掌 ある夜、八木はいつもの場所に居なかった。
思ったより落ち込んでいる自分に気づいて、持て余してしまった期待を払うように頭を横に振る。居ないのが普通、居たら幸運だと割り切っていたはずなのに、初めの頃と全く変わってしまった頻度に、すっかり調子を狂わされている。
明日は会えるといいな、と煙草を燻らせる彼の背中を思い浮かべながら、目的を失った志津摩はそそくさとその場を離れた。
――でも、もしかしたらどこかに居るかもしれない。と、つい思い当たるいくつかの場所に足を運ぶ。今日はなぜだか諦めがつかない。
食堂に着くと、人はそこそこに居たがいつもと比べると閑散としていた。見渡せば酒につぶれた者たちが机に突っ伏して寝ている。
すると、出入り口から一番遠い隅っこの席に、見覚えのある体躯を見つけた。はやる気持ちを抑えながらそろそろと近づいていく。一人で飲んでいたのだろうか、酒瓶とグラスは一つずつしかない。
「八木さん」
そっと声をかけると、黒い襟巻をしたその人は、眠たげな顔をゆっくりとこちらへ向ける。
「あれ……田中? なんで……おまえ、飲めないんじゃなかったのか」
酒の強い香りが鼻をかすめる。いつもよりくだけた口調や緩んだ表情を見るに、八木はだいぶ酔っているようだった。
「八木さん……いっぱい飲んだんですね」
「美味いんだ、これ。まってろ、いまついでやるから……」
既にたっぷり酒の入ったグラスに、さらに足そうと手を伸ばす八木の手に触れる。
「俺、飲めません……」
ごめんなさい、と言うと目の前の男は寂しそうな顔をするだけだった。
触れた手がほんのり温かい。俺が八木さんを探している間、酒は八木さんを温めて、なにかを忘れさせた。
離れがたくて動けずにいると、突然八木が空いているほうの手で志津摩の手を引いた。
「や、八木さん?」
「うん……」
八木は志津摩の手をまじまじと眺めだす。
意図が分からず緊張しながら様子を見守っていたが、ついに耐えきれず「俺の手が何か……」と恐る恐る尋ねると、八木はやっと口を開いた。
「おまえの手、奇麗だよな」
予想もしなかった言葉に思わず手をひっこめ――ようとしたが、しっかり握られていて逃げられない。
「まえから思ってたんだ……ほら、おれのと全然ちがう」
八木の掌と自分のものが横に並べられる。比べて見ると、八木の手は大きかった。筋肉質ですらりとした手。
先ほどの言葉が何なのか分からないうちに、この手、この指に身体の柔らかい部分に触れられていたことまで思い出してしまって、たまらず心臓が煩く拍動する。
「まっすぐで指の太さもちょうどいい……なんだ、おまえ爪も奇麗だな」
八木は独り言のように呟いていたかと思えば、今はけらけらと笑っている。
「お、俺の手なんて他の人と大して変わりませんよ」
「他のやつの手なんて知らん」
……言い切られた。今日の彼は素直すぎる。普段の口数は少ないが、表に出ないだけであの大きな身体の内にはどれだけの言葉や想いが埋まっているのだろう。
「おまえの手、冷えてる」
八木の両手が志津摩を包む。八木はこうして志津摩をいつも子供のように――いや、無償の何かを与えるように接する。それはどんな言葉よりも、はるかに雄弁であった。
駄目だと分かっていながら、どうしようもなく渇望していたその熱に、めまいがするほど浮かされる。
与えられるばかりで、何も返せていない。
「ごめんなさい、八木さん」
口の中で小さく呟いた懺悔の言葉は、八木に聞かれることなく消えていった。
*
志津摩は星の下にひとり、いつもの場所に腰掛けながらそんなことを思い出していた。
翌日、酔いをさました八木がいつも通りでひどく安堵したのと同時に、あのかわいい酔人を見れなくなるのを少し残念に思ったことを覚えている。
黒い襟巻の彼の匂いが遠くなってきたからだろうか、以前よりも八木と過ごした夜が頭を過るようになった。
己の掌を見つめていると、あの時のやりとりが浮かんできて胸の奥をくすぐる。
「自分の手なんか見ても何も思わなかったんだけどな」
八木さんからもらった熱が今でもこの身を温めている。
たくさんをくれたあの人に、すべてを捧げて返したい。
そうしたら、また彼に逢えるだろうか。
「ちょっとは俺も飲めるようになりたいなあ」
そうこぼした矢先、あの日の翌日に酒に挑戦して一口で目を回したことまで思い出してしまった。
「いや、無理だな……お酒は諦めよう……」
視線を落としてもう一度てのひらを見つめる。
記憶の中で八木さんが笑っていた。