close,chance,choice その場に留まるために走り続ける。
成長ではなく停滞のため。
少し昔の、まだ白い鴉のいない、一人きりの静かで暗い家。酒場から帰ってこない、戸の隙間から覗き見たことのある暗い表情を隠した父。そして時々、女の人の話。
夜の静かな静かな怖い家。自分の居場所。誰もいないけれど、文字だけはそこにある。
どうすればいいのか、その時の私には分からなくて。
どうしようもないものを、どうにかしようとして。
それで、それで……多分、私は間違った選択をした。
髪は骨灰磁器よりも更に白く、人の助けが必要なくらいに長く、肌は日に当たらない月の色。そして、目の色は「お父様」と同じ、紫の色。
――お父様さえいれば何も要らない。愛されることがなくても、お人形は持ち主を愛している。お父様のためだけに言葉を話せばいい。お父様のためだけに笑っていればいい。そこには学校も、何も、必要ない。人形に必要なのは、ただそこにあることだけだったから。
物を食べなくなった。気付かれないようにパン一つから始まって、食事を抜くようになって。肉が落ちて、細くなった手を綺麗と言うから。布をたっぷり使ったドレスだって似合うから。
身長が伸びるのが止まった。数ミリは伸びているけれど、「少女のお人形」を大きくしたら、こんな風になるんだろうな、という大きさで。
亡き母をどうでもいいというようになった。どうしようもなく在り続ける空白を、無視するように。
時々「お父様の理想のお人形」であることを確かめるように質問する以外は、大人しく、従順に、盲目に。
そのまま、何にも染まらないように暗くて、深くて、何も求めず、何も感じないように。
最高の、生きた人形。
――そして、この状態が壊れるのが恐ろしくなった。理想は追いかければ追いかけるほど遠のいていって、喜ぶべき、仮想の新しい家族は、自分の家族と居場所を削り取って、揺るがす相手に。お父様は、お父様がカラスは白といえば白くなるような、絶対的なものに。
二人で鳥籠の中にいるように。この先もずっと、そう、閉じ籠って在り続けると思っていた。
「こんにちは、ヴァニレさん」
「……ウォルター先生?」
呼び鈴を鳴らしたのはお客様かと思ったけれど、そこに居たのはふわふわしていそうな茶色の髪と、穏やかな薄靄の水色の目をした先生だった。
「仕事帰りに寄れる場所でしたので」
そうなのかしら、と思いながら受け取ったのはウォルター先生が持っていたのは、授業の内容を纏めたらしいプリントや問題達と、連絡事項をまとめたプリントだった。
「あら……持ってきて、くれたの……?」
もしかしなくても、作ってきてくれたのだろうか。作って配ったものを、纏めたのかもしれないけれど。
どうしてか、それを少し「嬉しい」と感じた。
その場でぺらり、と捲ってみると、ウォルター先生らしい内容の問題が並んでいた。
その後ろには回答と解説もあるようで、「そっちは見ないで解いてくださいね」と柔らかく笑う。
「ちょっと先生は面談をしようと思っているのですが、今お父さんは居ますか?」
「今日はまだいたと思うわ。……ちょっと、呼んでくるわね」
土に汚れたことのない靴が、木の床を歩く音を立てる。
内心では恐る恐る、お父様へお客様の存在を伝えて、ウォルター先生に自分は自室へ戻ることを伝える。プリントの内容を見てみれば、教科書を見ながらなら多分解けるだろう、という内容だった。
――明日は、学校に行ってみようか。
問題を提出しに、もあるけれど。授業を受けたくなったから。
それから、ウォルター先生は教えてくれることが増えた。
学校だけじゃない、卒業した後。
教会のサポート、行政の話。
心はお人形のままでも、一度は縛りつけていた世界は、また少しずつ広くなっていく。
――少しずつ、色が増えていく。
それが、どうしてか嫌ではなかったのを、今でもまだ、覚えている。
――だから。
「……随分様子がおかしいと思ったら、壁の方のお名前を知っているのね、お父様。この前はあんなに怯えていたのに。
実の娘にも言えないような話をしたのかしら。
それともそんなに美人だったの?」
「ウォルター先生さ!ウォルター先生から聞いたんだ。
怖いと思っていた正体の名前を知れたから安心したんだよ。
噂話を子供にしても怖がらせるだけだからミーナには言わなかったんだ」
――何を、言っているの。お父様。
「ウォルター先生が?私には怖がりだと言っていたのに、嘘だったのかしら。
でも、怖いからこそ知っているのも、おかしくはないわね。
ねえ、お父様」
お父様の言っていることが、もう少し上手な嘘なら。
少なくとも、誰かの名前を出さないものなら。
どんなに様子がおかしくても、信頼できなくなっても、穏便な方法を選べていたかもしれない。
「ウォルター先生は随分参ってる様子だったよ。
僕が保護者の責任を〜と少し脅したら喋ってくれてね。
混乱を避けるための大人の話し合いさ」
なのに、よりによって。
――多分、生まれて初めて、血が沸騰するようという言葉の意味を理解した気がする。
指先は、冷たい水に浸したようで。それなのに、どこかが酷く熱く燃えていて。
「ふふ、ところでお父様。ウォルター先生を脅すのも良くないけれど。
私の質問、そういう風にはぐらかしたことは再婚の件以外ではなかったと思うのだけど?」
一。
「……はぐらかしたかな?本当のことだよ。不用意に怖がらせたくなかったんだ。でも知らない方が怖いのはミーナも同じかな。ごめんね」
零。
三を数える余裕すらなかった。
いつもは、この表情が綺麗に見えると造って練習した微笑みも、 口の端が釣り上がっていく。
「ええ、とっても。ところで、私。今とても怒っているの。呆れることは沢山あったけど初めてかもしれないわ、怒ったの。つい笑ってしまいそう。
ねえお父様、どうしてか分かるかしら?思い当たる節はある?」
多分、お父様が履くようなヒールの靴を履いていたら、きっとよく響く音を響かせていたかもしれない。そんなはしたないことはするものではないよ、と言われそうだったけれど、とてもじゃないけれど今は何一つ取り繕えそうにない。
「……怒っている、か……珍しいね?……ううん、思い当たるところは無いかな……どうして怒っているの? ごめんねミーナ、反省するよ。お父様として良くないよね」
――そういうことではないのよ、と声を張りそうになった。
呆れたような、失望したような、よくも、という思い。
誰にだって越えてはいけない一線があるということを。それが、娘にも存在していたことを。
何故、思いつかないのかと。
もし今挙げられた名前が、ウォルター先生の物ではなくて、他の先生達であったとしても、親しい人達であっても、私に良くしてくれた人達なら、誰の名前でも同じような感情を覚えたと思う。
嘘だとしても、脅した、なんて言葉を選ぶなんて。
ふぅ、と冷静になろうと――違う。
いかに相手への言葉を選ぶか。明確に、傷付けようとその時の自分の思考は動いていた。
――そして、牙を剥く。
「あはは、本当に思い当たらないのね。
自分ばかりが可愛いお父様。
本当のことも言わないで、言い訳ばかりのお父様。
そこで先生のことを言わなかったらまだ許してあげられたのに。
私ね、私に良くしてくれた人達を良いように使われるの、大嫌いなのよ。特に先生達はね」
「口の利き方に気をつけるといい、ミーナ」
何時もなら恐ろしく感じるはずの声も、今は感じるのは怒りの方が勝っていた。
「……意味がわからないよ。そんなふうに怒るのはやめよう?ほら、怒ってないで帰ろう。ね?」
そして、なだめようとする。
――ああ、逆効果。
「そうね。でも、もう直すつもりもないのよ。
お父様が「お父様」になるためにどれだけ頑張っていてもね。
いっそ妻なり新しい「私」を見つけたらどう?」
きっとお父様にとっての「minä」は沢山いる。私に替えは効く。
替わりの効く娘。自分勝手に人形を始めて、自分勝手にその役目を捨てた娘。従順な可愛らしさを求めるなら、新しいものに求めればいい。
好ましい形に剪定されなくなった花は、好き勝手に枝葉を伸ばす。
「あら、私、怒っていると言ったばかりよ。今はとても駄々を捏ねたい気分なの。
それにしても、嘘が下手になったのではないかしら?お父様」
「…………僕の何が不満なのさ。お酒だって眠るほど飲んでないし、家にいる時間も増えた!食事だって作る回数が増えた。どうしてだい?」
――確かに、その変化はいいものだった。
だけど、無理してまで「いい父親」になってほしくなかった。
髪を切ったら、せっかくお揃いで買ったあの飾り紐が結べないように。
「私を信頼させてくれないことよ。教会のおとぎ話にすら話し合いの大事さは載せてあるのに。こんな時勢だから話し合わなくてはいけないのに。もう少し作り話でも上手な方が良かったわ。
それとも今から一緒に教会へ行きましょうか」
反省するならきっとそれがいい。
神子様の御前では、自分を見せつけられる。
歪んだ物差しを。傾いた天秤を。偏った眼鏡を。
だから、頭を冷やし、悪夢みたいな熱が消えるよう祈るなら、教会は絶好の場所だと。
それに、気になることがあった。――この時勢で「あえて」教会へ行かないことを、祈りを捧げないことを選ぶ人がいるのかを。
今までなら、確実ではないけれど言及くらいはしそうだったのに。
だから、少し思ってもないことを口にした。不自然ではないように。それでも、この国に住む人間なら、何かしら思うところはあるはずだと。
「嘘をつくことだってある。でも大人には大人の事情がある。大人の顔色を伺って察することくらいミーナにはできるだろう?」
――それでも、許せない嘘はある。
「でも「親子」はまた違うのよ。吐いてはいけない嘘だってあるわ」
「…………信頼ねえ。子供は無条件に親を信じていればいいものだろ? 話し合いだってした。その結果僕は変わったよ。……僕もお前に呆れている」
溜め息を吐くお父様が、分からないふりをしているのか。それとも本当に見えていないのかは分からない。
――無条件なんて、どこにも無いのよ。お父様。
「それでは足りないと言っているのよ。分からないなら、どうぞ呆れたままでいて」
「…………わかったわかった。親子の話し合いでもしようか。家で話し合おう。帰ろうかミーナ」
「確かにあまり往来で話すものでもないわね。帰ってから話し合いましょうか。色々と」
「……なんて口をきくんだミーナ。良くない子と絡んでいるのか?…………ふふ、それとも反抗期かな?順調に育っている証拠かな」
腕を組んで、溜息を吐いて。
見下ろされた後に、黙って家路に着く。
小さな舌打ちの音に、これは少し距離を置いた方がいいだろうと目を閉じた。
家に着いて、コートを脱いでいる。私も羽織っていたものをコート掛けに戻した。
「……全く。食事の用意をするから先に風呂を済ませなさい」
そういえば、今日は肉料理だと、言っていた。
――そこに関してだけは、心が痛むけれど。
「そうね。お風呂が先なら着替えを取りに行かないと」
まるで童話のようだ、と思った。
王様を騙して、着替えに時間をかけてお城から逃げる準備をするお姫様の話。
「………………」
返事をせず睨むように、こちらを見てからキッチンに向かうお父様を見送ってから――よし、と纏めていた荷物を持って、窓の傍に椅子を寄せる。お父様が基準の家は、どこもかしこも大きいものだから。
それでも、昨日の今日くらいの短さで纏めた荷物を持っていくことになるなんて、エリヤが聞いたら呆れるでしょうね。
「リーリエ」
大きな鳥籠の中で佇む、純白のワタリガラス。
「ごめんなさいね、着いてきてくれるかしら」
巣立ったばかりの頃に怪我をしていたところを拾って手当をして。人に慣れすぎて、野生に戻れなくなった子。人の話している言葉も、ある程度は分かるようで「きて」という言葉に開いた扉から外へと飛んでいった。
窓をよじ登るようにして、外へ出る。
壁に張りつくような動きをしたのも、流石に初めてのことだった。
――芝生に座り込んで、空を見上げる。
やってしまった。
だけど、あんなに怖かったものを自分で壊してしまえば、案外大したことはなかったのかもしれない、というのが――なぜか、どこか寂しいと思ってしまって。
浮かんでいた月が、ふと、新しく仲間入りをしたティーコゼーをあまり使えなかったことが心残りかもしれない。なんて囁く声が聞こえそうなくらい、静かな夜だった。
――ミーナ。この子の名前は、ミーナにしよう。
私の好きな茉莉花と迷ったんだけどね。多分ミーナの方がミルクは可愛いって言うだろうし。
それに……もし私が居なくなっても、きっとミルクを支えてくれる。親子二人、仲良くいてくれる。
minäの代わりに。可愛い可愛いminun lapsi。
どうか、いつまでも。幸せでいてね、二つの私の宝物。