部屋の中に化け物がいる。
廊下の方から音が聞こえた。くすくすと笑うような音。廊下にいるのだとばかり思った。きっとみんなそう思っていた。だから彼女は廊下を見に行ったし、そこをやられたのだ。中にいた。中にいる。
勇敢なお嬢さん、木刀を持ったお嬢さん。血を流しながらも確かにこらえていた。意識を失いつつも、私たちに警告すらをも残したのだ。煙が出ている。廊下から煙が。廊下には出られない。煙などなくともどう出ろと言うの、だってあれがいる、扉の前にあいつがいる。彼女の返り血を浴びて初めて見えるようになったあいつが。透明な化け物が。
逃げるしかない。
私は確かにそう思った。逃げるために振り返った背後に青年が立っている。
ああ、こいつも逃げる。逃げようとしている。
何故だかわかった。この青年は同じだ、自分の身のみを省みる。自分だけでも隣の部屋に逃げるだろう。少女を見捨ててでも。
逃げるしかない。
わかっている。逃げるしかないのだ。それなのに私は考えていた。
私の隣にいるお嬢さん、冷静なお嬢さん。彼女は拳銃を持っている。戦うことはできる。しかし彼女はまだ子どもだ。
近くにいる格闘家。彼は強い。なんてったって金メダリスト、あの轟さんだ。戦うことも、倒れた彼女を連れて逃げることだってできるだろう。だからこそ彼を失うわけにはいかない。
じゃあ、私には何ができる?
逃げなきゃ。
いつもの私が囁いている。そんなことはわかってる。わかっているのにどうして私は考えている?
スタンガン。化け物に効くとは思えない。護身術。あいつに近寄れない。私に、私にできることなんてーー
カメラを握りしめた。いつもの相棒とも、替えのものとも違う、どこにでもあるちゃちなデジタルカメラ。それでも私には、これがある。
床を蹴る。飛び込みたい扉とは真逆の方向へ。冷静な少女と格闘家、まだ逃げていなかったらしい青年から距離を取る。化け物に動きはない。カメラのシャッターを切る。ぶれてたっていい、写りなんか今はどうでもいい。奴に向かってフラッシュを焚いた。一回、二回。まだ動かない。
閃いて、本を掴んで投げつける。ここは図書室だ、使えるものは何だって使ってやる。血に濡れた場所に本が当たる。もう一度、何度でも。奴はようやく動きを見せた。私の方に動き出した。
逃げながら手当たり次第に本を掴んでは投げ続ける。もう記者も何も関係ないなぁ。
何をしているんだろう。
きっと冷静な私が言う。
どうして逃げないんだろう。どうして見捨てないんだろう。
三人がいた場所を見れば、もう格闘家はいなくなっていた。勇敢なあの子を助けてくれる。行動の早さに口角が上がる。
本を投げる。倒れた少女から少しでも遠くへ、でもまだ二人がいる場所……私たちが逃げ込む部屋の扉からも遠い場所に、おびき寄せるように本を投げる。餌は私だ。部屋が狭い、どうしてこんな縦長なんだ。
誰もが誰かの踏み台で、万物が何かの糧だ。彼らを見捨てて踏み台にして、自分だけは助かればいいのに。
彼は、間違ってはいない。今はもう隣の部屋に体を入れて、こちらの様子を伺っている彼は間違ってなんかいない。逃げるのが正解だ。生き残るには何かを犠牲にしなければならないときもある。自ら囮になるなんて、気の狂った答えだ。
不意に思い出す。かつて取材した勇敢な人。通り魔を抑えて殺された悲劇のヒーロー。ヒーローすら踏み台にした。誇り高い彼を私は笑った。誇りは人を殺すのだと。正義は何の役にも立たないのだ。
化け物との距離は近くなっている。今も私に近寄っている。死が頭をよぎっていく。
私に誇りはない。正義もない。あるのは記者としての気概だけだ。誰にも自慢できない、クソみたいに汚い気概。
だというのに私は今何をしているんだろう。
ずいぶんと頭が回る。危機的状況だと頭が切れるようになるのは本当だったのか。時間が引き延ばされるように、短い時間の密度が増す。経験したくなかったなぁ。
格闘家が少女を担いで走る。隣の部屋に駆け込んだ。冷静な少女と目が合った。うなずいて彼女も部屋に入った。
身を翻して走る。死から少しでも離れるように、全力で、全力で。こちらを見つめる6つの瞳。すぐに扉を閉められるように身構える少女。
衝撃。熱い。おなかが痛い。勝手に力が抜けていく。反射的に伸ばした右手。届かない。景色がぼやけていく。扉、とどかない。
因果応報かぁ。そのわりにはらしくないなぁ。
きっと私は幸運だった。数多の人を踏みにじったのに、有象無象の中の数人を助けようとして死んだのだ。らしくない。本当にらしくない。
あの短い瞬間に私は死ぬと理解して、それを受け入れられたことも幸運だった。それどころかあまりにも私らしくない最期に満足すらしていたかもしれない。
すぐに意識が飛んだのも、死の苦痛が一瞬だったのも幸運だった。
何より幸運だったのは、そのあと意識が再浮上したことだろうけど。
信じられないことに、確かに死んだはずなのに、私は帰ってこれたのだ。