出轟ワンドロ「時間の扉」「過去」21:38
扉を開くと、そこは異世界だった。
まるで出来損ないのSF小説のような展開だ。この扉を通る前の僕は、確かに寮の廊下にいた。轟くんと英語の勉強をしようと、二人で僕の部屋に入ろうとしていたはずだ。
それが今は、何故だか真っ暗な和室にいる。全く意味が分からないけど、実際そうなってしまっている。
敵連合の襲撃だろうか。焦って周りを見詰めるが、敵の気配は無い。
そうしてクルリと辺りを見回したところで、僕はもう一つ、奇怪な出来事に遭遇していたことに気がついた。
和室の真ん中には、小さな布団が敷かれていた。大人用より数周り小さな布団に、小さな体が横たわっている。
赤ちゃんだ。見知らぬ赤ちゃんが目の前にいた。
しかし、その子の髪色には妙に見覚えがある。赤ちゃんの髪は、左右に綺麗に分かれた紅白の色をしていた。
「轟くん」
にしか見えない。けれども顔には火傷はなく、何よりその姿は生まれて一年に満たない程幼い。
非常事態に急回転する脳みそが出した結論は二つだった。何らかの敵の個性によって、轟くんが幼くなった。もしくは、幻覚と現実どちらかは分からないけれど、僕が彼の過去にやって来ているか。
どちらも大変な事件だけれど、後者はより悪い事態に思えた。だから僕は必死に、一つ目の想像が当たっている証拠を見つけ出そうとした。
けれども現実というのはいつも非情なものだ。
二人分の声が聞こえてきた。大人の夫婦の言い争いだとすぐにわかり、そしてほぼ同時に、片方の声の主に見当がついた。
「お前が見ろ!」
それは、インターンで毎日のように聞いている、エンデヴァーの声だ。
応じるのは疲れ切った女性の声だった。ここまできたら想像が付く。聞いたことはないけれど、きっとこれは轟くんのお母さんの声だ。
どうやら僕は、轟くんが赤ちゃんだった頃の彼の家に迷い込んだようだった。
事情はわかった。
次は事象の解決だ。踵を返して、後ろの襖に手をかけた。扉を開けてここに来たのなら、帰り道は一つだろう。
しかしどれだけ力を込めても、襖はびくともしなかった。
「まさか……」
焦燥感に、思わず声が漏れる。少しずつ手に籠る力は強くなるのに、襖はまるで壁に描かれた模様のように、開く気配はない。
心臓が早鐘を打つ。落ち着け。一旦襖を開けるのは諦めてため息を吐く。すると思ったよりも力が抜けて、畳にしゃがみ込んでしまった。
目の前の現象に、何も太刀打ちできない。パッと浮かんだ結論に打ちのめされた。
もしもこの世界に取り残されたら、僕は、僕を取り巻く世界は、どうなるんだろう。嫌な想像ばかりが頭を巡る。
クソ、と、小さく呟いたその時、後ろから布が擦れる音が聞こえた。直後、小さな高い声。
見れば、赤ちゃんの轟くんが、今まさにぐずって泣き出しそうな顔でこっちを見ていた。
「轟くん」
すぐさま小さな布団に駆け寄った。
しゃがんで、小さなお腹を、ポンポンと撫でてみる。轟くんが不安そうな顔でこっちを見るから、笑って、小さく声をかけた。
「大丈夫、怖いことはなんにも無いよ」
赤ちゃんの声を聞きつけた轟くんのご両親が来た時、僕の存在のせいで何か、パラドクス的なことが起きるんじゃないかとか、そもそも僕が不審者として捕まってしまうんじゃとか、後から幾らでも赤ちゃんをあやす理由は出てきた。
けれども、一番の理由は、轟くんを泣かせたくなかったからだった。
背後から聞こえる声の内容はよく聞き取れないけれど、お互いがお互いを責めていることが分かる。
轟くんが時々教えてくれる、あまり良好ではなかった家庭事情。赤ちゃんの轟くんを取り巻く環境を思うと、彼に声を掛けないと、撫でてあげないと、と思ってしまったのだった。
轟くんは、最初不安そうな顔で僕に撫でられていたけれど、そのうち撫でられて眠くなったのか、くわぁ、と大きく欠伸した。口をぱくんと閉じると、鼻から小さな鼻提灯が出てきた。なんとその鼻提灯は轟くんの個性で凍っていて、思わず感動してしまう。
「轟くん、もう個性が出てるんだね。凄いね」
その瞬間、僕の声に、ぱち、と大きな目が瞬いた。聞いたことのある単語を聞いたかのような。
ふと思った。赤ちゃんの轟くんが何かできる度に、轟くんのお母さんは、「すごいね」と彼を褒めているのだろうか。
だったら、「すごい」は幼い彼を安心させる言葉かもしれない。そう思うと、僕は何度も口にしてしまった。
「すごい、すごいね」
しょうとくん。彼のヒーロー名と同じ響きで、けれどももっと柔らかい意味を持って名前を呼んだ。
背後の言い争いは終わらない。彼の部屋には誰もいない。暗い部屋で目が覚めて泣いても、きっと二人が気付かなかった日もあったんだろう。そんな時、きっとこの子は、一人でまた眠っているのだ。
「すごいね、えらいね」
紅白の頭を撫でる。きっと「えらい」もよく聞く単語なのだろう。目をキラリと輝かせた轟くんは泣かなかった。
僕の声は、声変わりの時期を過ぎても高いままだ。かっちゃんのように男らしい低い声にならなかったことを恥ずかしく思ったこともある。でも、もしも僕の声が高いままなことで、赤ちゃんの轟くんが安心できているとしたら、こんなに嬉しいことは無かった。
頭やお腹を撫でて声をかけていると、赤ちゃんの轟くんは眠っていった。本当に偶々目が覚めて、不安がっていただけだったのだろう。膨らんでは縮む可愛らしい凍った提灯に、ほっと息を撫で下ろした。
小さな轟くん。まだ火傷の跡がない轟くん。父親との確執も、母親との離別も体験していない轟くん。この小さな身体にこれから待ち受ける様々な出来事を思うと、心が引き裂かれるようだった。
僕はここで何も出来ない。今ここにいる轟くんを救けることはできない。それが本当に歯痒くて、辛かった。
「君の救けになるよ」
十数年経った未来、僕らは同じ高校に入って、力をぶつけ合って、かけがえのない友だちになる。学校生活では、轟くんを救けたこともあったし、助けられる日も沢山ある。対等に救けあえる関係だ。
そしてきっと、これからもそうやって支え合える二人でいるはずだ。轟くんの過去を変えることは出来ないけれど、今と未来を約束することはできる。
そのためにも、ここから戻らないと。
そう思い至ったところで、気が付いた。廊下を歩く足音。大きな足取りがこちらに向かってくる。
エンデヴァーだ。エンデヴァーが轟くんの部屋に来ようとしていた。
心臓がバクバクと鳴っている。逃げ出したいけれどこちらから襖は開かない。隠れられそうな場所もない。
どう言い訳をしたら、と思っているうちに、あっという間に足音は襖を挟んで目の前に来ていた。
せめて敵意が無いことを示すべく、僕は両手を上げて、降伏のハンズアップの仕草を取る。覚悟をきめた頃に、襖がゆっくりと開いた。
「……お。どうした、緑谷」
そうして現れた姿は、想像よりもかなり小柄で、そしてとても見慣れていた。
「……轟くん?」
「他の奴に見えるか?」
「見えない」
数分ぶりに見る、いつもの轟くんの姿に、僕は手を上げたまま床にへたり込んだ。フローリングの床は、ここが自室であることを教えてくれる。帰ってきた。そう実感すると、改めてほっとした。戻ってこれたのだ。
僕の様子に、轟くんは怪訝そうにしゃがんで声をかけてくれた。
「緑谷、どうした?さっきからおかしいぞ」
「さっきって、いつ……?」
「数秒前。お前、俺が入る前に扉閉めただろ?そっからしばらく扉が開かなくて、開いたらお前が目の前で手上げてた」
そういう、イタズラみたいなの流行ってんのか?といつもの調子で轟くんはさっきまでの経緯を説明した。
改めて聞いてみると、扉が閉じていたのは数秒程度だったらしい。周りを確認したけれど、敵が来ている様子はない。恐る恐る扉の仕切りを踏み越えてみたけれど、あの変な空間には、勿論辿り着かなかった。
客観的に事態を想像すると、僕は白昼夢でも見ていたのだろう。轟くんの方からも扉が開けられなかったり、僕が急に扉を閉めた理由がわからなかったりと謎も多いけれど、今ある情報から現実的な答えを出そうとすると、そうとしか考えられない。
何とか自分の中で折り合いを付けて、僕はため息を吐いた。轟くんは扉を反復する奇怪な僕に頭にはてなマークを浮かべていたけれど、あまり気にしていないようだ。
けれど、少しは気になったらしい。二人で机に向かい合わせで座ってノートを開いたとき、轟くんは平坦な声で告げた。
「疲れてんなら明日にするか?何かあったなら言えよ」
「轟くん」
ありがとう。本来なら、そう告げて終わる場面だろう。
けれどきっと、轟くんの言っていることは正しく、僕は多分疲れていたのだ。思ってもいない、ちぐはぐなことをしていた。
「ありがとう。えらいね、しょうとくん」
気付けば、僕は柔らかい声でそう告げて、轟くんの頭を撫でていた。
「は」
二人の息が重なって、空気が止まった。先に沈黙を破ったのは僕だ。
「何やってんだ!ごめんね!」
「いや……」
轟くんは少しきょとんとしていた。ぱちり、と目を瞬かせる。それが、あの白昼夢の中で見た、赤ちゃんの表情を思わせた。
そうしてふと思い出した。
暗い部屋。言い争う家族。一人で眠る轟くん。
そして今の轟くんを見る。ヒーローになるために切磋琢磨する、優しい友だち。僕の自慢の友だちだ。
彼は本当に優しいから、僕を心配して言葉をかけてくれる。
「別に緑谷に撫でられて悪いことはないけど、本当に疲れてんならちゃんと休めよ」
「うん、ありがとう」
ふ、と轟くんが笑った。最近時々見せるようになってくれた、柔らかな笑顔。
「なんかさっきの緑谷、お母さんみたいだった」
「……お母さんに似てた?」
努めて平坦に問いかける。
今日見たものは夢だと結論付けた。けれど心のどこかで、あれが現実だったんじゃないかと疑っている。あの時見た子供が、かつて存在していたんじゃないかと考えてしまっている。
「うん。お母さん、すぐに偉いって褒めてくれてたのを覚えてる。俺が何かできてた訳でも無いのにな」
彼の自虐的な声に、思わず反応した。
「そんなことないよ」
もしあの過去が現実だったなら、いやそうでなくても、轟くんは本当に「偉かった」のだ。
決して良いと言えない家庭環境で暮らしてきたこと。煮湯をかけた母親を慕い続け、和解したこと。確執のあった父親を許そうとしていること。自分を変えようと学校で努力していること。
けれど、僕は轟くんのお母さんじゃないから、轟くんとは対等だから、轟くんを褒める時、「偉い」という単語を使うのは相応しくない。
僕は、轟くんに言葉をかけた。
「お母さんの言葉の通り、轟くんは本当に凄いんだよ」
照れて頬を掻く轟くんは、赤ちゃんの時とは違い、僕の言葉に「ありがとう」と返して微笑んだ。