無い記憶封を切る前から、それが誰からの手紙なのかは分かっていた。
ホテルの部屋の机に置かれたそれは、見覚えのある筆跡で、私の名を綴っていた。滞在先を知っていたということは、すでに私の動向は把握されていたのだろう。ため息をひとつ吐き、私は封を開けた。
『久しぶりだな』
最初の一文だけで、当時の記憶が鮮明に蘇る。
『兄貴に聞いたよ。お前がフォルテヴィータに帰ってくると』
その続きはすぐには読めなかった。私は手紙を置き、ゆっくりと椅子に身を預ける。カーテンの隙間から入り込む西陽が、机の上の紙を照らしていた。二十年。私にとっては人生の半分近くを占めるほどの長い時間だった。上辺は統一された良い街だった。薄暗い横道を覗かなければ、素晴らしい街だった。それから、二十年。なにか変わったのだろうか。恐らく何も変わってはいない。いや、変わるはずがない。フォルテヴィータは、あまりにも強固な秩序の中で息をしていた。が去った後も、それは変わらず、サロモーネ家が街を守り続けていたのだろう。
『この街を守れるのは、おれたちサロモーネ家だけだから』
手紙の文面が、まるで昔と変わらない調子で綴られていることに、私は軽く笑いそうになった。変わらないのは街だけではなく、そこに生きる者たちも同じなのかもしれない。しかし、ただの懐かしさで終わる話ではない。私は再び手紙を手に取り、続きを読み進めた。
『外国の組織がこの町に手を伸ばし始めていてな。対抗すべく、兄貴と日々奔走している』
やはり。フォルテヴィータがのんびりと平和なままでいるはずがない。私は少しも驚かなかった。ただ、そこで綴られている言葉にはどこか不穏な響きがあった。
『お前も帰ってくるのはいいが、気を付けて楽しんでほしい』
その言葉に、ふっと肩の力が抜けた。セルジオらしい書き方だった。警告のようでもあり、忠告のようでもあるが、どこか他人事のようでもある。私は最後の一文まで目を通し、封筒の中からもうひとつの小さな紙片を取り出した。そこには、たったひとつの指示が書かれていた。
『黒いハンカチを右手首に巻いてこい』
...ふざけているのか?私は眉をひそめながら紙片を指で弾く。どういう意図があるのかは分からないが、セルジオが何の意味もなくこんなことを書くはずがない。おそらく私は試されているのだ。窓の外に目を向ける。そこには沈みゆく夕陽とともに、飛行機の影が小さく流れていくのが見えた。フォルテヴィータ。そこは、私が二十年前に逃げ出した街。今になって再び向かおうとしている場所。だが、私はまだ決めかねていた。本当に戻っていいのか?答えは出ないまま、私は手紙をポケットにしまい、スーツケースの中から入れたはずの黒い布を探した。
フォルテヴィータは、変わらない。飛行機を降り、空港の外へ出た瞬間、そう思った。石畳の道、クラシックな建築、柔らかな街灯の灯り。昼間の喧騒を終えた街は、穏やかな夜の空気に包まれている。人々の話し声、遠くで響くカンツォーネの調べ、軽やかに響くワイングラスの音ーー。二十年ぶりの街の空気は、まるで昨日までここにいたかのような錯覚を覚えさせた。だが、それは表面的なものだった。どこか、違和感がある。街の活気は健在だが、目を凝らせば、通りの隅々に気配があった。建物の影、路地裏、バルコニーの上。昔もそうだった。サロモーネ家はこの街を守るために、常に監視の目を光らせていた。しかし、これは違う。警戒の度合いが、異常だ。私はスーツケースを引きながら、慎重に歩を進めた。
昔、よく仲間たちと通った場所に行けば、サロモーネ家の誰かと接触できるはず。私はゆっくりと歩き出す。
その瞬間だった。爆発音。耳をつんざく轟音が響き、瞬く間に火の手が上がった。私は反射的に振り返る。広場の端、カフェのテラス席が吹き飛ばされていた。周囲の人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。
「何だ.....?」
次の瞬間、響いたのは銃声。複数の男たちが、混乱の中を駆け抜けながら、銃を乱射している。彼らの狙いは、一般市民ではない。私は、彼らの視線の先を追った。広場の一角。そこには、サロモーネ家の見張りがいた。ーー狙いは、サロモーネ家の人間か。私は息を呑む。ガルシアー派。フォルテヴィータを脅かし始めた、新興勢力。彼らがここまで露骨に攻撃を仕掛けるほど、状況は悪化していたのか?私は、走った。その場に留まるのは危険すぎる。だが、何かがおかしい。これは、単なる襲撃ではない。
「陽動か?」
爆発で混乱を作り出し、その間に本命のターゲットを仕留めるそういう手口だ。ならば、本命は......?
その答えを見つけた瞬間、私は声を失った。広場の反対側。グレーのスーツに、ハットを被った男。彼は、すでに敵の存在に気づいていた。混乱の中でも、慌てる様子はない。ただ、静かに状況を見極めていた。そして、次の瞬間銃声が響く。私はセルジオの方へと駆け出した。だが、その必要はなかった。彼は一歩も動かず、ただ静かに状況を見極めていた。まるで、この襲撃が起こることを知っていたかのように。
「.....またか」
セルジオが低く呟く。彼の視線の先には、銃を構えたガルシアー派の構成員。男が引き金を引いた。だが、セルジオの体が貫かれることはなく、別の銃声が響き男の肩を撃ち抜いた。彼は短い悲鳴を上げ、膝をつく。私は、瞬時に視線を巡らせた。セルジオが撃ったのか。否。彼の手には、まだ銃すら握られていない。では、誰が...
「まったく、食事の最中だったんだが」
静かで落ち着いた声が、後方から響いた。
ジュリアーノ・サロモーネ。彼は、白いマフラーを揺らしながら、銃を軽く振った。
「セルジオ、お前はこういう歓迎を受けるのが好きだったか?」
「兄貴、光栄ですが、正直こういうのは食後にしてもらいたいですね」
セルジオは肩をすくめ、軽く息を吐く。ジュリアーノは、倒れた男を見下ろした。
「無作法だな。ガルシアはこれを礼儀だと教えているのか?」
男は怯えた表情を浮かべ、震える唇を動かす。ジュリアーノは、ゆっくりと立ち上がると、セルジオに向き直った。
「殺しはしない。貴様の血で汚したくないからな。さて、食事に戻るとしようか?」
「俺のナポリタンに血が混じってなきゃいいけど」
彼らは、まるで何事もなかったかのように、会話を続けている。銃声が響いたばかりの広場で、まるで日常の延長のように。
ジュリアーノは、軽く溜息をついた。
「ったく、厄介な連中だ。せめて飯時は避けてくれるとありがたいんだが」
彼らが席に着くと、徐々に日常を取り戻していった。
私だけがそこから動けずにいた。
フォルテヴィータの夜は静かだった。広場での騒動から少し離れた裏路地に入ると、街の喧騒が遠ざかり、石畳に響く靴音だけが耳に残る。この道を歩くのは、二十年ぶりだ。路地の奥、レンガ造りの壁にひっそりと掲げられた鉄のプレート『クイーン・オブ・ナイツ』。昔と変わらない。ここは、知る人ぞ知る会員制のバー。フォルテヴィータの裏側を知る者たちの夜の社交場。私は扉を押し開けた。
「まあ!あんた、よくまあひょっこり帰ってこれたわねぇ?」
カウンターの向こうでグラスを磨きながら、彼は私を見て口角を上げた。
「私がいなくなった間も、ここは変わらず営業してたんですね」
「そりゃそうよ。フォルテヴィータに生まれたからには、この街と添い遂げるのが筋ってもんでしょ?」
フェルッチョはシェイカーを振りながら、目配せする。
「奥で待ってるわよ、例の人」
私は深く息を吐き、奥の席に向かった。グレーのスーツに、ハット。
ーーいた。
私は静かに近づいた。彼は、グラスを傾けながら、何か考え事をしているようだった。
「.....久しぶりですね」
声をかけると、セルジオはゆっくりと顔を上げた。しばらくの間、彼は何も言わなかった。ただ、私を見ていた。やがて、ふっと微笑む。
「本当に帰ってきたんだな」
その言葉には、どこか感慨のようなものが滲んでいた。
「ええ、二十年ぶりです」
セルジオはグラスを置き、指先で軽く机を叩く。
「二十年か.....。お前にとってはそんなに長い時間だったのか?」
「...まあ、それなりに」
まるで、私だけが年数を数えていると言ったような口ぶりだ。
「でもフォルテヴィータはあの頃からちっとも変わらないですね」
セルジオは薄く笑った。
「この街は、そう簡単に変わらないさ。お前が去った後も、ずっとな」
私は、グラスの縁に指を滑らせた。
「.....そうでしょうね」
セルジオは、じっと私の目を見たまま、問いかけ
「どうして戻ってきた?」
「さあ、ただの気まぐれ、って言ったら信じますか?」
セルジオは、かすかに口元を緩めた。
「ははっ、信じないね」
「ですよね」
彼は微かに目を細め、グラスを指で回した。
「お前は昔から、嘘が下手だった」
私は、少しだけ息を詰める。
「覚えてるんですね」
「忘れたことなんてない」
その言葉は、思いのほか静かだった。私は、目を逸らさずに彼を見た。そのときだった。セルジオの視線が、私の右手首へと落ちた。私が手首に巻いた、黒い布。手紙の通りに、私はそれをつけていた。セルジオの微笑が、ほんのわずかに深まった。
「......なるほど」
彼の声が、わずかに低くなる。私は何でもないことのようにグラスを傾けた。
「指定された通りにしただけです」
セルジオは指先で軽くテーブルを叩く。
「いや、ちょっと意外だった。お前は、こういう指示には従わないかと思っていたからな」
私は軽く肩をすくめる。
「そう思うなら、何でこんな指示を?」
「確認したかったんだよ」
セルジオは、ゆっくりと身を乗り出す。
「お前が、今も昔と同じように『俺たちのルール』の中に入ってこられるかどうかを」
私はグラスを一気に煽った。
「それで?私は『中』に入れたんですか?」
「それを決めるのはお前次第だ」
「......そうですか。マスター、ウィスキーをダブルでください。今日は飲みたい気分です」
「安酒でいいぞ、フェルッチョ」
「うちに安酒なんかありません」
グラスに注がれる液体が静かに波打つのを眺めていた。
「こうしてお前と酒を飲むのも......久しぶりだな」
私は軽く笑いながら、グラスの縁に指を滑らせる。
「ええ。こんな形で再会するとは思いませんでしたけど」
「確かに。俺も、またお前とこうして向かい合う日が来るとは考えていなかったよ」
セルジオはそう言いながら、グラスを置き、静かに指を組んだ。
「覚えてるか?お前がこの街を去る前のこと」
「.....忘れるわけないでしょう」
フォルテヴィータの夜の記憶は、時間が経っても鮮明に残っていた。街の灯り、潮風に混じる煙草の匂い、そして、硝煙の臭い...。
セルジオは軽く微笑む。
「お前がよくここにいたのを覚えてる。私が仕事を終えて戻ると、決まっこにいた」
彼が目配せしたのは、私が座っている席だった。
「そうですね。ここに座って、何杯か飲みながらボスの帰りを待ってました」
「ボス、か」
セルジオは少し意外そうに眉を上げる。
「俺をそう呼んでいた時期もあったな」
「今でもそうですよ。......一応」
セルジオは短く笑い、軽く指を鳴らした。
「俺は、お前が最初にこの店で酒を飲んだ日のことをよく覚えている」
私は眉をひそめた。
「あの日は、随分ひどい味だったような気がするんですが」
「はは、まあな。フェルッチョが、お前に『初めての一杯はこれよ』って出したのが、妙に癖の強いウイスキーだった」
「あの時は、正直喉が焼けるかと思いましたよ」
私は苦笑しながら、遠い記憶を辿った。あの頃、私はまだこの街に馴染みきれていなかった。マフィアの世界に片足を突っ込みながら、それでもどこかで(これは自分の居場所じゃない)と思っていた。そんな私を、この店に誘ったのがセルジオ......いや、ボスだった。
「フェルッチョをその気にさせたお前が悪いぞ。俺より年上のくせに、酒の味が分からないなんて言うから」
「『慣れたらいい酒になる』って、ボスは言いましたけどね」
「実際、今なら飲めるだろ?」
私は手元のグラスを見つめ、静かに頷く。
「.....ええ。今なら、分かります」
苦かった酒が、今では喉に馴染む。それが意味するものは、嫌というほど理解している。ボスは私の表情を見て、ふっと笑った。
「お前がこの街を去った後、この席はずっと空いていた」
私は言葉を失った。.....あの席は、私のものだったのか?セルジオは、変わらず穏やかな声で続ける。
「たまにフェルッチョが『あんたの友達、戻ってこないのかねぇ』なんて言ってたよ」
私は息を吐きながら、グラスを揺らす。
「私が戻るなんて、思ってませんでしたか?」
「正直に言えば、半々だったな」
「半々?」
「お前は、逃げるのがうまかったからな」
その言葉に、私は指を止める。....ボスは、私が逃げたことを知っていたのか?それを探るように彼を見たが、セルジオは静かに笑みを浮かべているだけだった。
「まあ、戻ってきたってことは、また昔みたいに飲むつもりなんだろ?」
彼は、軽くグラスを持ち上げる。私は、一拍の間を置いて、それに応じるようにグラスを掲げた。
「....どうですかね」
氷の溶ける音が静かなバーに響いた。
「.....さて」
セルジオは、ゆっくりとグラスを置く。
「思い出話も悪くないが、そろそろ聞かせてもらおうか」
私は、視線を上げる。
「...何をです?」
「お前が去った理由だよ」
セルジオは微笑を崩さず、淡々と言った。私は、軽くグラスを傾け、琥珀色の液体を喉に流し込む。酒の苦味が、妙に遠く感じた。
「ちゃんと伝えたじゃないですか。結婚すると」
「そうだな」
「...ボスは、分かっていたんじゃないですか?」
「そう思うか?」
セルジオは、わずかに眉を上げた。
「お前は、俺を恐れていたんだろう?」
私は、一瞬だけ息を詰める。
「.....勘のいいことで」
私は苦笑しながら、視線を外した。
「お前が去る前のこと、俺はよく覚えている」
セルジオは静かに続けた。
「お前はあの夜、俺が“仕事をしているところを見たな」
“仕事”、それが何を意味するのか、説明は不要だった。銃声、血の匂い、沈黙した空間。そして、セルジオの背中。あの時、私は初めて知ったのだ。この男の本質を。普段は穏やかで、上品でどこか優しさすら感じさせるのに敵の前では、何の感情も見せなかった。
「そうですね」
私は、グラスを指で回した。
「ボスの“仕事”を見た時、私はマフィアというものを理解した気がしたんです」
「それで?」
「私には.....あれは無理だと思いました」
セルジオは、しばらく黙って私を見つめていた。
「.....そうか」
彼はそう言って、グラスを手に取った。
「お前が去ったのは、正しい選択だったのかもしれないな」
その言葉に、私は軽く目を見開いた。
「驚いた顔をするなよ。お前は、俺たちとは違うと思っていたからな」
「...ボスは、私が逃げたことを許さないと思っていました」
「許さない?」
セルジオは、まるでい冗談を聞いたかのように軽く笑う。
「俺は、お前を許す立場にあるのか?」
「....」
「お前は、ただ“自分が生きる道”を選んだだけだ。それに、俺はお前を引き止めなかっただろう?」
確かに。セルジオは、あの夜、何も言わなかった。ただ、わかったと言っただけだった。
「...ボスは、私に何を期待してたんですか?」
「期待?」
セルジオは、グラスを軽く揺らした。
「お前に期待なんてしていなかったよ。ただ...」
「ただ?」
「お前が戻ってくることは、分かっていた。俺はこういう仕事をしているからな。人の心の動きくらいは分かる」
セルジオは、氷が溶けた酒をゆっくりと飲み干した。私は、握りしめたグラスの感触を確かめながら、ゆっくりと息を吐いた。
「....ボスは、私がまたここに戻ることを望んでますか?」
セルジオは、静かに笑った。
「もちろん」
私は、グラスの底に残た酒を一気に飲み干した。グラスを置くと、静かな氷の音が響いた。
「ボス」
私はゆっくりと口を開く。
「俺は、ここに戻るつもりはありません」
セルジオは、それを聞いても驚いた様子はなかった。ただ、微かに微笑んだだけだった。
「そうか」
それだけ言うと、彼は再び酒を口に含んだ。...まるで、最初からそう言われることを分かっていたかのように。私は続ける。
「私はもう、この街には関係のない人間です。昔のように、ここで生きるつもりもない」
「なら、なぜ戻ってきた?」
セルジオは、ごく自然に問いを投げかけた。
「それは......」
言葉に詰まる。単なる気まぐれーー。そう言ったところでボスが信じないことは分かっている。
「懐かしくなっただけですよ」
「本当にそうか?」
彼の視線が、私の手首に落ちる。--黒い布。
「懐かしくなっただけの男が、俺の指示に従ってその布を巻くか?」
私は、手首の布を無意識に指でなぞった。
「.....興味本位ですよ」
セルジオはそれ以上は何も言わなかった。ただ、軽く息を吐き、再びグラスを口に運ぶ。そして、静かに告げる。
「なら、好きにしろ。お前がここに戻る気がないのなら、それでいい。だが、もしそう言いながらもこの街にいるのならー」
「なら?」
「いずれ、巻き込まれる」
彼は、そう言った。まるでそれが避けられない運命であるかのように。私は、彼の言葉の意味を噛み締めた。確かに、今のフォルテヴィータは不安定だ。私は、今日の広場での襲撃を見てしまった。セルジオは、グラスを指で軽く回しながら、静かに目を細める。
「この街では、何もしないことはできない」
「.....そうかもしれませんね」
気づけば、グラスの中の酒はすっかりなくなっていた。
ウィスキーの余韻が舌の上に残る。セルジオは多めに金を置いて先に出ていった。私の方が歳上なのに何故こうも生意気なのだろうか。私は、静かにグラスをカウンターに置いた。
「じゃあ、行きます」
「ええ、いってらっしゃい。……ま、気をつけなさいよ」
フェルッチョの言葉に、私は軽く片手を上げて応える。
店を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
静かな夜だった。
フォルテヴィータの裏路地は、まるで別世界のように静まり返っている。
通りには人影もなく、石畳に響くのは自分の足音だけ。
おかしい。この街の夜は、決してこんなに静かではなかったはずだ。
酒に酔った客、路地裏で騒ぐ男たち、どこかしらから聞こえる演奏の音。いつもなら、そうした喧騒があったはずだ。しかし、今夜は異様なほどに静かだった。
私は、自然と歩調を緩める。
気配がする。背後、わずか数メートル後ろ。誰かが、こちらを見ている。
私は、何気ない仕草を装いながら、通りの角を曲がる。
曲がった先にあるのは、狭い横道。
このまま進めば、メインストリートに出られる。
だが足音がついてくる気のせいではない。まるでこちらの動きに合わせるように、後ろからの気配が変わる。
追われている。
それに気づいた瞬間、反射的に次の角を曲がろうとした。
「よお、どこへ行くんだ?」
次の瞬間背後から強い衝撃が走った。
鈍い痛みが頭を貫き、視界が歪む。
「っ……」
反射的に足を踏ん張ろうとしたが、力が入らない。
体が崩れ落ちた数秒後に持ち上げられる感覚。どこかへ運ばれていく...。
暗闇が、すべてを飲み込んでいった。
気がついた時、私の体は無造作に椅子へと縛りつけられていた。後ろ手に強く縛られたロープが食い込み、血の巡りが鈍くなるのを感じる。痛みと痺れが交互に襲い、無意識に指を動かしてみるが、感覚は鈍い。口の端には鉄の味。舌でそっと触れると、切れた唇の傷からじわりと血が滲んでいた。
ここはどこだ?
周囲を見渡すと、荒れ果てた倉庫のような場所だった。コンクリートの床には油染みが広がり、埃と鉄の匂いが充満している。崩れかけた木箱が乱雑に積まれ、天井の裸電球が、ぼんやりと黄色い光を投げかけていた。
「……起きたか」
低い声が響く。前に立つ男が、私を見下ろしていた。赤いツナギを着た男は腰に銃を差しながら、余裕たっぷりに煙草をくゆらせている。
「サロモーネ家の“元”身内だろう?」
男は唇の端を歪めて笑う。
「それに、セルジオが探していた。どうやら“まだ”お前はサロモーネの一員らしい」
私は眉を寄せる。
「だから?」
「だから、お前には“交渉材料”になってもらう」
男はニヤリと笑った。
「すぐにサロモーネ家の使いが来る。.....それまで、大人しくしていろよ」
私は静かに息を吐いた巻き込まれるつもりはなかったのに、結局、こうなるのか。
倉庫の中は静かだった。私は薄暗い空間の中で、ゆっくりと思考を巡らせる。
ガルシア一派はここを隠れ家として使っているのか、それとも一時的な拠点か。警備はどうか?出口は?武装している人数は。
そのとき。
“バァァンッ”
倉庫の入り口が吹き飛び、爆風とともに砂埃が舞い上がる。
「早すぎんだろ、大事にされてて良かったなぁ」
見張り役の男が、タバコを吐き捨てた。
静かに硝煙の中から歩み出る姿。
セルジオ・サロモーネ。
「……!」
私は思わず息を呑んだ。
倉庫に響く足音。彼は、肩の埃を払いながら、冷静に言った。
「俺の元部下を乱暴に扱ってくれたようだな」
声は穏やかだ。
しかし、その視線は、冷たい。
「ッ……撃て!」
ガルシア一派の男が叫ぶ。
次の瞬間、嵐のような銃撃戦が始まった。銃弾が空間を引き裂く。床に木片が飛び散り、鉄の壁に弾丸が食い込む音が響く。
「くそっ……!」
見張りの男が急いで銃を抜こうとするが――遅い。
鋭い銃声が響き、彼の肩が弾ける。
「ぐあっ……!」
セルジオの射撃は、まるで迷いがなかった。淡々と、確実に標的を仕留める。彼は優雅に銃を構え、逃げようとした男を撃ち抜いた。
「残念だな。交渉の余地はない」
その声は静かだった。私は、状況を把握しようと息を整えた。セルジオが近づき、無造作にナイフを取り出して私を縛るロープを切った。
「.....立てるか?」
私は肩を回しながら、荒れた息を整えた。セルジオは表情を変えずに、血に染まった床を一管する。
「悪かったな。手間をかけた」
私は苦笑する。
「いや、助けてもらって感謝してますよ」
セルジオはポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
「この借りは、返してもらう」
私は、動きを止めた。
「.....どういう意味です?」
「そうだな.....前みたいに事務員として働いてもらおうか」
私は乾いた笑いを漏らした。
「ボス、私はもう戻る気は...」
カチッ。
銃口が向けられた。私は息を呑む。セルジオの表情は、冷たかった。
「なら、すぐに返してもらう」
それは本来、仲間には向けられないはずの仕事出しか見せない顔だった。私は、震える声で、ようやく言葉を絞り出した。
「.....分かりました」
セルジオは微かに微笑み、銃を下ろす。
「そうこなくちゃな」
緊張の糸が解けた瞬間、私はようやく大きく息を吐いた。
「さあ、行くぞ」
セルジオはそう言うと、私を促すように背を向けた。
私は――もう、拒否する理由を持っていなかった。あそこに戻るつもりはなかった。それでも、こうして足を踏み入れてしまった以上、逃げる場所はない。
私は無言で後を追った。
ここはフォルテヴィータの中心部、表向きは企業の管理事務所だが、実態はこの街の裏を動かす心臓部だった。
この建物を目にするのは、私が街を去ったあの日以来だ。
セルジオは親切に扉を開けて私が入るのを待っている。昔だったらこの好意を無邪気に受け取れたのに、今は少しでも足踏みしたら殺されるのではないかと思ってしまう。息を止めて扉をくぐり室内に足を踏み入れた瞬間、いくつもの視線がこちらを向いた。
「よぉ......まさか、本当に戻ってくるとはな」
「随分と長いバカンスだったな」
「へぇ、あんたが帰ってくるなんてな」
「馴染みのある声が飛び交う。彼らは、驚きながらもどこか懐かしそうな表情を浮かべていた。私は軽く笑う。.....皆さん、まだここにいたんですね」
「お前こそ、どのツラ下げて帰ってきたんだ?」
「いや、私は戻るつもりなんて...」
そう言いかけた時、セルジオが静かに言った。
「ほら、座れ」
彼が顎をしゃくった先。そこには見覚えのある机と椅子があった。私は足を止めた。
デスクの上には書類が積み上げられたまま、横には昔使っていた筆記具が乱雑に置かれている。私は、デスクの縁に手を伸ばし、指でそっとなぞった。
指が黒く染まる。完全に埃をかぶっていたわけではない。けれど、長く触れられていなかったことは確かだ。
「……誰も、この席を使ってなかったんですか?」
「お前の席に座るやつがいなかった」
セルジオは、何でもないことのように言った。
私は、一瞬だけ言葉を失った。
“座るやつがいなかった”?
この事務所には、組織を管理するために事務員が必要だ。私が去った後、当然誰かがその役割を継いだはず。それなのに、二十年間、誰も座っていなかった?
「...どういうことです?」
私は、少し間を置いて問いかけた。セルジオは煙草を口に咥えながら言った。
「どうもこうもない。お前の代わりはいなかったということだ」
そんなことがあるのか?私が担当していたのは、帳簿の管理、資金の流れの監視、組織の経理と裏社会の交渉。どれも、この規模の組織なら欠かせない役割のはずだ。それが、二十年間誰もやっていなかった?それとも、敢えて誰も座らせなかったのか?私は、わずかに眉を寄せる。
「.....ボス、冗談ですよね?」
「冗談と本音を履き違えるやつを雇った気はないぞ」
私はホコリが着いた指を擦り合わせる。確かに放置されていたが、完全に忘れ去られていたわけではない。これが意味することを理解できなかった。
私はふっと息を吐き、椅子を引きゆっくりと腰を下ろす。組員たちの視線が、微かに和らいだ気がした。私は、視線を巡らせながら、ぼそりと呟いた。
「……こうして座れば、戻ってきたことになるんですかね?」
「そうだな」
セルジオは、煙草を口に咥えながら言った。
「それとも、まだ“戻るつもりはない”なんて言うつもりか?」
私は、答えなかった。
ただ静かに、机の上に指を置き、埃を軽く払った。違和感が胸の奥に残る。何かがおかしい。
そんな疑念を抱きながらも溜まった書類を整理していると、セルジオが近づいてきた。
「行くぞ」
最初に行く場所なんか決まっている。私は無言のまま立ち上がった。事務所の重厚なドアを開け、廊下に出る。足音だけが静かに響く。私は一歩遅れてセルジオの背中を追った。
――ジュリアーノの部屋へ。
サロモーネ家のドンであり、この街を実質的に支配する男。私は心の奥で、わずかに息を詰める。ここに戻るつもりはなかった。それでも、こうしてまたこの扉の前に立っている。
セルジオが扉を軽くノックする。
「兄貴」
そのまま押し開けた先には、広い書斎が広がっていた。天井まで届く書棚、整然と並んだ分厚い書類、窓の外に広がるフォルテヴィータの街の灯り。
そして――
白いスカーフを巻いた男が、ソファに腰を下ろしていた。
「来たか」
ドン・ジュリアーノ・サロモーネ。
彼は、グラスを軽く傾け、琥珀色の液体を揺らしながら、静かに微笑んだ。私は背筋を正し、深く頭を下げる。
「お久しぶりです、ドン・ジュリアーノ」
ジュリアーノはグラスを置き、私を見た。
「久しいな」
彼の声は穏やかだったが、どこか観察するような響きもあった。
「こうしてまたお前の顔を見ることができるとは」
私は軽く口角を上げる。
「……私もです」
「そうか」
ジュリアーノは静かに微笑む。
「座れ」
私はセルジオの視線を一瞬だけ感じながら、ソファへ腰を下ろした。
ジュリアーノは、私のグラスに酒を注ぐ。
「飲めるか?」
「ええ」
私はグラスを受け取り、一口飲む。熟成された苦みと甘みが、喉の奥へと広がる。懐かしい味だ。た。ジュリアーノはグラスを回しながら、静かに言った。
「フォルテヴィータの街はどうだ?」
私は少し考え、言葉を選ぶ。
「変わらないですね」
「そうか」
ジュリアーノは微かに笑う。
「だが、何も変わらないわけではない」
私は視線を上げる。
「サロモーネ家は変わらずこの街を守ってきた。だが、最近は少しばかり騒がしい」
彼は、グラスを傾けながら続ける。
「お前が去った後、この街は何度か荒れた。そして今、また同じことが起きようとしている」
私は眉を寄せる。
「ガルシアー派のことですね」
ジュリアーノは、静かにグラスを置いた。
「新しいやつを雇う前に、お前が戻ってきてくれて良かった」
私は息を呑みかけたが、すぐにそれを飲み込んだ。そうか私の後釜は、まだ決まっていなかったのか。だが、そこに疑問を挟むことはしない。私はただ、静かにグラスの中の液体を見つめた。ジュリアーノは、微笑みながらセルジオに目を向ける。
「さてーー」
彼はゆっくりと身を乗り出した。
「お前は、これからどうするつもりだ?」
私は、グラスを揺らしながら、微かに目を細めた。
どうするつもりなのか――私自身、まだ答えを持っていなかった。
「借りを返すまではやりますよ。助けられた命を投げ出すほどの激務じゃなければ、ですがね」
セルジオを見ながら言うと彼はわざとらしく肩を竦めた。
「兄貴、そろそろ仕事を始めさせてやらないと、一生借りが返せない」
「そうか。では、頑張ってくれよ。」
そして私は再び机に向かった。目の前には山積みになった帳簿と書類。雑然と置かれたペンやインク瓶が、手付かずのままになっている。
「ところで、ボスは自席にお戻りになられないので?」
「久しぶりお前の仕事ぶりを見てやろうと思ってな」
「はぁ。そうですか」
私は軽く息を吐きながら、手近な書類を一枚引き寄せた。
「まずは......財務管理、と」
数字が並ぶ帳簿をめくりながら、過去のデータと現在の状況を照らし合わせる。サロモーネ家の財務管理は、驚くほど整ってい細かい収支の流れが正確に記録されている。裏社会の組織とは思えないほど透明性がある。私は思わず眉をひそめた。
「....やけに綺麗ですね」
セルジオが隣で腕をくみながら微笑む。セルジオが隣で腕を組みながら微笑む。
「俺たちは組織の長だが、単なるギャングじゃない。フォルテヴィータを維持するのが仕事だからな」
「維持ですか」
書類をさらに確認していくうちに、サロモーネ家が警察や軍とも繋がりがあることが明らかになった。例えば、この書類。
「フォルテヴィータ市警への資金援助」
名目は『市民防衛支援基金』しかし、これは要するに警察への直接的な資金提供だった。
セルジオは静かに答えた。
「警察がまともに機能していなければ、この街は崩れる。そのための“支援”だ」
なるほど。つまり、そういうことか。
私は次の書類をめくる。
『軍との協力協定』
「……軍とも関係があるとは思いませんでした」
「必要なことだ」
セルジオは淡々と言う。
「フォルテヴィータは交易の要衝だ。放っておけば外国の組織が好き勝手に入り込む。俺たちは、それを防ぐ盾みたいなものだよ」
「つまり……自警団みたいなものですか」
「近いな。だが、俺たちの方法はもう少し“実力的”だ」
私は、軽く笑った。
「でしょうね」
さらに書類を見ていくうちに、私はあることに気がついた。この組織は、街の治安を悪くするような仕事はしていない。違法薬物の取引ーなし。人身売買ーなし。強盗や詐欺の資金流れーなし。代わりに記録されていたのは、カジノ、飲食、貿易、建設、不動産事業などの正規のビジネスだった。
「.....”マフィア”としては、随分と真っ当ですね」
私は率直に言った。
「街を食い物にするようなことはしないのかと、少し意外でしたよ」
「サロモーネ家は、単なる暴力団じゃない」
セルジオは軽く肩をすくめる。
「フォルテヴィータを支配するには、街そのものを豊かにする必要がある。だから、俺たちは商売をするし、秩序を守る」
私は、何も言わなかった。
確かに、こうして財務の記録を見れば一目瞭然だった。フォルテヴィータに流れる金のほとんどが、サロモーネ家を経由して回っている。だが、それは街を食い荒らすためではなく、街を維持するためだった。
……この記録、本物か?私は机の上にペンを置き、深く息を吐いた。権力者への賄賂の記録が一切なかった。政府が機能していない中、根回しが不可欠だというのにそれらしい記録がどこにもない。あるいは、それらが必要ないほど、この街がサロモーネ家に依存しているのか...。その実態を暴くため書類整理に没頭していると、ふとセルジオが言った。
「どうだ、懐かしいか?」
私は手を止め、彼を見た。
「……そうですね」
私は軽く笑う。
「思ったよりも、体が覚えているものですね」
セルジオは満足そうに微笑む。
「そりゃそうだ。お前はこの仕事に慣れすぎていたからな」
私は、少しだけ目を細める。
「誤解しないでくださいよ」
私は椅子に深く座り直し、机の上を軽く叩いた。
「これは借りを返すためにやってるだけです」
「そうか」
私は、再び書類に目を落とした。
――仕事は仕事だ。
私はここに戻るつもりはない。この仕事が終われば、また元の生活に戻るだけ。それだけだ。
書類の山に埋もれて作業を進めているち、次第に事務所の空気が変わってきたことに気づいた。最初は微かなざわめきだった。しかし、それが次第に大きくなり、明らかに異変が起きていることを示していた。
そして、扉が勢いよく開らかれた。
「ボス!」
息を切らせた組員が駆け込んでくる。
「ガルシアの連中が動き出しました!」
私は心臓が僅かに跳ねるのを感じた。
「詳細を」
セルジオの声は静かだったが、確実に空気が張り詰める。
「やつら、カジノで派手に暴れています!俺たちの客にまで手を出してる!」
フォルテヴィータの歓楽街の中心であり、サロモーネ家の重要な資金源だ。そこを荒らすというのは――明確な宣戦布告だった。
セルジオは短く息を吐き、煙草を灰皿に押しつけた。
「カジノにいるのは何人だ?」
「目撃情報では、十数人以上。武装している連中もいるみたいです」
「警察は?」
「動いてません。もしくは、動けてません」
私は眉をひそめる。
ガルシア一派が警察の動きを封じた?
カジノでこれだけの騒ぎを起こしていながら、警察が反応しないとは考えにくい。
「……警察に手を回しましたね」
「だろうな」
セルジオは眉間に皺を寄せ、低く呟く。
「こっちも動くしかない」
セルジオは淡々と言う。
「カジノを守る。それと、奴らの背後にいるやつを炙り出す」
彼は私の方を見た。
「お前はどうする?」
私は一瞬、言葉に詰まる。
「……ボス、私はただの事務員ですよ?」
「そうだな。だが、お前はこの状況を見過ごせるか?」
私は、沈黙した。
……フォルテヴィータが揺れている。
街が荒れるのを、ただ事務所の中で待つことができるのか?
「……分かりました」
「決まりだ」
セルジオは満足げに笑い、背を向ける。
私は、一歩踏み出した。
ここから先、もう戻れないかもしれない。
それでも、行くしかなかった。
「全員、静かに配置につけ。客を巻き込むな」
低く、しかし威圧感のある声。サロモーネ家の組員たちは、一瞬の迷いもなく命令に従い、裏口からそれぞれの位置へ散開した。
気を見計らっていると一発の銃声が響いた。そして、カジノの入り口からゆっくりと歩いてきたのは、白いスーツ、白いハット、杖をつきながら悠然と歩く男。
「よぉ、お前ら。楽しんでるか?」
悪びれた様子もなく、ガルシアは場を見渡した。彼の表情には、緊張感の欠片もない。これは金を狙った襲撃ではない。ただの“挑発”だ。サロモーネ家の縄張りに踏み込み、あえて騒ぎを起こし、存在を誇示するものーー。
「……品のない登場だな」
その声に、場の空気が一変した。
ジュリアーノは冷静に、ガルシアの前まで進んだ。
「俺たちのカジノで何のつもりだ?」
ジュリアーノの視線には、揺るぎがなかった。ガルシアはそんな彼を見て、軽く肩をすくめる。
「何、ちょっと顔を出しただけだよ。カジノが賑わってるって聞いたんでな。俺たちも遊ばせてもらおうと思ってな」
「……遊び、か」
ジュリアーノは淡々と答える。
「お前の遊びのせいで、客が怯えているようだが?」
「そりゃあ、遊び方にも流儀ってもんがあるだろ?」
ガルシアはハットのつばを軽く持ち上げ、ニヤリと笑う。
「それにしても、ドン・ジュリアーノ。お前さん、随分と余裕じゃねぇか?」
ジュリアーノは微かに目を細める。
「どういう意味だ?」
「こうして、俺が目の前に立ってるってのに--慌てるどころか、つまらなそうな顔をしてるじゃねぇか」
ガルシアは愉快そうに笑う。
「やっぱり、昔からの貫禄ってやつか?」
「お前の小さな騒ぎに慌てるほど、俺たちは暇じゃない」
ジュリアーノは一歩も引かず、静かに言い放った。
「それとも、カジノで撃ち合いでも始めたかったのか?」
「まさか」
ガルシアはハッと笑い、杖を軽く地面に叩きつける。
「今日はただの“挨拶”だ」
「なら、そろそろ帰ったらどうだ?」
ジュリアーノの声には、わずかに冷たさが滲んでいた。
ガルシアは、少しだけ沈黙した。そして一口角を上げ、軽く笑う。
「そりゃあ、失礼したな」
白いハットを軽く持ち上げると、彼は部下たちに顎をしゃくった。金の仮面をつけた部下たちが、ゆっくりと後退していく。人質に取られていた客も、次々と解放される。そして、ガルシアも背を向け、そのまま、悠然とカジノを後にした。私は、静かに息を吐く。何も奪わず、何も破壊せず、ただサロモーネ家に爪痕を残して去る。それが、ガルシアの狙いだったのか?明らかに今までの無差別なテロ行為とは違う。宣戦布告のつもりだったのだろうか?
そして――
なぜ、私の記憶の中の“死んだ男”が今も生きている?
騒動が収まり、カジノは徐々に平静を取り戻してく。ジュリアーノは何事もなかったかのようにカウンターに座り、酒を口にした。私は、静かに彼を見つめる。
「.....ドン・ジュリアーノ」
「なんだ?」
「ガルシアを、どう見ます?」
ジュリアーノはグラスを回しながら、ぼそりと呟く。
「ただのゴロツキなら、もう潰している」
ジュリアーノはそう言うと、静かに酒を飲み干した。私もまた、視線をカジノの入り口へ向ける。--次にガルシアが現れる時、それは“本物の戦い”になるのかもしれない。
カジノの騒動が収まり、フォルテヴィータの夜は再び平穏を取り戻したかに見えた。
だが、それは表面上のこと。
何かがおかしい。
私は事務所へ戻り、デスクに腰を下ろした。目の前に広がるのは、サロモーネ家の財務記録や事務処理の書類。以前なら、ただ数字を追い、効率的に処理していた。だが、今の私はその裏に何かが隠されていないか、探るようになっていた。
フォルテヴィータという街の異常。
私が去ってからの“空白”。そして、死んだはずのガルシアが生きているという矛盾。
この街は、何を隠している?
私は、古い帳簿や記録を引っ張り出し、過去と現在を比較し始めた。フォルテヴィータの経済、取引、組織の流れ...。じっくりと目を通しながら、思わず眉をひそめた。
……この街は、二十年前と何も変わっていない。
金の流れも、人の動きも、組織の関係も。まるで時計が止まったかのように、ほぼ同じ構造が続いている。
二0年も経てば、時代が変わり、人の入れ替わりが起きる。それなのに――まるで“再現”するかのように、全てが同じ形で動いている。なぜ、こんなことが?
ふと、私は別の疑問を思い出した。私の席が、なぜ二十年間空いていたのか。
“新しいやつを雇う前にお前が戻ってきてくれてよかった”
ジュリアーノはそう言っていた。
つまり、二十年誰もやってなかった訳ではなく、私が抜けてからそれほど時間が経ってないのではないか…?
考えれば考えるほど、違和感が膨れ上がる。私がここを去ってからの時間は、本当に“流れていた”のか?フォルテヴィータは、この街は本当に現実なのか?
喉が乾く感覚を覚え、私は軽く指先でデスクをなぞった。うっすらと積もった埃。確かに時間は経っているはずなのに、それを実感できない。
私は、何を見落としている?
答えが事務所にないのなら、外に出るしかない。
フォルテヴィータの夜の世界を見守ってきた場所。
そこなら、昔から変わらぬ街の情報を知ることができるかもしれない。
そこ、クイーン・オブ・ナイツの扉を開けると、どこか異国情緒の漂う甘いカクテルの香りと、低く流れるジャズの調べが迎えた。店内は相変わらず落ち着いた雰囲気だった。客は少なく、静かな会話とグラスの音だけが響く。華奢な手でワイングラスを拭いながら、こちらを見て、ニヤリと笑った。
「あらサロモーネ家の坊やじゃないの」
私は、静かにカウンターに腰を下ろした。
「……坊やって歳でもないですよ」
「そうねぇ。でも、あたしに言わせりゃ、男なんて何歳になっても変わらないものよ」
私は軽く笑いながら、グラスを受け取る。
「変わらない、ね……」
フェルッチョは私に酒を出しながら、言った。
「それで?こんなところに顔を出すってことは、何か悩んでるんじゃない?」
私は、軽くため息をつき、グラスを回しながら口を開いた。
「……実は」
カジノでの騒動、ガルシアとの対面、そして彼が“死んだはずの男”だったこと。
サロモーネ家の事務所がほぼ変わらないこと。私の席が二十年間空いていたこと。そして、フォルテヴィータの経済や組織がほとんど変わっていないこと。
静かに、一つひとつ言葉にしていく。
フェルッチョは黙って話を聞いていた。
「――それで、私は考え始めたんだ」
私はゆっくりとグラスの縁をなぞる。
「この街は、本当に……“時間”が流れているのか?」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にひやりとした感覚が広がった。
フェルッチョは眉一つ動かさず、静かに私を見つめる。
そして、口を開きかけた――その時だった。
「面白い話をしてるね」
低く響く声が、私の背後から聞こえた。
私は反射的に振り向いた。
カウンターの少し離れた席。
そこに座っていたのは、耳にペンを刺した男だ。斜めがけのカバンからは新聞やメモ帳が飛び出している。彼はグラスを片手に、ペンを握ってから私に視線を向けた。
「……失礼、盗み聞きするつもりはなかったんだけどね」
私は、少しだけ警戒しながら、男を見つめる。
「誰だ?」
「エドモンドさ」
男は新聞を畳み、微かに微笑んだ。
「新聞記者だよ」
「何の用だ?」
「いやね、君の話を聞いていて、思い出したことがあるんだよ」
エドモンドは、グラスを軽く回しながら、口を開いた。
「君、だいぶ老けたね」
エドモンドは、軽い口調でそう言った。
私は、一瞬、言葉を失った。
「……は?」
「いや、ほら。僕が君を知ってた頃に比べて、随分と年を取ったなって話さ」
この男は、私を知っている?私は思わず眉をひそめた。
「……昔、会ったことが?」
「まぁね」
エドモンドは軽く頷いた。
そして...
「それに比べて、セルジオさんは変わらないよな」
その言葉が落ちた瞬間、私は全身の血が凍るような感覚に襲われた。
「……何?」
エドモンドは、あくまで何でもないことのように言葉を続ける。
「いや、君は年を取ったのに、セルジオさんは昔のままっていうか……見た目も変わらないし、雰囲気も変わらないし」
「……」
「むしろ、ここにいる連中も、あんまり変わってない気がするけどな」
私は、息を呑んだ。
確かに、セルジオは変わっていない。サロモーネ家の組員たちも変わっていない。ジュリアーノも、フェルッチョも。この街の誰もが、変わっていない。
……いや、それどころか
彼らは、“変わることができない”のでは?
私は、ようやく確信した。
この街は、過去だ。フォルテヴィータは、私がいたあの頃のまま、時を止めている。
「――なるほど」
私は、静かにグラスを置いた。
「……私は、とんでもない場所に戻ってきてしまったらしい」
「それと、迷える君にもうひとつ教えてあげよう。占い師に会うといい」
私は、じっとエドモンドを見つめた。
「.....占い師?」
「そうさ」
エドモンドは軽くグラスを傾けながら頷く。
「その占い師は、どこにいる?」
エドモンドは少し笑った。
「わからない」
「.....は?」
「神出鬼没なんだよ」
私は思わず眉をひそめる。
「それじゃあ会えないだろ」
「いや、そうじゃない」
エドモンドは指で机を叩いた。
「“君が必要とすれば、きっと現れる”――それが、あの占い師さ」
店を出ると、夜の冷たい風が頬を撫でた。
…そもそも私は、なぜこの街に戻ってきた?歩きながら、ぼんやりと考える。
最初は、何かに導かれるように帰ってきたと思っていた。
本当に、私は自分の意志で戻ってきたのか?
記憶の断片が、不思議なモヤに包まれる。
何かを思い出そうとすると、頭の奥がぼんやりと霞む。まるで、何者かに“忘れさせられている”ような...。
私は、胸の奥に生まれた得体の知れない感覚を振り払うように、足を速めた。
足を止めたのは、小さな広場だった。フォルテヴィータの夜は静かで、街灯の明かりがぼんやりと石畳を照らしている。ふと、視線を上げると
そこに、いた。
占い師。黒いローブに身を包み、フードを深く被った人物が、静かにこちらを見ていた。.....まるで、最初からここにいたように。
「お探しのものは?」
占い師の声は低く、しかしどこか不思議な響きを持っていた。
「私は、ゆっくりと歩み寄る。私は......どこへ行けばいい?」
占い師は微かに首を傾げた。そして、ゆっくりと口を開く。
「直感を頼りになさい」
その言葉に、私は思わず目を細める。
「それだけか?」
占い師は微かに笑った。
「それと、花を持っていくと良いでしょう」
花?
私は眉をひそめる。
しかし、占い師はそれ以上の言葉を告げることなく、その場から静かに姿を消した。まるで最初から、存在しなかったかのように。
私は、夜の風に吹かれながら、静かに考える。
直感。そして、花。
私は、どこへ向かうべきなのか
占い師の言葉が頭の中で反響していた。私は、その言葉に従うように花屋へと足を向けていた。フォルテヴィータの夜は静かで、冷たい風が肌を撫でる。いつもなら、こうした迷信じみた言葉には耳を貸さない。だが、この街は明らかに何かが違う。そして、私はその違和感を振り払うためにも、直感に従うしかなかった。
「何かお探し?」
花屋の女が、穏やかな微笑みを浮かべる。私は店内を見回しながら、ふと目に留まった花を手に取った。白いユリ。何の迷いもなく、それを選ぶ。
「お供え用かい?」
女の言葉に、私は一瞬だけ息を呑んだ。
「……ああ」
それが、自分でも気づいていなかった心の答えだった。
花を手に、私は街を歩いていた。どこへ向かえばいいのか分からない。だが、不思議と足は迷わずに進んでいく。まるで、この道が最初から決まっていたかのように。夜のフォルテヴィータは静かだった。賑わいを見せる酒場の明かり。誰かが奏でるアコーディオンの音。そのすべてが、昔のままのようでいて、どこか現実感がなかった。私は、何のためにここへ戻った?その問いが、また頭をよぎる。記憶の奥に、霞がかかったような感覚。何かを思い出そうとするたびに、形にならないモヤが広がる。だが、それでも私は確かに、この街に帰ってきた。私は、何を求めてここへ?
ふと、足を止めた。
目の前には、慰霊碑があった。
古びた石碑。刻まれた名前の数々。
そして、散乱したまま枯れ果てた花束。
その光景を目にした瞬間、全身に電流が走ったような感覚に襲われた。
私は、ここを知っている。
ここは、仲間たちの眠る場所だ。
そして、その記憶が、焼け焦げたような苦しみとともに蘇る。
ガルシアー派が街に火を放った。燃え上がる建物。崩れ落ちる屋根。人々の叫びが夜空に響き、逃げ惑う影が次々と炎に飲まれていく。私はその場にはいなかった。すべてが終わった後、遠くの街で新聞を読んだだけだった。“フォルテヴィータの大火災”“ガルシアー派の襲撃により壊滅”その活字を目にしたとき、私は全身の力が抜けたのを覚えている。仲間たちは、みんな死んだ。私がこの街を去ったあと全てが終わった。--なのに、今、この街は存在している。私が歩いた通りも、私が過ごした事務所も、カジノも、バーも、すべてーー昔のままだった。この街は、一体何なのか
私は、白いユリを慰霊碑の前に捧げた。
風が吹き抜ける。
誰かが、そこにいるかのように。
私は目を閉じ、ただ黙祷を捧げた。
慰霊碑を後にし、私は事務所へ向かっていた。足取りは重く、それでいて迷いはなかった。私は、未来を知っている。
あと二日後、この街は焼け落ちる。ガルシア一派が火を放ち、フォルテヴィータは壊滅する。それを知っているのは、私だけだ。
この街が何なのかは分からない。過去が繰り返されているのか、私だけが異物なのかそれすら確かではない。だが、一つだけ分かることがある。私が何もしなければ、全てが同じ結末を迎える。
二日後に、フォルテヴィータはまた燃える。それを阻止できるのかどうかは、私次第だった。事務所の扉を押し開けると、いつもの光景が広がっていた。
机に向かい、書類をめくるセルジオ。
煙草の煙がゆっくりと天井へと消えていく。私が足を踏み入れたことに気づくと、セルジオは目だけを上げ、微かに笑った。
「……遅かったな」
「少し、考え事をしていましたので」
私は静かに席に着く。
セルジオは私をじっと見つめる。
「何か話したいことがあるんじゃないのか?」
私は、短く息を吐いた。ここで、どこまで話すべきか。未来を知っていることを言えば、信じるはずがない。だが、何もしなければ、すべてがまた終わる。
「……ガルシア一派の動きが気になってます」
セルジオは眉をひそめた。
「急にどうした?」
「嫌な予感がするので」
セルジオは顎に手をやりながら考え込む。
今は、それでいい。全てを話すつもりはない。しかし、ガルシア一派の動きに注意を向けさせることはできる。二日後の火災を防ぐために。
翌日、私はガルシア一派の動きを探るために街を歩いていた。この街には、情報を流す者たちがいる。賭場のディーラー、裏通りの売人、酒場の常連――。
そして、私が向かったのは、クイーン・オブ・ナイツ。
フェルッチョなら、何か知っているかもしれない。
店の扉を開けカウンターの向こうでグラスを磨いていたフェルッチョが、私を見るなりニヤリと笑う。
「……あら、今日はまた渋い顔ね」
私は無言でカウンターに腰を下ろした。
「フェルッチョ。ガルシア一派について、何か知りませんか?」
フェルッチョはグラスを置き、少し考え込む仕草を見せた。
「うーん……最近、よく動いてるわねぇ。カジノの騒動が終わったと思ったら、何やら裏でコソコソとね」
「どこで?」
「何か仕入れてるって噂よ」
「仕入れ……?」
私は眉をひそめた。
「こないだ、爆弾を密輸で仕入れたとか何とか。アタッシュケースに入るくらいのちっちゃいやつなんだけど、威力はダイナマイトの何倍のあるって噂」
「……なるほど。ありがとう」
私は、短く息を吐いた。
事務所に戻ると、セルジオが机の上の書類に目を通していた。薄暗いランプの灯りが、彼の横顔を静かに照らしている。
私は一度、深く息を吐き、歩み寄った。
「……ボス、ちょっと話があるんですが」
セルジオは書類を伏せ、視線を向ける。
「聞こうか」
私は短く頷いた。
「ガルシア一派のことです。どうやら相当な爆弾を仕入れたそうで」
セルジオは顎に手をやり、静かに考え込む。
「……そうか」
しばらく沈黙が続いた後、彼は視線を戻し、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「実はな。兄貴の命令で、二日後にガルシア一派を潰すことになった。」
私は一瞬、息を呑んだ。
……二日後。火災が起こるはずの日。
「……決まってたんですね」
「俺たちが手を出さずとも、奴らはそのうち動く。だったら、こっちが先に仕掛けるべきだろう?」
セルジオの声音は落ち着いていたが、そこには冷徹な判断があった。
「だから、徹底的に見張ることにする。アジトだけじゃない。この街全体を監視する。」
私はその言葉を聞き、内心で安堵した。
もし火を放つ前に、ガルシア一派を止められるなら――歴史は変えられるかもしれない。セルジオはすぐに組員たちを集め、指示を出した。
「不審な動きがあれば即座に報告しろ」
組員たちは無言で頷き、散っていく。
私は改めてセルジオを見た。
「ボス、本当にやるんですね」
「当たり前だろ。兄貴の命令だ」
セルジオは椅子にもたれ、煙草に火をつけた。
「……お前、なんかおかしいな」
私は、一瞬だけ肩を強張らせた。
「何がです?」
ここに戻ってきたときから、お前は“知ってる”みたいな雰囲気がある。
「まるで、未来が見えてるみたいな顔してるな」
彼は冗談めかして笑いながら、煙を吐く。
「まあ、いい。お前が戻ってきたのは幸運だったよ」
「……どういう意味です?」
セルジオは目を細める。
「お前なら、ガルシア一派が何を企んでるか、誰よりも早く気づけるんじゃないかって話さ」
私は、少しだけ笑みを返した。
「期待されてるみたいですね」
「そりゃあな。戻ってきたからには、働いてもらう」
セルジオはそう言い残し、再び書類へと視線を落とした。私は事務所を出て、夜の空気を吸い込んだ。
……二日後。
もし、この決戦が成功すれば――火災は防げる。だが、相手が何を狙っているのか、まだはっきりとは分からない。
「……やるしかない、か」
私は、静かに港へと歩き出した。
この街の未来を変えるために。フォルテヴィータの夜が、静かに熱を帯びていた。
そしてついに運命の夜が来た。
サロモーネ家の組員、フォルテヴィータの住民たちが集まり、決起集会が始まろうとしていた。
橋の上に立つサロモーネ兄弟を、私は少し離れた場所からその光景を見ていた。
「この街は、俺たちのものだ」
ジュリアーノの声が響く。
フォルテヴィータは、我々の父祖が血と汗で築き上げた街。
「そこに入り込もうとする輩を、黙って見過ごすわけにはいかない」
組員たちの顔には、怒りと誇りが滲んでいた。
「我々が動かなければ、この街は奴らに奪われる。何の義理もない、よそ者に好き勝手されていいはずがない」
「今夜、ガルシア一派を根絶やしにする!」
「オオォォォッ!」
組員たちが一斉に声を上げ、拳を突き上げる。
胸が...強く打たれた。この場にいることの実感。血が沸き立つような感覚。
ジュリアーノは拳を振り上げる。
「行くぞ!ビバ!フォルテヴィータ」
その号令とともに、セルジオが前に進み出る。
「俺達も行くぞ」」
彼の言葉に、組員たちは一斉に動き出した
私は、静かにその場を後にしながら、深く息を吐く。この夜が、すべてを決める。
銃声が、夜の静寂を引き裂いた。
セルジオ率いる部隊が先陣を切り、ガルシア一派に襲いかかる。赤いツナギの連中が応戦し、激しい撃ち合いが始まった。
ドンッ!ドンッ!
銃口から火花が飛び散り、壁に弾丸が食い込む。
「前へ!一気に潰せ!」
セルジオが叫ぶ。
彼の指示のもと、組員たちは巧みに遮蔽物を利用しながら攻撃を続けた。
ガルシア一派は反撃を試みるが、サロモーネ家の緻密な作戦の前に徐々に押し込まれていく。その中を白いスーツの男が、ゆっくりと歩み出る。
ガルシア。
彼は銃を片手に持ち、倒れた部下たちを見下ろした。
「……やるじゃねぇか」
サングラス越しに見える表情は、どこか余裕すら感じさせた。
「だがな、サロモーネのガキども。俺を仕留めたつもりなら――まだまだ甘いぜ。この街は、俺のもんだ。この爆弾で死にたくなければ、俺に忠誠を誓え」
「させるか!」
セルジオが素早く銃を構え、引き金を引く。
――パンッ!
一発の銃声が響き、ガルシアの胸に穴が空いた。
「ぐ……ッ!」
ガルシアはその場に崩れ落ちた。爆弾に強い衝撃が走る。
セルジオはすぐに駆け寄り、それを蹴飛ばした。
爆発は――起こらなかった。ただ、静かに転がるだけだった。
ガルシアは、血を流しながら笑う。
そのまま、力が抜け、白いスーツが、赤く染まり、彼の息が絶えた。
私は、遠くからその光景を見つめながら、静かに息を吐いた。ガルシアは、死んだ。
未来は変わったのか?
サロモーネ家の組員たちは勝利の雄叫びを上げる。
私は、それを見ながら考えていた。これで、本当に終わりなのか?
この街は、変わったのか?
燃えるはずだったフォルテヴィータは、無事だった。ガルシアがいなければ、大火災も起こらないはず。だが、この街が、過去を繰り返しているのだとしたら?この結末が、どこまで影響を与えるのか?それは、まだ分からなかった。
ついさっきまで激しい銃撃戦が繰り広げられていた広場には硝煙の匂いが漂い、銃声が耳に残っているというのに、気づけば、空が明るくなっていた。
私は、唖然としたまま周囲を見回す。
地面に倒れていた者たちが、ゆっくりと起き上がる。
サロモーネ家の組員も、ガルシア一派も関係なく、誰もが静かに立ち上がり、ゆっくりと歩き出していた。彼らの顔には、怒りも苦痛もない。ただ、静かに朝日に向かって歩いていく。
その中にガルシアの姿もあった。血に染まった白いスーツのまま、彼は何事もなかったかのように歩いている。私は、思わず息を呑んだ。
これは……何だ?
この光景は、いったい何を意味している?
私は駆け出していた。
セルジオはどこだ?
なぜか分からないが、私は直感的に理解していた。
これは、別れだ。
この世界が何なのか、まだすべてを理解したわけではない。だが、私には分かる。今ここで、セルジオに会わなければ、もう二度と会えない気がする。私は必死で彼の姿を探し...彼を見つけた。
彼の顔には、戦いの後の疲労も、怒りもなかった。ただ、穏やかに笑っていた。
私は、言葉を失ったまま彼に近づく。
「……ボス」
セルジオは、私の声に気づくと、ゆっくりとこちらを向いた。
「お前か」
その声音は、どこまでも優しく、懐かしい響きがあった。
私は、胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えながら、息を整えた。
「ボス……私は……」
言葉が詰まる。
ずっと、言えなかったこと。
ずっと、心の奥に沈めていたもの。
今なら、言える気がした。
私は、ゆっくりと頭を下げた。
「……すみませんでした」
セルジオは、微かに目を細める。
「何がだ?」
「私だけ、逃げて……幸せになって……すみませんでした」
ずっと抱えていた罪悪感。私だけが、この街から逃げて、生き延びて、平穏な生活を手に入れた。けれど、彼らは違った。彼らは、この街に残り、命を賭けて戦い、そして、あの火事で...。
私は、目を伏せたまま言葉を続ける。
「ボスのことが怖くて……この街のことも…マフィアのことも、全部捨てて…
私は...私だけが、楽になろうとしました……」
「……そうか」
そう呟くと、ふっと笑った。
「なら、謝る必要なんてない」
私は、息を呑んだ。
「……ボス?」
「お前は、お前の道を行った。それだけだ
。誰かに許しを乞う必要もないし、罪の意識を背負う必要もない」
セルジオの声は、どこまでも静かで、どこまでも優しかった。
「それに……」
彼は、朝日に目を向けながら言う。
「お前がこうして戻ってきた。それだけで十分だ」
私は、言葉が出なかった。
セルジオは、ジュリアーノとビアンカのほうを振り返る。
そして、もう一度、私に視線を戻した。
「……行けよ」
「……え?」
「お別れだ」
私はまだ、生きている。
だから静かに頷いた。
「……ボス、ありがとうございました」
セルジオは微笑んだ。
「気をつけろよ」
そう言って、彼は再び朝日に目を向けた。
私は、その場を後にする。
もう、振り返らなかった。
一人、事務所に戻ってフォルテヴィータを去る準備を整えていた。荷物といっても大したものはない。
もともと、長くいるつもりなどなかったのだから。それでも、最後に事務所を見渡した。
この街で過ごした日々。
あの騒がしい日常。
セルジオの声。
すべてが、昨日のことのように鮮明だった。
しかし、私はもうここにいるべきではない。私は、生きている。
彼らは、この街とともにある。そういうものなのだと、私は理解していた。
深く息を吐く。
あの日、逃げた私が、こうして戻ってきて。そして、再び去ることになるとは思わなかった。
しかし、今度は違う。
この街の景色は何一つ変わらない。
けれど、私はもう以前と同じ目で見ることはできない。
これは、過去の街だ。
私は、この街にはいられない。
慰霊碑の前を通りかかる。
風が吹いた。
まるで、誰かがそこにいるかのように。
私は、立ち止まり、静かに碑を見つめる。
「……ボス」
小さく呟くと、風が頬を撫でた。
まるで、彼が分かってるさと言っているようで
私は目を伏せた。
「……ありがとうございました」
そう言って、私は再び歩き出した。
私は、切符を手にし、ホームへと向かった。
「乗客の方、お急ぎください」
駅員の声に促され、私は列車に乗り込んだ。
発車のベルが鳴る。
列車の窓から、フォルテヴィータの街が見える。
穏やかな景色。
何も変わらない街並み。
けれど
私は、知っている。
この街は過去のまま、時を止めている。そして、私はそれを置いていくのだ。
窓の外の景色が、ゆっくりと遠ざかっていく。
フォルテヴィータが、小さくなっていく。
過去の幻のように。
私は、静かに目を閉じた。
そして――
私は、この街を去った。