たいふ・おうと水を汲んだボウルに氷を混ぜて、その中にフェイスタオルを潜らせる。
雨が降ればいくらか熱気も収まるかと期待していたのに、夏の前触れのあつさをはらんだまま、鬱陶しいくらいの湿度がまとわりついて最悪だった。雨の音は嫌いじゃないし、不思議なにおいがするのも五感に作用して、インスピレーションに繋がったりするけれど、湿気でやる気が削がれるから梅雨はきらいだ。
手首の上くらいまでを水につけて、体内の熱を逃してから、フェイスタオルを絞る。びちゃちゃ、と冷たい水が頬に飛ぶのも構いなしに派手に絞った。
「ぁ、ふ、」
豆電球の暗さの中、小さく開かれた口から、吐息と一緒にくるしげな声が漏れ出ている。
寝汗で濡れて、おでこに張り付いている前髪を退けてから、絞ったタオルを乗せる。冷却シートなんて気の利いたものはないし、買う余裕もなくて。氷嚢とか氷枕くらいはあったら便利だろうなとは思うけれど、あいにく男二人暮らしのこの家とは縁遠いものだった。
タオルをもう一枚絞って、首周りにも巻きつけてやる。枕が濡れるのなんかどうでもいい。目の前で苦しんでいるこの子のいたみが和らぐなら、僕ができることはなんでもやりたかった。
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「うまくできないなら、もう引き上げよう」
埃っぽいレッスン室、古ぼけた板張りの床は水分を含んで、シューズが擦れるたびに耳障りなスキール音が鳴った。
ラジカセのボタンを押してメロディを止めると、彼はびくりと跳ねてこちらを振り返った。
ダンスの講師が帰った後、スタジオを借りているあいだは時間が許す限り居残って自主練するのがルーティンになっていた。
今日習ったことを忘れないように身体に染み込ませるにはいい時間だったけれど、日頃の疲れが滲んでいるのか、いつもより動きが悪いモモをこれ以上踊らせるわけにはいかなかった。
「教えてもらったところ難しくって…理解するまで、体動かしたい、なって」
鏡の前のバーに掛けたタオルを取って、流れ落ちる汗を拭う。床に滴り落ちた水分は雑巾で拭いて、シューズの裏も一緒に拭う動きが慣れている。一瞬屈んだ時に見えた背中は、一面が汗でびっしょりと濡れて、濃い色に変わっていた。
あれ、こんなに汗をかく子だったっけ。
はぁ、と熱のこもった息を吐き出してから、もう一度音楽お願いします、とスタジオの真ん中に戻ろうと踏み出したシューズが床に引っかかってつんのめる。
え、と思った瞬間にはずでん、と大きな音がして、顔面から床に落ちていた。
「っ、モモ」
「…いたぁ、あへっ、えへぇ恥ずかし…めっちゃださい転け方しちゃった」
僕が心配して駆け寄ると、上体を起こして立ち上がり、頭をかいてすぐさま可愛らしいポーズをする。
「おねがいします」
「…無理だ」
「へただから、やらないと」
ちがう、そうじゃない。
なんか、おかしいだろ。いつもより顔だって赤いし、汗の量も尋常じゃない。
床が湿っているのもあるけれど、今だって躓いたのを修正できずに脚をもつれさせて転んだ。
「今日はできない、僕には分かる」
「やってみないと、ね?」
はぁ、と息をついてラジカセからカセットを取り出す。
きゅ、と狼狽えるようにモモのシューズが音を鳴らして「まって…」とこちらに駆け寄ってくる。
「どう上手くできてなかった?動き、鈍かったですか、止まるところでちゃんと止まれてなかった?」
僕の腕を握る掌が、ひどく熱い。
許しを乞うように歪められたマゼンタの瞳が、瞬きによって潤んで、たゆたう。
「自覚、ないのか?」
「…ぁ、えと」
「また次、頑張ればいいから」
いかにも体調が悪くてかわいそうなモモを、一刻も早くレッスン室から連れ出すのに成功した僕は、珍しくレッスンバッグを自分で持って意気揚々と帰り道を歩いていた。
等間隔に並んだ街頭それぞれに虫たちが群がっているのを眺めながら、ひんやりと湿った夜風を感じる。流石にあれだけ雨が降れば夜中は冷えるか、と剥き出しの腕をさする。
着替えはしたけどあれだけ汗をかいた後だし、具合の悪いモモにはこの寒暖差きついだろうなと思って声をかけようと喉を開いた瞬間、びたたたっ、と静かな住宅街に似つかわしくない水の音が背後から聞こえた。
え、なに。と音がした方向を振り返ると、ちょうど街灯と街灯の間、周囲でいちばん暗いところで見慣れた人影が、驚いたように立ちすくんでいるのが見えた。
モモが思ったよりも後ろを歩いていたことよりも、なんだかやけに嫌な予感がして、状況を把握しようと暗闇に目を凝らした。
「…あ、っ」
大変だ、と状況を把握した僕は、一切迷うこともなく彼に駆け寄っていた。
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ユキさん、おこってた。
湿気のせいか、やけにシューズが引っかかって転けそうになる日だなとは思っていたけれど、レッスン中もあんまり上手くできなくて、今日はできない日なんだなってなんとなく自覚はあった。
新曲のお披露目も目前の中、オレがメインで前に出るのが多い曲だったから、練習を積んで本番までにすこしでも上手になりたかった。
焦りとか不安って、パフォーマンスに顕著に現れてくるものだってのは現役選手のときから身に染みて感じていたことだった。
それなのに、うまくできていないと気持ちが急って、動きが固くなって、同じところばっかりで間違えて。ユキさんにも色々ばれてたんだと思う。
ユキさんは優しいから、オレが今日できていなくても、また気持ちをリセットして次できるようにしようって、繋げてくれたのに。意固地になって粘って、できない経験を無駄に積み重ねるだけのオレに痺れを切らして、まだ時間があるのにさっさと切り上げてしまった。
別の部分のレッスンをしたってよかったのに、オレが意地張ってできないところばっかりをやろうとするから、それを見るのもさすがに飽きちゃったよね。
派手に転けたところが、後になってじんじんと痛んでくる。青たんになるかな、半ズボンの衣装じゃなくてよかった。サッカーやってるときは怪我なんか日常茶飯事で、唾つけときゃ治る!程度に思っていたけど、アイドルなんて身体が商品みたいなものだからそんな乱暴もできないし。
まだ怒ってるかな、ユキさん。自覚がないのかと問われて、言葉が詰まって、ごめんなさいって言えなかった。
しんどい言葉をかけられることもあるけど、オレのことを思って言ってくれてるものばっかりだ。そんなに端的に話せる人ではないと最近気づいたから、尚更オレがその言葉の意図を汲み取っていかなきゃいけないんだけど。
上手くできてない自覚、ちゃんとあるよ。
でも今日は、もう少しやったらできる気がしたんだよ。ほんとだよ。
走ったりしてもいないのに、息が上がる。ユキさん歩くの早いな、と遠くの方で白い背中が暗闇の中で浮かぶのを見る。
最近忙しいせいか、疲れが抜けにくくて嫌になる。昔は休みなしでもずっと走れてたのに、と肩からずり落ちたレッスンバッグの紐を直しながら小走りで追いかけようと一歩を踏み込んだ。
けれど、なんか。
あれ。
おなか、きもちわるい。
サッと血の気がひいて、嫌な予感がする。鼻の下に手を当てて、立ち止まった。
チラ、と前を見遣ると、白い背中は止まる気配もなく遠ざかるばかりで。
追いかけなきゃ、と思うのに、今度は明確な吐き気が下の方からせり上がってくるのが分かって、ぐっと堪える。
なんで、急に。
いきなり襲い掛かった吐き気に怯えながらも、止まっていてもどうにもならないからとぼとぼ足を動かす。右手は口の前に残して、もう片方はレッスンバッグの肩紐がお腹に食い込まないように握った。
お昼にバイト先で貰ったまかないが、頭をよぎる。店長の計らいでお腹いっぱいご飯にありつけるのがありがたくて、いつも遠慮なく食べてしまっていた。どれだけ食べてから動いても大丈夫な性分だったけど、ダメになっちゃったのかな。
歩くたびに気持ちが悪くなって、胃の下の方がきゅうっと痛い。ぐ、と嫌な音もするし、上がってくる感じもする。
早く帰って横になって、しんどいことは忘れて寝てしまいたかった。
この坂を登れば、ユキさんと住んでいるアパートが見える。おんぼろで夏は湿気がこもって、冬は風通しがいい家だけれど、都会から近くて雨風が凌げるだけありがたい。
そんな家まで続く、このなんでもない道が、いつもよりしんどい。はぁ、はぁ、とゆるやかな坂道で息を切らす自分の呼吸音がうるさい。
ユキさん、待って、あるくのはやいよ。
呼吸を整えようと、立ち止まって大きく息を吸い込んだ拍子に、こぽ、と喉の奥で嫌な音が鳴った。
「、ぇ」
「…モモ!」
キーン、と耳鳴りがして、周囲の音が遠くなった。一瞬、なにが起こったのかわからなくて、オレのことを呼ぶユキさんの声も一緒にだんだん聞こえなくなる。
かわりに自分の鼓動の音、どくどくと血管に血が流れる音が耳のそばで聞こえる。
咄嗟に口元に当てていた手が、ぬる、と汚れているのに気がつく。ぼんやりと視線を落とすと、暗がりの足元に白っぽいどろどろが、溢れて、広がって。
はいちゃった。
ユキさん、見てるのに。
こんな、道端で。
はずかしい、どうしよう。
片付けなきゃ、いけないのに。足の裏が地面にくっついちゃったみたいに、動けなくて。
ぼやける視界で、ユキさんのこと、縋るように必死に見つめるしかできなかった。
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「大丈夫か、モモ」
駆け寄ると、悪い予感どおりの惨状が視界に入って、かわいそうにと眉を顰める。
無理をさせすぎた。駅を出てから、そういえば一度も振り返ってやらずにここまで歩いてきてしまったと自分を責め立てる。
一刻も早く、家で休ませてやりたい思いが先行していてしまった。どんなことよりも、いましんどいモモを思いやるのが優先だったのに。
上手に、というと変だけど、どこにも引っ掛けずに地面に吐き戻したようで。茫然と立ちすくむ様子を見るに、急にせり上がって出てきてしまったのだろう。
唯一汚したやり場のない手を宙に浮かせながら、どうしよう、と言わんばかりに目を泳がせて俯いてしまう。
どうしようね。僕も酔っ払いの介抱はすることよりされることの方が多かったから、吐いたものの処理は慣れていないんだけど。
この子の為ならなんでもしよう、と普段から決めているから尚更、汚いとかそんな感情は1ミリも浮かんでこなかった。
ただ、ここは人目に着くし、片付けよりもモモをはやく家で寝かせたくて。レッスンバッグの外ポケットに突っ込んでいたポケットティッシュを取り出して、とりあえずと汚れた手に触れようとすると「ゃ、」と遠慮がちな声を出して引っ込められる。
「…きたな、から、じぶんで」
「いいよ、汚くないから」
「や、」
かぶりを振って後ろに一歩下がろうとして、ふらつく背中を支える。汗ばんで、じっとりと熱い背中は、いかにもな感じで。
ひくひくと、ひきつけのように短い呼吸を繰り返しているモモが心配になって、背中をさする。
手を拭ってやろうと腕を取ると、汚れた部分を隠そうと握るから、仕方なくティッシュを数枚渡すと大人しくそれで拭き始めた。汚れた口も拭いて、口を濯がせようとペットボトルを渡す。口に含んだ水を飲み込もうとするから「出して」と指示すると、わざわざ側溝まで行って吐き出して戻ってきた。
「気持ち悪いの、もうない?」
「な…い、です」
「そう、治ってよかったね」
はやく帰ろう、と立ちすくんだモモの腕を引くと「え」と驚いた表情でこちらを見るから、また何かいらぬ心配でもしているのかと思って無言で強めに腕を引っ張ると、大人しく後ろをついて歩いてきた。
酔っ払って道端でゲロってもそのまま放置の人間が大半だろうに。体調が悪くて吐いてしまったのを気にして、熱が出ている自分に気付かず道のことばかり心配しているモモが健気なのか鈍感すぎるのか、真剣にはかりかねていた。
「片付け、しなきゃ、ブラシとかできれいになるかな」
「モモ、いいから」
「よ、よくないよ、通学路だし、朝までにはなんとか…」
共用の掃除用具入れにデッキブラシあるかな…とか、バケツに水汲んで、あと新聞紙…などと一向に布団に入ってくれる気配が無い。
これでは早く引き上げてきた意味がないし、せっかくSOSを上げているのにモモの体がかわいそうだ。
「…僕がやるから、寝てて」
「きたないからだめ、絶対に、いやです」
「はぁ」
こうなったらてこでも言うことを聞かなくなる彼には正直たまにうんざりしているんだけれど、こういう頑固なところもひっくるめていじらしいなと感じる。
まぁ今回ばかりはやめさせないといけないけれど。
「さっき触って思ったけど、おまえ熱があるよ」
「ないです、今だって立ててるし、レッスンで熱くなっちゃっただけで…」
「レッスン中も尋常じゃないくらいの汗だっただろ」
「そう…ですか?オレ、元から汗っかき…だし、別に…」
「……道端で吐いたのに?」
ああ言えばこう言うモモに、若干のいらだちを感じて、早いところ言い争いを終わらせたくて核心に触れる。ぱっ、と打たれたように顔を上げると、傷ついた子犬みたいな表情をして、威勢をなくす。
「だから、じ、じぶんで…」
「健康な人は急に吐かないよ」
「で、でも、かたづけ」
「僕がするから」
はく、はく、と短い息をまた繰り返す。
口達者なモモが次の言葉に詰まって、視線を泳がせているのを見るに、きっともうかなり限界がきてしまっているのだろう。
ぎゅ、と固く口を結んで、たらりと額に汗を滲ませる。苦虫を噛み潰したような顔をして、ひきつけるみたいにお腹で息をする。
「お、落ち着いて」
「…だんす、うまく、できなかった、し、」
「うん…?」
「みちで、はいちゃって、きたな、から、ゆきさんにめいわく、かけたくない、です」
すん、と鼻を啜ったのを皮切りに、ぼろぼろと大粒の涙がモモの瞳からこぼれ落ちた。
ダンスできなかったことと吐いたことになんの因果関係が…と思ったけれど「迷惑」の一言で、早くレッスン室から引き上げたことをきっと自分のせいだと感じているのかもしれない。
モモのせいではないけれど、モモの為ではあるのであながち間違ってはいないが、僕にはこれをどう説明すればいいのか分からない。
ただ…
「迷惑なんか、思ってないよ」
目の前で涙を拭って項垂れているモモが、なんだかすごく小さくて、かわいそうに見えて、上手く伝えてあげられない自分に辟易とした。
悲しそうに、泣いてほしくなくて。機嫌をとろうと頭を撫でるけど、溢れだした涙は一向におさまる気配がなかった。
結局、ぐずついていたモモは余程身体がしんどかったのか、風呂から上がると電池が切れたようにあっけなく眠ってしまった。
汚してやろうと思って吐く人間なんていないんだし、酔っ払いならまだしも本当に体調が悪くて戻したことを咎めるひとなんていないだろうに、と思いながら空のペットボトル何本かに水を汲む。なるべく物音を立てないように部屋から出ると、廃材置き場から新聞紙を拝借して、掃除用具入れからブラシも持って坂道を下った。
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