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    Murasaki3rdream

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    Murasaki3rdream

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    好きな女といちご狩りする慶
    いつも通り現代の平和村です。
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    赤をほどく「求導師様、そろそろ誘ったらどうだ?ほら、あの子。〇〇ちゃん」

    陽射しの差す農道の脇で、坂口さんがにやりと口角を上げる。軽トラックの荷台には、透明なパックに詰められた苺がずらりと並び、陽を受けて赤く輝いていた。甘い香りがふわりと風に乗り、鼻先をかすめていく。

    「……誘うって、何にですか?」

    思わず返した声が、どこかぎこちなく響いた。突然名前を出されたせいで、胸のあたりが急に熱を帯びていく。見られないように、そっと手を握りしめる。

    僕の様子に気づいたのか、坂口さんはさらに楽しげに腕を組み、顎をぐっと上げた。

    「何って、いちご狩りに決まってんだろ。あんたらに見せたい苺があるんだよ。今年はようできてな。〇〇ちゃんも連れてこいよ。きっと喜ぶぞ?いいデートになるだろ?」

    “デート”という単語が、耳の奥に静かに沈み込む。

    何か返そうとしても、言葉がつっかえているうちに、坂口さんは勝手に話を進めていく。

    「日曜の昼なら手ぇ空いてるし、場所も貸し切りにしてやっから。ふたりで来いよ、ふたりで」

    ――いや、だから。まだ、そういう関係じゃないんですってば。
    そう言いかけたのに、喉まで出かかった言葉は、どうしても声にならなかった。

    日曜の午後、もし時間があったら——
    そう切り出すだけの言葉を、心の中で何度も繰り返していた。口にできたのは、日が傾き始めたころ。思いきってかけた通話の向こうから、〇〇の声がやわらかく響いてくる。

    「週末は今のところ空いてるよ。どうかした?」
    「えっと……日曜、いちご狩りに行けたらって……思って」
    「いちご狩り?」

    〇〇の声が少しだけ弾む。

    「刈割の坂口さんのところ。教会に行く途中に並んでるビニールハウス、見たことあるでしょ。あそこ、今すごく甘いのが採れるんだって。……きみ、いちご好きだったよね」

    ほんの一拍の沈黙のあと、スマホ越しに笑い声がくすりと漏れる。

    「求導師様から、デートのお誘いとは」
    「ちが……いや、違わないけど……べつに、無理にとは思ってなくて……」

    焦るほどに口調が崩れていく。落ち着きたくても、頭がついていかない。

    「行きたい。いちご狩りって行ったことないし、気になってたんだ。教会に向かうたびに、あのハウス、いいなって思ってたの」
    「あ、そうなんだ……よかった。じゃあ、日曜のお昼すぎに。時間はまた前日に連絡するね」
    「了解。甘いやつ、競争だからね?」
    「絶対負けないよ」

    通話を終えてスマホを伏せたあとも、鼓動はしばらく早いままだった。指先に残る感触が熱を帯びているようで、息を整えるようにひとつ深呼吸する。

    誘ってよかった。
    〇〇が「行きたい」と言ってくれた。
    たったそれだけのことで、週末が少し先の未来を灯すように、色づいて見えてくる。

    そして迎えた日曜日。刈割の中腹にある坂口さんの農園に着くと、白いビニールハウスが春の陽を受けて、やわらかく透けるように光っていた。なだらかな丘の斜面に沿って何棟も並び、近づくにつれて、空気にはほんのり苺の香りが混じってくる。

    ハウスの前では、作業帽をかぶった坂口さんが腕を組んで立っていた。僕たちの姿を見つけるなり、顔いっぱいに笑みを浮かべて大きな声を張る。

    「おう、求導師様。それに……〇〇ちゃんも来たか。よく来たな、よく来た!」
    「こんにちは。今日はありがとうございます」
    「ありがたいのはこっちの方さ。ふたりにぜひ見てもらいたかった。今年の苺は出来がいいんだ。今が一番うまい時期でな、逃す手はねえぞ」
    「うわ、楽しみ。すごくいい匂いですね……!」

    〇〇が軽く背伸びして、奥を覗き込む。ほんのり湿った空気のなかに、甘酸っぱさを含んだ果実の匂いがふわっと広がっていた。

    「中はこっちだ。足元、滑りやすいから気をつけてな。へた入れのパックは奥にある」

    一通り説明すると、坂口さんは「じゃ、若いもんの邪魔はしねえよ」と笑いながら手を振り、作業場のほうへと軽い足取りで戻っていった。

    ビニールハウスの中に足を踏み入れると、天井越しに降り注ぐやわらかな陽が、棚の間をまっすぐ伸びていた。腰ほどの高さに並んだ栽培台からは、艶やかに色づいた果実がぶら下がり、葉の間を縫うように赤が点々と揺れている。
    果汁をふくんだような甘い匂いと、かすかに混じる若葉の香りが、呼吸にやさしく溶け込んでいった。

    「……ほんとだ、きれい。思ってたより、ずっと赤いのが多いんだね」

    〇〇が身をかがめ、棚の片側からそっと手を伸ばす。指先がやわらかな実に触れそうで触れない距離で止まり、そのまましばらく見つめたあと、小さく笑った。

    「なんか、摘むのもったいないくらいかも」
    「あはは。でも、最初はそう言ってても、すぐに“これも”“あれも”って夢中になるんだよ。止まらなくなるやつ」
    「うん、それはもう分かってる。私、けっこうそういうのハマりやすいから」

    笑いながら顔を上げたその横顔に、やわらかな陽射しが差し込んだ。ビニール越しに揺れる光が髪の毛先に映り込み、視線が自然とそちらに引き寄せられる。

    〇〇が、艶やかで丸みのあるひと粒を指さした。

    「……たぶん、これ甘いと思う」
    「初めてなのに、もう分かるんだ?」
    「なんとなく、見た瞬間に“おいしそう”って思ったから。形とか、色とか……そういうのが、ピンとくるっていうか」
    「つまり直感ってこと?」
    「うん。私、そういうの信じる方だから。いちごでも、人でも」
    「人も?」
    「そ。“いいな”って思ったら、たいてい外れない……そんな気がする」

    そう言いながら、〇〇の視線がふいにこちらをかすめて、すぐまた何気ない様子で赤い実へと戻っていく。
    自然なやりとりの中に混ざったその一瞬が、なぜか胸に引っかかった。意味なんてないはずなのに、鼓動がそっと跳ねる。どうしてか、言葉の余韻だけがやけに残っていた。

    「でも、直感で選ぶって勝負になるかな。僕はちゃんと見て選ばないと分からないかも。色の濃さとか、ヘタの張りとか、軸の色とか……いろいろ考えちゃう」
    「なるよ、そっちもいいと思う。そういう目のつけどころって、センスだよね。私は感覚派だけど、慶は観察派って感じ」
    「うん……たぶん、そのとおり」

    口元に微笑を浮かべたまま、〇〇がすばやくひとつ摘み取る。

    「じゃあ、勝負だね、慶。どっちがたくさん甘いやつ見つけられるか!」
    「……分かった。負けた方が、勝った方に一番立派なのを譲るってことで」
    「いいね、それ。ちゃんとおいしそうなの選んでよ?」
    「うん、きみに喜んでもらえるように頑張るよ」

    身を起こした彼女に、やわらかな陽射しがそっとかかる。輪郭がにじんで見えるほどまぶしくて、現実の光景なのか一瞬わからなくなりそうになる。今日の〇〇は、いつも以上に楽しげで、言葉にならないほどきれいで、まるで夢の一場面をそっと覗き込んでいるような心地がした。

    赤く色づいた実を摘みながら、ふたりで並んで棚のあいだをゆっくり歩いていく。天井のビニールから差し込む春の陽射しが、葉の影をテーブル状の栽培棚に落とし、漂う甘酸っぱい香りがふわりと通路を包み込んでいた。

    摘んでは味見し、また次へと手を伸ばす。そんな流れを繰り返しながら、勝負用の苺は自然と別のパックに振り分けられていった。

    「こっちかわいい」「こっちはちょっと早いかも」
    ときどき聞こえる〇〇の独り言は、どこか楽しげで、耳に届くたびに頬が緩む。声の調子にも、選んだ苺を見つめるまなざしにも、素直な嬉しさがにじんでいた。

    ふと横を見ると、〇〇が少し身を屈めて、棚の隙間から覗いたひと粒をじっと見つめていた。指先で摘み取った苺を手に乗せて、まるで宝物を確かめるように、真剣な表情で眺めている。

    「見て、慶。これ、ちょっとハートっぽくない?」
    「ほんとだ。形も色も、すごくきれい」
    「でしょ。こういうの見つけると、ちょっと嬉しくなるよね」

    そう言いながら、〇〇はスマホを取り出して、手のひらにのせた苺をいくつかの角度から撮っていく。数枚撮り終えたあと、ふとこちらに目を向けて、目元だけでやさしく笑った。

    「慶も一緒に写ろ?」
    「い、一緒に?」
    「うん。記念にさ。ほら、こっち向いて」

    何気ない誘いのはずだったのに、肩を並べた瞬間、思っていた以上に鼓動が早まった。
    昔も、ふたりで写真を撮ることはよくあった。家族どうしで出かけたとき、誰かにシャッターを頼んで、並んで笑った記憶がいくつもある。そのたびに、少しだけ照れくさくて、でもそれ以上に嬉しくて、胸のあたりがふわっと熱をもったものだ。
    あの頃から、僕はずっと彼女のことが好きだった。今はもう、隣に立つだけで呼吸の仕方を忘れるくらい、どうしようもなく、彼女に心を奪われている。

    画面が反転し、インカメラにふたりの姿が映り込む。光に縁取られた彼女の輪郭が、映像越しに目を奪ってくる。あまりにも近くて、少しでも視線を外せば取りこぼしてしまいそうだった。

    「はい、チーズ」

    シャッターが落ちるまでの数秒が、やけに濃く感じられる。レンズの中で肩を寄せ合うこの距離が、嬉しくて仕方なかった。ちゃんと笑えているのかどうかなんて、どうでもよくなるくらいに。
    ただ一枚。それでも、今日という時間をふたりで過ごせていることが、何よりも嬉しかった。

    〇〇はスマホの画面を眺めて、小さく頷いた。

    「うん、いい感じ。これ、ミンスタに上げてもいい?」
    「ん"っ!?……んん、それって僕との写真を?」

    思わず喉が詰まりかけて、慌てて咳払いでごまかす。

    彼女のフォロワーには、都会の友人や大学の同期、職場の同僚も多い。そんな場所にふたりで写った写真を投稿するというのは、つまり、この時間を誰に見られてもかまわないと思ってくれているということだ。

    「あ……ごめん。嫌だったら全然断って」
    「ううん、大丈夫。載せていいよ」

    ちゃんと返したはずなのに、自分の声がどんな響きだったのかはよく覚えていなかった。喉に残るわずかな熱と、頬の火照りだけが、はっきりとそこにあった。

    「そっか、ありがと。じゃあ、すこーしだけ加工して……っと。はい、投稿完了」

    軽快に操作する指先と、楽しげな声がすぐ横で響く。苺の甘さとは違うけれど、それに負けないくらい、心の奥をふわりとくすぐるような幸福感が広がっていく。
    さっきの写真が、〇〇からぽんと届いた。並んで写るふたりの姿を画面越しに見つめていると、胸の内に、静かなあたたかさがじんわりと満ちていく。

    きっとこの一枚は、何度見返しても、そのたびに微笑んでしまうだろう。そんなふうに思える、やさしい記憶になっていく気がした。

    「ねえねえ、こっちの列も見に行ってみない?」

    ふいにかけられた声に、思考がそっと引き戻される。〇〇が立ち上がり、指先で軽く合図を送ってきた。

    「うん。まだまだ、よさそうなのが見つかりそうだしね」

    小さなケースを持ち直し、少し前を歩く彼女の背を目で追いながら歩を進める。写真を撮ったときの温度がまだ胸に残っていて、歩くたびにやさしい揺れとなって心の中に波紋を描いていた。

    移動した先の棚には、さっきよりも深く赤く色づいた苺が並んでいた。粒ごとの艶が際立ち、育ちのよさを物語るような張りと丸みが目を惹く。

    「これ見て。さっきよりちょっと大きいと思わない?」

    彼女が摘み上げた実は、丸くふくらんだ先端に陽の光が柔らかく乗っていて、まるで飾り物のような美しさだった。

    「……出してきたね、本気の一粒」
    「え、なにそれ。こっちは最初から本気だけど?」

    〇〇が楽しそうに笑いながら、苺をケースへ収める。その何気ない動作さえ愛しく感じてしまい、視線を逸らすタイミングを一瞬だけ見失った。

    「……そろそろ、決着つけようか」
    「もう?まだ時間あるのに」
    「あるけど……そろそろ坂口さんにも顔出しておきたいし、帰る前に一回、締めておこうよ」
    「なるほどね。じゃあ、ラスト一粒勝負でどう?」
    「いいよ。最後に一番いいのを選ぶから……」

    棚にぶら下がる実の列をなぞるように、ゆっくりと目を走らせる。色の深み、ヘタの立ち上がり、粒の丸みに艶の乗り方……一粒ずつ比べながら、自然と手元が慎重になっていく。

    これだと思った苺にそっと指を添えると、軽く摘んだその実が、小さな掌に甘くひんやりとした重みを落とした。

    「……はい。これ、僕の最終兵器」
    「うん。じゃあ私も、さっきのこれでいくね」

    ふたりで摘んだ苺を並べ、じっと見比べる。どちらもよく熟していて、形もつやも申し分ない。わずかな沈黙のあと、ふっと視線が重なった。

    「これは……引き分けじゃない?」
    「僕もそう思ってた。決められないよ、どっちもいい仕上がり」
    「じゃあ、仲良く引き分けってことで。ほら、そのほうが後味もいいし」
    「……なんだか、きみに言われると、それが一番正解な気がしてくる」

    笑顔でそう返すと、〇〇がくすりと笑った。その表情が、目の前の苺よりも甘くて柔らかくて、胸の奥がほわりと熱を帯びた。

    ただ隣にいて、こんなふうに笑ってくれる。たったそれだけのことで、どうしてこんなに心が満たされるんだろう。苺と一緒に、この時間そのものをそっと包んで持ち帰れたらいいのに。そんな思いが、ゆるやかに胸のなかで転がっていた。

    坂口さんに丁寧にお礼を伝えたあと、僕らはハウスの脇に設けられた小さな休憩スペースへと足を向けた。木のベンチと古びたテーブルがひとつあるだけの簡素な場所。なのに、摘みたての果実から漂う香りが、そよ風に乗ってやわらかく辺りに広がっていた。

    空にはまだ陽射しが残っているが、光はすこしずつ傾きはじめ、辺りの色にやさしい陰影を落としはじめていた。

    「ちょっと休憩していかない?あんまりすぐ帰るのも、もったいないし」

    そう言いながら、〇〇が手にしたケースをテーブルの中央へ置く。ベンチに腰を下ろすと、空いていた隣に、当たり前のように身を寄せてきた。

    並んだ苺たちは、春の陽を受けて、ひとつひとつが宝石みたいに輝いていた。
    風に揺れる葉音を聞きながら、何も話さず過ごす時間。そんな静けさの中で、視界の端に〇〇の動きが映る。顔を向けると、彼女の指先には、よく熟れたひと粒。丸みを帯びた先端がほんのりと赤く光っている。

    「はい、慶。あーん」
    「…………」

    完全に虚を突かれて、間の抜けたまま見つめ返してしまった。声が出ないままでいると、〇〇がくすりと笑って、首を少しだけ傾ける。

    「勝負のご褒美。これは私の“最優秀賞”だからね。ちゃんと味わってくれなきゃ」

    いつも通りの声色で、なんでもないことのように差し出されたその仕草が、ひどく落ち着かなかった。ふざけるでもなく、恥じらうそぶりもなくて、ただ自然に。なのに、自分だけがそのひと粒に翻弄されているような気がした。落ち着いたふりをする余裕もなくて、迷いを飲み込むようにして、そっと身体を寄せていく。

    「……いただきます」

    差し出されたひと粒を唇に運ぶ。皮がぷつりと割れて、熟した果汁が舌の上にあふれる。甘さの中にほんのりと酸味が混ざり、まるで春の景色ごと、とろけてしまいそうだった。

    「どう?」
    「……うん、すごく、おいしい」

    ようやく返せた言葉に、〇〇が目元をやわらかくゆるめる。その微笑みがあまりにまぶしくて、思わずまばたきを何度も繰り返す。苺の味も、光のぬくもりも、すべてがひとつに溶け合って、今この時間がまるごと胸にしみ込んでくるようだった。

    ――僕も、何か返したい。

    「ご褒美」だと言われたのなら、自分からも贈りたくなった。ちゃんと気持ちが伝わるように、このなかで一番のものを、彼女のために選びたい。

    そっとケースを引き寄せ、慎重に苺を探し始める。色、形、粒の張り具合……細かい差に目を凝らしながら、選ぶ手元は思いのほか慎重になっていた。

    「……慶?」

    名前を呼ばれ、はっとする。顔を上げると、〇〇が頬杖をつきながら、じっとこちらを見ていた。

    「慶の“最優秀賞”は、どれ?」
    「え、」
    「いちばん自信あるやつ。ほら……これぞって思ったやつ」

    さりげない口調なのに、その目だけはまっすぐこっちを見ていた。

    柔らかな口調の裏に、どこか確かな熱がこもっていた。これは、もしかすると、少しだけ特別なやりとりなのかもしれない。胸が軽く跳ねる感覚に背を押されながら、ケースを見つめ、そっとひと粒に指を添える。

    「やっぱりさっきのこれ、かな。いちばんよく見えた」
    「へえ……じゃあさ、それ、私が食べちゃったら、困る?」

    問いかける声に、どこかくすぐるような響きが混じっていた。間の取り方も絶妙で、気づけば彼女の指先は苺に触れ、もう“いただきます”の構えだった。

    「……ううん、いいよ。どうぞ」
    「やった!ありがと。じゃあ……もらうね」

    〇〇は嬉しそうに笑って、それをためらいなく口へ運んだ。僕が選んだ“いちばん”は、何の抵抗もなく彼女のものになっていた。

    ……あれ、お返しの“あーん”って、どこへ行ったんだっけ。

    用意していた言葉も、心づもりも、すっかり置いてけぼりだった。最初から、こうなると決まっていたみたいに。

    笑った顔も、少し甘えるような口ぶりも、まるで全部が計算されていたかのようで、なのにどれも自然で――だから、余計に敵わないと思ってしまう。翻弄されるほどに、心がくすぐられる。そんな自分すら、今は悪くなかった。

    「おーい、求導師様ァー!」

    背後から響いた声に、思わず肩が跳ねた。振り返ると、坂口さんがハウスの裏から顔をのぞかせている。いつから見ていたのか、にやにやと笑って、手をぶんぶん振っていた。

    「なんだなんだ、あんなかわいく“あーん”されたってのに、お返しもできねえのか? それでも男か、求導師様よ!」
    「ちょ、ちょっと……それは、タイミングが……!」

    必死に反論したつもりなのに、口をついて出たのはどうしようもない言い訳だった。言えば言うほど情けなくなる自分に、顔が熱くなる。

    となりで、〇〇がくすくすと肩を震わせて笑っていた。

    「ったくよォ」と坂口さんが嬉しそうに首を振りながら、軽トラックの方へと戻っていく。

    気まずさと気恥ずかしさの混じった空気を吸い込みながらその背を見送っていると、すぐ横で〇〇の声がやわらかく降りてくる。

    「……かわいかったよ、さっきの」
    「かわいくはないって……!」
    「あれは、かわいかった」

    あまりにも自然に言われて、反論の言葉が喉の途中で止まった。真顔でも冗談を言うような顔でもなく、ただ事実を告げるみたいに笑っている。
    目を逸らしたいくらい恥ずかしいのに、どこまでも見入ってしまいそうだった。

    ハウスのまわりに、夕暮れの気配がそっと降りてきていた。風が頬を撫でていくたび、日中のぬくもりがやわらかくほどけていく。光も匂いもすこしずつ落ち着きを帯びて、過ぎてきた時間が静かに背中を押してくるようだった。

    ベンチに並んだふたりのあいだには、言葉よりも穏やかな間が流れていた。ただ隣にいて、ゆっくりと時が過ぎていくことが、なんの装いもなく嬉しかった。

    摘むのも、食べるのも、もう十分すぎるほど味わった。それでも、すぐに腰を上げる気にはなれなかった。あたたかさの余韻に身をゆだねるように、彼女の存在をそっと隣で感じていたかった。

    「……楽しかったね、今日」

    ぽつんとこぼれた声に、僕はうなずく。

    「うん。すごく」
    「また来られたらいいね。苺の季節が終わる前に」
    「うん。来年もきみに一番甘いやつ、見つけてあげたい」

    思ったままをそのまま言葉にしたのに、不思議と照れくささはなかった。口にした瞬間、胸の中にすとんと落ち着く感覚があった。〇〇は少しも驚いた様子を見せず、笑顔のまま、静かにうなずいてくれる。そのやりとりで、今日という日がまた少しあたたかくなる。手のひらにも、胸の奥にも、柔らかな甘さが残るような感覚。

    今日のいちごの味を、僕はずっと忘れない。〇〇の笑った顔も、この帰りぎわの光も、同じくらい鮮やかに、心に残っていく気がしていた。

    ◇◇◇

    その翌週、村の空気がどこかやわらかく変わっていた。
    道ですれ違えば、誰もが穏やかな笑みを向けてくる。朝市で挨拶を交わした農家のおばあさんには「若いっていいわねえ」と目尻を下げられ、買い出しに立ち寄った商店では、「その……今度こそ“ちゃんと”渡せるといいですね」と、含みのある声で微笑まれた。

    最初は意味がつかめず戸惑ったが、数人目でようやく察した。

    どうやら――坂口さんの口から「求導師様あーん未遂事件」として、あの日の出来事が村中に広まっていたらしい。

    しかも巧妙なことに、〇〇と一緒のときは誰もその話題に触れない。一人でいるときだけ、にやにやと視線を向けられたり、肩をぽんと叩かれたり。ささやかながらも周囲なりの配慮なのだと分かってはいても、こみ上げる気恥ずかしさは、そう簡単に消えてくれなかった。

    それでも――
    あの日のことを思い出すたび、彼女の笑顔が胸に浮かぶ。
    たとえ何をからかわれても、不思議と全部がどうでもよくなってしまうような、そんな気がしていた。

    ◇◇◇

    そうした日々の中、〇〇のミンスタには、あの写真が静かに残されていた。

    『初いちご狩り。甘かった!』
    という短いコメントと一緒に並んでいたのは、
    ハート型の苺を手にした〇〇と、その隣でぎこちなく笑っている僕。ふたり並んで写った、あの日の記念写真だった。

    コメント欄には驚きやからかいの声が並び、“いいね”の数は見るたびにじわじわと増えていく。

    スマホ越しに、あの空気が誰かのもとへ静かに広がっていく感覚があった。ふたりだけのはずだった日曜日が、画面を通して少しずつ外の世界に溶け出していく。開くたびにくすぐったいような気持ちが背中を撫でていくけれど、それでもふたりの姿が並ぶ画面を見るたび、言いようのない嬉しさが込み上げてきた。照れくささも、ぎこちなさも、そのどれもが自分のまっすぐな気持ちを思い出させてくれる。

    数日後、どこか上機嫌な様子の〇〇が「べつに、ただの写真だよ?」と、あっさりした声で笑う。

    「……ただの写真、なの?」
    「まあ、私にとっては、ちょっとだけ特別だけど」

    そう言って差し出されたスマホの画面の下に、「お気に入りに保存済み」の文字がさりげなく表示されていた。

    最初はなんとなく違和感を覚えたけれど、それが投稿者本人、つまり、〇〇自身の画面だと気づいた瞬間、胸の奥がじわりと熱を帯びた。

    誰にも見せるつもりのない、小さな“好き”の証みたいでーー僕は、何も言えなくなってしまった。
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