【なにも知らないで】「なぁ先生」
──好きだよ。
畳に向かって吐いたおれの声は、書を読むのに夢中な先生には届かない。誉の褒美にと贈られた書は希少な物だそうで、先生もたまには頑張ってみるものだとご満悦だった。内容もかなり惹かれるものだったようで、もうかれこれ一時間は夢中で読み進めている。
その横顔を、同じだけの時間おれは見つめながら、こうして思いを喉の奥で燻らせながら畳に向かって溜息を吐いているのだ。
髪は結わえていても、ふわふわとしたくせ毛は俯いていると垂れてきて邪魔なのだろう。垂れる髪を頻りに耳に掛ける度、毛先が揺れ耳の後ろにキスマークが覗く。最初に気付いたのは昨日の夜。縁側で寝落ちた先生を何とかして抱えた時だった。
赤黒い、血の痕。吸われたのか噛まれたのか、内出血で先生本人からは決して見えない場所にあるそれは、そんな意図などなくてもおれを牽制する。
「南海太郎朝尊はお前のものでは無い」
おれの首をぎゅっと絞めつけるように、その赤色が言ってくるのだ。
「……くっそ」
───誰が付けたんだ。それ。
人の目に付くところにそんなもの、迂闊だぞ。そう低い声で責め立てるイメージはついても、その言葉が口から出ることは無い。先生の無用心を叱責することなんて日常茶飯事だし、気の利かない悪態なんていくらでも言ってきたのに、今更そんなことすら聞けず、睨み上げるようにただただ赤色を凝視した。
「ふふ、肥前くん。そんなに見つめられてはさすがの僕でも穴が空いてしまうよ」
おれの視線に気付いたのか、先生が振り返る。視線を悟られただけでも恥ずかしいのに、それが当然の事のように許容されてしまい、顔から火が出るような感覚が押し寄せた。
「…っ、悪かったな」
「煩わしそうに扱う割に君は僕を見ているようだから興味深くてね。君が視線を送る程の何かが僕にはあるのかね?」
眼鏡の奥の目が、柔らかく細められる。少し照れ臭そうに笑み、飽きないねえ。そう言ってまた書へ視線を戻す。振り返った拍子に垂れた髪をまた、長い指に絡めて痕を覗かせる。
「…………ねぇよ、そんなもん」
「そうかね」
おれがその何もかもから目が離せないことも知らないまま、知ろうともしないまま、先生はまた書に夢中になった。
こんなにもあからさまな嘘でも、先生がおれの真意を詮索してくることは、今まで一度も無かった。今回も、そうだった。
なんで呼んでも気付かねぇくせに視線には気付くんだ。
舌打ちと共にまた悪態を飲み込んで、畳の目を睨み付けた。
「……それにしても僕が書を読んでいるところなんて見ていても暇ではないかね?」
数分して、思い出したように首をぐるんと回して、先生が再びおれの方へ振り返った。
「……べ、別に。暇とか楽しいとかでここにいねぇし。どうせあんた放っておいたらまたそこで寝るんだろ」
「ここは僕の部屋だからね。寝てしまったとしてもなんら問題はない筈だよ」
「じゃあせめて布団入れよ。机に突っ伏して涎垂らしてるあんたを布団に転がすの誰の仕事だと思ってんだ」
「それは済まないね。君より背丈のある僕では苦労するだろう」
「分かってんなら寝落ちる前に布団に入る癖つけろって」
ほら。悪態なんていくらでもつけるのに。
「そうだね。区切りも着いた事だしこの辺で休むとしようかな」
この体は目や肩が疲れるから困るねと零しながら、先生は名残惜しげに書を床に置いて布団に寝転がった。
布団に広がる柔らかそうな髪に、視線を奪われる。このままでは苦しいねと笑ってシャツのボタンに掛ける指に、息を飲む。
見えないところに付けられた証の存在を、本当に先生は知らないんだろうか。
彼曰く穴が開くほどの視線を浴びせるおれの目の奥にある真意には気付いているんだろうか。
気付かないままで、いてくれるだろうか。
「おやすみ、肥前くん」
「あぁ、おやすみ先生」
間もなく寝息を立て始めた先生に毛布をかけ、おれは部屋を後にした。
どうか知らないままで。
────────
先生はキスマークにも気付いていて見せていてもいいし、本当に無頓着でもいいなと思います。
題は「人の気も知らないで」と「知らないままでいて欲しい」の二つの意味になっていればなと。
見事なまでの今更ですがひぜなん、沼過ぎる