍しかったんだろうね……。……シノ?」
ヒースクリフは相槌を打たないシノの顔を覗き込んだ。