いつかの約束 街中では、ふわりと桜が綻び始めている――場所によってはもう花開いている頃。
公園のベンチに座りながら、もうすぐ二年生かぁ、と春の空を思わせる青へ新しく変わるネクタイの色へと思いを馳せる。まだ検閲の嵐は終わっていない。けれど、私はまだ現実に生きている。普通の子供達と同じように。もうすぐ春休みだから、その時までには落ち着くといいなぁ、なんて叶わなさそうなことを考えながらただ空を見上げてぼんやりとしていれば、春風に靡く薄黄蘗色の髪が視界に入る。
黒地と青の特徴的な服装に、瑠璃に金という色違いの瞳。柔らかそうな毛に覆われた三角形の耳と、左側に二つ並んで付けられた赤と透明な石のピアス、それからふさふさの尻尾。
そんな彼女が深々と頭を垂れて、こう言ったのだ。
手には可愛らしくラッピングのされた小さな箱を携えて。
「――お届けに、参りました」
優しいけれど物悲しげな声が、春の柔らかな空気の中にしんと響く。
「……どちら様、でしょうか」
指先に止まらせていた蝶々に触れながら、イオリは彼女へと問いかける。――嘘を吐いた。知らないふりをした。本当は知っているのに。あの日、あの場所で見かけたから。三日間のお祭り騒ぎの中、装いこそ違うけれど、日溜まりみたいな笑顔を浮かべていた彼女が確かに居たと、覚えている。──自分と同じ、柔らかい毛質をした紺色の髪をした女の人がいたことも。
ただ、信じたくなかった。あのきらきらとした表情が、静かに曇っていること。口座に何時もとは違う金額が振り込まれていたこと。――新聞の片隅に小さく載っていた、ある記事のこと。
だからこそ、今から何を告げられるのか、それが何であろうと受け入れようと決めていた。本当は、とうに分かっていたことだから。
そして、彼女は「れい」と名乗る。苗字も何も無い、ただの「れい」だと。
「お姉様――加々宮イタルさんからです。私も、中身は存じておりません」
そう言って、れいは綺麗にラッピングされた小箱を差し出した。
薄荷色の地に金のラインが走っているリボンは、姉が贈り物をする時に好んで使っていた色合いだった。だからこそ、痛い。見たくないと叫ぶ自分。見なくてはいけないと手を伸ばす自分。その排反を抱えたまま、イオリは小箱を受け取った。綺麗な紺無地の包装紙にも、姉の面影を見る。
イオリの意を汲んだのか、ひらり、と指先から離れた蝶々は付かず離れずの場所を飛び回る。
この場で開けても大丈夫か、と視線で問えば、静かに一度だけ頷かれた。
リボンの擦れる音と、小さく、紙の破ける音。
宝石が入ってる箱みたい、と思いながら白い箱を、その中に入っていた紺色をしたベルベットの貼られた箱を開く。――そして、息を飲んだ。
中にあったのは、小さな宝石のイヤリング。綺麗な紫色の宝石は、昔に自分の誕生石だと教えられたもので、石の中には桜の花弁が彫り込まれていた。
箱に収まる小さなカードには、こう書かれていた。
――十三歳の誕生日、おめでとう。イタルより。
ぐ、と胸の奥から込み上げてくるものを堪える。
そんな胸中を知っている、それでも。とでも言うかのように、れいは言葉を続ける。
「こちらは、加々宮さんからの伝言です。
――約束、守れなくてごめん。そう、仰っていました」
――酷い。なんで、どうして。
「桜を」
玲瓏とした声が、無慈悲に言葉を紡いでいく。それでいて、どうしようもない胸の熱さも、一緒に抱え込むように。
「『一緒に桜を見に行こう』」
「――」
本来約束を果たしたかった人はもういないけれど、その代わりとでも言うように、遺された物がここにある。
そして思い出す。
記憶の片隅にあった、古い幻燈の一節を。
白くぼやけた映像の隅で、手に届く位置に咲いていた桜の花を指先で軽く弄んで――記憶の中に居るよりも、ずっと幼い表情が、自分へと笑いかける。愛おしくて堪らない、というように。
この時に抱かれているのは母の腕だろうか。それとも、父の腕だろうか。ふくふくとした手を伸ばせば、先程まで桜に触れていた指が伸びてくる。
――生まれてきてくれて、ありがとう。
そんな、声が聞こえた気がした。
ここは家族で見た場所じゃない。――家族で見た場所の桜は、いつの間にか無くなっていた。
だけど、違う場所で、違う人と。私は、それでも桜を見るのだろう。そしてその時には、きっとアメジストのイヤリングが私の耳には輝いている。色褪せても、曇ったとしても、ずっと。
「私を」
静かな声が、訴える。
心の柔らかいところに付いた傷を。自分でも手当ての出来ないような場所に深く刺さった杭の名前を。
「私を、恨もうとは思わないのですか。貴方様の姉君を、貴方様の大切な人を止めることができなかった私を」
――痛い。
音を全て無くしたように静かな中で、凪のようなその声からはいっそ痛みさえ感じとれて。
だから、私はこう返す。
「……私は後で泣きます。後でいっぱい泣きます。
だから、私と、約束してください」
――どうか。どうか、と願われた。――許さない。本当にそうじゃないといけないのかと、問い詰めたい気持ちにはなるけれど。
だったら、とっておきの約束を。――何かを背負って生きるのは、とても辛いし、とても苦しい。だから、この言葉を贈り物に。
「――どうか、忘れないで。お姉ちゃんのことも、私と話したことも。何もかも全部、忘れないで」
「……はい、約束しましょう。指切りげんまん、ですね」
そっと、小指同士を絡める。一瞬だけ、その指にきらりとした糸が絡み付いていたような気がした。
指切った、と呟いた目の前のひとの、表情は。
「れいさんも、後で泣いてください。いっぱい、泣いてください。……どうしようもなくなる前に」
ちょっとだけ、その目が見開かれる。
優しい色の目が、緩やかに笑みの形に緩まって。
「――分かりました」
泣きそうに笑うその顔は、ほんの少しだけ姉に似ていた気がした。