「いた……」
鼻を押さえるとぬるりとした血が手のひらを汚す。それから鉄臭さが口の中に広がり、カエデは初めて自分が鼻血を出していることに気がつく。コージは興奮した獣のように毛を逆立て、ふぅふぅと猛る呼吸と怒りを抑え込んでいた。きっかけは語るまでもない些細なこと。
「ごめん……」
コージの癇癪、カエデの謝罪、仲直り。変わらないルーティン。カエデの弱弱しい謝罪を引き出すと、まるでセーフワードのようにコージの怒りは波を引いていき、握り拳から力が抜け、行き場のない手のひらは遠慮がちにカエデの頬をするりと撫でた。
「悪い……ごめんな、こんなことするつもりじゃなかったんだよ、俺、でも……いや、そうじゃなくて、もう、捨ててくれ……俺のことなんか」
いつも通り、カエデのきまりの悪そうな謝罪で終わる筈だった。弱々しい息の抜けるような声で紡がれる言葉にカエデは顔を上げる。
「――別れたい、ってこと?」
コージは己の顔を両手で覆い隠しながら頷く。怒り、暴力、自己嫌悪。まるで焼き増しのように何度も繰り返される行為に、コージ自身が疲弊していた。
「このままじゃ、俺はいつか、お前のことを殺しちまう……」
比喩のつもりではなかった。カエデの身体には生傷と痣が絶えず、生涯消えることのない付けた一五針の縫い傷が残っていて、これ以上傍に居ればこの女をいつか殺してしまうと、コージは確信し、恐れていた。
「そんなわけないじゃん」
朗らかな笑い声。コージは指の隙間から目を覗かせることも出来なかった。そんな手をゆっくり包み、指を解き、カエデはコージに自分の顔を見せる。
「でも……俺は……」
「私は知ってるから、ホントはコージくんがどうしようもなく優しいって」
鼻血は、いつの間にか止まっていた。
「大丈夫だよ」
真実の愛を見つけた獣は
愛するお姫様といつまでも幸せに暮らしましたとさ
めでたしめでたし
◇
足元に転がるのは、割れたグラス、破れたクッション、ぶちまけられた酒、冷たい身体。
「俺は悪くない、俺は悪くない、俺は悪くない、俺は……」
膝をつき、かつて愛した女だったモノに縋りながらコージは初めているかも分からない神に祈った。全てが悪い夢であってくれと。