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アニメ花丸と活劇。花丸の審神者は姿が書かれず空席となっている。その席に自分が座って彼らの日常を過ごしても良いし、とある本丸の一日として見てもいい。
活劇には審神者が登場し男士の日常は任務の中にある。内容はかなり重い。元持ち主への愛を持ったまま死に追いやる歴史を守らなければならない。その葛藤も苦悩も「審神者」が与えた肉体と心から来るという事を私たちは知っている。だからこの本丸は「とある本丸」であり、その苦しみを与えているという罪悪感から遠ざける為なのだろうと思う。
パライソのキャッチコピー「これが刀剣男子達の日常」
松井江の余りにも救いが無い終わり方に挙がった悲鳴はまさしくそれだった。
島原の乱。只の過去の記憶ではない
劇中の飢饉、圧政、全く未知のウイルスに混乱し迷走する人々。只の昔ばなしではなく、容易く時代の波にのまれ混乱し、足掻く人々の在り方・・・本質ははなんら変わってはいないのだ
このコロナ渦でズタズタになった経済の中で突如日常が一転し貧困や生き方を変えなければいけなくなった人々は沢山いる。それはあの舞台に立つ彼らもそうだ。
凱旋初日の日向君の挨拶。再び感染の波がやってくるかもしれない。それでも「次は上手くやろう」誰のせいにもできないこの危機の中で諦めずに、何度でも先に進もうと言っているのだと感じた。
東京楽の日にあったという松井江のカーテンコールで歌合であれほどに祝福され顕現した彼がなぜこれほど苦しまなくてはならないのかと絶望した私たちの気持ちを抱いて、審神者が与えた人の身を苦悩を受け入れ共に進もう、と言ってくれたのだろうと。
コロナ渦で散々苦しんだろう役者である彼らと配役がオーバーラップする、力強く語られたこの言葉。
そこに私たちはきっと大丈夫、松井も日向も他の皆も、例え泣き笑いでもあきらめず先に進んでくれるのだろうと希望を持つことが出来るのだと思う
ふと、「ヒーローショー」という言葉が浮かんだ
アイドルでありヒーローであり、私たちはまた彼らにまるで劇中の右衛門作が天草亜四郎を作り上げたのと同じ偶像である十字架を背負わせてしまうのかもしれない。
でも、私もその光景を見てみたい