悲愴井蛙不可以語於海者、拘於虚也。
(井戸の中の蛙と海について語ることが出来ないのは、狭い己の世界に拘っているからだ)
――『秋水篇』
(中略)
この部屋は狭い。金魚鉢や、鳥籠や、或は古井戸の底のように狭く、僕らの世界のすべてを形作っている。
そしてその中で、押し花のように寄り添いあう事こそが幸福なのだと、僕らは一生涯、互いをまやかし続けるのだろう。
「お前が何と言おうと、俺は今が一番幸せだよ」
固く抱き寄せられているせいで、幕之内が今どのような表情をしているのかは窺い知れない。
「お前はどうだ?幸せか?それとも不幸せか?俺はお前にも幸せに――」
答える代わりに、僕は不意打ちでキスしてやった。
その時はっきりと見えた、泣き顔に笑顔を貼り付けたような表情に、僕は心底満足感を覚えた。
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