浅き夢見じ酔ひもせず 最近、なんだか落ち着かない。二人がけのソファに一人で座りながら、フィガロはゆっくりと目を閉じる。
夏のはじまり、短すぎる梅雨がすっかり過ぎ去ったころ。
スマホを見ながら、フィガロは悩んでいた。
「うーん……」
教え子のルチルから送られてきたのは、二枚の電子チケット。そして、何かしらのキャラクターグッズの写真だ。
このきっかけは、今日の昼ごろまで遡る。
先生、久しぶりにご飯でもどうですか。ルチルに誘われ、二人で昼から酒を飲んだ。
個室で、料理も美味しくて、久々に話すのも楽しい。気分が良くなって、ついうっかり惚気てしまったのが悪かった。
最近一緒に出かけてくれなくてさ〜、なんて言えば、ルチルはまあと驚きの声を上げる。
それなら二人で遊びにいきましょう! あ、ディズニーとか! チケット送りますよ! あと欲しいグッズがあって、よかったら買ってきて下さい!
酒の勢いというのは怖いものだ。うんうんそうだね、ありがとう、嬉しいよ。そうやって答えていたけれど、正気に戻った今はただただ自分の失言に頭を抱えるしかない。思い返せば会話もイマイチ噛み合っておらず、酔いの恐ろしさを感じてしまう。
「は? 行かないけど」
「だよねえ」
もちろんあっさりと振られたフィガロは、困ったように画面を見つめる。
ルチルにはお返しに四人分のチケットを贈った。弟のミチルと、二人が仲の良い人を誘えるように。なんと気の利くことだろうか。ルチルからは喜びのスタンプが送られてきた。
「うーん、どうしよう……」
お返しはした。それでも、せっかく貰ったものを使わないのはどこか気が引ける。けれど、一人で行くのはいささかハードルが高いし、付き合ってくれそうな人はあまり思い当たらない。唯一楽しんでくれそうな二人を思い出したが、いろいろと根掘り葉掘りおもしろおかしく聞かれそうなのだ。できれば避けたい。
「急にどうしたんだ?」
「ああ、貰ったんだよ。ファウストさんとどうですかーってね。あと買い物、グッズかな、何か頼まれちゃって」
「……なぜ、僕が出てくるんだ」
「さあ?」
うっかり惚気たからです、なんて言えば、ファウストの機嫌は大変なことになってしまう。曖昧な返事をすれば、彼は眼鏡をくいとあげた。
「そういうことは先に言え」
「え?」
「……決して安いものではない。いただいたものを利用しないのは失礼だ」
「え、いいの?」
「なんだ、僕じゃダメなのか」
「いやいや、ファウストがいい。絶対ファウストがいいよ」
こうして、二人はディズニーに行くことが決まったのである。
「……えっと、これは?」
ゆったりとした下り坂、フィガロたちの眼下には一面人が広がっていた。
「手荷物検査」
「え?」
「手荷物検査の待ち列だ」
当たり前のように言い切ったファウストは、人が少なめの端の方に歩いていく。
「すごいね」
「まあ、休日だから」
列はゆっくりではあるが、少しずつ前へ進んでいく。曲がり角の途中で後ろを振り返れば、並んだときよりもさらに混雑していた。
「人間ってこんなにもいるんだね」
パタパタと扇子を仰ぎながら、フィガロは楽しげに笑う。普段通勤で人混みは見慣れているものの、人が集まりすぎているこの光景は圧巻だった。
「ほら、これ」
凍ったペットボトルを渡しながら、ファウストはフィガロの首にネッククーラーをかける。
「ありがとう。あー、冷たい、気持ちいい」
入念な下調べによって練られたファウストの持ち物は、半分ほどが暑さ対策のものらしい。
ファウストは真面目だった。行くと決まってからは、ネットや動画、雑誌や本でディズニーの情報を少しずつ集めていたらしい。いつの間にか、CMに流れるキャラクターのほとんどがうろ覚えのフィガロよりもうんと詳しくなっていた。
おまえは絶対にバテる、気分が悪くなったら早めに言え。絶対だぞ、分かったか、おい返事をしろ。これはフィガロが今日まで口酸っぱく言い聞かされてきた言葉たちだ。ひょろひょろなのはファウストの方なのにね、なんて言って一度ご機嫌を損ね済みである。
実際、フィガロは駅を出た瞬間からじめっとした暑さにクラクラしていた。冷たい飲み物を渡されたり、首元を冷やしたりとファウストの献身的な介護がなければ、駅のすぐ横のスタバで伸びていただろう。それぐらい今日は本当に暑い、暑すぎる。
けれど、フィガロは元気に振る舞うつもりだった。ファウストが案外楽しみにしているのは知っているし、二人で出かけるのも久しぶりなのだ。
どうか体力よ、お願いだから持ってくれ。帽子に容赦なく照らされる日差しに、フィガロは眩しげに目を細めた。
体力は積み重ねるもの、充分に分かっている。けれど、今日ぐらいは頑張ってほしかった。
運動不足で熱に弱い社会人。そんな人間が蒸し暑い日に外に立ち続けたらどうなるのか。
「ごめんね、ファウスト……」
「大丈夫だ、ゆっくり休んでくれ」
近未来を舞台したエリアのどこかのお店、二階席。よく分からないキャラクターがデリバリーピザを経営しているのがコンセプトらしい。
限定のトロピカルな冷たいドリンクを頬に当てられ、扇子であおがれながら、フィガロはぐったりと項垂れていた。
これでもちゃんと頑張ろうと思っていたのだ。けれど、列が進むほど徐々に口数は減っていき、エントランスを越えるころにはフィガロの体力は底をつきかけていた。
ごめんね、ちょっとだけ休んでいいかな。情けない声を出すフィガロに、ファウストはふるふると頭を振る。同じ社会人なのにどうしてここまで体力が違うのだろうか。唐突に老いを感じる、うっかり渋い顔をしてしまう。
ファウストの行動は早かった。早々にダウンしたフィガロのために近くのお店に入り、昼前でありながら埋まりつつある席を素早く確保する。そして冷たいドリンクを買ってきて、仰がれ、冷やされ、甲斐甲斐しく世話を焼かれ……今に至るのだ。
普段なら少しぐらいなら我慢をして虚勢を張り堂々としているけれど、今日ばかりはダメだった。
「すまない、やっぱりあなたには……」
「やめて、俺はまだ若いよ、ぴちぴちなんだ……」
「その、ぴちぴちって言わない方がいいと思う」
グサリと脇腹を刺された気分である。フィガロはテーブルの上で頭を抱え、小さく呻いた。
「その、救護室とか行くか?」
「大丈夫、一時的なものだからね。ほら、夜ご飯とかさっき予約を取ってくれたんだろう? 和食の店だっけ?」
「まあ、そうだが……」
「ちょっと疲れちゃっただけだよ。もう少しだけ休めば動けるから、ね?」
愉快な機会音が鳴り響く中、ファウストだけが暗い顔をしている。
「すまない。僕が浮かれてしまっていた」
「いいんだよ。きみが楽しみにしてくれていたのはとっても嬉しいからね」
入ってしまえば人混みで立ちっぱなしになることはないだろう。それならきっと大丈夫。
フィガロは分かりやすく明るい声を出した。
「えっと、なんだっけ? ショーが当たったんだろう? 時間とか大丈夫?」
「大丈夫、夕方だから」
「分かった。じゃあ次はどこに行く?」
ファウストの不安げな顔に、フィガロはにこやかに笑う。
ドリンクを飲み切れば、カラカラと大きな氷が音を鳴らす。顔を上げれば、ファウストにじっと見つめていた。
「さ、行こうか。案内してよ」
「本当に大丈夫なのか?」
「もちろん、信じてよ」
フィガロの言葉に、ファウストはこくりと頷く。どうしようもなく不安げな顔のままではあるが、次の予定を調べるべくスマホを取り出した。
「気分が悪くなったらすぐに言ってくれ」
ずいぶんと心配されているらしい。それが心地よくて、思わずにやけてしまいそうになる。
真剣にスマホで検索をするファウストを見ながら、フィガロは安堵の息を吐いた。
自分から誘っておきながら、特段気になる乗り物や食べ物もあったわけではない。だからこそ、どんなものでも等しく楽しむことができた。都合の良い言い訳のようで、本当のことである。
その日、フィガロはファウストの後をひたすらについていくだけだった。
海賊の世界にタイムスリップしたり、最近できたお城のアトラクションに乗ったり。千人目の亡霊に誘われたり、滝つぼに落とされて濡れたり。映像と音楽を楽しんだり、宇宙旅行をしたりもした。当たった室内のショーは二階席ながら楽しく見て(ほとんどのキャラクターの名前が分からなかったが)、真っ昼間の外のショーも歩きながらちらりと覗くことができた。もちろん頼まれていたお土産もちゃんと購入している。
体調は大丈夫か、気分は悪くないか。アトラクションに並ぶたびに何度も尋ねられ、フィガロは少しだけ嬉しくて困ってしまった。
「もしかしたら寂しかったのかも」
そう、こんなにも構われるのは久々だった。
タレがたっぷりとかかった穴子の天ぷらを食べながら、フィガロはポツリと呟く。茶碗蒸しを手に持ったまま、ファウストはどこか怪訝な顔をした。
「おい、仮病だったのか?」
「いやいや、まあ、うん、体調がちょっと……ってなったのは本当だよ」
即座に顔を曇らせるファウストはなんと可愛いらしいことか。家なら今すぐ腕を伸ばしてそっと頭を撫でているだろう。
見た目だけならファウストの方が細くて薄くてか弱そうに見えがちだ。けれど、案外精神や体調を崩しやすいのフィガロの方だった。同居してしまえば隠すことなどできず、その度にこうしてファウストから介護めいた世話をされ続けている。
その度に嬉しさと申し訳なさで感情が掻き乱されていた。
「もっと丈夫になりたいな、筋トレとかどう思う?」
「はっ、三日も続かないな」
「あはは、確かに」
呆れた目で見つめられ、フィガロはにこやかに笑う。頭の隅によぎったシックスパックの自分は、現世では叶えられそうにない。
暑いし本当に疲れた。正直、もうしばらくは遠慮したいのが本音だ。
けれど、こういう日もたまにはいいかもしれない。
そうして、二人は光るお城に背を向けた。