たいふ・やにょう千side
「モモ、段差あるよ。気をつけて」
「オッケー!ありがとぉ」
ひょこひょこと派手なメッシュの黒髪を揺らしながら、うんしょと可愛らしい声を漏らす。
少し前を歩いて、手助けするように腰あたりの布を掴んで軽く引っ張り上げると、タイミングよく身体を浮かせて段差を乗り越えた。
数日前、モモが番組企画の収録中に怪我をしたと連絡があった。
芸人やアイドルといった芸能人が主体の、対決形式のスポーツ系特番だ。普段関われないような有名選手なんかもゲストで出ていたらしく「腕試しができる!」とか言って、自身の出演が決まったときから嬉しそうにしていた記憶があった。
そんな現場での、怪我。
どんな怪我で、どんな様子かを聞き返すこともせずに、すぐさま電話を切って慌てて病院に向かった。
タクシーから降りて脇目も振らずに言われた場所へ急ぐと、待合室の長椅子に腰掛けたモモが、呑気にへらりと笑ってこちらに手を振っていた。
あんまり深刻じゃなさそうな顔のわりに、遠慮がちに投げ出された脚には大袈裟なほどの包帯が見え、そのコントラストにすっと頭の血が沸き立つのがわかった。
息を荒げながら現れた僕に「ごめんね、へましちゃってさ!」と歯を見せるモモにいてもたってもいられず口を開いた。
そこからは自分でもあまり記憶がない。
モモに、何かを言ったような気もするし、言われたような気もする。
歩きにくそうなモモに手を貸しながら病院を出て、マネージャーの運転する社用車で帰る途中。驚くほど静かな車内で盗み見たモモの横顔が不安げに揺れていたことだけ、異様なほど鮮明に覚えていた。
それから、しばらくの間松葉杖で生活するようになったモモの世話をやいた。移動の多いロケにはスケジュールが許す限り僕が代わりに出たし、歌番組もできるだけダンスパフォーマンスの少ない曲を選ぶようにした。
作曲もツアーもひと段落ついている時期でよかった、と心底思った。
モモは自分のせいで活動が制限されたり、僕の手を煩わせることを極端に避けようとする。
その上、彼の人生を左右する原因になった脚の怪我というものには、トラウマもあるかもしれない。
過去に心的要因で歌声が出なくなったこともある以上、普段気丈に振る舞っていても、僕が気付いていないところで心を傷めているかもしれない。
だから過保護とも取れるくらい、つい気を掛けしまっていた。自分でできることは頑張らせて、できないところは彼が申し訳なく思う隙を与えない程度に手を貸す。
自分の行動は、間違えてはいなかったように思う。
けれど。
事務所に戻る薄暗い車内、スマホの青白い光を反射させているモモの頬を撫でてやる。
さすがに毎日見ているせいで、見た目の微細な変化には疎いけれど、触れば明らかな違いを感じてしまう。
「すこし寝たら?着いたら起こしてあげるから」
「ん?ううん、これ返しちゃいたいからさ。ユキこそもうおねむなんじゃない?」
いたずらっ子のように笑って歯を覗かせた顔には、いつもより疲労感が滲んでいた。細められた目の下には、コンシーラーで隠しきれなかったくまが見える。
頬のまるみが、前よりもなだらかだ。役作りで減量をしている話は聞いていないから、それならば。
また何か、僕に言えないものを隠しているんじゃないか。一人で抱えきれないほど大きくて重たい、なにかを。
そうやって闇雲になにかを思案してしまう程、隣に座るモモが憔悴しているような気がして、えもいわれぬ焦燥感に胸がちりちりと焼けるようだった。
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百side
「ぅ、え〜〜、どうしよ……」
バスタオルやらなんやら、とにかく水気を吸ってくれそうなものを寝室に運んでベッドに投げ入れた。
手を着くと水溜まりが浮かぶほどぐしょぐしょに濡れている部分に、バスタオルを当てて水気を取る。半ばやけくそになって叩いている間にも、マネージャーと約束していた時間はすぐそこに迫っていた。
「いたっ、うぅ〜……」
焦ったせいで勢い余って床に着いた足に激痛がはしる。嫌気を感じながらも包帯を巻いているほうを庇って、部屋を移動する為に片足で飛び跳ねた。このときばかりは多少無茶のできる運動神経に感謝しつつ、朝の忙しい時間に一体なにをやっているんだ、と理不尽な状況に苛立ちを覚えてしまった。
あんまり時間をかけていると、心配したマネージャーがうちまで突撃してくることが多かったから、それはまずいと思ってびしょ濡れのベッドは一旦放置、自分の支度に取り掛かった。
濡れたベッドで寝ていた自分ももちろん濡れていて、1番被害の大きい下半身に目をやると、スウェットだけでなく下着までもが余すところなく色を変えて張り付いていた。疑いたくなるような悲惨な状況が洗面台の大きな鏡に映し出された途端、これが紛れもなく事実なんだと思い知らされる。
気持ちのいいはずの朝に、なぜこんな思いをしなければならないのかと思うと、あまりに自分が惨めに感じて鼻の奥がつんと痛くなった。
汚れたものは洗濯機に任せて、さっとシャワーを浴びて気持ちを切り替えることにした。
大丈夫、うっかり、たまたまでしょ。
昨日トイレ行かずに寝たのが悪いんだ、今日はちゃんとお腹空っぽにしてから寝るし、大丈夫。と沈んだ気持ちを誤魔化すように頬を軽く叩いて、玄関に立てていた松葉杖を手に取っていそいそと家を出た。
今朝の一件でお気に入りのマットレスがダメになったから、客用の布団を床に敷いて寝ることになったのは不本意だった。
いや、ダメになったのかどうかはわからない。
きっと汚したマットレスだって綺麗にすればまた使えるんだろうけど、一日中の収録やら撮影やらで疲れきった身体でそれを処理する労力すら惜しかったから、お金で解決してしまおうと早々に諦めた。
一抹の不安はある。一度起こったことは二度目だって考えられるし、また布団を汚してそれを片付けるのだって貴重な朝の時間が削られるのはもう嫌だった。
寝る前、水分は控えて何回かトイレに行った。
身体の中をカラカラにした状態だったら、流石にもうやらかさないだろうと思って。
慣れない布団で、寝返りを打つ。
物心ついた頃からベッドで寝ていたから、布団特有の床の硬さを感じて、寝にくいような気がする。枕だけいつも使ってるものを持ってきて、そこに顔を擦り付けた。
客用とはいえ、いいやつ買ったから寝心地は悪くないんだけどね。自分の家なのに、なんだか落ち着かない気持ちをなだめて、毛布を被った。
何事もなく、いつも通りに朝を迎えられますように。枕元にアラーム設定したスマホを置いてから、祈るように瞼を閉じた。
ぐじゅ、とぬかるみに身体が沈むような感覚がして、夜中に目が覚めた。
覚醒しきらない頭で、なにが起こったのか理解しようとペタペタと辺りを触ってから、おもむろにお尻の下に手を差し込んだ。
まだほのかに温かいような液体に指が触れて、思わず全身が凍りつく。
ほんのすこし身じろぐだけで、寝室に似つかわしくない水音が鳴る。恐る恐る腰から上へ手を滑らせると背中の手前部分まで広く濡れ、体重で沈み込んだ布団には生ぬるい液体が溜まっていた。
状況が把握できたとて、頭が冴えるまでしばらく動けなかった。温かかったものがだんだん冷えてくると、嫌でも冷静な気持ちにさせられた。空気に面しているところから少しずつ体温が奪われて、お尻の辺りがスースーするから余計に悲しかった。
二度あることは三度ある、みたいに言うけれど、こんなもの、一体どう気を付ければいいんだろう。寝返りなんかと一緒で、意識のないうちに勝手にしてしまっているものはどうすることもできないじゃんか。
前までは、難なくこなせていたはずだ。自分の身体のことなのに、上手にコントロールする方法が、わからない。
考えれば考えるほど体がちくちくと針で刺されたように痺れて、重たい痛みがお腹の底に溜まっていった。
なんでとか、どうして、と嘆いていても、この状況を解決して慰めてくれる人も、優しい親なんかここにはいなくて。
真夜中の静けさと暗闇が、ひたすらに孤独感を増長させていく。
こうしている間にも、当たり前のように朝がやってくるんだから、途方に暮れている暇なんかないんだけれど。
どうしよう。身体が動かない。
こんなことで泣いてしまうなんて、なんにもできない子供のようでひどく惨めで、絶対に嫌だった。
ひとりぼっちの寝室、ぼやけた視界を払うように目をつむり、ぐっと唇を噛んで涙を堪えていた。
あれから数日間、ほとんど毎日のようにこの生活が続いた。夜中に粗相をして起きる。片付けをしている間に夜が明けて、そのまま仕事に向かう。
ただでさえ貴重な睡眠時間が、汚れたものを処理するのに充てられるせいで日中もずっと睡魔に襲われていた。
寝ている間に漏らしても被害を最小限にするために、早い段階から諦めてもう床で寝ることにしてしまった。幸い、寝にくさはあっても枕があれば基本どこでも寝られる性分だし、キャンプでもロケでも寝心地が悪いところなんか今までざらにあったんだし平気でしょ、と自分に言い聞かせた。
掛け布団と毛布にくるまっていれば温かいし、床暖もあるから十分だ。毛布類は洗えばすぐ綺麗になるし、汚してもストレスが少ないと結論に至った。
それに、マットレスも布団も予備も汚してしまったから、業者に頼んで全部捨ててしまった。家に寝具がほとんどなくて、寝室がさみしくなっちゃって、ほんとうに惨めで笑ってしまった。
だって、使っても汚して、片付けに時間割いてたら寝る意味ないじゃん。結局新しいものを買い足す気力もなくて、フレームだけが物悲しく残るベッドはだんだん物置きと化していった。
夜中にアラームをセットして、その都度トイレに行く作戦を取ったこともあった。結果、2回くらい起きてトイレに行けば床を濡らすことはなかったものの、普段の不規則な生活に合わせてアラームをセットし直すのも面倒だし、本来なら寝られる時間に2回も起きてなんかいると、日中が眠くてやっていられなかった。
だから、もう全部諦めて床で寝ることにした。
もう嫌だった、普通に寝かせてほしくて、なんにも考えたくなくて。毎日怯えながら毛布に包まった。
寝心地がわるいせいで、嫌な夢も見る。脚もときおり酷い痛みで魘されて、そのたびに昔のことを思い出して吐き気に襲われた。
オレ、なにか悪いことしたのかな。
どうすれば解決するのか、わからない。
いろんな人に公言しているくらい、家事も片付けも苦手だし、掃除だって洗濯だってしなくてもいいのなら本当はやりたくない。
それなのに、毎日毎日寝起きの体を叱咤して、絶望するくらいびしょ濡れになった床を拭いて、毛布を洗って乾かして。
馬鹿みたい。
一日中仕事をして、疲れきった体で帰ってくるんだから、何も考えずにふかふかのベッドで朝までぐっすり眠りたかった。何事もなく乾いたベッドで目が覚めて、そのまま身支度をして出かけていた生活が、遠い記憶のように感じてしまうくらいに。
前まで普通にできていたことが、できなくなってしまった。
きっかけは、なんとなく自分でも分かっていた。
この前の脚の怪我。
痛みと同時、瞬間的に新緑のグラウンドがフラッシュバックしたのを、必死に気付かないふりをした。どこまでも広がる青空を見る暇もなく、地面を転がった感触が、どうしようもなくあの時と同じだったから。
大袈裟なほどスタッフや関係者に囲まれて、心配されて、取り繕っているうちに過去のトラウマのことなんかすっかり忘れてしまっていたけれど、結果的にここまで引きずることになるとは思っていなかった。
オレはまだ、あの日の延長線に立っているんだって、嫌でも自覚した。
夢の中にもあの時の光景が出てくるんだ。
いやな夢を見て、寝小便をするなんて、子供みたいで、馬鹿みたいで。
そんなことでダメージ受けてたら、この世界やっていけないだろ!って、自嘲をしてみても。
朝、後始末を終えてようやく身体が綺麗になる頃には得体の知れない疲れが押し寄せていて、そのまま出かけて仕事をするのが億劫になるくらい、この生活には疲弊させられていた。
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びく、と身体が震えて弾かれたようにその場に立ち上がる。
慌ててお尻に手を当てると、そこが温かく乾いているのがわかってほっと息をついた。
「急に起き上がって、どうしたの」
そうだ、楽屋だった。
台本でも読んでおこうと椅子に腰掛けたまま、うとうとと降りてきた瞼に抗えずに半ば気を失うように眠ってしまっていた。
見慣れたユキの姿が視界に入って夢と現実の境目に気がつくと、逆立った全身の毛が下りてくるのを感じた。
「寝ちゃってた!」
「……睡眠時間、足りてないんじゃないの」
ユキは怪訝そうな顔をしながらもオレの肩を優しく撫でてくれる。さしずめ、また夜遊びをして睡眠時間を削っているんじゃないかと疑っているような表情だった。
本当は、そんなんじゃないけど。
今だって、本当は寝るつもりなんてなかった。
うっかりうたた寝をして、自分の家でもない外で、ましてやユキの前で眠って、もし。
もし、そこで粗相をしてしまったら、本当に立ち直れないかもしれない。今までなんとか持ち堪えていた心がぽっきりと折れて、惨めったらしく泣いてしまいそうで、それだけは絶対に避けたかった。
「寝ててもよかったのに。次の予定まで時間あるよ」
「ううん、台本まだ読めてなかったから…」
「そう、起こしてあげるのに」
「ありがと!心配かけてごめんね」
スケジュールの隙間に仮眠を取ることなんて日常茶飯事だったから、頑なに眠ろうとしないオレに疑問を持ったのか、ユキは首を傾げながらも「えらいね」とオレの頭を撫でてくれた。
本当は、眠くて眠くて、たまらなかった。
オレ、最近夜にちゃんと眠れてなくて、結構しんどいんだよね。
そうやって素直に言えたら、治ることはなくても少しくらいは気持ちが楽になったかもしれない。
けれど、子どもみたいに毎日おねしょしちゃうなんて、口が裂けても言えなかった。
もう立派な大人なのに、そんなの引かれるだろうし、嫌がられるかもしれないし。
ユキは優しいから、そんなことでオレを嫌いになんかならないんだろうなって分かってるけれど、ただでさえ足を怪我して迷惑かけてるのにこれ以上の心配なんかかけたくなかった。
ゆったりと頭を撫でてくれたのが優しくて、毎日頑張ってえらいねって、褒めてもらえたような気がして。
知らないうちにズタズタになっていた心に、その優しさが痛いほど沁みて、うっかり涙がこぼれそうになるのを必死に堪えていた。
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千side
「モモ、今日の夜うち来なよ」
「ん?どうしたの」
「お肉貰ったんだ、高そうなやつ。焼いてあげるから食べにおいで」
お肉と聞くと、ぱっと笑顔を咲かせて「いくいく!絶対いく!」っていつもなら答えるだろうモモが、神妙な面持ちで「うーん、今日はやめとこうかな」なんて僕の誘いを断った。
「行きたい気持ちは山々なんだけど、家でやることあるんだよね」
「今日やらなきゃいけないの?なに、片付け?」
また部屋でも散らかしているんだろうか。足を怪我してから不自由な生活をしているはずだから、掃除がままならないのも無理はない。
家事の分野なら、不器用なモモが一人でやるより僕も行って手伝ったほうが早く終わる。
モモはいつも他のことに気を取られて、片付け始める前より汚くしてしまう天才なんだから、正直一人でやらせたくないくらいなんだけれど。
「まぁ、そんなところ!だから今日は忙しいんだよね〜」
「ならモモんちでお肉焼く?用事もできるし、僕がご飯用意したらその分時間も浮くでしょ」
名案、とばかりに手を打ったのに、浮かない顔をして視線を泳がせるモモにもやもやとした気持ちが募っていく。
実はこのところ、モモは僕の誘いを断ってばかりだった。
足が悪いから、迷惑をかけるから、とモモがうちに来るのも僕がモモの家に行くのも嫌がった。外食しようにも、こんな姿をファンの子に見せて心配させたくないとかなんとかで、食事をする機会すら楽屋くらいでしかろくに取れなかった。
なにかまた隠し事をしているんじゃないかと問い詰めても「たまたま用事が重なっちゃってるだけだよ!」と笑ってはぐらかされる。
いやそんなわけないだろ、とさすがの僕でも長年の勘で分かってしまうんだけれど。
メイクで隠せてると思っているであろう顔色の悪さを見ると、モモから言ってくれるのを待った方がいい事案だろうなと二の足を踏んでいた。
時が来れば、いずれ限界になって泣きついてくる。家事だけでなく、自分のことに対してもずぼらなところがあるから、僕の手を借りた方がうまくいくと気付くまで時間がかかることもままあったし。
なんでも自分で解決したがるモモにとっては、段階を踏まないと打ち明けてくれないこともあると最近分かってきたからこそ、今回もまだ待ちのフェーズかなと思っていた。
けれど。
いっこうに訳を言いたがらない。
日に日に深く刻まれていくくまに、時折ふっと気絶するように眠ってしまうのが少し病的だと感じるくらいになった。収録中もぼんやりと目の焦点が合わなくなることがあって、僕との会話も内容を飛ばす場面がいくつかあった。
足を庇って生活しているから、そのせいで疲労が現れているのかとも思ったけれど。
何らかの理由で確実に、モモが十分に眠れていないのは明らかだった。
原因が何なのかは分からない。遊び歩いて寝不足になっているのならお小言のひとつやふたつ言ってやらないとと思っていたがそうではなく、重要な会食でなければ足を理由に断ったりするらしいというのもモモの遊び仲間から聞いている。
疲労で眠りが浅かったり、夢見が悪かったりすると、人肌を求めて僕の家に泊まりに来ることもあったけど、今回はそれもない。
なんだろう、なにがモモに悪さをしているんだろう。モモの口から悩み事が打ち明けられない限り、強行突破にでも出ないと八方塞がりのままだった。
おかりんの運転する送迎車の中で、モモが眠ってしまったのをいいことにそのまま僕の家まで向かってくれと頼んだ。
「いいんですか、千くん」
「ん?ああ、おかりんも気になってたでしょ」
バックミラーをちらりと見遣り、メガネ越しに瞳を揺らすおかりんと目が合った。
「ええと、そう……ですね」
隣で気絶したかのようにぐったりしているモモも、先程まで寝ないようにスマホを見たり台本を見たりして必死に睡魔から抗っていた。抵抗虚しく寝落ちた彼の、画面がついたままのスマホの電源を落としてやり、そっと預かった。
「夜中眠れないんだったら、添い寝でもしてみるよ」
「……喧嘩しない程度にお願いしますね」
「うん、もちろん」
モモを揺すり起こすと、パッと覚醒して大袈裟なほどに身体を跳ねさせる。ごんっとドアに頭を打ち付けた鈍い音がして、もう少し優しく起こしてやればと後悔した。
「そんな驚かなくても。僕たちしかいないし、別に寝てたっていいんだから」
「ん、ぅん…」
まだ寝ぼけているのか、歯切れの悪い返事をしながら必死に自らの太ももや座席に手を這わすから、なにか探しているのかと思って「スマホなら持ったから、降りるよ」と声をかけて逆側の扉へと回った。
「じゃあ、また明日」
と運転席のおかりんに手を振ると、遠慮がちに笑顔を見せてから遠ざかっていった。
車のエンジン音がして、うとうとしていたモモが「ぇ、」と小さな声を漏らして目を見開いた。
ようやく目覚めたのか、辺りを見渡して、自分の家のエントランスでないと気がついた途端、あわあわと焦りだした。
「ちょ、え、なんで?」
「明日午前オフでしょ、僕んちでゆっくり映画でも見ながらお肉食べようよ」
前に言ってたでしょ、さすがにそろそろ悪くなっちゃうよ。と肩を叩くと、眉を下げて不安そうな顔をする。この世の終わりのような、そんな絶望感すら漂う表情に、僕の家に連れてこられたのがお肉の為だけでないと薄々悟っているようなようすだった。
前から気になっていた映画を一緒に見て、お肉を食べさせて、モモは断ったけれどとっておきのボトルを開ければ半ば諦めたような顔をして素直にグラスを受け取った。
お腹いっぱい、満足!と笑って言った頃には不安そうな表情もすっかり抜けていて、このまま風呂に入って眠れば任務完了だと一段落した矢先だった。
「じゃあ、オレ帰るね」
今日はありがと!と荷物をまとめて、足を引きずりながら部屋から出て行こうとするからいやいや待て待てと慌てて引き止めた。
「泊まっていけ、もう遅いよ」
「いやいや、悪いよ〜!こんな至れり尽くせりしてもらっちゃって、オレのこと心配してくれてたんでしょ?」
「お前、それ本気で言ってるのか?」
「はにゃ?何を?」
にこっと笑ってとぼける顔に、段々と苛立ちが増してくる。寝不足で顔色が悪いのを自分でも隠しきれていないことくらいとっくに分かっているはずなのに、頑なに僕の前で眠ろうとしないのはそこを突かれたくないからだ。
頭に思い浮かぶのは、不眠やらの睡眠に関するトラブルばかりだ。
「第一どうやって帰るの、車ないよ」
「タクシー呼ぶからさぁ、心配しないでよ」
「…心配、するだろ」
僕の声が力を無くしたことに、モモは狼狽えて振り返った。僕が泣いているとでも思ったのだろうか。
泣きそうな顔してるのはそっちのくせに、ここまで頑なに頼ろうとしないのは、何が悪さをしているのだろうか。
僕に言えない、何かが。
衝動的に玄関に置いてある松葉杖を取って、リビングまで持ってくる。これがないと、あの子は今1人では帰れない。
困ったような顔をして、首を傾げているモモにバスタオルを渡して「添い寝してあげるから、入っておいで」と風呂場まで連れて行った。
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百side
どうしよう、と思った。
ぱたんと閉められた脱衣所の扉を見つめて、しばらく動けなかった。
いま考えうる最悪の状況が目の前にあって、回避するのに思いっきり失敗した。このままでは泥んこの水溜まりにみっともなく頭から着地することは目に見えていて、ぎゅっと手のひらを強く握った。
床で眠っているおかげで、当たり前のように毎日寝不足だし、今日はお酒も入ってる。久しぶりのふかふかなベッドに入れば深い眠りに落ちてしまうのは確実だった。
おねしょは連日、連敗中。
今日だって絶対にやらかしてしまうに決まっている。
ユキのベッドで、粗相を。
考えただけで、せっかく美味しく食べた胃の中のものがひっくり返りそうだった。
無理だよ。ユキの隣で、埃ひとつないユキのベッドを排泄物で汚すなんてこと、絶対にあってはならない。
白くて綺麗なユキの隣に、毎日毛布を汚してしまうような醜い自分の体を横たえることすら憚れてしまう。自己嫌悪でひたすらに荒みきり、癒える暇もない心の傷がじわりと痛かった。
どうしよう、どうすれば。
言えない、こんなこと。大人なのにおねしょが治らなくて眠るのが怖いだなんて、恥ずかしくてみっともないことを、言えるわけがなかった。
ぼやけ出す視界を誤魔化すように、強く擦ってから、洗面台の鏡に写った自分の姿をみる。
「………はは、」
テレビに映る、雑誌に印刷される、街中のポスター、ライブの映像。鏡以外にも自分をうつす媒体が沢山あって、何度も存在意義を確認するように見てきた自分の姿。
今日の自分だって写真に撮られて、いずれ世に公開される日を心待ちにしてくれているファンだっているのに。
何故か、今まででいちばんぼろぼろに見えた。
ひどい顔、目の下も窪んで、浮浪者みたい。
何にも気にせずに眠りたいな。
ふわふわなものに包まれて、全部忘れて眠ってしまいたい。
長い間、もうずっとちゃんと眠れてなかった。
ユキが添い寝してくれるんだって。
とんとん、お腹をたたいて子ども扱いしてくれて、すっごく恥ずかしいけれど、なんだか子供の頃に戻ったような心地がして。
風邪をひいたときなんかにしてもらうと、よく眠れるんだ。
なんて、そんなこと。夢みたいな話。
絶望感に打ちひしがれる思いで、シャワーを浴びた。いまから訪れる残酷な夜に、オレは耐えなきゃいけない。
はは、アラームかけてもいいかな。ユキが起きない程度に、小さく音量絞るから。
それだと、オレ起きれないかもな。起きれなかったら、たいへんだ。
風呂上がりで柔らかくなったはずの筋肉が、寝室に向けて一歩踏み出すたび、がちがちに固まっていく。
重たい脚をなんとか叱咤して、目の前の白いベッドに腰をかける。必死に平常心を装って、両脚を毛布の中に滑り込ませると、いつになくふわふわで温かくて。移動させた重心に合わせてふんわりとバウンドする久しぶりの感覚に、体は素直に喜んだ。
「おいで」
パジャマ姿のユキに促されるまま、キングサイズのベッドに背中を預ける。
ユキが撫でてくれるのを抵抗せずに受け入れる。頭から、首筋、肩にかけてゆっくりと。
ああ、すぐに寝ちゃいそう。
お揃いのパジャマも、ふわふわのベッドも、優しく撫でてくれるのも、気持ちがいい。
瞼を落とすと、すぐに睡魔がやってきて、意識が薄れる。
寝る前にトイレは済ませたし、アラームかけたから、大丈夫。濡らす前に起きられますように。ユキに、バレませんように。
また、祈りながら眠った。お願い事をしながら眠るの、癖になっちゃったかな。
夜中に3回起きたあと、陽が登り始めてからは眠らずに起きていた。
朝起こすのに苦労こそすれど、枕元のアラームに気づかないユキの体質に感謝したのは初めてのことだった。
濡れてない、2人分の体温であたたかく乾いた布団をぺたぺた触るのも何回目だろう。もう朝だよ、大丈夫。安心すると、じんわりとお腹の奥が温かくなるのを感じた。
久しぶりのベッドだったのに、床で寝るより眠りが浅くて思わず苦笑してしまった。心配してくれるのは嬉しいし、迷惑かけてごめんねって申し訳なくなるけど、添い寝だけでは解決しない厄介なものを抱えているオレの方がなんだかやるせない気持ちになってしまった。
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千side
モモを無理やりうちに泊まらせた。
強引な方法だったかもしれないけれど、添い寝でもすればモモは寝てくれると思った。
案の定、疲れていたのかベッドに入ってからすんなりと眠りについたけれど、その代わりに僕よりもずいぶん早くに目覚めていたようだった。
不眠、ではないのだろうか。単に眠りが浅いのか、それとも。眠ることに何らかの問題を抱えていることは分かっているのに、はっきりとした原因が見えてこなかった。
それでも、少しすっきりした顔で朝ご飯を食べている様子を見ると、これは時間がかかるけれど添い寝を続けたら良くなるだろうと踏んで、何度かうちに泊まらせることにした。
誘う度に抵抗をみせて断ろうとするけれど、その根拠をなかなか言えないモモに対して僕が引き下がらないのを見て、しばらくすると観念したかのように大人しく着いてくるようになった。
すべてのスケジュールを終えた僕は、マネージャーの運転する社用車で違う局にいたモモを拾って今日も僕の家に向かっていた。
今夜は晩飯の用意も粗方済ませてきている。具材は煮込んであるから、火を入れて温め直すだけ。すこしでも身体をあたたかくして、モモには眠りやすい環境を整えてやりたかった。
さっきまでたわいのない会話をして、僕の隣でスマホを触っていたモモが、いつの間にか大人しくなっている。車の振動に合わせてこく、こく、と揺れる頭に肩を貸してやろうと近付いた瞬間、耳慣れない音がして思わず固まってしまった。
ぴちゃ、となにかを弾くような水の音がしたから窓の外を見るけど、ワイパーが動いた様子もないし、雨粒が当たった痕跡もない。
それでも、か細い水流がぶつかるような音は続いていて、出どころのわからないそれを不思議に思って辺りを見回した。
「……ぅ、」
ちいさく呻いたモモの声に一瞬、吐いた?と思って隣のモモを見遣るけれど、そんな様子はない。どこからかはわからない、それでも僅かながら聞こえる水の音は止む気配がなく、確かに僕の耳に届いていた。
モモが身じろぎをした拍子に、膝の上からスマホが転がり落ちるのを目で追いかける。
びしゃりと予想していなかったような落下音がして、まさかと思って座面に手を這わすと、ぬるい液体で濡れているような手触りだった。
「……モモ?」
慌ててスマホを拾いあげてから、漂う異様な空気に僕も動揺してしまって、咄嗟に伸ばした手でモモを揺すり起こしてしまった。
ぱ、と髪が跳ねるほど勢いよく顔が上がり、同時にひゅっと息をのむような音がする。
乱れた前髪の奥、不自然なほどに驚いて目を見開いているモモは取り繕う素振りもなく、鼓動の全てまで止めてしまったかのように、微動だにしなかった。
普通ではない様子に何事かと思ってモモの身体に触れると、殆ど反射のようにぱしんと僕の手をはたいてから、酷く傷ついたような表情で呆然と自分の手を眺めていた。
車内が暗くてよく見えないけれど、こんな僕でもおおよそ、いま何が起こっているのかくらいは察しがついた。
飲み物を溢したわけでも、吐き戻した素振りもなかったのだから、雨も降っていない今日、座席が濡れる理由なんか多分ひとつくらいしかない。
ただ、どうしてという感情の方が強くて、咄嗟に言葉が出てこなかった。
手のひらで触れて確かめなくとも、当の本人には痛いほどに不快な感触がしているのだろう。車内が揺れると重心が傾いて、そのたびに座席のクッションが撓んで水っぽい音が鳴る。
そのひとつひとつが耐えられないといった様子で次第に丸くなる背中で、いつの間にかモモの表情は見えなくなっていた。
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百side
ぎゅ、と固く目をつむる。
嘘だ。夢だ。普通に生きている中で、こんな現実が、屈辱が、なんの前触れもなく起こっていいはずがない。
下を向いているせいで、顔じゅうの水分が重力に従って流れ落ちるような感覚がする。
このまま逆流した水に溺れて、息ができなくなってしまえれば。いなくなってしまえればどれほど良かったのだろう。
頬をつねるよりも明確な現実が、鼻詰まりと一緒に押し寄せて、息が吸えなくなった。
横隔膜が震えるたびに、勝手に短い呼吸を繰り返しているのが苦しくて仕方がなかった。
涙なんか溢れてこないのに、泣いているときみたいな息しかできない。
さっきまで出来ていたはずの正常な呼吸の方法が、急に分からなくなってしまった。
いつもならくるくるとよく回る頭の回路の中にも、濁った水が逆流してくるような感覚で、身動きが取れなかった。
ひと言ふた言、項垂れた頭の上で2人が話している内容が、理解できないままに耳から抜けていく。
いっそのこと、こっぴどく叱りつけてくれたらきっぱりと諦めがつくかもしれない。笑って揶揄われたら、同じように笑って言い訳でもして誤魔化せたかもしれない。
それでも、ここにいる2人は少なくとも、人の失敗を笑わないような心の優しい人たちだとオレは知っていた。
深く刻まれた傷口には、その優しさがどうしようもなく痛かった。
ゆっくりと旋回したのちに、どこかで停められた車内から人の気配が無くなる。扉が閉まると、途端に静寂と孤独感に苛まれ、その代わりに鋭くなった五感は下半身からの不快感を嫌というほどに拾いあげていた。
脚から伝ったものが靴の中まで浸透してるし、座席なんかは目視しなくとも水浸しで、もうきっとこれは使い物にならない。
毎日使う社用車なのに、こんな形でだめにしてしまうなんて思ってなかった。眠っている間のことだから不可抗力だなんて、被害者ぶって嘆いたって誰も理解してくれない。
必死に隠してきたこの数日が、泡のように消え去っていく。
もう、何の為の努力だったかすら思い出せない。結局、いちばん最悪な形でバレてしまうんだったら、いっそのこと最初からヘラヘラと笑って打ち明けていればよかった。
もう遅い。次に扉が開いたら必死に謝って、クリーニング業者でも探して貰おうなんて、くだらないことを考えていたのに。
かちゃりとロックが外れて、瞼の裏側が明るんで外気が鼻を掠めても、重たい頭を上げる勇気なんかとうの昔にへし折れて、身動きが取れなかった。
「モモ、大丈夫だからね。ここで着替えちゃおうか」
優しい声が扉の外から聞こえたかと思うと、冷たくなって体温が奪われるばかりになっていたびしょ濡れの脚に、ふわりと白いタオルが掛けられた。
柔軟剤の匂いと、その柔らかさに覚えを感じて、反射的にそのタオルを握って拒絶してしまった。
「……ぁ、ご、……っ、」
ごめんなさい。
頭の中では、そう言葉を紡いだつもりだった。それでも発せられた声は、意思に反して収縮する喉に押し潰されて、汚い呻き声にしかならなかった。
ユキの家にお泊まりをするたびに、貸してくれるふわふわのタオルが、手のひらの中でくしゃりと皺になる。
困ったような顔をしたユキが「しんどい?身体冷えちゃったね」と新しいものを取り出しては濡れた部分を拭ってくれるたびに、真っ白なタオルに汚れが広がった。
必死に首を振って嫌だと言っているのに、ユキは手を止めなかった。
長くてかっこいい指が、手のひらが、綺麗に洗濯されたバスタオルが、自分のせいで汚れてしまうのが、耐えられない。
「……じ、自分で、やる」
「ん?いいよ。体調良くなかったんでしょ?」
「できる、から」
「大丈夫だよ、心配しなくても」
「……な、なれ、慣れてる、から」
「え……?」
「きたな、から、おれ、」
汚いから触らないで、って言いたかったのに、そんな言葉すらうまく出てこなくて。それでも口角を上げて精一杯の平気を見せれば離してくれると思ったのに。
ユキの顔を見上げた瞬間、熱いものが頬を伝う感覚がした。
悔しくて、恥ずかしくて、こんなことで泣いてしまうなんて自分が情けなくて、いろんな感情で押しつぶされた心臓の傷口から滲み出したものがとめどなく溢れていくようだった。今まで、ひとりで流したってどうしようもなかった涙が、目の前の大事な人を困らせているのを見て、心の中で泣き叫んでいた幼い自分が満たされていくようだった。
「汚くなんかないよ、大丈夫。帰ったらすぐお風呂入ろうか」
ろくな謝罪もなしに泣くことしかできないオレに、それでも優しい言葉をかけてくれる罪悪感で、また新たな涙を生んでしまう。
嗚咽と一緒にほとんど泣き声みたいなごめんなさいしか出てこないのがみっともないと思ったけれど、どうにかして今の気持ちを伝えたかった。
小言なんかひとつも漏らさずに、困ったように優しく微笑んですべてを受け止めてくれるユキが、少しずつ身体を綺麗にしてくれた。
座席を倒した車内で小一時間くらい、大泣きしたせいでゆっくりしか動けなくなったオレの着替えを根気よく手伝ってくれて、うまく歩けない身体を支えてユキの家まで連れて帰ってくれた。
自分の部屋と違ってよく掃除されている家に、汚い身体のまま入るのを抵抗していると、さっと足を拭かれて手を引かれるまま、流れるように風呂場まで連れてこられた。
「1人で入れる?途中で寝ない?」
バスタオルやら部屋着やらを用意してくれているユキに、こくんと首を振って答えると「なにかあったらすぐに呼ぶんだよ」と念押しされてから、脱衣所の扉が閉められた。
身体が綺麗になってようやく、安心して息が吸えるようになった。気が抜けたまま風呂から上がるとなんだかいい匂いが部屋に漂っていた。
キッチンからユキの穏やかな顔が見えて「ご飯にしようか」の一言で、これ以上ない優しさを感じて、脆くなった涙腺がまた緩みそうになった。
随分と遅くなってしまったけれど、2人で食卓を囲む。汚いことをさせてしまって嫌じゃなかったかとか、迷惑じゃなかったかとか、たくさん聞きたいことはあったけれど、少しでも口を開くとまた泣いてしまいそうで、できなかった。それでも、粗相をしてしまった理由くらいは話さないと、と勇気を振り絞って切り出したのに「つらいなら無理に話さなくてもいい」と言われてしまえば、何も言えなくなってしまった。
「モモ、これだけひとつ教えて」
「?」
「慣れてる、って言ってたけれど、これが初めてじゃない?」
「……う、ん」
「そっか。ありがとう」
すべて、見透かされているような気がして、なんだか居心地は悪かったけれど、拒絶はされなかったことに僅かながらも安堵を覚えた。
それでも、一緒のベッドで眠るのは怖くて、咄嗟に帰りたいと言ってユキをまた困らせてしまった。
足がすくんで、寝室にすら入れなくなったオレの手をとって、心配そうに顔を覗き込まれる。
「大丈夫だよ、今日たまたまだったんでしょ?いつもはなかったじゃない」
手負いの獣を安心させるような笑みを浮かべるユキに、違うと言って声を荒げたかった。
いつもは気を張っていただけで、本当は違う。身体も心も疲れてしまっている今日はもう、とてもじゃないけど頑張れる気がしなかった。
じゃあ床で、といえどもユキの家だし、かと言って今までのことを打ち明けたとてなんの免罪符になるんだろう。
そんなことを考えているうちに、ぐるぐると目の前が回るような感覚がした。
「モモ?」
「一緒に、寝れない」
「不安?別にいいよ。濡らしたらその時考えるし」
そんなに心配ならタオルでも敷いておく?なんて、呑気な声を出しながら前を歩いてベッドに腰掛けるユキが、とんとんと表面を叩く。
袋小路に、追い込まれた気分だった。
「……トイレ、行ってくる」
「どうぞ。ゆっくりでいいからね」
お腹の中を絞り出すようにしてトイレを済ませてから寝室に戻ると、マットレスに白いものを被せているユキの姿があって、思わず眉間に皺が寄る。あんなの気休め程度にしかならないのは、度重なる経験で嫌というほど知っていた。
いくら吸水性のいい高そうなバスタオルだって、大人のおねしょには敵いっこないのに。
ユキのベッドを汚してしまうのを想像するだけで胃の中が気持ち悪くて、寝室の前でしゃがみ込んでしまった。それに気が付いたユキが駆け寄って、背中を撫でてくれる。
「どうして、こんなになるまで言ってくれなかったの」
「……だってこんな、っ、言えな、い」
小さくなって、震えるしかできないオレの肩を包んで、大きな手のひらでゆっくりと撫でてくれる。
「最近ずっと、こうだったの?」
耳元で囁かれる穏やかな声に、ゆっくりと頷きを返す。
そう、と一言。怒るでも、責め立てるでもなく、ひとりで抱えてきた苦労を思い遣ってくれているような、重みのある一言だった。
「大変だったね」
うん。
汚したくなんか、ないのに。毎日毎日、目が覚めるたびに布団が濡れていて、それがすごく悲しかった。最近はずっと、汚してしまうのが怖くて、まともに眠れなかった。
汚れたマットレスを綺麗にする方法もわからなくて、やけになって捨ててしまった。
だから、ユキの家でベッドに寝転がれるのが、すごく嬉しかったんだよ。
思うだけに留めておきたかったのに、どうやらぽろぽろとそんな言葉が口から溢れてしまっていたようで、目を見開いたユキの顔が見えて、なんだか申し訳ない気持ちになった。
重たい空気を取り繕おうとして「ちが、大丈夫だから!そんな顔しないでよ〜」と冗談っぽくおどけてみても、語尾が震えてしまってますます平気じゃなさそうに見えるだけだった。
「いつから」
「え、わ、わかんな……」
「いつからちゃんと眠れてなかったんだ」
「ゆ、ユキ……」
「……もっとちゃんと、お前のこと見ておけばよかった。こんなに近くにいたのに、気付けなかったなんて」
険しい顔つきで、オレよりも悔しそうにそう零すから、何だか居た堪れなくなって視線を落とす。
ユキは悪くないよ。オレの身体が、ばかになっちゃったのが悪いんだ。ちゃんとコントロール出来ないのが、悪い。困らせるようなことをして、言ってしまった自覚はあったけれど、ここまで来ると、もう隠してばかりではいられなくなってしまった。
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千side
泣いて、取り乱して、振り絞るように打ち明けてくれるのに余程体力を使ったのか、最後まで抵抗していた割にはあっさりと瞼を落としたモモの寝顔を見ながら、明かりを落とした。
おねしょなんて、子供だけの問題だと思っていたからまったく検討もついていなかったけれど、調べてみれば案外誰にでも起こるようなものだと知った。
ストレスが原因だといっても、大きなものから細々としたものまで、この業界にいれば日常茶飯事だ。その上普通の人よりも不規則な生活に、最近の怪我のこともあったし、モモには今まで以上に負担が掛かっていたのかもしれない。
だけれど、それよりも。粗相をしてしまうのを恐れて、眠れていなかったことのほうが僕には重大なことだった。
睡眠を妨害されることほど残酷なことはないとこの身を持って知っているし、僕がそんな立場だったらきっと早々に耐え切れなくなっている。
それにしたって防水のシーツを敷いたり、おむつを穿いたりといくらでも対策できただろうのに、投げやりになって床で寝ることしか考えが及ばなかったのはモモらしいというか。もっと早くに介入してやっていれば、ここまで酷く落ち込まなくて済んだだろうにと、悔やむことばかりだった。
このことで病院にはかかったのだろうか。明らか、もう悪癖なんか通り越して立派な症状として現れているようだから、専門に診てもらった方がいいのは確かだ。治したいのであればそれも勧めるかなどと思いながら、難しいことはまた明日考えようと、静かに目をつむった。
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ひんやりと、冷たいような感覚がして、意識が浮上する。
眠るまで隣にあった温もりが失われているのに気が付いて、寝ぼけながらも身体をゆっくり起こせば、どこかからか鼻を啜るような音が聞こえてはっとする。
カーテンの奥がようやく白んでくるような時間だ。起きるにはまだ早いけれど、珍しくすんなりと覚醒した身体を動かして、布団から這い出した。
ベッドの表面を触る。敷いていたバスタオルが冷たく濡れているような感触があって、呼吸と一緒にふわりと独特な匂いも感じ取れた。誰のものか分かっているし、別に嫌な感情はないけれど、本人にすればそうはいかないだろうなと思いながら、泣き声がする方向に目線を遣った。
寝室のドアの隙間から、向こう側がうっすら明るいのが見える。
脱衣所の電気は点いているけれど、脱ぎ散らかされた衣服だけが洗面台に置いてあって、肝心の本人はトイレに閉じこもっているのか、姿がどこにも見えなかった。
これは、あんまり迂闊に声を掛けるのも悪いかと思って、先にベッドの処理をしてしまおうと寝室に戻った。
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百side
濡れたような感覚で慌てて飛び起きて、ぐらつく頭を混乱させたまま、洗面所で汚れた衣服を脱いでからトイレに駆け込んだ。
お腹に残っていた数滴を便器の中に落としてから、ことの重大さに気が付いて、嫌な汗が背中に伝った。
ベッドで朝までぐっすり眠れたのはよかったけれど、ここは自分の家なんかじゃない。見慣れているけれど、ユキが選んで、ユキが綺麗に整えている空間に、汚いものを持ち込んでしまった罪悪感に打ちひしがれていた。
ベッドがどこまで汚れたのか、確認する余裕もなく寝室を飛び出してきてしまった。寝る前に敷いてくれたバスタオルなんか余裕で貫通して、マットレスまで汚してしまっていたらどうしよう。
自分の家で失敗した時には出てこなかった涙が、簡単に溢れてきてしまう。
あんまり声を出すと、ユキが起きてしまうのは分かっているのに、涙の止め方が分からない。下半身を曝け出したまま、便座に座って流れる涙を一生懸命に両手で拭っていた。
今日の仕事、なんだっただろう。大事な撮影は入ってなかったはずだけど、あんまり擦ると赤くなってしまう。
とめどなく流れる涙を膝に落としても、吸収してくれるものがない。
トイレットペーパーを丸めて、そこに顔を押し当てていると、何やら忙しない足音が聞こえて、びくりと大袈裟なほどに身体が跳ね上がる。
ユキが、起きてる。
惨状をそのままにしてきてしまったわけだから、なんとしてもユキをそれに触れさせるわけにはいかなかった。頭も顔もぐちゃぐちゃになったままトイレから飛び出ると、廊下を歩いていたユキに鉢合わせて思わず心臓が止まるかと思うくらいに驚いてしまった。
「ご、ごめん!おれ……っ」
「ん?いいよ、気にしないで」
「ち、違くて!オレ、自分で片付けるから、その……」
「もう終わったよ」
「え」
パジャマ姿で腰に手を当てたユキが、あともう洗濯回すだけ、と爽やかに口角を上げた。
「は……」
「厚手のタオル敷いててよかったね。ちゃんと綺麗になったよ」
それよりはやく下穿いておいで、と言われて漸く自分が半裸でいたことを思い出して、恥ずかしさで涙も引っ込んでしまった。
「……ユキって、魔法使いなの?」
軽くシャワーを浴びている間に洗濯機が回り始めて、身体を拭いて脱衣所から出てくる頃には、キッチンから軽快な調理音が聞こえていた。
得意な家事仕事において、ユキはなんでもそつなくこなして手際がいいのは知っていたけれど、これほどまでとは思っていなくて、驚きを隠せなかった。
そういえば、同棲時代にも汚れた仕事着をいつも綺麗に洗濯してくれていたなと思い出して、身に染みて感じるありがたさとはこのことだななんてぼんやり思った。
「言ったでしょ、別にどうってことないんだって」
じゅう、と生地が焼けるような音がして、居間にふわりと甘い香りが漂ってくる。今日の予定的に、朝ごはんにしては少し早いような時間だったけれど、2人とも朝の騒動で目が覚めてしまったから、用意をしてくれたんだろう。
それに、きっと傷心のオレを慰めてくれる為のメニューだと分かって、じんわりとお腹の奥が温かくなるような感覚がした。
「モモ、もう泣かないよ」
「ぇ、えへ、……だって」
朝に流す涙が、こんなにも温かいのは久しぶりだった。ユキを心配させるって分かっているのに、とめどなく溢れ出すものを、堪えることが出来なかった。
ひたすらに悩んで、一人で抱え込んできたものが、ようやくふっと軽くなったような気がした。全てを委ねられるようになったわけではないけれど、もうこれ以上変に隠すようなこともないんだ。
二人分のホットケーキを皿に移し終えたユキが、側に寄って優しく撫でてくれる。
本当はずっと、こんな風に慰めて欲しかったんだ。びっくりしたね、つらかったね、って誰かに言って欲しかったんだ。
ありがとう、ユキ。こんなオレでも、受け入れて、側に置いてくれて。
毎日、目覚めるのが怖くなるほどに苦しんでいた日々に漸く、ひとつの区切りをつけることができた。失敗をして、惨めな思いを抱えてひとりで泣いていた過去の自分を、強く抱きしめてあげたかった。