たいふ・やにょう「モモ、段差あるよ。気をつけて」
「オッケー!ありがとぉ」
ひょこひょこと派手なメッシュの黒髪を揺らしながら、うんしょ、と可愛らしい声を漏らす。
少し前を歩いて、服の裾を掴んで引っ張り上げるようにしてやると、身体ぜんぶを使って段差を乗り越えた。
数日前、モモが番組企画中に怪我をしたと連絡があった。
芸能人どうしのスポーツ対決だかの特番だ。普段関われないようなスポーツ選手も出演していて、モモは「腕試しができる!」と出演が決まったときから嬉しそうにしていた。
そんな収録中の、怪我。
どんな怪我で、どんな様子かを聞き返すこともせず、すぐさま電話を切って慌てて病院に向かった。
タクシーから降りて脇目も振らずに言われた場所へ急ぐと、待合室の長椅子に腰掛けたモモが、へらりと笑って手を振っていた。
あんまり深刻じゃなさそうな顔のわりに、遠慮がちに投げ出された脚には大袈裟なほどの包帯が見え、そのコントラストにすぅっと頭の血が沸き立つのがわかった。
息を荒げながら現れた僕に「へましちゃった」と笑うモモにいてもたってもいられず口を開いた。
そこからは自分でもあまり記憶がない。モモに、何かを言ったような気もするし、言われたような気もする。マネージャーの運転する社用車で帰る途中、驚くほど静かな車内で盗み見たモモの横顔が不安げに揺れていたことだけ、異様なほど鮮明に覚えていた。
それから、しばらくの間松葉杖で生活するようになったモモの世話をやいた。移動のあるロケはスケジュールが許す限り僕が代わりに出たし、歌番組もダンスパフォーマンスのない曲を選んで制作に打診した。
作曲もツアーもひと段落ついている時期でよかった。と心底思った。
モモは自らのせいで活動に不利益なことがあったり、僕の手を煩わせることを極端に避けようとする。その上、トラウマのある脚の怪我ときた。過去、心的要因で歌声が出なくなったこともある以上、普段気丈に振る舞っていても、そこまで強くない人間だというのも十分わかっていた。
だから、特に気をかけていたところはあった。自分でできることは頑張らせて、できないところは申し訳なく思う隙を与えない程度に手を貸した。
自分の行動は、間違いではなかったように思う。けれど。
暗がりでスマホを見つめて、青白く浮かび上がる頬を撫でてやる。
「すこし寝たら?着いたら起こしてあげるから」
「ん?ううん、これ返しちゃいたいからさ。ユキこそもう眠いんじゃない?」
にっと笑った顔は、いつもより疲れているように感じた。細められた目の下には、コンシーラーで隠しきれなかった隈が見える。
また何か、僕に言えないものを隠しているんじゃないか。一人で抱えきれないほど大きくて暗い、なにかを。
そうやって思案してしまう程、隣に座るモモが憔悴しているような気がして、えもいわれぬ焦燥感に胸がちりちりと焼けるようだった。
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「ぅ、え〜〜、どうしよ…」
バスタオルやらなんやら、とにかく水気を吸ってくれそうなものを寝室に運んでベッドに投げ入れた。
手を着くと水溜まりが浮かぶほどぐしょぐしょに濡れている部分に、バスタオルを当てて水気を取る。半ばやけくそになって叩いている間にも、迎えの時間はすぐそこに迫っていた。
「いたっ、うぅ〜…」
焦って勢いよく床に着いた足に激痛がはしって嫌気がさして。包帯を巻いているほうを庇って、片足でジャンプしながら部屋を移動する。このときばかりは自分の身体能力の高さに感謝しつつも、朝のこの忙しいときに一体なにをやっているんだろう、と惨めな気持ちで思わず涙が出そうになった。
あんまり時間をかけていると、心配したマネージャーがうちまで突撃してくることが多かったから、それはまずいと思ってびしょ濡れのベッドは一旦放置して、自分の支度に取り掛かった。
濡れたベッドで寝ていた自分ももちろん濡れていて、1番被害の大きい下半身に目をやると、スウェットだけでなく下着までもが余すところなく色を変えて張り付いていた。この疑いたくなる惨状が、紛れもない事実だということを嫌でも思い知らされてつんと鼻の奥が痛くなった。
汚れたものは洗濯機に任せて、さっとシャワーを浴びて気持ちを切り替えることにした。
大丈夫、うっかり、たまたまでしょ。昨日トイレ行かずに寝たのが悪いんだ、今日はちゃんとお腹空っぽにしてから寝るし、大丈夫。と頬を軽く叩いて、松葉杖を手に取っていそいそと家を出た。
今朝の一件でお気に入りのマットレスがダメになったせいで、客用の布団を床に敷いて寝ることになったのが不本意でたまらなかった。いや、ダメになったのかどうかはわからない。きっと汚したマットレスだって綺麗にすればまた使えるんだろうけど、一日中の収録やら撮影やらで疲れきった身体でそれをする労力すら惜しかったから、お金で解決してしまおうと早々に諦めた。
一抹の不安はある、一度起こったことは二度目だって考えられるし、また布団を汚してそれを処理するのだって貴重な朝の時間が削られるのはもう嫌だった。
寝る前、水分は控えて何回かトイレに行った。
身体の中をカラカラにした状態だったら、流石にもうやらかさないだろうと思って。
慣れない布団で、寝返りを打つ。物心ついた頃からベッドで寝ていたから、布団特有の床の硬さを感じて、なんだか寝にくかった。枕だけいつも使ってるやつを持ってきて、顔をうずめる。
客用とはいえ、いいやつ買ったから寝心地は悪くないんだけどね。自分の家なのに、なんだか落ち着かない気持ちをなだめて、毛布を被った。
何事もなく、いつも通りに朝を迎えられますように。枕元にアラーム設定したスマホを置いて、瞼を閉じた。
ぐじゅ、と生温かく濡れた感覚で、夜中に目が覚めた。
覚醒しきらない頭で、なにが起こっているのか理解しようとペタペタ辺りを触って、それからなんとなくお尻の下に手を差し込んだ。
ほのかに温かい液体が、お尻が当たっていた部分に溜まっている。背中の手前、横の方にずらした部分まで広く濡れていて、腰あたりがいちばんひどい。体重で沈んだ布団に生ぬるい液体が溜まって、身体にまとわりついている。ほんのすこし身じろぐとそれと一緒に水溜まりも移動して、寝室に似つかわしくない水音が鳴った。
頭が冷静になって、冴えてくるのにしばらく動けなかった。温かかったものが、だんだん冷えてくる。空気に面しているところから少しずつ温度が奪われて、お尻の辺りも冷たくなってきたのが、妙にリアルで。現実なんだと、夢なんかじゃないんだと、思えば思うほど体がちくちくと針で刺されたように痺れて、いやな気持ちになった。
ただでさえ脚も痛くて気分が滅入っているというのに、こんな仕打ち、痛くてたまらなかった。いや、自分がやったことだから、自分が悪いんだけれど、寝ている間に勝手に出ちゃっているものをコントロールすることなんてできない。できてたら、普通にトイレ行ってるもん。
なんで、とか、どうして、と思っても、慰めてくれる人も、優しい親もここにはいなくて。
大人だし一人暮らしだし、自分で片付けるしか方法はないんだけれど。
しんどい、どうしよう。身体が動かない。
子供みたいに、寝ている間に粗相をして、泣くのなんてひどく惨めで絶対に嫌で。ぐっと唇を噛んで涙を堪えた。
バスタオルを抱えて、水溜まりを拭う。
一枚じゃ到底足りなくて、何枚か使って水気を拭き取ろうとした。
電気をつけると最悪の惨状がよく分かって吐き気がしたから、枕元の明かりだけでなんとか処理をしようと起き上がった。
きたない、きもちわるい。ここはトイレじゃないのに、どんだけ出ちゃってるんだよ。
わざわざ夜中に冷たくなった自分の排泄物に手を浸しながら掃除をしている状況に、頭が追いつかない。やってもやっても、綺麗にならない目の前の光景に、眩暈がしそうだった。
何回目か分からないアラームに身体を起こして、うるさいとばかりにスマホを叩いて止める。のそのそと床から起き上がって、部屋から出た。
あれから数日間、ほとんど毎日のようにこの生活が続いた。夜中に粗相をして起きる。片付けをしている間に夜が明けて、そのまま仕事に向かう。
ただでさえ貴重な睡眠時間が、汚れたものを処理するのに充てられるせいで日中もずっと睡魔に襲われていた。
寝ている間に漏らしても被害を最小限にするために、4日目あたりから床で寝ることにした。まぁ、基本どこでも寝られる性分だし、キャンプなんかで寝心地の悪いところで寝ることもあったから大丈夫でしょ、と自分に言い聞かせた。それに掛け布団と毛布にくるまっていれば温かいし、寒くない。毛布類は洗えばすぐ綺麗になってくれるから、汚してもストレスが少ないと考えた。
それに、マットレスも布団も予備もぜんぶ汚してしまったから、業者を呼んで全部捨ててしまった。家に寝具がほとんどなくて、寝室がさみしくなっちゃって、ほんとうに惨めで笑ってしまった。
だって、使っても汚して、片付けに時間割いてたら寝る意味ないじゃん。結局新しいものを買い足す気力もなくて、フレームだけが物悲しく残るベッドはだんだん物置きと化していった。
夜中アラームをセットして、その都度トイレに行く戦法を取ったこともあった。結果、2回くらい起きてトイレに行けば床を濡らすことはなかったものの、本来なら寝られる時間に2回も起きてなんかいると、日中が眠くてしんどかった。
だから、もう全部諦めて床で寝ることにした。
もう嫌だった、普通に寝かせてほしくて、なんにも考えたくなくて。毎日怯えながら毛布に包まった。
寝心地がわるいせいで、嫌な夢も見る。脚もときおり酷い痛みに襲われて、そのたびに昔のことを思い出して吐き気に襲われた。
オレ、なにか悪いことしたのかな。
どうすれば解決するのか、わからない。
もともと家事は苦手で、掃除だって洗濯だって、しなくてもいいのならやりたくないと思っているくらい。
寝起きの体を叱咤して、絶望するくらいびしょ濡れになった床を拭いて、毎日のように毛布を洗って乾かして。
疲れた体で帰ってきて、もう何も考えずにふかふかのベッドで眠りたい。朝までぐっすり寝て、乾いたベッドで起きて、そのまま身支度をして出かけたい。
前まで普通にできていたことが、できなくなってしまった。
足を怪我して多少はびっくりしたけれど、ここまで引きずるとは思ってなかった。オレはまだ、あの時の絶望の延長線に立っているんだって、嫌でも自覚した。
嫌な夢を見て、寝小便をするなんて。子どもみたいで、ばかみたいで。そんなダメージ受けてたらやっていけないだろ!って、自嘲をしてみても。
朝、後始末を終えて身体が綺麗になる頃にはどっと疲れが押し寄せていて、このまま出かけて仕事をするのが億劫になるくらい、いつもひどく気が滅入ってしまっていた。
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びく、と身体が震えて弾かれたようにその場に立ち上がる。
慌ててお尻に手を当てると、そこが温かく乾いているのがわかってほっと息をついた。
「急に起き上がって、どうしたの」
そうだ、楽屋だった。
台本でも読んでおこうと椅子に腰掛けたまま、うとうとと降りてきた瞼に抗えずに半ば気を失うように眠ってしまっていた。
驚いたような顔のユキが隣にいることに気がついて、逆立った全身の毛が落ち着いてくる。
「寝ちゃってた」
「…睡眠時間、足りてないんじゃないの」
ユキは怪訝そうな顔をしながらもオレの肩を優しく撫でてくれる。さしずめ、また夜遊びをして睡眠時間を削っているんじゃないかと疑っているような表情だった。
本当は、そんなんじゃないけれど。
今だって、寝るつもりはなかった。うっかりうたた寝をして、自分の家のベッドでもないところで、ましてや外でユキの前で眠って、もし。
もし、そこで粗相をしてしまったら、本当に立ち直れない。心がぽっきりと折れて、惨めったらしく泣いてしまいそうで、それだけは絶対に避けたかった。
「寝ててもよかったのに。予定まで時間あるよ」
「ううん、台本まだ読めてなかったから…」
「そう、起こしてあげるのに」
「ありがと!心配かけてごめんね」
スケジュールの隙間に仮眠を取ることなんて日常茶飯事だったから、頑なに眠ろうとしないオレに疑問を持ったのか、ユキは首を傾げながらも「えらいね」とオレの頭を撫でてくれた。
本当は、眠くて眠くて、たまらなかった。オレ、夜ちゃんと眠れてなくて、しんどいんだ。
そうやって素直に言えたら、粗相が治ることはなくても少しくらい楽になったかもしれない。
けれど、子どもみたいに毎日おねしょしちゃうなんて、口が裂けても言えなかった。引かれるだろうし、嫌がられるかもしれないし。
ユキは優しいからそんなことでオレを嫌いになんかならないって分かってるけれど、ただでさえ足を怪我して迷惑かけてるのにこれ以上の心配なんかかけたくなかった。
ゆったりと頭を撫でてくれたのが優しくて、毎日頑張ってえらいねって、褒めてもらえたような気がして。ずたずたの心に痛いほどに沁みて、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えていた。
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「モモ、今日の夜うち来なよ」
「?どうしたの」
「いいお肉貰ったんだよね。きっと美味しいよ、焼いてあげるから食べにおいで」
お肉、と聞くと、ぱっと笑顔を咲かせて「いくいく!絶対いく!」っていつもなら答えるだろうモモが、神妙な面持ちで「うーん、今日はやめとこうかな」なんて僕の誘いを断った。
「家でやらなきゃいけないことあるんだよね」
「今日やらなきゃいけないの?なに、片付け?」
また部屋でも散らかっているんだろうか。足を怪我してから不自由な生活をしているはずだから、無理もない。
片付けなら不器用なモモが一人でやるより、僕も行って手伝ったほうが早く終わる。モモは他のことに気を取られて、片付け始めより汚くしてしまう天才だったから、正直一人でやらせたくないくらいなんだけれど。
「ちがうけど…」
「ならモモんちでお肉焼く?用事もできるし、僕がご飯用意したらその分時間も浮くでしょ」
名案、とばかりに手を打ったのに、浮かない顔をして視線を泳がせるモモにもやもやとした気持ちが募っていく。
実はこのところ、モモは僕の誘いを断ってばかりだった。
足が悪いから、迷惑をかけるからと銘打ってモモがうちに来るのも僕がモモの家に行くのも嫌がった。外食しようにも、こんな姿をファンの子に見せて心配させたくないとかなんとかで、楽屋くらいでしかろくに食事する機会すらなかった。
なにかまた隠し事をしているんじゃないかと問い詰めても「そんなわけないじゃん!」とへらりと笑ってかわされる。
いや、そんなわけあるだろ、とさすがに長年の勘で分かってしまうんだけれど。
メイクで隠せてると思っているだろう顔色の悪さを見るに、モモから言ってくれるのを待った方がいい事案だろうと二の足を踏んでいたのだ。
時が来れば、いずれ限界になって泣きついてくるだろう。家事だけでなくて、自分のことに対してもずぼらなところがあるから、僕の手を借りた方がうまくいくと気付くまで時間がかかることもままあったし。
なんでも自分で解決したがるモモにとっては、段階を踏まないと打ち明けてくれないと最近よく分かってきたからこそ、まだ待ちのフェーズかなと思ってたかを括っていた。
けれど。
いっこうに訳を言いたがらない。
日に日に深く刻まれていく隈に、時折ふっと気絶するように眠ってしまうのが少し病的だと感じるくらいになった。収録中もぼんやり目の焦点が合わなくなることがあって、僕との会話も内容をすっ飛ばす場面がいくつかあった。
足を庇って生活しているから、そのせいで疲労が現れているのかとも思ったけれど。
何らかの理由で確実に、モモは眠れていないのが原因なようだった。
理由が何なのかは分からない。遊び歩いて寝不足になっているのならお小言のひとつやふたつ言ってやらないとと思っていたがそうではなく、重要な会食でなければ足を理由に断ったりするらしいというのもモモの遊び仲間から聞いている。
疲労で眠りが浅かったり、夢見が悪かったりすると、人肌を求めて僕の家に泊まりにきたりすることもあったけど、今回はそれもない。
なんだろう、なにがモモに悪さをしているんだろう。モモの口から悩み事が出てこない限り、強行突破にでも出ないと八方塞がりのままだった。
おかりんの運転する送迎車の中で、モモが眠ってしまったのをいいことにそのまま僕の家まで向かってくれと頼んだ。
「いいんですか、千くん」
「ん?ああ、おかりんも気になってたでしょ」
バックミラーをちらりと見遣り、メガネ越しに瞳を揺らすおかりんと目が合った。
「そう…ですね」
隣で気絶したかのようにぐったりしているモモも、先程まで寝ないようにスマホを見たり台本を見たりして必死に睡魔から抗っていた。抵抗虚しく寝落ちた彼の、画面がついたままのスマホの電源を落としてやり、そっと預かった。
「眠れないなら、添い寝でもしてみるよ」
「喧嘩しない程度にお願いしますね」
「うん、もちろん」
モモを揺すり起こすと、パッと覚醒して大袈裟なほどに身体を跳ねさせる。ごんっとドアに頭を打ち付けた鈍い音がして、もう少し優しく起こしてやればと後悔した。
「そんな驚かなくても。僕たちしかいないし、寝ててもいいんだから」
「ん、ぅん…」
まだ寝ぼけているのか、歯切れの悪い返事をしながら必死に自らの太ももや座席に手を這わすから、なにか探しているのかと思って「スマホなら持ったから、降りるよ」と声をかけて逆側の扉へと回った。
「じゃあ、また明日」
と運転席のおかりんに手を振ると、遠慮がちに笑顔を見せてから遠ざかっていった。
車のエンジン音がして、うとうとしていたモモが「ぇ、」と小さな声を漏らして目を見開いた。
ようやく目覚めたのか、辺りを見渡して、自分の家のエントランスでないと気がついた途端、あわあわと焦りだした。
「ちょ、え、なんで?」
「明日午前オフでしょ、僕んちでゆっくり映画でも見ながらお肉食べようよ」
前に言ってたでしょ、さすがにそろそろ悪くなっちゃうよ。と肩を叩くと、眉を下げて不安そうな顔をする。この世の終わりのような、そんな絶望感すら漂う表情に、僕の家に連れてこられたのがお肉の為だけでないと薄々悟っているようすだった。
前から気になっていた映画を一緒に見て、お肉を食べさせて、モモは断ったけれどとっておきのボトルを開ければ半ば諦めたような顔をして素直にグラスを受け取った。
お腹いっぱい、満足!と笑って言った頃には不安そうな表情もすっかり抜けていて、このまま風呂に入って眠れば任務完了だと一段落した矢先だった。
「じゃあ、オレ帰るね」
今日はありがと!と荷物をまとめて、足を引きずりながら部屋から出て行こうとするからいやいや待て待てと慌てて引き止めた。
「泊まっていけ、もう遅いよ」
「いやいや、悪いよ〜!こんな至れり尽くせりしてもらっちゃって、オレのこと心配してくれてたんでしょ?」
「お前、それ本気で言ってるのか?」
「はにゃ?何を?」
にこっと笑ってとぼける顔に、段々と苛立ちが増してくる。寝不足で顔色が悪いのを自分でも隠しきれていないことくらいとっくに分かっているはずなのに、頑なに僕の前で眠ろうとしないのはそこを突かれたくないからだ。
頭に思い浮かぶのは、不眠やらの睡眠に関するトラブルばかりだ。
「第一どうやって帰るの、車ないよ」
「タクシー呼ぶからさぁ、心配しないでよ」
「…心配、するだろ」
僕の声が力を無くしたことに、モモは狼狽えて振り返った。僕が泣いているとでも思ったのだろうか。
泣きそうな顔してるのはそっちのくせに、ここまで頑なに頼ろうとしないのは、何が悪さをしているのだろうか。
僕に言えない、何かが。
衝動的に玄関に置いてある松葉杖を取って、リビングまで持ってくる。これがないと、あの子は今1人では帰れない。
困ったような顔をして、首を傾げているモモにバスタオルを渡して「添い寝してあげるから、入っておいで」と風呂場まで連れて行った。
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どうしよう、と思った。
ぱたんと閉められた脱衣所の扉を見つめて、しばらく動けなかった。
いま考えうる最悪の状況が目の前にあって、回避するのに思いっきり失敗した。このままでは泥んこの水溜まりにみっともなく頭から着地することは目に見えていて、ぎゅっと手のひらを強く握った。
寝不足だし、お酒も入ってる、久しぶりのふかふかなベッドに入れば確実に寝落ちてしまう。おねしょは連敗中、この夜だって絶対に濡らしてしまうに決まっている。
ユキのベッドで、粗相を。
考えるだけで、胃の中がひっくり返りそうだった。無理だ、ユキの横で、ユキのベッドで。
じわ、と視界が滲むのがわかった。どうしよう、どうすれば。
言えない、こんなこと。恥ずかしくてみっともなくて、きたなくて、言えるわけがない。
ぎゅ、と目をこすって、洗面台の鏡に写った自分の姿をみる。
「………はは、」
テレビに映る、雑誌に印刷される、街中のポスター、ライブの映像。鏡以外にも自分をうつす媒体が沢山あって、何度も見てきた自分のすがたの中で、今まででいちばんぼろぼろに見えた。
ひどい顔、目の下も窪んで、浮浪者みたい。
何にも気にせずに眠りたいな。ふわふわなものに包まれて、全部忘れて眠ってしまいたい。長い間、もうずっとちゃんと眠れてなかった。
ユキが添い寝してくれるんだって。とんとん、お腹をたたいて子ども扱いしてくれて。すっごく恥ずかしいけれど、なんだか心地よくて。
風邪をひいたときなんかにしてもらうと、よく眠れた。
なんて、そんなこと。夢みたいな話。
絶望感に打ちひしがれる思いで、風呂を浴びた。いまから訪れる残酷な夜に、耐えなきゃいけない。
はは、アラームかけていいかな。ユキが起きない程度に、小さく音量絞るから。
それだと、オレ起きれないかもな。起きれなかったら、たいへんだ。
かちかちに固まった筋肉を叱咤して、なんとかユキのベッドに寝転がる。
固い床と違って、ふんわりバウンドするベッドに体は素直に喜んだ。
「おいで」
パジャマ姿のユキに促されるまま、キングサイズのベッドを転がった。
ユキが撫でてくれるのを抵抗せずに受け入れる。頭から、首筋、肩にかけてゆっくりと。
ああ、すぐ寝ちゃいそう。
お揃いのパジャマも、ふわふわのベッドも、優しく撫でてくれるのも、きもちいい。
瞼を落とすと、すぐに睡魔がやってきて、意識が薄れる。
寝る前にトイレは済ませたし、アラームかけたから、大丈夫。濡らす前に起きられますように。ユキに、バレませんように。
また、祈りながら眠った。お願い事をしながら眠るの、癖になっちゃったかな。
夜中に3回起きたあと、陽が登り始めてからは眠らずに起きていた。
朝起こすのに苦労こそすれど、枕元のアラームに気づかないユキの体質に感謝したのは初めてのことだった。
濡れてない、2人分の体温であたたかく乾いた布団をぺたぺた触るのも何回目だろう。もう朝だよ、大丈夫。安心すると、じんわりお腹が温かくなった。
久しぶりのベッドだったのに、床で寝るより眠りが浅くて思わず苦笑してしまった。心配してくれるのは嬉しいし、迷惑かけてごめんねって申し訳なくなるけど、添い寝だけでは解決しない厄介なものを抱えているのが、なんだかやるせない気持ちになった。
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モモを無理やりうちに泊まらせた。
やり方は強引だったかもしれないけれど、添い寝でもすればモモは寝てくれると思った。
案の定、疲れていたのかベッドに入ってからすんなりと眠りについたけれど、その代わりに僕よりもずいぶん早くに目覚めていたようだった。
不眠、ではないのだろうか。眠りが浅いのか、それとも。眠ることに何らかの問題を抱えていることは分かっているのに、原因がよくわからなかった。
それでも、すこしだけすっきりした顔で朝ご飯を食べている様子を見るに、これは時間がかかるけれど添い寝を続けたら良くなるだろうと踏んで、何度かうちに泊まらせることにした。
誘う度に抵抗をみせて断ろうとするけれど、その根拠をなかなか言えないモモに対して僕が引き下がらないのを見て、しばらくすると観念したかのように大人しく着いてくるようになった。
すべてのスケジュールを終えた僕は、マネージャーの運転する社用車で違う局にいたモモを拾って今日も僕の家に向かった。
晩ご飯はシチューの用意をしていた。具材は煮込んであるから、あとはスパイスを溶かして火を入れるだけ。身体を中から温めて、モモにはすこしでも眠りやすい状況を作ってやりたいと思った。
僕の隣でスマホを触っていたモモが、いつの間にか眠っている。車の振動に合わせてこく、こく、と揺れる頭に肩を貸してやろうと近付いた瞬間、耳慣れない音がして思わず固まってしまった。
なんだ?雨…?
思わず窓の外を見るけれど、ワイパーが動いた様子もないし、雨粒が当たった痕跡もない。
それでも、ぴちゃぴちゃとか細い水の音がする。
「…ぅ、」
僅かにうめいた声に、吐いた?と思って隣のモモを見遣るけれど、そんな様子はない。どこからかはわからない、それでも僅かながら聞こえる水の音は止む気配がなく、確かに僕の耳には届いていた。
ふと、モモが身じろぎをすると、ぱしゃ、と音が鳴る。それと同時に手からスマホが落ちて、僕の方に転がってくる。
「…モモ?」
それを拾いあげて、声をかけた瞬間だった。
ひ、と引き攣るような声を喉から出して、びくりとモモが身体を弾ませる。
目を見開いて、息を詰まらせて固まっているから、何事かと思ってモモの体に触れると、驚いたモモがぱしんと僕の手をはたいて小さく身体を折った。
ふ、ふ、と短い息を吐き出しながら、せわしなく手を動かす。座席、太もも、辺りを確かめるようにぺたぺたと触る様子が、只事ではなくて。
「モモ」と優しく呼びかけてから、かたかたと震える手に手のひらを重ねた。
「ぁ、」
「ぅ、……ごめ、なさ」
ぽつりと、俯いたモモが泣き出しそうな声でそう口にする。
ふぅ、ふぅ、とくの字に背中を丸めながら苦しそうに息をするから、シートベルトを外してやろうと手をかけたときに、その違和感に気付いてしまう。
濡れている、と思った。
暗い車内ではよく分からないけれど、太ももから座席にかけてじんわりと濡れていて。お尻の下あたりは吸収できなかったものが水溜りになって、車外の僅かなネオンを反射させていた。
ああ、なるほど。
緊急事態にも関わらず、頭はやけに冷静だった。さっきまでモモは僕の隣で確かに眠っていた。なにかを我慢していた様子もなかったし、熱があるわけでも、動けないほど体調が悪いわけでもなさそうだった。
それならば、これは。思い当たるものがひとつしかなくて、これを隠そうとしていたのなら近頃のそっけなさにも、合点がいく。
「ぅ、……はぁ、はぁっ、ぅ……ぐ、」
「ゆっくり息して、大丈夫。怖いことなんかないよ」
大丈夫、大丈夫。顔を覆って、あまりにしんどそうな呼吸を繰り返しているから、そっちのほうが心配になって、背中を強めにさすった。
伏せられた顔は前髪に隠れて見えない。泣いているのかと思ったけれど、多分、いろいろな感情で押し潰されそうになって呼吸ができなくなっている。
もうずっとつらい思いをしていたのだろう。
もっと早く、僕に打ち明けてくれていれば、一緒に解決策も考えることができたのに。
それができない、優しくて不器用な彼を、これ以上いじめるのはやめてあげてくれないか。
音もなく、冷たくなった身体を震わせるモモの体を、なだめようと必死に撫でていた。
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冷たい、きもちわるい。
ぐじゅ、とお尻の下が濡れた感覚、濡れたところがだんだん冷えて、皮膚がふやけて不快感が増していく。
座った状態でしてしまったから、ふくらはぎを伝って靴の中までぐしょぐしょだった。
座席、だめにしちゃったな。
この車、送り迎えも現場の移動でも毎日使うのに、クリーニング代だってばかにならないのに。床も、水溜りができるほどに汚してしまっているんだろうな。
いつか、起こってしまうような気がしていた。
夜中に眠れていないから、気を失ってしまうレベルの強い眠気に襲われると、耐えられずに寝てしまうことが多かった。
その度に焦って飛び起きて、心臓をばくばくいわせながら辺りが濡れていないか確かめるのも、正直しんどかった。
なにも、初めてがユキの隣じゃなくてもよかったのに、と頭を抱えた。いじわるな神様、どれだけ苦しくなったらオレを許してくれるんだろう。
車外でユキとおかりんが話をしている。大変だよね、車の中なんかでお漏らしされたら、掃除も頼まなきゃいけないし。家に戻るにも人目につきそうで怖くて、週刊誌にすっぱ抜かれでもしたらアイドル人生お先真っ暗だよ。
お漏らしアイドル、冗談きつい。笑えない。
わらえないよ。
ユキにバレた。おかりんにも。あんなに一生懸命必死で隠していたのに、知られてしまうのは一瞬だなんて。
あーあ、これからどうしよう。嫌われちゃったかな、幻滅されちゃったよね。車の中でおしっこ漏らして、汚いしくさいし。近づきたくないよね、最悪だよね。
せめて、最後に掃除道具くらい渡してくれないかな。そしたら自分でできるところまでやるし、片付けられる。
身体中ぴかぴかにして、歩いてうちに帰るよ。もう二度と居眠りもしないし、みんなの前で粗相しない。
だから、許してほしい。この一回だけにするから。
ごめんなさい、と体を丸めてじっと固まっていると、扉が開く音がして、肩からふわりと何かを掛けられる感覚がした。
「モモ、大丈夫だからね。ここで着替えちゃおうか」
優しい手つきで、太ももにタオルが押し当てられる。ユキの細くて綺麗な手が、視界の端でオレの汚い部分に触れるのに耐えられなくて、慌ててタオルを掴んだ。
「ま、まって、じぶんでできる」
「ん?いいよ、しんどいでしょ」
「しんどくない、大丈夫!汚いし、くさいでしょ、こんなの触らないで」
汚い、くさい。自分で言って、言葉にしてしまったのがひどく惨めで泣きそうになった。
わなわなと唇が震える。どうやって、息を吸えばいいのか分からなくて。
泣き出す寸前みたいに喉の奥が痙攣して、苦しい。
「汚くないよ、大丈夫。身体冷えちゃったね、はやくお風呂入ろう」
あ、あ、嫌だ、触らないで。
オレが頑なにタオルを掴んで離さないから、新しいバスタオルを使ってまた下半身を拭われる。
ユキんちの、タオル。真っ白でふわふわで、大好きなタオルが。汚れて…
それが分かると、もうダメだった。
心の中でなにかが砕ける音がして、一気に外へと溢れ出した。
ひ、と一際大きく息を吸い込むと、堪えていた涙がぼたぼたと頬を伝って落ちていった。思わず漏れ出た声を抑えることも、溢れた涙も拭うこともできない。その場にはりつけられたように動かない身体を震わせて、涙を流すことしかできなかった。
座席を倒した車内で小一時間くらい、ゆっくりしか動けないオレの着替えを根気よく手伝ってくれて、うまく歩けない身体を支えてユキの家まで連れて帰ってくれた。
よく掃除されているユキの家に、汚い身体で入るのを抵抗すると、さっと足を拭いてそのまま手を引いて風呂場まで連れていかれた。
「1人で入れる?途中で寝ない?」
こくんと首を振って答えると「なにかあったらすぐ呼ぶんだよ」と声をかけてくれた。
お風呂から上がったら、晩ごはんが用意されていて。遅くなってしまったけれど2人でそれを食べた。
漏らして、迷惑をかけたのに、出会ってから今まででいちばんのレベルで優しく慰めてもらってしまった。
片付けだって、ひとつもさせてくれなかった。粗相をしてずたずたになった心で、後始末をするのって結構きつかったんだなと今になって思う。
泣き腫らして熱くなった目を、温かいタオルで拭われる。そこまでしてもらわなくてもいいのに、と思うけれど、こうやって子ども扱いされるのが今はなんだか心地よくて、素直に受け入れた。
それでも、一緒のベッドで眠るのは怖かった。
足がすくんで、寝室にも入れないオレの手をとって、心配そうに顔を覗き込まれる。
「…あは、やっぱり、やめよ」
「どうして?一緒に寝ようよ」
「汚れるよ」
ベッドって汚れると結構やばくて。オレ、もう大人だから子どものおねしょなんか比じゃないくらいの範囲が濡れるし、マットレス使い物にならなくなるよ。一緒に寝たら、ユキだって汚れるし、きたないよ。
早口で、そんなことを言った覚えがある。それでも、ぐいぐいと引っ張ってベッドの前まで連れて来られて、そのまま押し倒された。
わあ、イケメン…なんて言う隙もないくらい萎えんでしまっていて、ベッドに沈み込むのと同じくらい心も沈んでしまっていて、簡単に起き上がれなかった。
「しんどかったね」
うん、しんどかった。
汚したくもないのに、毎日毎日布団が濡れて、嫌だった。
ふかふかのベッドで朝まで眠りたいのに、汚して捨てちゃったからもう家にもなくて。ユキんちで寝転がれるだけでもありがたい。
だから、泊めてもらえるの嬉しかった。
思うだけにとどめたかったのに、ぽろりとそんな言葉が口から出ていたようで。
ユキを驚かせてしまった。
「あ、えと、そんな顔しないでよ」
「いつから」
「わ、わかんな、」
「いつからちゃんと眠れてなかったの」
「ゆ、ユキ」
「…もっとちゃんと、お前のこと、見ておけばよかった」
ぎゅう、と覆い被さるように抱きしめられる。痛いよ、なんて言って離れようとするのに、思ったよりも強い力で抑えられてしまって、身動きが取れなかった。
ほて、と大人しく抱かれる。身体の骨が軋むほどの力で抱きしめられるのが、傷ついた心にはなんだかありがたくて。うっかりこれ以上泣いて、心配かけさせたくなくて必死に唇を噛んだ。
「…ほんとは、夜中にアラームかけてたんだ」
「……は?」
「2回くらい起きてトイレに行ったら、漏らさない、みたいで」
「それ、僕と寝てたとき?」
「うん。今日はちゃんと起きれる自信ないからさぁ、床で……」
「は?床?」
「片付けも簡単だよ、オレ自分の家では床で…」
やっと身体を離してくれたユキが押し黙る空気に耐えかねて表情を伺うと、信じられないと言った具合に険しい顔になっていて、しまったと口をつぐんだ。
「ご、ごめん、迷惑かけるつもりじゃ、」
「はぁ〜〜〜〜、」
「あ、ご、ごめんなさい。やぱ、帰る、ね」
「違う。違うモモ、帰るな」
ベッドから出ようとすると、パジャマの首根っこを掴まれた。
「…そんなに苦しんでたのに、気付けなかった自分に幻滅してる」
「ユキ悪くないよ、オレがずっと言ってなかったんだし…」
こんなことなければ言うつもりも、なかったんだけど。
「モモ、あのね。僕はお前の苦労を知って、ベッドの心配なんかしてないんだよ」
「…うん?」
「モモが眠れなくて、しんどい思いをしている方が僕にとっては正直つらい」
「……」
「だってモモ、僕じゃないけど、寝るの好きだろ。今まで十分に寝れなかったの、つらかったでしょ」
震える手をとって、真剣な眼差しで見つめられる。裸の、汚い部分まで見透かされるような瞳で、見られたくなくって思わず目を逸らした。
自分で汚した排泄物が溜まったベッドに、布団に、床。眠たい目を擦りながら、えずきそうになりながらも後始末をした過去の自分が、心の中で泣き叫んでいた。
「でも、よごれちゃ…、ユキのベッド、汚すのやだ」
「いいよ、汚したって。僕、お掃除得意なの知ってるでしょ。お金だっていっぱい持ってるから買い替えるのもいいよね」
「でも、ユキも濡れちゃうよ」
「そしたら、一緒に朝風呂しようか。濡れたところ、洗ってあげる」
「……っ、」
「心配なら、タオルを敷いて寝よう。何枚か敷いてたら、大丈夫だよ」
「………ぅ、うぅ、……ぅ、」
優しい声でなだめられて、そうやって話しているうちに苦しくなってきてしまった。本当はもう泣きたくなかったのに、嗚咽を止められなかった。顔を覆って汚らしく泣いてしまうオレを、また優しく撫でてくれる。
大きな手が、あたたかい。
なんにも心配することなんてない。全部ゆだねて、ふかふかのベッドで眠っていいんだ。
アラームをかけずに、朝まで眠れる。ユキの隣で、優しく撫でられながら。
そう思うと、ふ、と全身から力が抜けたようだった。ずっとお腹の上に乗っていた、苦しくて重たいものが、すっと軽くなる。
ふわふわと夢見心地のまま、ユキに撫でられる心地よさを享受しながら、意識を手放した。
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泣き疲れたように眠ってしまったモモの寝顔を見て、はぁ、と息をついた。
まさか、寝不足の原因が夜尿だったなんて。
気丈に振る舞うけれど、熱を出したり歌声が出なくなったり、過剰なプレッシャーにはとんと弱いこの子のことだから、今回も心的ストレスが原因のものだろうと考える。
前に声のことで世話になった心療内科に連絡をいれておくか、とベッドから降り立ち、寝室をあとにした。
バスタオルを数枚持って寝室に戻る。安心したようによく眠っているモモの体を転がして、重ねたバスタオルを敷いてやる。
モモが気にするなら吸水シーツを用意してもいいし、嫌じゃないならおむつだって検討してもいい。やりようはいくらでもあるのに、そんな考えにすら及ばないくらい追い詰められていたんだなと心が痛くなった。
ゆっくり、朝まで眠ろうね。
呼吸と一緒に規則正しく上下するお腹をぽん、と叩いて、モモの隣で僕も眠りについた。
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ひんやりと、冷たい感覚がして、弾かれるようにして飛び起きた。
急に頭の位置を動かしたからか、ぐわんと視界が揺れて思わず目を瞑った。
重い遮光カーテンの隙間から朝日が差し込む寝室で、薄明かりの中自分を中心にベッドに広がるくすんだ染みを見て一気に悲しさが込み上げてくる。
冷たく濡れているシーツをぼんやりと撫でる。ユキのベッドなのに、ユキが横にいるのに、濡らしてしまった。
久しぶりに、朝まで熟睡していたからか、冷たくなるまで気付かなかった自分に嫌気が差した。出る前に、気付けよ。なに気持ちよく寝てんの。
自責の念にかられて、どんよりと重暗い感情にだんだん押しつぶされていった。
ふと、隣を見ると、大きな染みの外側にユキの身体が見えてほっと息をついた。
ユキは汚れてない。ベッドが大きくてよかった。
ベッドから降りて、シーツを捲る。昨日言ってくれていたとおりに、オレの寝ているところにはバスタオルが敷かれてあって、じっとりと粗相の跡を受け止めてくれていた。それでも、マットレスまで浸透しているのが見えて、きゅうに足に力が入らなくなって汚れた身体のまま地面にへたり込んだ。
腕に顔を押し付けて、静かに泣く。
あんまり声を出すと、ユキが起きる。でも、すぐには動くことができなくて、濡れたバスタオルを手に持ったまま、寝室の床で涙を溢していた。
とんとん、と背中を叩かれて、ふと意識が浮上する。
「気付いてあげられなくてごめんね、床痛いでしょ」
「……、?」
何がどうなっているのかよく分からなくて、ゆっくり身体を起こす。手に持っていた何かを、剥ぎ取られて、急激に体温が奪われてぶるりと身震いをした。
「お風呂いこう」
眠い目を擦りながら脱衣所まで手を引かれて連れて来られる。上からパジャマを脱がされたところで、はっと覚醒して、慌ててその場から飛び退いた。
「あ、起きた?おはよう」
「え、オレ、寝て……」
「床で二度寝しちゃってたね。固かったでしょ」
一回は自分で起きて片付けしようとしてたんでしょ、偉かったね。となにもできていないのにぽんぽんと頭を撫でられる。
「パジャマ、脱いだら洗面台に置いといてくれる?洗うから」
「い、いや、オレ自分でできるよ、?」
「僕がやりたいだけだから。やらせてくれる?」
「きたないよ、手、汚れちゃうし。くさ、いし…えと……」
濡れたパジャマの布地をぎゅっと掴んで、視線を落とした。顔を近づけてないからわからないけど、きっとにおうし、汚いからユキには触って欲しくなかった。
そう言っても、頑なにユキはオレの言葉を聞いてくれようとはしなかった。優しい顔つきで「汚れたの置いてていいからね」と、脱衣所を出て行ったユキの背中をぼんやり見ながら、沈んだ気持ちで張り付いた衣服を剥がすようにして脱いでいった。
シャワーを浴びている間に、洗濯機が回されていた。汚れたものは、跡形もなく綺麗になっていて。まるで魔法のように、寝室の床も、マットレスにも汚れひとつ見えなくなっていた。
じゅう、と何かが焼ける美味しそうな匂いがして、くんくんと鼻を動かす。
この甘い匂いは、ホットケーキかな。
綺麗になって乾いた身体にほっとして、リビングでぼんやりしていると「おはよう」とキッチンにいるユキがくすりとはにかんでいた。
「よく眠れた?」
「…ん、うん…」
「そう、それはよかった」
ユキはあくまでも、眠れたかどうかの確認だけをして、粗相をしたことについては触れなかった。嫌なことを思い出さないように努めてくれているんだとわかって、じんわりと心が温かくなる。
「…ユキ、ありがとう」
「ん?」
「ありがとう、ね…」
「うん」
朝に流す涙が、こんなに温かいのは久しぶりだった。ユキが心配するってわかっているのに、とめどなくあふれるものを、堪えることができなかった。
大人げなく泣いてしまったオレを見て、困ったような顔をしたユキが近寄って優しく撫でてくれる。
本当はずっと、こんなふうに慰めて欲しかったんだ。しんどいね、つらかったねって、して欲しかったんだ。
毎日目覚めるのが怖くなるほどの日々を過ごしていた数週間、今日はじめて、粗相をしても自分で惨めに片付けなくてもいい朝を迎えた。