Remedium⑤ 北河は右手で、未だ意識の戻らない无限の脈を取りながら、左手で彼の額に触れた。目を閉じて意識の焦点を合わせ、无限の霊域の状態を診る。特に異常は無さそうだ。
无限が瀕死の重傷を負い、この施療所に転送されてきてから、四日が経とうとしていた。彼の弟子、小黑は施療所の奥からつながる北河の家の庭へ、聚霊と稽古のために朝食後から出ている。気丈に振る舞う小さな彼の姿が痛ましかった。
──そもそろ、目を覚ましてもおかしくないんだけどな……。
无限はまだ意識が戻るほど体力が回復していない、ということだろう。だが、意識不明の状態が長く続けば、いくら彼でも衰弱してしまう。それはできるだけ避けたい。
北河は点滴の針を无限の腕に刺すと、クレンメを操作して薬液の流速を調節した。
──気長に待つしかないが……これでも、何もできないよりはマシか……
点滴筒の中を、薬液の滴が落ちていった。
北河が病室の作業机の上を片付けてふと見ると、无限がぼんやりと目を開けていた。
「无限、俺がわかるか」
彼の意識の状態を確かめるため、北河は无限の手を握り静かに問いかけた。
「………北…河……」
吐息のような、小さな掠れ声が彼の乾いた唇から漏れた。沙青の目が、朧げな光を灯し、北河の方を見る。握ったその手の中で无限の指が動き、北河の手をゆるく握り返した。
「わかるんだな、よかった」
北河は安堵に微笑んだ。
はく、と无限の口が動いた。声が上手く出ないらしい。喉が渇いているからだろう。
「水は飲めそうか?」
北河が問うと小さく无限が頷いた。彼の上体を支えて起こしてやり、吸飲みの水を噎せないように、少しずつ口に含ませる。こくん、と无限の喉が動いた。
「……小、黑…は……?」
寝台に再び横になった无限が、気遣わしげに北河に問う。
「俺の家の庭で稽古してる」
呼んでこようか、と北河が応えると、无限は首を振った。
「……もう…気づい、てる……はず」
鞠のように跳ねて袖机から枕元に飛び乗ってきた小さな存在──黑咻というらしい──を見遣り、彼が微笑む。黑咻が大きな目を瞬かせた。
とたとたと、走るような軽い足音がこちらに近づいてくる。音のした方へ北河が振り返ると、病室の入り口から小黑がこちらを覗いていた。
「師父……?」
涙を溜めた彼の翠緑の目が、見開かれていた。
「……小黑」
「師父!!」
弱々しい掠れ声で无限が小黑を呼ぶと、小黑は師の横たわる寝台に駆け寄っていく。
小黑が无限に飛びつく直前、北河は小黑の肩に触れ、やんわりと彼を制した。飛びついてきた小黑を受け止めるだけの力は、意識が戻ったばかりの、今の无限にはないのだ。
「気持ちはわかるが、そっとな」
北河の言葉に小黑が頷いたのを見て、北河は手を離した。
「……おいで」
无限に招かれるまま、小黑は寝台によじ登り、彼の肩に縋り付いた。小黑の肩を、无限が優しくさする。
「……っ…よかった、師父──」
あとは、もう言葉になっていなかった。小黑は堰を切ったように声を上げて泣き出した。あの夜からずっと堪えていたのだろう。
「……すまな、かった」
无限が優しく小黑の頭を抱えるようにして撫でる。
──お前、そんな顔できたんだな。
无限のその表情は、北河が見たことのない、穏やかで、やわらかな笑みだった。自分は知らないが、遠い昔、"あの子"に向けていたものときっと同じだろう。かつて喪ったそれを彼なりに取り戻したのだと北河には思えた。
──その子といられて、良かったな、无限。
北河は静かに笑った。北河の癒せない无限の傷の痛みは、小黑との関係の中でゆっくりと、少しずつ和らいでいっているようだった。心の傷は、そう簡単に癒えるものではない。傷を抱えた本人が、どう向き合い、付き合い、折り合いをつけていくか、それ次第だ。
「……小黑?」
无限が静かになった弟子の様子を窺うように首を傾げる。小黑は泣き疲れたのか、无限に縋り付いたまま寝入ってしまった。
「……寝ちまったな。疲れてるんだと思う。お前が寝てる間、結構な無茶もしてたから」
北河は小黑の背をそっとさすった。
「小黑な、お前が大怪我する羽目になった事件について、館から聴取を受けたんだよ。それで、その証言のおかげで犯人グループの残党が捕まったそうだ」
昨日逸風から受けた報告を、无限に伝える。彼は静かに頷いた。
「……そうか」
北河は无限の身体に負荷がかからぬよう、眠っている小黑の頭の下にクッションをそっと入れた。
「褒めるかどうかは、お前に任せるよ。あの時、かなり無理してたから」
証言が犯人捕縛につながった事は、小黑の手柄ではある。だが、心身に極端に負荷がかかることを、北河は小黑にして欲しくなかった。彼はまだ、ほんの子供だ。
「体勢それで大丈夫か」
无限の様子を北河が窺う。
「ああ。それに……この方が、いいだろう」
頷いた无限の目線の先には、彼の病衣の胸元を握る愛弟子の手があった。
小黑を抱えたまま、无限はうとうとし始めた。目を閉じては、弾かれたように目を開ける。見かねた北河は二人に布団をかけなおし、そっと无限の目元を覆った。
「眠いなら寝ちまえ。まだ起きてるだけの力がないんだろ」
「ありがとう……そうする」
呟くようにそれだけ言うと、あっという間に彼は眠りに落ちていった。
それを見届けると、北河は自宅を通じて出た先、山あいの街にある診療所へと向かった。開院時間に遅刻しかねない時間だが、少し急げばまだ間に合う。それよりも、気がかりが少し減ったことが、北河の足取りを軽くしていた。
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