妖精國パロ【7話】7.
洒落でなくオベロンは「このまま僕は死ぬだろう」と思った。脳と心臓が爆発して、身体が木っ端みじんに砕け散るんだ、間違いない。残った肉片はきっと虫も喰わない。
だって胸のあたりが信じられないぐらいに痛むのだ。立香に『大嫌い』と言われた瞬間に視界がホワイトアウトし、耳鳴りがして平衡感覚が狂った気がする。館を飛び出して行った立香に「これはイカン」と這う這うの身で追いかけたが、庭を逸れて森へ走っていく彼女の後をヴォーティガーンが追うのを見て、なんとも形容し難い気持ちを覚えた。
オベロンは思う。
良かった。ヴォーティガーンが行けば立香は大丈夫だ。——嫌だ、許容できない! 今は僕が宥めに行くよりアイツに彼女を任せた方が良い。——立香をこのまま取られるかもしれないんだぞ! ヴォーティガーンなら立香をこの森から逃すなんてヘマはしないはずだし。——あの娘は僕が最初に見つけたんだ! 彼女の気が落ち着いた頃合いに、また話をすれば良いさ。——でも、何を話す? 何を話せば良いんだ? あの娘に『大嫌い』と言われてしまったのに。彼女は、僕から逃げたのに。何をすべきだ。どう行動を起こすべきなんだ? 考えがまとまらない。——あぁ! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!
蛹の中の虫がぐちゃぐちゃのドロドロになって目も当てられない姿になっているように。消化できない思いが醜く渦巻いて吐きそうだ———!
オベロンは、気づけば自室のベッドの上にいた。靴を履いたままうつ伏せでシーツに倒れ込み、泥のような眠りに落ちる。
そんな時だった、突然部屋の扉が開いたのは。
「オベロン」
鈴のような声を響かせて、部屋に入ってきたのは黒いドレス姿の立香だった。オベロンもこれには驚いて「りつか?」と目を丸くして体を起こす。
「……きみ、ヴォーティガーンと一緒だったんじゃないの?」
「オベロンが心配だからこっちに来た」
「心配って……」
傍に寄ってきた立香はオベロンの瞳をまっすぐに見つめて、「さっきはごめんね」とゆったりとベッドに上がった。
「『嫌い』は、勢いで言っちゃっただけなんだ。本当は、そんなこと思ってないよ」
オベロンは立香を見つめ返す。
彼女は突然、どうしたんだ? あまりにも自分に都合の良い話の展開に眉を顰めたが、涙を溜めて上目遣いになった彼女が悔いるように言うから、オベロンの憎まれ口も形を無くした。
「オベロン」
「……」
「……オベロン♡」
「え?」
ベッドに登り、オベロンの元まで来てその胸元に手をついた立香は、彼にキスをした。
彼女から口付けを送られたことなんて一度もない。だから紅をさした唇に触れられたと分かった時、オベロンは一拍置いて、カッと頬を赤らめた。
「なッ、はあ?」
「……好き」
「え?」
「オベロン、好きだよ……♡」
オベロンは息を呑む。頬どころか耳まで熱を持った自覚があった。
立香の手が、彼の下半身へ滑っていく。
「……ねえオベロン。私のこのドレス、似合わない?」
そう尋ねながら男のモノを慰めようとする手つきに「何をしてるんだ?!」と叫びそうになったけれど、なぜか体が動かなくてオベロンは立香の動向を見守ることになった。
「やっぱり……私にドレスは似合わないかな」
立香がオベロンの服の前側を寛げていく。緩く主張し始めた陰茎に指先が当たる度に呼吸が上がり、『その先』を勝手に期待して腰が揺れる。愛撫にも満たない行為だ。それなのにオベロンは熱に溺れたような顔で、たまらず頭を振った。
「違う」
……違う。
違うんだ、本当は。
肉槍が露わになる。そこに立香が直に触れてきた。ハ、ハと浅く呼吸を吐きながらオベロンは顔を歪め、目を瞬かせて手を伸ばす。
橙の髪に。妖精國の空のような黄昏に、触れた。
「立香、りつか。僕は、……僕は、きみのことが……」
立香がゆっくりと口を開いた。毒を思わせる赤々とした舌に視線が釘付けになる。花弁のように可憐に見えて、唾液に光る卑猥なその舌が、オベロンの怒張に絡み付いていく。彼はたまらず体を震わせ、声を上げた。
「……ゔ、ぁっ——!」
堪えられるはずがない。あっという間に劣情が爆ぜて、オベロンはハッと白昼夢から目を覚ました。
彼はベッドに独り横たわっていた。むろんそこに立香の姿はない。虚脱感と倦怠感に目眩を起こしたオベロンはそして、「このまとわりつく不快感はなんだ?」と青ざめた。恐る恐る上体を起こし、その惨状を知る。
「は、あぁああ〜〜〜?!」
夢精を、していたのだ。濡れた下着の不快感に吐き気を覚えながらオベロンは艶やかな髪を掻きむしった。
嘘だろう?! 嘘だ、なんだよこれ!
その時、部屋に近づいてくる虫の翅音にハッと気がついた。純白の女王のものじゃないことには安堵して、それでも髪の毛を乱したまま「今は部屋に入るな! そこで待て!」と鋭く命令する。
その間にオベロンは洗浄魔法を行使したが、心中は自己嫌悪と羞恥と憤りと困惑で嵐が吹き荒れていた。
なんだこれなんだこれなんだこれ! なんだってこんな事になっている?! 僕が! 妖精王であるこの僕がなんて醜態を……!
オベロンは矜持の高い男であった。ゆえに本音を言えば、たとえあの少女が番であっても『たかが人間風情だ』と侮る気持ちがあったことを否定できない。
だって置かれた状況はこちらが圧倒的に有利なのだ。魔力の差もあったし、オベロンは人身掌握術にも長けている。なかなか折れない立香の望郷の念にいつまでだって付き合って、未練として心に残らないよう完膚なきまで叩き潰すつもりでいた。
負けるはずがない勝負だ。こんな、結果が分かりきった仕合なんて。——それなのに!
オベロンは激しく乱れた心を抱えながら両手で顔を覆った。感情をコントロールしようとしても上手くいかない。立香のことを考えると余計気持ちが散り散りになるばかりだ。言葉が捻くれて、心にもない事を言って立香を傷つけてしまうのに、彼女の視線の先が自分にあると昏い悦びを感じて愚行を止められなかった。
ようやくここにきて、オベロンは観念して受け入れた。あの娘を飲み込むつもりでいたのに、飲み込まれていたのは自分のほうだったのだと。理性ではどうにも制御できぬ、無様で情けない己を曝け出してしまうような、そんなみっともなくも溺れるような初めての恋を、自分はしているのだ。
□■□■□■□
朝、すっきりと目覚めた立香が動き出す前に、隣で共寝をしていたヴォーティガーンに抱き込まれた。「わっ」と彼女は驚き、次いでグリグリと甘えるように肩口に頭を擦り付けられて柔らかく笑う。頬に黒髪があたって、くすぐったかった。
「おはよう、ヴォーティガーン」
「ん〜」
と、生返事をしてヴォーティガーンは視線を上げた。昨日は泣き通しだった琥珀の瞳にもう涙の陰はなかった。それを確認した彼は、立香に柔らかく頭を撫でられて心地よさそうに目を閉じる。
「……君さ、今日は一日ここにいろよ」
「え?」
「朝食は持ってくるし、朝の森の用事はすぐに済ませる。だからここにいろ。いいね?」
立香は首を傾げた。
「ここって、ヴォーティガーンの部屋ってこと?」
「そう」
「今日はリビングの掃除をしようと思ってた」
「掃除なら俺の部屋ですればいいでしょ」
立香はチラと室内に目を向ける。
確かにこの部屋に掃除は必要だ。双子は総じて自室が汚い。ベッド周り以外が、オベロンのところだと腐海が広がっていて、ヴォーティガーンの場合だと系統立って物が固められているらしいが足の踏み場がない。
「掃除して良いの? 自分のものを触られるの、嫌いなくせに」
「そうだね、本当は掃除されるなんてごめんだ」
「なにそれ?」
ヴォーティガーンは改めてぎゅうと立香を抱きしめてその柔肌に口付けた。ちゅ、ちゅと肩口から耳裏まで優しく唇で撫でてからベッドを降りて、身支度を始める。
「とにかくこの部屋にいろってことさ」
と、ヘリンボーン生地のシャツを羽織りながらヴォーティガーンは言う。シュッと伸びた手足、白磁のような肌。少年と青年の間の時期にだけ存在する、儚くも寂しげで危うささえ感じる美貌に立香が思わず見惚れていると、彼が蒼い瞳をこちらに向けた。
いつもは鋭く剣があるのに立香を見つめる時だけは優しく細められるまなじり。
「返事は、立香?」
「……はい」
彼が美しい男の子だということは知っていた。だけどなんだかキュウと恥ずかしくなって、立香はシーツを口元まで引き寄せる。
ヴォーティガーンは「おや」と片眉を上げた。彼らはもう幾度も肌を重ねている。それに初めの頃はあんなにヴォーティガーンを厭っていた、それなのに立香はこの男に心を開き、さらには恥じらいを見せている。
ヴォーティガーンは上機嫌に笑うとベッドの縁に座って、愛おしげに彼女に口付けた。
「良い子だ」
立香は耳まで赤くなった。
ヴォーティガーンは顔の横にかかる赤毛を弄んで、赤面する彼女を眺めてじっくりと味わった後、身支度を整え、食事を用意すると「大人しくしておけよ」と言い残して部屋を出て行った。
足音が遠ざかるのを聞いてからパンを手に取った立香は「ヴォーティガーンの色気ってなんであんなに凄いんだろ」と思いつつ、部屋を見渡す。
部屋の主人は麗人だが、部屋自体は汚部屋だった。百年の恋も覚めるとはこの事かもと思いながら、食事を終えたあとは掃除に取り掛かろうと考える。
が、しかし適した服がない。ここにあるのは例の黒いドレスだけなのだ。
立香は伏目がちになって、手触りのいいシルク生地に手を滑らせた。……もうこのドレスを着て外に出ることはないかもしれない。だけどこれを粗野に扱ったり、このまま掃除を始めたくなかった。
……あてがわれた自室に戻って着替えて来よう。そして可哀想なドレスはクローゼットの一番奥に仕舞い込んでしまうのだ。
そうして立ち上がった彼女は「ここにいろ」とヴォーティガーンが厳命したことを思い出した。
彼は何故あんな事を言ったんだろう? ……その理由を聞きそびれたけれど。
「着替えに戻るくらいは、いいよね」
そうして立香は自分の部屋に戻った。手早く支度を整えていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「立香、おはよう。起きているよね」
立香は目を見開いて、クローゼットからドアを振り返った。胸がギュッと痛む。聞こえてきた声がオベロンのものだったから。
「昨日のことで話がしたい。お茶を一杯どうかな」
ヴォーティガーンのおかげで落ち着いた心がまた波立った。返事ができずに立香が固まっていると、「そこのサンルームで待っているから」と言って、靴音は遠ざかっていった。
□
ヴォーティガーンは言った。
「オベロンは君にどうしようもなく惚れている」と。だけどその言葉が信じられるほど、私に自信なんて、ないよ。
□
しばらくしてサンルームに現れた立香の服装は地味で、取り柄のないものに戻っていた。それは彼女が抱える不安の現れであったが、オベロンにとっても苦い思いをするものだった。
そうしてテーブル席に座った時、二人は同時に数ヶ月前のことを思い出していた。立香が妖精國へ流れ着いたあの日。今のように硬い表情で、オベロンと向かい合った。
そして彼女に対峙する彼もまた、あの時と変わらず人を誑かすような柔和で優しげな笑みを浮かべる。
決して長い時間を共に過ごしたとは言えない。それでもこの日々の中で互いの人となりを理解してきたと思う。それなのにこんなに開いた心の隔たりを寂しいと思うこの感情は、一体どこから来ているのか。
「立香、昨日のことだけれど」と、オベロンは二人分の紅茶を注ぎながら早々に主題に切り込んだ。
「僕が悪かった。君のドレスや所作について悪く言ったこと。街へ出た時にきみから離れて……うん、意地悪をした、本当にごめん」
オベロンの美しい碧眼に見つめられて立香は視線を下げた。差し出されたカップの、香り高いキャラメル色の紅茶の表面に、心許なく揺れる自分の影がある。沈黙に耐えられず「いいよ」と立香は言った。
「いいよ……オベロンには、感謝をしてるから」
「……」
「妖精國を知って、人間の置かれている立場が弱いってことが分かった。だけどオベロンたちが良くしてくれるから……私、勘違いしてた。ううん、勘違いしないように気をつけてたんだけど甘えすぎてたなって」
「甘えすぎてた?」
「うん。私が元の世界に帰れるまで、オベロンは居場所を提供してくれているだけ。その理由は私が『人間』だから。だから傍に置いてくれただけ。……それなのに帰る方法を探すのを手伝わせたり、作法とかよく知らなくて迷惑をかけたり、恥ずかしい思いをさせちゃったり。嫌だったよね、ごめんなさい。……だから、もういいよ」
「もういいって?」とオベロンは尋ねる。「自分の国に帰ることは諦めるって意味かい? きみ、ノリッジに行きたいって言ってなかったっけ」
「ノリッジには行くよ。……でもオベロンには頼まないってこと。ヴォーティガーンに、一緒に行ってもらえるよう声をかけてみる」
オベロンは片眉をキリリとつり上げた。それからテーブルの上に肘をつけ、乾いた笑みを浮かべる。
「ヴォーティガーンはいいんだ?」
オベロンは優しく言った。
「立香は、アイツには迷惑をかけても良いって思ってるんだ? あァ……もしかしてヴォーティガーンの面の皮は厚いから、物知らずなきみを連れて恥をかいても気にしないだろうってコト?」
聴き心地が良いだけの空虚な声がサンルームの床に木霊する。止めたいのに、捻くれた言葉だけがこぼれ落ちていく。
「ヴォーティガーンも僕と同じだよ。アイツだって、きみが『人間』だから傍に置いているだけなんだ」
「……」
立香は静かに紅茶を飲んだ。唇を湿らせて、
「……ヴォーティガーンは、違うんじゃないかな」
と視線をオベロンに戻す。
彼はぎくりとした。立香の瞳は琥珀の輝きだ。虫を捕らえて離さない、陽だまりのように明るい甘い蜜。その眼差しが……オベロンは少し苦手だ。
「ヴォーティガーンが教えてくれた」と立香は言う。
「私は、ヴォーティガーンの番なんだって」
彼女の眼差しはまっすぐだった。
「だから『人間』だからとか、活力を得るためだとか、そういう理由であの人が私の傍にいてくれるんじゃない。……もっと特別で、暖かな理由がそこにはあるんだって信じてる。それに……ヴォーティガーンが恥をかかないように、私もこれからはもっと努力するよ」
ヴォーティガーンを語る立香の声は自信に満ちていた。オベロンは黙ったまま紅茶を飲み、そしてカップをソーサーに戻した。
……なんだよ、それ。
口を引き結んだオベロンに対し、立香は努めて明るい声を出した。
「あのね、オベロン。ここに置いてもらう間、ちゃんと働くから。オベロンには迷惑をかけないように頑張るから」
「……」
「だから昨日のことは、もういいよ。私も言いすぎてごめんなさい。紅茶、美味しかったよ。……。……私、今からヴォーティガーンの部屋を掃除するんだ。だから……」
「何度だって言ってあげよう。きみに、元の世界へ帰る方法なんてない」
オベロンは立香の言葉を遮った。
「ヴォーティガーンとノリッジへ行っても無駄だよ。どうせ空振りをして帰ってくるだけさ」
立香は少し息を飲んで、それからテーブルに置いた両手を握りしめた。
「それはどうだろう……。あのね、オベロンが前に買った小刀があったでしょ。あれ、私の国の武器なんだ。しかも国の言葉まで刻まれてた。帰る方法とまではいかなくても日本の情報があるかもしれない。もしかしたら日本人が、いるのかも」
「刀? ……フッ、あんなもの昔からこの世界にあるよ。スプリガンという男がノリッジの領主になったとき……そうだな、400年も前に刀を持つことが流行したんだ。どうせ漂流物が流れ着いて流行ったんだろう。……まあ仮にきみの国の人間がチェンジリングされたのだと考えても良い。だとしても400年も経てばとっくに生きてないし、生きていたとしても異質なものへ変容しているさ」
しかし立香は頑なだった。
「実際に確かめてみなきゃ、分からないでしょ」
「いいや。分かるとも」
とオベロンは断言した。
「きみだって本心では無駄だって分かっているんだろう? もう帰れないかもしれないと絶望しているんだ」
「絶望なんてしてない。希望が少しでもあるなら諦めない。だからノリッジに行く。確認してくる!」
「威勢だけはご立派だね。そのしつこさは認めてあげる。だけど僕に大見得をきったその足で、きみはヴォーティガーンのところへ甘えに行くんだ。『お願いヴォーティガーン、私を今すぐノリッジへ連れて行って』って男殺しのセリフを吐くのさ。……結局きみは、一人では何もできないんだ」
嘲るようなオベロンの声音に、立香は気づきを得たと思った。
「オベロンは、私がヴォーティガーンに頼ることが不満なの?」
「……」
「ヴォーティガーンに頼るから、オベロンはずっと不機嫌なんだ? 私が一人でノリッジへ行って何か掴んで帰れば、オベロンは満足するのかな」
「さぁ」
オベロンは鼻で笑った。
「どうでもいいよ」
立香は席を立った。そのまま部屋を出て行こうとしたが、同じく立ち上がったオベロンがドアを塞ぐように陣取った。
「どいてよ!」と彼女はオベロンに対していきりたった。
「そこをどいて! 私、ここから出て行くから!」
「駄目だ」
「どうして? 私が何をしても、何を言っても、どうせオベロンは気に入らないくせに! だから消えてあげる。オベロンとはもう関わらない。もう頼らない。それで良いでしょ!」
「きみを気に入ってないなんて、僕がいつそう言った?」
「オベロンは前から態度でそう言ってるよ。私が目障りだって、私のことが嫌いだって! だったら別の誰かを連れてきたら? オベロンが気に入る、私以外の子を傍に置けばいいでしょ!」
オベロンがはっきりと傷ついた顔をした。
「きみ以外の誰かなんて、……僕は、」
けれど言いかけた言葉は詰まって、続きが出てこなかった。
「僕は……」
黙り込んだオベロンに対し、立香はくるりと背を向けた。光が差す方へ向かう背中に、オベロンは眉を寄せる。
「……どこへ行く?」
立香が窓を開けた。グッと外へ身を乗り出す。
オベロンが部屋のドアを塞いでいるから、立香は窓から外に出て、壁伝いに隣の部屋のバルコニーへ行こうとしているのだ。
オベロンはサッと青ざめた。
「やめろ。ここは二階だぞ」
オベロンやヴォーティガーンにとって高さなど些事だが、人間の立香は違う。
彼女の黄昏色の髪が風に激しく巻き上げられるのを見て、オベロンは血の気が引いた。駆け寄ろうとする彼に、立香がキッと振り返った。
「来ないで、オベロン!」
「……っ」
「放っておいて! 私のことなんてどうでも良いくせに!」
「……どうでも良いわけないだろう!」
オベロンはひび割れるような声で叫んだ。
「どうでも良い訳がない! だってきみは、僕の番だ。僕の唯一であり、運命だ!」
懇願するように、オベロンは立香に手を伸ばした。
「だからそんな事はやめてくれ。きみに何かあったらと考えただけで気が狂いそうになる」
立香は目を丸くした。顔色が蒼白になったオベロンを見つめ返す。
「オベロン、……あっ」
突風が吹いた。半身を窓から外に出していた彼女は風に煽られて、ぐらりと後ろへ傾いた。
「りつか!」
それは一瞬の出来事であった。落ちかけた立香はその腕をオベロンにとられ、強い力で引き寄せらた後に、気がつけばサンルームの床に膝をついて、彼に強く抱きしめられていた。
耳元でオベロンの心臓が早鐘を打つ音が聞こえる。立香の肩を掴む彼の指先は僅かに震えていた。
青いシルク生地の服に頬をつけていた彼女は、それからゆっくりと顔を上げた。
簾のように垂れた真珠色の髪の隙間から覗くオベロンの顔は酷く怯えていた。血の気がすっかりと失われて、青ざめた頬に立香は手を伸ばし、そっと指先で触れてみた。
「……オベロン」
蒼い瞳が緩慢に動く。立香を見つめ、それからぐしゃりと彼は表情を歪めた。
「……立香。僕はきみが求めることなら何だってする。きみが望むものを全部あげよう。……だからお願いだ、無茶をするのはやめてくれ。……さっきみたいな事をされると、生きた心地がしないんだ」
立香は、オベロンの頬を撫でた。つるりと滑らかで冷たい肌を撫で、暖を与えるように両手で包み込む。
初めて、本当の彼に触れた気がした。
「オベロン、教えて。私はここに、……きみの傍にいても良いの?」
オベロンは一度口を引き結んだ。そして言葉が捻れないよう、慎重に言葉を紡ぐ。
「傍にいてくれ。どうか元の世界に帰らないでくれ。……ここを選んで欲しい」
「それは私が珍しい漂流物だから? 『人間』としての私を、オベロンは求めてるの?」
「……違う」
「オベロンは私のこと、……好き?」
「うん……」
オベロンはぎゅう、と立香の体を抱きしめた。消え入りそう声で「好きだよ」と言った。何故あんなにも怒ってたのかと聞けば、「嫉妬したのだ」と彼は答えた。
「きみがヴォーティガーンを頼るから。腹いせに他の妖精たちに声をかけたんだ。僕と同じように嫉妬するきみを見て、ざまあみろって思った。……カッコ悪いだろう」
後ろめたいことを知られた子供みたいに視線を逸らしてボソボソと喋るオベロンに、立香は身を乗り出して、キスをした。
オベロンは目を丸くして固まりってそれから「は?」と顔を赤くする。そんな、妙に不器用で可愛いこの男が好きだと思った。彼の愚かささえ許してしまうほどの情が日々の中で育っていた。
「オベロン」
立香は愛しげに名前を呼んでオベロンの首裏に両手を回す。全身で彼を感じながらぎゅうと抱きしめた時、彼女は確かに「幸せだ」と思った。
オベロンも立香の華奢な体を抱きこんで、己の腕の中に愛し子がいることを確認した。
【続く】