気配と匂い「漣、おかえり」
玄関のドアが開くのに合わせて声をかけると、ん、と短い返事が戻ってきた。機嫌が良さそうだ。靴を脱いでそのまま台所の方に行って、冷蔵庫を開けている。
「なにか食うなら手を洗ってからだぞ。あ、でもそのプリンは晩飯の後な。飯は今日も鍋でよかったか?」
声をかけるたびに、ん、ん、と短い声が返ってくる。プリンのことだけは不満そうだったが、結局手は付けずにいてくれるらしい。そのまま手を洗う音が聞こえてから、こっちにやってきた。
「今日はちょっと寒かったな」
「別にィ」
やっぱり短い返事をしつつ、あたりをきょろきょろと見回してから自分のあぐらの上にどかっと座り込んだ。背中を自分の胸にもたれかけて体重を預けてくる。
「手、冷たくなってるじゃないか」
「あっためろ」
「はいはい」
少し塗れたままの手がひんやりと冷たい。ご希望の通り、両手で包んで温めてやる……と、満足そうに鼻を鳴らしている。ついでに傍らの机の上に置いていたハンドクリームを手にとって刷り込んだ。これは漣のお好みじゃない――もちろん知っている。ぬるぬるした感触が嫌いなんだそうだ。だとしてもアイドルとしても、でなくても寒くなってきたのだからケアしないわけにはいかないだろう。こんなにきれいな手の持ち主だというのに。
とはいえ嫌なものは嫌なのだそうで、身動ぎして小さく唸っているが、今のところ逃げないので相変わらず機嫌がいいのだろう。
「らーめん屋」
「ん?」
三角になった目がこっちに振り向いた。ぐっと背伸びして、こちらに顔を近付ける。ふんふん、と鼻を鳴らして何かを探っているようだ。……猫みたいでかわいらしいな。
「漣、ちょっと目を閉じてくれないか」
「ハァ? ……そーいうんじゃねー」
まあ、そうだな。漣の方から顔を近付けたとはいえ、そういう意図じゃないことはわかっている。単に自分がしたいだけだ。なのに、自分の言いたいことを汲み取ってくれる漣は優しい。
頬を指でくすぐる。漣が首を傾けて、その指に鼻を押し当てている。ふんふん。鼻息がくすぐったい。
しかしそういうことをされると、やっぱり下心が抑えきれないんだが。
「漣」
「しょーがねーな」
二度目、お願いをして漣のお許しを得た。目を閉じて、少し眉間にシワを寄せて、への字の口をつんと尖らせて、ぐっと顔を上げる。
で、その唇にキスをした。
触れるだけ、……では止まれなくて、唇が離れたときには二人分の唾液で漣の口の周りをしっとりと濡らしてしまった。漣が赤く薄い舌をぺろりと出して、口の周りを舐めている。
「らーめん屋と……チビの味がする。チビの匂いもする」
「そんなことわかるのか? さっきタケルともキスしたんだ」
今度はムッとして唇を尖らせて、再び部屋の中をぐるっと見回した。……これは機嫌が、悪くなっているな。
「……じゃ、なんでチビいねーんだよ」
「タケルはこの時間、仕事の打ち合わせの予定が前から入ってたぞ」
「チビの予定なんか知るか」
そう言い捨てて、ますます不機嫌になる。
部屋に入ってきたときから、漣はタケルを探しているみたいだ、とは思ったが。あてが外れて不機嫌、だそうだ。
「短時間の打ち合わせだそうだから晩飯の頃には戻るってさ」
「ならさっさと飯作れ!」
「今から作るとタケルが帰ってくる前にできあがってしまう」
漣は完全に不機嫌になって膝の上で唸っている。せっかく帰ってきたときまではご機嫌だったのにな。しかしその理由が、かわいい。
タケルの気配がしたんだろうか? それとも、さっき言ってた匂い、かな。
たまらなくなってニヤニヤしていると、漣からさらにきつく睨まれた。