僕の弟 実休が目を覚ましたのは、いつもよりもほんの少し早い時間だった。ぼんやりとした意識が、次第に覚醒する。瞼を押し上げ、うう......とくぐもった声を出した実休は、のそのそと布団から這い出た。
「あれ......?」
いつもなら、これくらいの時間には、弟のどちらかが声をかけに来てくれるのだが、今日はその声がない。二振とも長期遠征だっただろうか。いや、昨日の出陣表には、だれの名前もなかったはずだ。
不思議に思いつつ、ん、と伸びをした実休は、部屋の入口あたりから、何かがカリカリと引っ掻いているような音を拾った。そう、まるで、猫が引っ掻いているような。
猫なんてこの本丸にいただろうか。首を傾げつつ、すっとふすまを開いた実休は、足元のにめをやって、え、と声を出した。
「福島と、光忠......?」
毛艶の良い黒猫が2匹。1匹は、蜂蜜色の美しい瞳で実休を見上げており、もう1匹は、落ち着かないように紅玉の瞳を彷徨わせていた。みい、と鳴いたのはどちらだったか。その小さな鳴き声に、実休の胸が震えた。
「おいで」
跪いて手を差し出せば、福島がそろりと近づいた。そして、実休の大きな手に頭を寄せると、すり、とすり寄った。その様子を見て、燭台切もそろりそろりと近寄ってくる。ちろり、と覗いた赤い舌が手に触れる。
実休は躊躇うことなく、その2匹を室内に招き入れた。
とはいえ、刀が猫になるなんて前代未聞の出来事だ。このことを、主は把握しているのだろうか。
「ねえ、主には会った?」
そう問うと、2匹はこてんと首を傾げた。どうやら会ってはいないらしい。
「そうだなあ、まずは主に報告かな」
大体、実休に猫の世話の仕方は分からない。それに、間もなく厨に燭台切の姿がないと気が付いく刀も出てくるはずだ。例えば、そう。
「実休さん、起きてるかい? ちょっと訊きたいことがあるんだが......」
「薬研くん」
近侍の彼とか。
「起きてるよ」
「お、よかった。ちょっとばかし、訊きたいこと、が......」
部屋に入ってきた薬研は、実休の足元を見て固まった。すごく見覚えのある猫だ。
「じ、実休さん。それ、まさか」
「こっちが光忠で、こっちが福島だよ」
「いや、見ればわかる」
意味は分からないが。薬研は深く息を吐くと、足元から心配そうにこちらを見上げる福島をそっと撫でると、襖をすぱんっと開けた。
「よし、大将のところ行こうか」
良い笑顔の薬研に、実休はこくりと頷いた。
さて。行方不明だった二振が見つかり、まさか猫になっていたなんて、と大騒ぎだった本丸も、主と政府の説明でどうにか落ち着きを取り戻しつつあった。
「やっぱりバグみたい。数は少ないけど、各所の本丸で起きてるらしい。どうやら、だんだん人間に戻るらしいから、様子を見てって」
現在燭台切と福島は、実休の膝の上に収まっている。完全に猫の姿の二振に、実休の表情筋が機能していない。
「デレデレだな」
「可愛いよね」
「それは否定しない」
猫じゃらしやらなんやら、世話の道具を持ってきた薬研は、すっかり魅力に囚われてしまっている実休を見て苦笑いした。なんだかんだで、この刀も兄弟には甘い。庇護欲が溢れて止まらないのだろう。薬研だって、兄弟がこうなれば、そりゃあもう、目一杯可愛がるだろう。
「大将によると、今日の昼には人間の姿に戻るだろうが、耳と尻尾は残るらしい。完全に戻るのは明日か、明後日か、くらいだろうと」
「へえ、戻っちゃうのか……」
「なんだ、残念か?」
「いや、戻っても可愛いのには変わらないから」
「そうかい……」
ま、仲良くやんな。困ったことがあれば執務室まで来てくれ。
薬研はそう言い残すと、近侍の仕事に戻って行った。部屋に残された実休は、ボールと戯れる福島と燭台切を、少し離れたところから見守る。
(可愛いなぁ……)
兄弟の中で、一番顕現が遅かったのは実休だった。弟たちの大きな背中を、何度も見てきた。特に、燭台切は既に極であり、実休よりもはるかに経験を積んでいる、この本丸の要だ。福島だって、この本丸で第二部隊の隊長を任されている。
大きくて、強くて。でも、可愛い弟たち。実休にとって、大切な、大切な弟たちだ。
「……ん?」
そんなことを考えていると、福島が近寄ってきた。胡座の中にぴょん、と飛び込んだ福島は、そのまま良いポジションを探すと、ぺたりと眠る体勢になった。ちらりとこちらを見上げた紅い瞳に応えるようにそっと背中を撫でてやれば、満足げに尻尾が揺れていた。
「ふふ、気持ち良い?」
にゃう、と声がして、福島はそのまま眠ってしまった。そのまま撫で続けていると、燭台切も、てとてととこちらに近寄り、横に座り込んだ。
「光忠も、こっちに来る?」
膝の上を指せば、燭台切は迷うように視線を彷徨わせると、躊躇いながら福島の横に入り込んだ。福島と実休の体の間で、きゅ、と身を縮めた燭台切は、やがてうとうとし始める。
そんな2匹を撫でながら、自身もくあ、とあくびをした実休は、壁に体を預けて、そっと目を閉じた。膝の上の重みが愛おしい。
「ちょっとだけ、ね」
仕方ない。こんなに可愛いんだもの。少しばかりのお昼寝は許してもらおう、と実休はうつらうつらと夢の世界へ旅立った。
ぱちり、と目を覚ました実休は、膝の上がやたら重いことに気がついた。とても猫の重さではない。ん?と思いつつ、そっと撫でると、柔らかな髪の毛に手が触れた。
「ん、ん……?」
見下ろせば、そこには燭台切の頭があった。横には、福島が。実休の腿に頭を乗せて、ぐっすり眠っている二振の耳には、黒い猫の耳がまだついていた。
(もう、お昼かぁ……)
起こすのも可哀想か、と実休はそのまま福島と燭台切を撫でながら、ぼんやりと外を見ていた。鶯の声が時々聞こえる。すっかり春になり、自分が顕現してから季節が一巡りしようとしている。あの頃よりも、強くなれただろうか。
「桜が咲いたら、お花見するんだってね」
楽しみだね、と語り掛ければ、うう、と福島が身じろぎした。しがみつくように実休の腰を抱きしめた福島は、そのまままたすうすうと寝息を立て始める。
「苦しくないの?」
苦しくないらしい。そのまま動かない福島に苦笑いした実休は、優しく背中を叩いてやった。
一方で、大きな体を丸めている燭台切は、温もりを求めるように、福島にそっと寄り添っていた。部屋は空調が効いているからそこまで寒くはないのだけれど、きっと、寂しいのだろう。さらりと髪をすき、耳の辺りを撫でてやれば、むず痒そうに燭台切が動いた。
「福島の気持ちがわかるな……」
お兄ちゃんって、良いね。強要はしないけど。
しっかり者の弟たちだ。それでも、こうして眠っている姿を見ると、少しだけ、幼い面もある。
可愛い。可愛い。こうして湧き上がる気持ちは、刀の頃にはなかったものだ。
その時、ぱちりと燭台切が目を覚ました。ゆっくりと蜂蜜色の瞳が世界を映す。目の前に広がる大きな背中と、自分の頭にある大きな手。状況を認識した瞬間、燭台切は飛び上がった。
「え、は、え??」
「あ、起きた?」
「え、待って。何?????どういうこと????」
混乱したまま後ずさる燭台切は、自分が福島に縋って、実休に膝枕されていたことを思い出して、さあっと顔を赤くした。
「ぼ、僕、」
「うぅ……なに……」
その時、福島も目を覚ました。そして、捕まえていた実休の腰から手を離すと、ん?と周りを見渡した。
「え? 俺、今何、掴んで、」
「僕の腰だね」
「は?」
「僕の腰。もういいの?」
「は?????」
二振が離れて行って若干寂しそうな実休だが、二振はそれどころではない。状況を理解し、お互いに顔を見合わせたところで、互いを指さして叫んだ。
「何その耳!?!?!?!?」
「尻尾ぉ!?!?!?」
状況を説明された二振は、しばらく羞恥で悶えていたが、落ち着きを取り戻すとそのままぴこぴこ動く耳や尻尾を興味深そうに動かしていた。治るまでは、出陣はもちろん、内番まで禁止されてしまったため、やることがない。困ったな、なんて言いながら、部屋に戻ろうとした福島と燭台切は、後ろから実休に呼び止められた。
「帰るの......?」
「俺たちがここにいたら迷惑だろ?」
「そっか......」
見るからにシュンとしてしまった実休に焦った二振は、こそこそと相談を始めた。
「ど、どうしよう......! あんな顔されたら帰れないよ!!」
「俺たちがあの顔に弱いことをわかっててしてないか? あの顔」
「どちらにせよ、僕たちはもう少しここにいることになりそうだね……」
頷き合った二振は、くるりと振り返ると、実休に声をかけた。
「あー、その、もう少しここにいさせてもらおうかなって……」
「......!! 本当?」
「そうそう。な? 光忠!」
「うん。僕もお邪魔させてさせてもらおうかなって」
ぱあっと顔が明るくなった実休は、いそいそとお茶の準備を始めた。そんな背中を眺めながら、僕たちもたいがい甘いよね、なんて、二振は息を吐くのだった。
「......で、明日には戻るにしても、今日どうしたものか」
福島がそう言うと、同じく燭台切が頷いた。
「厨の仕事もないし、手合わせもできないしね」
「あと、この体やたら眠い......」
「それは僕も......」
そんな二振をにこにこ眺めていた実休は、ふと声をかけた。
「夕食までもう一度眠る?」
「あー……」
先ほどのことを思い出して、二振は苦い顔をした。できれば、というか、なんとしてでも、再びあんなことになるのは避けたい。が、雲行きが怪しくなってきた。
「えっと......」
「実休、その手は......」
腕を広げている兄に、弟たちは嫌な予感がしていた。どう考えてもそういうことだ。何を求めているかなんて、訊かなくてもわかる。
「ほら、おいで」
いや僕たちもう人間だし、とか、短刀ならまだしも、俺たちみたいな大きい刀が、とか、言いたいことは山ほどあるのだが、結果的に、二振はまた実休の膝枕を受けていた。兄に甘い、というか、逆らえい性というか。
実休は、とにかく撫でるのが上手だった。人間の形に戻っても、猫の時に甘やかしてくれた、あの手の心地よさを忘れられなかった。
(魔性め......)
福島は、実休の手を甘んじて受け入れつつ、筋肉質な腿にそっと頬を押し付けた。耳と尻尾があるからか、まだ猫としての習性が抜けきらないらしい。癪だが、もういっそ開き直った方が楽かもしれない。福島は、半ばやけになって目を閉じた。
その横で、落ち着かないように尻尾を揺らす燭台切は、そっと実休を盗み見た。隻眼に映る実休は、愛おしくて仕方がない、というように、福島と燭台切を見つめ、そっと頭を撫でていた。
(こんな顔もするんだ......)
すると、ふと、燭台切と実休の目が合った。慌ててばっと目をそらした燭台切の瞼を、実休の手が覆ってしまう。
「......光忠は、あんまりこうされるのは好きじゃなかった?」
ふ、と笑った実休は、静かに言葉を紡いだ。
「僕はこの中では一番新参者だけれど、たまには『お兄ちゃん』するのも悪くないね。薬研くんたちとは同じようにできないし、僕たちは皆太刀だからね」
福島の耳がピクリと動く。燭台切の尻尾が揺れる。
「でも、たまには福島も、光忠も、甘えてくれると嬉しいな」
穏やかな午後。差し込む光は暖かく、春の訪れを感じる。うとうと微睡む夢うつつ、燭台切はそっと実休に身を寄せ、福島は頭にあった実休の手を捕まえた。赤くなった耳は、見ないふりをして。
「わかってるよ......お兄ちゃん」
「今日だけなら......兄さま」
僕の、弟。いつまでも、大切な、僕の弟。
幸せなぬくもりに包まれて、実休はそっと目を閉じた。