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    oyasumireimei

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    oyasumireimei

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    赤い靴ー少女は自由になる為に赤い靴を手放したー







    「叶がいなくなった」

    担当行員である昼間は苦虫を噛み潰したような顔で黎明の友人らに告げる。
    それは、突き刺すような木枯らしが吹く冷たい冬のある日の事だった。



    「いなくなったとは?連絡が取れないのか?」

    「連絡どころか叶が住んでたマンションももぬけの殻だ。口座も持って解約されたから銀行側からは探しようがねぇ」

    「口座も?へぇー…」

    昼間の言葉にソファに寝転がりゲームをしていた真経津はつまらなさそうに唇を尖らせる。
    口座の解約…それは、ギャンブラーとしての叶黎明と対自する事はもう二度と叶わない事を意味しており他人とのギャンブルという名の遊びを何よりも楽しみとする真経津にとってそれは非常に退屈で残念な事実だが、目を逸らしようが無い現実に真経津は早々に思考を切り替えゲーム機を置きソファから起き上がるとテーブルにジュースが注がれたグラスを置いていた獅子神の方を見る。

    「獅子神さん僕お腹空いたー!何か作ってー!」

    「真経津ちょっと黙れ、…おい、天堂大丈夫か?」

    「何がだ?」

    呑気な声色で獅子神に話かける真経津を叱咤して獅子神はその形の良い眉を心配そうに垂れ下げながら真経津と同じくソファに腰掛け優雅に甘い香りの紅茶を嗜んでいた天堂に声を掛ける。
    不安げな獅子神のその声色と反対に天堂はいつもと変わらないアルカイックスマイルをその顔に張り付け優雅な動作でティーカップをテーブルに置くと小首を傾げながら獅子神に言葉を返す。


    「いや、お前叶と付き合ってただろ…」

    「獅子神、君は何か勘違いしているようだが私と黎明はそういう関係ではないぞ?」

    「人前であれだけ堂々と頻繁に叶黎明と接吻をしておきながら何がそういう関係ではないだマヌケ神が」

    「天堂さん流石にそれは無理があるよ…」

    「昼間君、黎明から何か話は聞いていないのか?」

    村雨と真経津のツッコミを無視して天堂は向かいのソファに腰掛け獅子神に出されたジュースを飲んでいた昼間に問いかける。
    昼間はグラスの中のジュースを飲み干すとポケットから画面の割れたiPhoneを取り出すと画像フォルダに保存された一枚の画像を天堂達に見せてため息を吐いた。

    「叶と連絡が取れなくなる前日に叶からこれが送られてきた。あんた達の中で誰かこれに見覚えはあるか?」

    「お前iPhone買い換えろよ、液晶バキバキじゃねぇかよ」
    「今そんな事どうでもいいだろ。それよりもわかる奴いるか
    ?」
    「んー、僕は分かんないな〜村雨さん分かる?」
    「人に見せるなら先に液晶を直せマヌケが」

    「だから今液晶はどうでもいいつってんだろ!」

    村雨の冷ややかかつ昼間に対しての問いかけに一切触れていない回答に昼間は珍しく声を荒げる。
    伊藤班の花形ギャンブラーでもある黎明の失踪は伊藤班にとってあまりにも大きな痛手であり、昼間は現在進行形で自身の上司であり主任である伊藤吉兆から監督不届の責任を問われている真っ最中であった。
    昼間の唯ならぬ様子に獅子神がため息を吐くと真面目な表情でジッと昼間のiPhoneの割れた液晶越しに映る画像を見る。

    「…何だこりゃ?ぬいぐるみ?」

    画像に写っていたのはフードを被ったクマのぬいぐるみと、シルバーのペアリングだった。
    獅子神はその画像の意図が分からないといった様子で眉間に皺を寄せて画像と睨めっこをすると「ちょっと借りるぞ」と昼間に一声かけて昼間のiPhoneを取るとiPhoneの液晶画面をソファに座っていた天堂に見せる。
    天堂は獅子神に見せられた画面を凝視するときょとんとした表情を浮かべて小首を傾げると昼間の方を見る。

    「何だこれは?」
    「知らねぇよ、お前叶と仲良かったんだろう?何か心当たり無いか?」
    「すまないが皆目見当がつかないな。」
    「そっか…分かった。サンキュー。もし叶から連絡あったりしたら直ぐ俺に連絡するよう言ってくれ」

    昼間は獅子神からiPhoneを返されると疲れたようにため息を吐き再びポケットにしまう。
    そうして、また来るとだけ言うと天堂達に背を向けて部屋を出る。
    玄関のドアが閉まる音に耳を傾けながら昼間の気配が消えたのを確認すると村雨はため息を吐いてじとりと天堂を見る。


    「…あまり穏やかではないな」

    「?どういう意味だ村雨」

    「天堂さん、昼間さん可哀想だから早めに言ってあげなよ?」

    「あれは黎明が特に気にかけていた男だ。その男に何も言わず…という位なのだから何か理由があるのだろう」

    「は?……天堂お前!!何か知ってたんだろ?!」

    やる事が山ほどある中で黎明に当てられる時間は限られておりギャンブラー達から見ても分かるほど昼間は焦っていた。
    そんな昼間を見て、天堂は表情にこそ出さなかったもののその内心はあまり穏やかでは無かった。
    天堂の発言に真経津と村雨からだいぶ遅れて事情を察した獅子神は声を荒げるがそんな獅子神の怒声をどこ吹く風といった様子で受け流しながら天堂はティーカップの中でまだ湯気をあげている芳しい香りを漂わせる蜂蜜色の液体を眺めるとふぅ、と長めのため息を吐き


    「…まぁ、その内フラッと帰ってくるだろう」

    そう一言呟いた。




    …天堂の予想とは裏腹に、黎明は半年が経過してもその姿を現す事は無かった。
    初めの数ヶ月は獅子神を筆頭に自分達で黎明を探そうという話も出ており友人らだけでなく真経津と親しい仲の行員である御手洗らにも力を借りて黎明の行方を調べていたものの、黎明の雲隠れはそれはそれな見事なもので…友人らはおろかインターネットや情報戦に精通している天堂でさえも黎明の行き先はおろか手掛かりさえも掴めなかった。
    まるで初めから叶黎明という男自体が存在してなかったのではないかと錯覚してしまう程見事なそれは、ただ一人を除いてやがて友人達から叶黎明という存在さえも薄れさせていった。
    冬が終わり春が過ぎ…5月を過ぎて共に祝う筈だった行方不明である黎明の為に作ったホールケーキが冷蔵庫の中でカビの塊となりつつある湿度の高い6月の半ば頃、天堂は一人無人の教会の中の一室…プライベートルームとして使用している部屋に備え付けられたベッドに横たわりながら自分のiPhoneの液晶を眺めては何度も画面をスワイプして深いため息を吐く。
    変わる事の無い黎明からのメッセージ画面の更新は、最早天堂の日課となっていた。
    天堂は身体を起こすと僅かに乱れた頭髪を手櫛で整えながら手に持っていたiPhoneでどこかへ連絡する。
    淡々とした声色で短い通話を終えるとポールハンガーに掛けていたカソックを取り流れるような動作で羽織ると釦を留める。
    気にしていても仕方がない。もう何百回目か分からないその言葉を自分に言い聞かせて天堂は部屋を出た。





    「天堂さんだいじょう……」

    それは、梅雨も去り陽射しが夏へと切り替わり始めた6月の終わり頃の事だった。
    いつもの様に友人らと談笑していた時、不意に天堂が指を滑らせてティーカップを落とした。
    落としたティーカップは重力に従い地面へと落下し陶器製のそれは硬い地面に叩きつけられると澄んだ高い音を立てて容易く粉々に割れてしまった。
    獅子神が素早く箒と塵取りを用意して他の友人らが怪我をしないように割れた破片を手際よく片付ける。
    その様子をぼんやりと眺めていた天堂に、真経津は冒頭の言葉を掛けようとして言葉を途切れさせる。
    真経津の珍しく驚いたような様子に天堂が不思議そうに首を傾げれば、それと同時にぽたりとカソックに温かな雫が落ちる。
    真経津が言葉にせずに自分の目元を指差せばそれにつられるように自身の目元に触れて天堂は驚いたように目を見開く。
    そんな二人のやりとりを最初から見ていた村雨はどうでも良いといった様子で読んでいた小説に目線を戻す…が、片付けをしていた獅子神は二人からだいぶ遅れて天堂の異変に気付くと驚きと混乱に声を上げる。

    「は?!て、天堂?!どうしたんだよ!?」
    「獅子神さん僕マフィン食べたい作ってー!」
    「真経津お前は空気読め馬鹿野郎!!」
    「獅子神、腹が減った。肉を焼け」
    「お前らマジで黙れ!!」

    獅子神が天堂の異変に気付いた瞬間わざとらしく騒ぎ出す友人二人に天堂は小さく笑う。
    騒がしい二人に対して憤っていた獅子神もそれを見て何かを察したのか少し口籠ると何かを思いついたように慌てて話題を変える。


    「そういや昨日作ったローストビーフの残りがあるけど食いたい奴いるか?」

    「はーい!食べたーい!」
    「いただこう」
    「ふふっ…獅子神、ついでに新しい紅茶を淹れてくれ…そうだな、神はダージリンを所望する」

    「お前らなぁ…はぁ…あーはいはい用意するからちょっと待ってろ。」

    三者三様の要望に獅子神はため息を吐き呆れたように頭部を掻くとキッチンへと姿を消す。
    獅子神がいなくなったのを確認すると村雨は再び読書に没頭し真経津は天堂に声をかける。


    「叶さんの事気になる?」

    「…気にならないと言ったら嘘になるな」

    真経津の問いかけに疲れたように笑う天堂。
    黎明が姿を消してから半年が経過したが、連絡どころかあれだけ有名なストリーマーであった筈の黎明の目撃情報すら一切ネット上に上がって無い状態が半年も続き天堂の脳裏には常に最悪の想像が纏わりついて離れなかった。
    読者に没頭していた村雨は、ふと何かを思い出したように口を開く。


    「…行方不明者の死亡認定は7年だ」

    「村雨さん!」
    「何が言いたい村雨」

    村雨の淡々とした言葉に真経津は村雨の発言に諌めるように声を上げ天堂は目を細め冷ややかに村雨を見る。
    そんな二人に村雨は短いため息を吐くと言葉を続ける。

    「話を最後まで聞けマヌケ共が。行方不明者の死亡認定の期間は7年だ。それまでに見つからなければ叶黎明は死んだものとしてあなたも気持ちにケジメをつけろ」

    ぱたんと読んでいた本に栞を挟み閉じるとゆっくりとした動作でソファから立ち上がるとキッチンの方を向く。
    すんすんと鼻を鳴らすと僅かにキッチンから漂ってくる香ばしい肉の香りに僅かに口端を吊り上げる。


    「どうやら追加で肉を焼いているようだな。」

    味見が必要だ、そう言うと村雨は心なしかワクワクとした様子でキッチンへと向かう。
    獅子神に続き村雨もキッチンに移動し、リビングには真経津と天堂の二人だけが残される。


    「…きっと叶さんは大丈夫だよ」

    「…」

    「御手洗君達も探してくれているみたいだし、皆で叶さんが帰ってくるのを待とう?」

    真経津のその言葉は真経津なりの気遣いだと天堂も気付いていて、天堂はそんな気遣いを最年少であるこの青年にさせてしまった情けなさとそれ以上に行員までもが動きこれだけの長い時間を費やしても未だに何一つ黎明の行方の糸口が見つからない事に対しての焦燥感と不安に酷く心を掻き乱されていた。
    真経津のその気遣いにどう返せば良いかを思い付けず、結局天堂はただ無言で小さく頷いただけだった。




    …晴らしようの無い小さな不安は、無情に過ぎていく時間を喰らいより大きく膨れ上がっていく。
    最初は小さな憂いだったそれはいつしか深く心を蝕み気付いた時それは試合にも影響を及ぼすようになった。
    まるで深い霧にでも包まれたかのように思考が上手く働かない。
    いつもであれば殆ど負う事がないゲームのペナルティを負いどうにか勝ち取った辛勝に天堂は自身に対しての苛立ちに眩暈すら覚える。
    今回の原因は、相手の容姿だった。
    夕暮れを侵食する夜のようなナイトパープルの髪が、未だ行方知れずの黎明を彷彿させ思考を掻き乱した。
    髪色が似ているだけ、顔も体格も何もかも違う対戦相手にすら黎明の姿を追ってしまう程、天堂は無意識に追い詰められていた。
    まるで目隠しをして綱渡りをするような危うい日々に最初に苦言を漏らしたのは意外にも友人らの中でも基本的に遊戯以外では他人に無関心である筈の真経津だった。


    「天堂さん、少し休もう?」

    それは、珍しく真経津の自宅に天堂が一人で来た日の事だった。
    ソファに腰掛け窓の外を眺めていた天堂の隣に座りその顔を覗き込みながら真経津は形の良い眉をしゅんと垂れ下げて言う。

    天堂さん本当はすごく強い人なのにこのままじゃ死んじゃうよ?
    真経津は珍しく心配そうな色をその顔に浮かべて天堂を諌めるが、天堂も真経津も他の友人らも…元々高ランクギャンブラーが少ない宇佐美班ではそれが容易ではない事を内心痛い程理解していた…が、真経津はそれでも口を出さずにはいられなかった。
    天堂は一度真経津に敗れた事で羽化した。
    醜い芋虫が蛹になりその蛹が美しい蝶になるように成長を遂げた。
    そんな天堂に真経津はギャンブラーとして無意識に惹かれており再戦を密かに心待ちにしていたからこそ今ここで天堂を失う訳にはいかなかった。
    天堂は真経津の言葉の真意をその顔を見ずとも感じ取り、自嘲気味に笑う。そんな要らぬ心配をされる程自分は弱っていたのかと…
    真経津の肩を軽く押し天堂は大丈夫だと、ただ一言それだけ言う。これ以上何も言うなという意思を感じ取った真経津は天堂の一言に口を噤み、天堂の言葉にされない願いに大人しくその身を引いたのだった。


    …淡い期待と希望はとても脆くて弱い。それ故にいつだって容易く打ち砕かれる。
    そんな現実を痛い程突きつけられたの、黎明が居なくなってから二度目の冬が訪れた日の事だった。
    クリスマスが近付きキラキラと輝くイルミネーションと浮き足立った人混みを掻き分け息を切らしながら天堂は街中を走っていた。
    その理由は天堂のiPhoneに届いた1通のメッセージ、そこに記載されていた内容は待ち続けていた天堂にとってあまりにも残酷で無情なものだった。


    ー叶黎明の血液が付着したパーカーが見つかったー


    それは、黎明が姿を消してから約一年経過して漸く得た黎明の情報で…けれどその内容は黎明の足跡が暗いところへと消えていくような天堂達の不安と絶望を掻き立てるものでしかなかった。
    点滅する信号を渡りすれ違う人々と時折ぶつかりながら天堂は走る、走る。
    そうして、息を切らしながら辿り着いたのはもう何度も訪れた獅子神の家だった。
    チャイムを鳴らして数秒後、待っていたと言わんばかりに重々しく玄関のドアが開かれる。
    開かれたドアの向こうには暗い表情の獅子神が立っていて、その表情から天堂は全てを悟りながらも平然を装いながら足を踏み入れる。
    玄関で脱いだ靴を揃えて獅子神の後ろを追うようにリビングに入れば見慣れた友人らと、黎明の担当行員だった昼間がいた。
    皆が皆一様に暗い表情を浮かべていて、天堂はその空気に胸が押し潰されそうになる息苦しさを感じて喉を詰まらせる。
    数秒の沈黙の後、最初に口を開いたのは昼間だった。


    「メッセージ見ただろ?内容の通りだ。叶が着てたパーカーが見つかった…ってか寄越された」

    「寄越された?誰かが持っていたのか?」

    村雨の問いかけに昼間は長いため息を吐くと一瞬天堂の方に目線をやり少し考える素振りを見せる。
    言うべき事なのだろうけど言いたくない。昼間のそんな感情が伝わり天堂は苦笑すると「得た情報は全て話してくれ」と昼間に言う。
    天堂の凛とした目に思いあぐねていた昼間だったがやがて意を決したように口を開いた。


    「…ヤクザだよ。それも下っ端じゃねぇそこそこの奴。警告だっつってこれを渡されたんだ」

    昼間は苛立たし気に舌打ちをすると自分の横に置いてた黒いビニール袋の中に手を突っ込み何かを取り出す。
    その取り出された何かを見た瞬間、全員が一様に息を呑む。
    昼間の手に握られた酷く汚れたそれは、黎明がいつも着ていた特徴的なデザインのパーカーだった。
    獅子神は反射的に天堂の方を見る、天堂は目を見開き唖然とした様子でそのパーカーを見ていた。

    「先に謝っとく。今回の件は俺も処罰を受ける事になるだろうから口悪くなんぞ…天堂お前何か知ってただろ?」

    何で黙ってた?お前が黙ってたからこうなったかもしれねぇんだぞ。そう言う昼間の言葉からは静かな怒りが滲み出しており、それに対して最初に声を荒げ反論したのは天堂の隣にいた獅子神だった。


    「天堂は何も知らなかった!!ただ叶がまた何か悪さして隠れてる程度の認識しかしてなかったんだよ!」

    「叶が悪さして隠れるような奴な訳ねぇだろ。あいつは悪さしても悪さされた方が悪いってキレるような奴だぞ?」

    他の奴はともかく四六時中一緒に行動してたあんたが分からない訳ないよな?と昼間は天堂を睨む。
    昼間の言葉にふと天堂は天堂自身もいつの出来事かを忘れてしまう程前に黎明がどこからか一人の咎人を拐ってきた事があったのを思い出す。
    縛られたまま芋虫のように床の上をのたうち回る咎人の汗で張り付いたシャツに薄らと浮いた見事な和彫…記憶に僅かに残っていたその光景が鮮明に浮かび上がり、そうして浮かび上がったその記憶は今回の結末と結び付き逃れようの無い絶望を天堂に叩き付ける。
    全てを察した天堂はあまりにも呆気ないその結末に、ため息すらも吐けなかった。
    ただただ、良き友人、良き共同者はもう二度と戻ってこないという現実を受け入れる為目を瞑り自身の神の言葉に耳を傾け、そして再び目を開くと昼間の問いかけに何も言葉を返さず静かに昼間に近付き昼間が持っていた汚れた黎明のパーカーを手に取りそれをじっと見ながら口を開く。

    「そうか、黎明は…」

    ころされたのか

    高揚の無い声でぽつりと呟き、天堂は静かに現実を受け入れる事を選んだ。

    …それが、11月終わりの出来事だった。





    喪った者は戻らない。
    それをよく分かっている天堂は黎明のパーカーが見つかってからというもの黎明が失踪していた頃に比べるとその隻眼はとても澄んでおり賭場でも以前の底知れぬ強さで猛威を奮っていた。
    夜になれば当たり前のように眠り、朝になれば当たり前のように目を覚ます。
    そうして、以前と変わらぬ日々を天堂は過ごしていた。
    そんな天堂に、初めこそはその内心が読めず心配していた獅子神だったが真経津と村雨が一切気にしていない所を見る限り本当に立ち直っているのだろうと判断した獅子神はそれ以上何も言うまいと天堂を気にかけるのをやめた。
    穏やかで、平和な日常が緩やかに過ぎていったそんなある日、12/23の深夜…天堂のiPhoneが光った。
    就寝していた天堂は暗闇の中光るiPhoneの画面の眩しさに目を覚ます。
    睡眠を妨げられた苛立ちに眉を顰め眠い目を擦りながら枕元に置かれたiPhoneを手に取って見てみれば1通のメッセージ…差出人は見知らぬアドレスで天堂はどうせスパムか何かだろうと思いつつもメッセージを開き…添付されていた画像を見た瞬間ベッドから飛び起きた。

    メッセージに添付されていた画像に映っていたのはフードを被ったクマのぬいぐるみとペアのシルバーリング。
    それは、あの日割れた液晶越しに見せられた画像の物と全く同じだった。
    暫く唖然としていた天堂だったが送られてきた画像をよくよく見てみると、以前送られてきた画像と背景が違う事に気付く。
    独特な模様の壁と床…それは天堂にとって見慣れた場所の壁と床で、それに気付くと同時に天堂はベッドから降りると震える手で衣服を着替えポールハンガーに掛けておいたカソックを着ると部屋を飛び出す。
    雪雲が晴れ、満天の星空と満月だけが世界を照らす暗い真夜中の道を天堂は走る。
    走っている最中、天堂の脳裏には色々な感情が濁流のように流れていく。
    言いたい事も、聞きたい事も山ほどあったけれどそのどれもが感情に流されていく。
    とにかく一刻も早くその姿を見たい。ただそれだけだった。



    呼吸をすれば肺が痛む程冷えた空気が充満する夜の中、天堂が辿り着いたのは今は無人となっている筈の黎明が住んでいたマンション。
    天堂が入り口に足を踏み入れれば、まるで天堂の訪れを待っていたかのようにエントランスのオートロックが解除され自動ドアが開く。
    天堂は開かれたドアを潜りエレベーターに乗り込むと目当ての階のボタンを押す。
    重々しい音を立ててゆっくりと上階へ上がるエレベーター。エレベーターの中で、天堂は呼吸を整えながらも再度送られてきた画像を確認する。
    何度確認してもそれは、見慣れた黎明の部屋で撮られたものだった。
    エレベーターが止まりドアが開くと同時に天堂はエレベーターを降りて同じ外観のドアを通り過ぎて迷う事なく黎明が自宅として利用していた部屋のドアへと辿り着く。
    プッシュプルを押せば本来であれば鍵が掛かっている筈のドアはガチャリと音を立てて容易に開く。
    開かれた玄関ドアの向こう側には暗闇が広がっており天堂は息を呑むとドアの向こうへと足を踏み入れる。
    靴を脱いで迷う事なく黎明がテラリウムの観察の為に使用していた部屋へと向かう。
    硬いフローリングを踏み締めながら早足で部屋の前まで来ると一度立ち止まり深呼吸をすると閉ざされたドアのドアレバーに手を掛ける。
    心音が他人に聞こえるのではないかと錯覚してしまう程心臓が激しく脈打っている。
    けれど、音も無く開かれたドアの向こう側に広がっていた光景は天堂が想像していたものとは大きく異なっていた。


    「…は?」

    家具が全て片付けられたがらんどうの部屋。そこに人気は無く、天堂は目を見開く。
    部屋を間違えたか?そう一瞬考えて天堂は直ぐに他の部屋へと移動しようと半歩足を引いた…その時、もふ、と何か柔らかい物が背後から天堂のの頭頂部に乗せられる。
    天堂はその感覚に目にも留まらぬ速さで背後にいるであろう誰かの腕を掴むと何の躊躇いも無くその身体を背負い前方へとぶん投げる。
    暗闇の中、ぎゃっ!と短い悲鳴と共に誰かの身体が床に叩きつけられる鈍い音が響き渡る。
    突然の事に受け身を取れなかった誰かの痛みに呻く声を頼りに天堂は床に丸まっている誰かの身体に跨るとその胸ぐらを掴み拳を振り上げる。


    「待って!!!ユミピコ俺!!俺だって!!やめて殴らないで!!」

    「知っている。だから投げたんだろうがこのクソボケ今の今まで一体何をしていた?いや、説明は後で良いとりあえず殴らせろ」

    早口で捲し立てながらも拳を振り下ろす天堂。
    誰か…もとい黎明は振り下ろされた拳に対して咄嗟に腕で顔を庇いガードする。
    腕に拳が当たる硬い感触に天堂は舌打ちをするとくるりと素早く身体を反転させ慣れた様子で黎明の長い脚を片方捕えると自身の両の膝の内側で黎明の捕らえた方の脚の太腿を逃げないようにがっちりと挟んでから脚のアキレス腱の上下を腕で挟むように固定するとそのまま自重に身を任せるようにゆっくりと後ろに倒れる。
    天堂が後ろに倒れる事で梃子の原理で強制的に引き伸ばされるアキレス腱と筋。
    所謂アキレス腱固めと呼ばれているその関節技によって生じた足の腱を引き裂かれるような鋭い痛みに黎明は思わず悲鳴をあげる。

    「イダダダッ!!痛い!!ユミッユミピコ折れる!!俺の脚折れるって!!」
    「こんなもの要らんだろう」
    「いるよ!!超いる…痛い痛い痛い!!マジでもげる!!」

    叫びながら自身の脚を拘束している天堂の脚の側面をバシバシと叩く黎明。
    そんな黎明に天堂は露骨な舌打ちをすると渋々といった様子で黎明の脚を解放してやる。
    痛みに呻きながらも黎明は立ち上がり床に落ちたクマのぬいぐるみを拾い上げるとぽんぽんと汚れをはたき落とし天堂の方にぬいぐるみを向ける。

    「もー、折角ユミピコが欲しいっていうからわざわざ買ってきたのに」
    「お前に似ていると言っただけだ、私は欲しいだなんて一言も言っていない」
    「俺に似てるから欲しかったんだろ?」
    「…」
    「図星って顔してるな!まぁいいや。ユミピコ」

    誕生日おめでとう。
    そう言って黎明は天堂にクマのぬいぐるみを渡す。
    黎明から渡されたそのぬいぐるみを天堂はよく覚えていた。

    それは2年以上前のある日、偶々通りがかった玩具屋のショーケースに飾られていた物で…ふくふくとした愛らしい体型に白いフードを被ったクマのぬいぐるみは隣で買い出しの荷物を持っていた黎明の姿を彷彿させて、それが可笑しくて天堂が笑っているとそんな天堂に目敏く気付いた黎明は問いかける。

    『それ欲しいのか?』

    その一言を、あの日天堂は確かに否定した。
    黎明に似ているから欲しいのだと素直に言えるほどあの日の天堂は無邪気では無かったから。
    結局その日はぬいぐるみを買う事は無く…買い出しを終えた後日、天堂は一人で玩具屋に再び訪れたがぬいぐるみは既に無くなっており結局ぬいぐるみの事は画像で再び見るまで天堂自身も忘れていた。


    (まさか覚えていたとはな…)

    受け取ったクマのぬいぐるみを眺めながら天堂はぼんやりと物思いに耽る。
    そんな天堂に、黎明は咳払いを一つすると物思いに耽っていた天堂の意識を自身に向けるように手を叩くと真剣な表情で口を開いた。

    「さてと、こっからが本題なんだけど…ユミピコ、俺はもう皆の所へは戻らない。口座も解約したし多分唯君が俺は殺されたって銀行には伝えるだろうから賭場にも帰らない」

    「…何を言っているんだお前は?」

    くだらない冗談を言うな、そう言いかけた天堂だったが黎明の真剣な表情に黎明が本気でそれを言っているのだと悟ると口を噤む。
    黎明は天堂の反応を待つ事なく言葉を続ける。


    「金も友達も地位も、ギャンブラーとしての叶黎明も全部置いてきた。今ここにいるのは誰でもないし誰も知らないただの俺。戸籍も名前も無い名無しの人間だ」

    黎明はそう言って微笑むと天堂にそっと手を差し出す。


    「なぁユミピコ。俺は全部捨ててきた。だからユミピコも全部捨てて」

    俺と一緒に死んでよ


    黎明は優しく柔らかな声で懇願する
    それはまるで眠る前の子守唄のように穏やかに紡がれた黎明の願いで、天堂は目を見開くと手の中のクマのぬいぐるみを見る。
    ふわふわとした柔らかな、愛らしいぬいぐるみ。
    柔らかな綿が詰め込まれたぬいぐるみは天堂の体温でほんのりと暖まる。
    天堂はクマのぬいぐるみをぎゅうと抱き締めると悲し気に眉を顰めて口を開き言葉を吐き出す。

    「神の愛は平等でなくてはならない」

    「敵は愛せるのに俺は愛せないの?」

    「そうではない、ただ…」

    珍しく歯切れの悪い様子の天堂に黎明はため息を吐くと差し出した手を下げて「もういいよ」と一言吐き捨てると天堂に背を向ける。

    「ばいばいユミピコ」

    俺なりに愛してたつもりだったよ。
    それだけ吐き捨てると、黎明はそれ以上は何も言わずに部屋を出る。
    天堂は、離れていく黎明の後ろ姿をもう一度振り返る事を祈ってただ目で追うだけだった。






    部屋の外に出て、踊り場から外を見た天堂は手元のぬいぐるみを愛おしげにぎゅうと抱き締めるとまるで迷子の子供のように不安気な表情を浮かべていた。

    『俺と一緒に死んでよ』

    (…)

    黎明の先程の言葉が、表情がいつまでも脳裏にこびりついて離れない。
    空を見上げてみれば先程まで満天の星空が広がっていた夜空は分厚い雲に覆われ濁った空からは大粒の牡丹雪がしんしんと振りしきっていた。
    肌を突き刺すような寒さの中天堂がそっと手を伸ばせば空から落ちた牡丹雪がその掌に落ちては天堂の体温で音もなく溶けていく。
    ため息を吐けば白く色付いた息が空中に漂い消える。
    天堂は、何もかもを捨てて黎明と共に世界から消える事を選択する覚悟をどうしても持てなかった。
    死ぬのが怖いのではなく、自分が死んだ後隣に黎明がいないかもしれないという未来を受け入れるのが天堂は恐ろしかったのだ。
    吹き荒ぶ風の冷たさも相まって心が凍てつくように冷たくなる。
    天堂は後悔でわずかに歪む視界を袖で拭うとエレベーターで下階へ降りてエントランスからマンションの外へと出る。

    (…どう答えれば良かったのだろうか)

    ふと、足を止めて天堂は振り返る。
    人の気配が無い静かなマンションを見上げため息を吐き再び背を向けると足早にマンションの敷地内から出ようと歩き出す。
    生きて共に居る事は叶わないのだろうか?私達は、もっと話し合えたのではないだろうか?そんな後悔をぐるぐると胸の中で渦巻かせながらも足を進めていると、突然背中に軽い衝撃が走る。
    何事かと振り返ろうとした天堂、けれど、天堂が振り返るより先にカソックのノーマンカラーの隙間から覗く首筋にちくりとした鋭い痛みが走る。
    振り返ったその先に映ったのは、にんまりと御伽話に出てくる猫の様に三日月形に歪められた口元と同じように歪められた大きな瞳。
    歪められたその大きな瞳には驚いたように目を見開いた天堂の姿が映っていた。



    「れー…」

    瞬間、視界が、足元がぐにゃりと歪みふわりと溶ける。
    まるで自分自身が溶けていくような感覚に耐えきれず天堂のその身体は糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
    そんか天堂の身体を抱き留めながら黎明はとてもとても楽しそうに目を輝かせて笑うと口を開く。


    「ハッピーバースデー、ユミピコ」

    そして永遠にばいばい。天堂弓彦。
    雪の降る冷たい夜の世界に、黎明の楽しげな笑い声だけが響き渡った。









    …歌が聞こえる。
    聞き覚えのある歌だった。確か幼い頃に子供たちがよく口ずさんでいた歌。
    懐かしい歌だ、けれどどうしてか曲名が思い出せない。
    天堂はまだ曖昧な輪郭のままな意識をぼんなりと浮上させれば途端に脳に伝わる肌寒さに身震いする。
    ああ、あんなに雪が降っていたのだから寒いのは当然だろう。けれど何故先程よりもずっと寒いのだろうか?
    そう思い目蓋を持ち上げ起きあがろうとして天堂は初めて自分の身体の異変に気付く。


    (身体が動かない…?)

    いや違う、動かないのでは無い。まるで自分の身体ではないかのように全身の感覚が無い。自分の身体の筈なのに自分の身体の動かし方が分からない。
    天堂は状況が理解出来ず唯一動く隻眼をぎょろつかせて見える限りの視野で辺りを注意深く観察する。
    剥き出しのまま冷たい灰色を晒しているアスファルトの天井に不釣り合いなファンシーでポップなイラストがプリントされた壁紙が貼られた壁。
    まるで子供部屋を作っている最中に作り手が消えてしまったかのような歪なその部屋に形容し難い恐怖を覚えていた天堂だったが、視線をずらした時視界に入ったその光景にぞわりと全身の肌が粟立った。
    硬い床に投げ出された天堂が身に纏っていた衣服は下着もろともその身から剥がされており、天堂は一糸纏わぬ姿のまま部屋の中央に転がされていた。
    辺りを見回し現状を把握した事で余計にパニックに陥った天堂だったが、不意に耳に届いた部屋にある唯一の出入り口であるドアが開く音に天堂はびくりと肩を震わせた。


    「あ、ユミピコ起きたのか?」

    おはよー、と何とも気の抜けた声と共に部屋に入ってきたのは天堂がよく知る人物で先程まで会話をしていた男…黎明だった。
    黎明はプラスチック製のトレーを片手に部屋に入りドアを閉めると部屋の中央に横たわっていた天堂の傍らまで来るとよいしょと腰掛けてトレーを自分の横へと置くと天堂の床に広がった白く美しい髪を撫でた。

    「体調はどうだ?どっか痛いとか無いか?」

    そう問いかけられ天堂は反射的に言葉を発しようと口を開くが舌が縺れ言葉を発することが出来ない。
    ただただ無様に母音が漏れるだけの口に天堂が苛立ちと困惑を覚えていると黎明は思い出したように手を叩くと天堂の唇をふに、とつつくとまるで子供に言い聞かせるかのように穏やかな声色で天堂に話しかける。


    「麻酔が効いてるからどこも動かせないだろ?でも大丈夫、麻酔が切れたら動けるようになるから」

    まぁでも、自力で歩くのはもう無理だと思うけど。
    そう言って微笑む黎明に天堂は訝しげに眉を顰めるが直ぐに胸騒ぎを覚え恐る恐る足元を見る。
    一糸纏わぬままひんやりとした空気に曝け出された下肢を辿るように太腿、膝、脹脛と目線を落として足にまで視線が辿り着いた時天堂はふと違和感に気付く。

    (…靴?)

    ずっと目を閉じていたせいか、薄暗がりのせいかぼやけてはっきりとしない視界に映ったのは靴を穿かされた自分の両足だった。
    暗くてよく見えないが、恐らく赤い色の…小さな靴…


    いや、まて、わたしのあしは、こんなにちいさかっただろうか?


    目を細めてなんとか視界のピントを合わせてその違和感だらけの光景に目を凝らし、鮮明にそれが見えた瞬間天堂は言葉にならない悲痛な悲鳴を上げる。
    赤い靴に見えたそれは足に巻かれた包帯だった。
    巻かれた包帯が出血によって赤く染まっていた。
    小さくなった足を、血生臭い赤い靴が彩っていた。
    その光景から黎明の言葉を理解した瞬間、部屋の空気を震わせる程の悲鳴を上げるそんな天堂の頭をよしよしとあやすように撫でながら黎明は言葉を続ける。

    「大丈夫だよユミピコ、ちゃんとプロにやってもらったから」

    暫くすれば傷口も癒着するから素人のやる纏足みたいに汚くならないさ。
    なぁ知ってるかユミピコ、世の中には金を払えば礼二君よりも色々な事してくれる医者が沢山いるんだよ。
    そう言って黎明は笑う。その笑顔があまりにもいつもと同じだから天堂は一瞬これは夢なのではないかと錯覚してしまう。

    「これからは俺が全部やってあげるから」

    着替えも食事も排泄も性処理も全部俺がしてあげる。
    ユミピコが生きるためにやってた事全部してあげる。
    黎明は優しい表情でそう囁き天堂の頭を撫でるその手つきも声色も目線もその全てがとても穏やかだったけれど横たわっている状態の天堂の視界には自分の頭を撫でながらいつも履いているスラックスの股間部分の生地を痛々しい程に張り詰めさせている黎明の雄の部分が映っておりそのあまりにも悍ましい光景に本能的な恐怖を覚える。

    (何故)

    私は、ただお前を失う未来が怖かった。ただお前と共にいたかっただけだった。それは、ここまでの結末を招く程の願いだったのだろうか?


    「あ、忘れてた!ユミピコ、ちょっと身体のサイズ測らせてくれ」

    黎明は思い出したかのようにトレーの上に乗せられていたメジャーを取るとびー、と数字が記載されたテープを引っ張り出すとそれを天堂の裸体に当て手慣れた様子で示された数字をメモ帳に書き取っていく。


    「本当はウェディングドレスとか色々先に用意しときたかったんだけど良く考えたら俺お前の身体のサイズ知らないんだよなー」

    折角作ってサイズ合わなかったら嫌だからちょっと協力してくれ、と身体の隅々までメジャーを当てサイズを測り書き取りながらも黎明は楽しげに鼻歌を歌う。
    天堂は、先程黎明が言った通り少しずつ身体の感覚が戻ってきている事に気付く。
    それと同時に、足元から焼かれるような痛みがじわじわと身体を蝕み始め天堂は痛みに唸る。
    そんな天堂に気付いた黎明はサイズを測る手を止めて天堂の顔を覗き込む。


    「麻酔切れた?痛いかユミピコ?」

    優しいその声に涙が溢れ出す。
    これから先、きっともう以前のような日常には戻れないだろう。
    目の前の男は賢いから、きっと外の人間が自分が消えたことに不信感を抱かないように上手く隠蔽しただろう。
    天堂は涙でぼやけた視界で黎明を見上げる。
    黎明は穏やかに微笑みその唇にキスをする。柔らかなその唇は涙の味がして黎明は笑う。


    「これからはずっと一緒だから」

    病めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かつまで…だっけ?
    死ぬまでじゃなくて死んでも一緒、ユミピコはずっとずっと俺のだよ。
    そう言って黎明は笑う。


    「これなら何も不安じゃないだろう?」

    まだ完全に麻酔が切れておらず動きがぎこちない天堂の身体を抱き締めその耳元で囁く。
    天堂は、そんな天堂の言葉に震える手を黎明の広い背中へと回す。

    (嗚呼、そうか)

    私は、ずっとお前と同じ位お前の全てが欲しかったんだと気付く。
    そうして、同等に全てを失い漸く手に入れた抱き締めたその体温に天堂は咽び泣く。


    「黎明」

    天堂が呼べば黎明はなぁに、と応える。
    その瞳はどこまでも優しくて穏やかで、天堂はつられて微笑む。

    「愛してる」

    そう一言伝えれば黎明は「知ってる」と笑う。
    黎明はトレーの上にあった錠剤と水を口に含むと天堂に深く口付け溶けかけた錠剤を生温い水ごと天堂の口内に流し込む。
    躊躇いもなく流し込まれたそれを嚥下すれば、赤く染まった靴の痛みさえもどうでも良くなる程の多幸感はふわふわと思考を包み込み、ただ抱き締めた温もりだけが鮮明に残った。






    少女は自由になる為に赤い靴を手放し、花嫁は欲しいものを得る為に赤い靴を履いた。

    そうして、全てを手に入れた欲深い花婿と同じく赤い靴を履いた欲深い花嫁はいつまでもいつまでも暗く小さな四角い世界の中で幸せにくらしました。


    めでたし、めでたし
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