たいふ・やにょう2穏やかな時間が流れていた。
モモの足はだいぶ良くなっていて、もう歩くのに松葉杖はいらなくなった。引きずりながらもちゃんと一人で歩けていて、思ったよりも早い治りに医者も驚いていたところだった。
運動が好きな彼のことだから、本当は動きたくてたまらなかっただろうに、頑張って我慢した報いがあったねと褒めてあげれば嬉しそうにしていた。
夜に一本、ラジオの生放送が入っているけれどそれまで時間があるし、一緒にお昼ご飯でも食べてゆっくりしようかと提案した。
ご飯のあと、ワイドショーをぼんやり見ながら、ソファの上でうつらうつらと船をこぎ始めたモモにブランケットを掛ける。
食べたあとに寝ると豚になっちゃう、と日頃から嘆いているモモだけれど、豚になったって牛になったって、モモはモモなんだから僕は寂しくないよ、と起こさずにそのまま寝かせていることが多かった。
それに、身体の一部に痛いところがあるのは想像以上に体力を使うらしい。片方の足を庇って歩くのだって全身運動だし、いろんな所の筋肉つかうから筋トレになるかも!なんて言っていたけれど。
実のところ、こうやって時間があればどこでも眠ってしまうようになったモモを見るに、だいぶ堪えているのが伺えて叩き起こすなんて可哀想なことはできなかった。
少しのあいだくらいお寝坊キャラはモモに譲ってあげてもいいかな、なんて思いながら僕も食後の睡魔に大きなあくびを垂れた。
「っ、とと」
さっきまで寝ていたモモが急に立ち上がり、そのせいでふらついてよろけるのが視界の端にうつって、慌てて駆け寄る。
寝覚めはだいたい、いつもこうだった。
悪い夢を見ている時もあるし、うたた寝のあいだに粗相をしてしまうのを恐れて、眠りが浅くなると慌てて飛び起きる。無意識のうちに急に立ち上がるものだから、頭がぐらぐらして貧血のようになるから僕としてはそっちの方が心配だった。
「大丈夫、濡れてないよ」
ゆらゆらと揺れる身体をもう一度ソファに押し戻してやると、はふ、と息をついて全身から力を抜いた。
夜尿とのたたかいは一進一退だった。
自暴自棄になって全部捨ててしまったという寝具を新しく買うところから始まって、嫌な記憶が残る毛布も全部買い替えた。
床なんかで寝なくてもいいように吸水シーツも用意して、それでも不安ならとおむつやパッドも提案したけれどそれには少し抵抗感があるようすだった。
ただ、一人で葛藤していたときはそこまで考えが回っていなかったのも事実、毎日汚したら洗濯をするしか方法がないと思っていたモモにとっては思ってもみなかった考えだったようで。幾分か肩の荷が降りたと、不安な表情をすることも減っていった。
人肌が寂しくなって僕の家に呼ぶと、喜んで前みたいに泊まりに来てくれるようになった。別にベッドだってなんだって、モモが濡らして汚しても僕は全く構わない。
気兼ねがなくなった理由を深く詮索をするようなことはしないけれど、ベッドに潜り込んだモモがいつもよりまるいお尻をしているのに気が付いたときには、愛おしさでどうにかなってしまいそうだった。
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「ごみ箱、使っていいからね」
「…は、ぇ、」
びく、と肩を大きく跳ねさせたモモがこちらを振り向いた。シャワーを浴びようとしていたらしい、パジャマから覗く白っぽいそれを、裾をぐいと引っ張りながら隠して目を白黒させている。
タイミング悪かったな、と思いつつ、大事なことだし今言っておかないとと思ってそのまま続けた。蓋付きのごみ箱、洗面台の下にあるものを指差してやると、モモは顔を真っ赤にして歪な笑顔で「…あ、あり、ありがと」と強引に脱衣所の扉を閉めた。
そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに、と思う反面、良くなってきたとはいえまだ調子の悪い日もあるんだなと心配になった。
使用済みのものが僕の家のごみ箱に捨てられているのを見たことがなかったから、まさかとは思ったが毎回律儀に持ち帰っているらしく、思わずため息をついた。外で捨てているのかどう処理しているのかまではわからないけれど、そんなものを持ち歩いてまで僕の家に痕跡を残したくない徹底ぶりに感嘆してしまうくらいだった。
真っ赤な顔のまま、手ぶらで風呂から上がってきて、ぎこちない動作で手を合わせてトーストを齧っている様子が、なんだかいじらしく感じてしまった。
僕がもっと頼って欲しいと近づけば、モモは一歩引いて後ずさる感じがもどかしい。できる世話はやいてあげたいし、愛おしいモモのことは身体の隅々まで知りたいと思ってしまう僕はやっぱり変…だろうか。
添い寝もしてくれるし、手も繋ぐ。間接キスは日常茶飯事だし、このあいだなんか酔っ払った勢いで、ふざけて唇を重ねてしまった。そんな距離感で付き合っていないことを知るとみんなには驚かれるし、僕もちょっとおかしな関係だとは思っているけれど、これが今の僕たちだった。
付き合っていても、付き合っていなくても、この関係が心地よかった。
ほっぺについたいちごジャムをすくって舐める。ぽぽ、とまた赤くなるモモのまるいほっぺをつんとつついて微笑むと「ず、ずるい…」と恨めしそうに睨んでから照れ隠しのようにむしゃむしゃとトーストを頬張っていた。
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あぁ、飲ませすぎた。
翌日が2人揃ってオフだというのもあって、久しぶりの宅飲み。前日から仕込んでいた特製ディナーでモモをおもてなししたあと、モモのお土産のボトルを開けて、美味しくて楽しくて話が弾んでしまって、グラスをぱかぱか空けてしまった。
ビールにワインにエトセトラ。気持ちよく酔っ払ってちまちまピーナッツを頬張っているモモが、リスみたいでかわいかった。
僕も久しぶりにほどよくアルコールが入って気分がいい。トイレに立ったときにふらつく程度には酔っ払っていて、ちょっと飲みすぎたなんて思っているくらいなのに、それ以上飲んだモモはもっとぐでんぐでんになっていて。
僕がお風呂から上がる頃には完全に仕上がって、ソファでくぅくぅと寝息を立ててしまっていた。
「モモ、寝るならベッドだよ」
「……んぇ、ぶ」
ふぅ、とアルコールの匂いをさせて寝返りを打つモモを起こす。重い…。
別にソファで寝てもらっても構わないんだけど、風邪をひかせても困るし、体が痛くなっても可哀想だし、どうにかしてベッドで寝てもらいたいところだった。
「起きて。ベッドいこ」
「んん…」
ほとんど意識のない人間を起こすのに僕では力不足で、ぐいぐい腕を引っ張ってなんとか立たせる。けれど、力の入りきらないモモの脚では体重に耐えきれずに、ものの数秒でぐったりと床に落ちてしまった。
ごん、と鈍い音を立てて頭を打ったモモに「やば」と嫌な汗が流れる。
「…いたぁい」
「ごめんモモ、大丈夫?」
転がったモモは痛そうに頭をさすりながらも、衝撃で目が覚めたのか、ゆっくりと起き上がってのそのそと歩き始めた。
肩を支えながら寝室に入り、ベッドへ下ろしてやるとそのままぽふんと跳ねて、おおきく四肢を投げ出した。
寝ぼけてむにゃむにゃと空気を食べながら、すぐに寝息を立て始めたモモに「怪獣みたいだな…」とくすくす笑ってその隣に腰を下ろした。
大の字で幸せそうに寝転がっているモモを見てから、これ僕の寝るスペースある?と思案する。お世辞にもモモの寝相が良いとは言えないのは同棲時代から知っているし、モモの可愛くて筋肉質で重い脚が襲いかかってくる程度じゃ僕は起きないんだけれど。
まぁ、気分良く寝ているから、このままにしておくか、と毛布をかけてやった。
食器を片付けながら、そういえばモモの夜尿の対策を何もしてないことに気がついてはたと立ち止まる。僕の家に泊まりに来る時は、大っぴらにしてないけれど、たぶんおむつを着けている。
いつもパジャマに着替えるタイミングでポーチのようなものを鞄から取り出していたから、てっきり化粧品類かと思っていたが、洗面所にある僕のを拝借すればいいだけだし実際そうしているのを見たことがあった。
だとすれば、ポーチの正体は。
ソファに乱雑に置かれてる鞄からポーチを取り出して中身を見る。
やっぱり。勘が冴えてるな。
パジャマに着替えるタイミングもなく、トイレにも行かずに寝てしまったモモのことを考えると、可哀想だけれど今日はおむつを着けておいた方が彼の為だ。
ポーチの中からひとつ取り出して、モモの眠る寝室へと足速に向かった。
赤ん坊のようにばんざいして気持ちよさそうに眠るモモが愛おしい。部屋着のスウェットがまだ乾いているのに安堵しつつ、今から寝てる人間を起こさないようにおむつを穿かせるという重大ミッションに緊張感が走っていた。
まるでオペ前の医者の気持ちだ。
まぁでもちまちまやっていたってしょうがないから、大胆にウエストに手をかけてずりずりと引っ張る。意識がないから、お尻を上げてくれるようなこともなくて、なかなか脱げない。足の方を引っ張ってようやくお尻の下を通過すると、派手な柄の下着が見えた。
モモとは同性だから現場での着替えも一緒だし、そもそも同じ家に住んでたし、風呂にも一緒に入るから下着も裸も全部見たことあるんだけれど、一方的に脱がせるのは初めてのことだからなんだか申し訳ない気持ちになった。
でも、翌朝ベッドを汚して落ち込むことになる方が可哀想だ。濡らしてもいいんだよと言ってはいるけど、悲惨な状態を見て悲しむようすを回避できるならここでなんとかしてやりたい気持ちが勝っていた。
「んん、どっちが前だ…?」
おむつ、初めて触る不思議な感触にどきどきする。白くてなんにも目印がないから、どっちが前なのか分からない。唯一小さなテープが貼ってあって、それが目印なのかもしれないと思ったけれど。
パンイチの下半身が寒かったのか、モモが寝返りをうつのが視界の端に見えて、慌てて身体を抑える。
ええい、この際どっちでもいい。と思って手早く下着を抜いて、おむつを脚に通した。
あんまり見てやっては可哀想だし、とぐいぐい引っ張ってようやく臀部が白いもので覆われると、ほっと安堵のため息をついてしまった。お尻の方も大丈夫か?と転がして、申し分なく覆われているのを確認してからスウェットを戻してやった。
まるで父親の気分だ。こんなところで父性を感じるとは思わなかったけれど、こんなのを毎日やってる親は大変だなと思う反面、僕だってモモになら毎日だって毎秒だってしてやっても構わないなと独りごちた。
重大なミッションを達成した僕は、ほどよい疲労感を抱えながらモモの隣に寝転がり、枕元の電気を消して眠りについた。
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ぐす、ぐす、と鼻を啜る音が聞こえて、はっと目が覚めた。
些細な音では滅多に起きない僕だけれど、枕元で啜り泣く声には敏感で、いつも慌てて飛び起きるのが自分でも不思議なくらいだ。
泣いてるのなんてここには僕以外に一人しかいないし、モモは怪我の一件から精神が不安定なのか夜中に一人で抱え込むことがあったから、それが可哀想で寄り添ってやりたい気持ちがあったんだと思う。
寝起きでぼやぼやする目を擦って、隣に手を伸ばす。指先が、丸まった硬い背骨にぶつかったからそのまま手を上に這わせて頭を撫でた。
酔っ払って気持ちよさそうに寝ていたのが嘘のように、身体を丸めて背中を震わせているのが痛々しくて「どうしたの」と体重を移動させる。
「…ぁ、だめ」
近寄ろうとすると、ぐい、と身体を押し返して抵抗される。何が起こっているのか暗闇の中ではよく見えなくて、手探りで確かめようと辺りを触った。
触って確かめていくうち、ちょうどモモのお尻まわりの布がほんのり温かく濡れていて、ああ、と合点がいった。
寝る前におむつは着けたはずだけどな、と頭を傾げても事実、ベッドが濡れてしまっているから着替えさせないと風邪をひいてしまう。
「モモ、大丈夫だよ」
小さく丸まって、怯えるように泣いているモモの腕を解いてやる。
「怖い夢見たね」
ぐずぐずと泣いて、涙が止まらない様子を見ると胸が苦しくなった。さっきまであんなに楽しそうにしていたのに、ここまで泣いて怯える悪夢がどんなものなのか、代われるものなら代わってやりたい。それほどまでに壮絶な経験をしたモモの過去を思い遣り、いたわるようにして脚を撫でた。
しばらくして落ち着いたのか、正常な呼吸を始めたから頃合いだと思って枕元の電気を点けた。僕がモモのために用意した淡い色のスウェットは、ところどころ色を変えていて、おむつから漏れ出したものがベッドを濡らしたのだと納得した。
「お風呂行く?それとも、ここで着替える?」
後者に対してゆるく首を振ったから、冷たくなった手を引いて風呂場に向かった。
「…あれ……」
湯船を貯めて、風呂の準備をしている間、手持ち無沙汰そうに下半身を確かめていたモモが首を傾げてぽつりと呟いた。
「ああ、ごめんね。勝手に鞄開けた」
「……う、ううん、ぇと、」
「冷えたでしょ、ゆっくりお風呂入っておいで」
モモの方を振り返ると、ゆでだこのように耳まで真っ赤に染めて俯きながら下半身を隠していた。そんなに必死にならなくても…と思いつつ、まぁ恥ずかしいものは仕方ないよね、とあんまり見ないようにして脱衣所をあとにした。
寝室に戻って、シーツを剥がす。そこまで濡れてないにしろ、おむつは完璧に夜尿を防いでくれるものじゃなくて、量が多ければ決壊するのを知っていたたまれない気持ちになった。寝る前にトイレに行かせるべきだった。可哀想なことをしたな。
万が一のために防水シーツは前もって仕込んであった。マットレスまでは濡れてなくて優秀、とシーツ類をまとめて新しいものと交換した。
「ゆ、ユキ、」
片付けを終えてカーテン越しに明るくなってきた外をぼんやり見ていると、バスタオルを抱えてほかほかになったモモが戻ってきた。
「…ベッド、汚してごめんなさい」
あと、おむつも、片付けも、と息継ぎなしにあれもこれもと慌ててぺこぺこ頭を下げているのがなんだか可愛くて、くすりと笑ってしまった。
「あったまった?」
「う、うん……」
「それが聞けるだけで十分だよ」
ぽんぽん、と癖っ毛のまるい頭を撫でてやると、目を泳がせて項垂れてしまった。
はくはくと、他にもなにか言いたそうにするけれど、いつまで経っても声にならないから、言いにくいことは言わなくてもいいんだよと遮った。
さらさらになったベッドにふたりで一緒に潜ると、毛布の中から小さく「ありがとう」と聞こえる。頷いて、緊張のあまりまた冷たくなってしまったモモの手をやんわり握って温めた。