怪魚 水族館に行こうと言われた。どうやらチケットを貰ったらしい。いいよと言えば、彼は少しだけ驚いた顔をした。
「何?」
「いや、一緒に行ってくれると思わなくて」
「なんだ、行かないほうがいいのか」
「いやいや、行こう、行こうよ」
その場で日付を押さえられ、集合時間を決められて。いつも通り少しだけ強引だなと思いつつ、もう慣れた感覚ではいはいと答えておいた。
「楽しみだね」
「まあ……」
楽しみ。けれど、同じぐらい不安。高校の学校行事以来、水族館には行ったことがない。さほど海の生物に興味も無い。魚を見て感動できるほど無垢でもない。
それでも、隣に座る人はすごく楽しそうだった。優しげに笑う彼を見ていると、不安に思うことがおかしいと思えるぐらいに。
行く場所と同じぐらい、一緒に行く人も大切だ。
彼となら、多分どこに行っても楽しいと思う。時折失礼でひねくれ者で面倒くさくはあるけれど、悪い人ではない。
ちゃんと、分かっている。
せっかく誘ってくれたのだからとしっかり予習をして迎えた当日。マップを見ながらテキパキ話す僕を見て、彼は隣でにこにこと微笑んでいた。
「何だ?」
「楽しそうだなって。ああ、悪い意味じゃないからね」
入り口でゆうゆうと泳ぐイルカを見ながら彼は笑った。自分ばかり浮かれていたような気がしてひどく恥ずかしくなる。
「……悪かったな」
「ああ、そうじゃないよ。俺の言い方が悪かった」
隣の家族から少しだけ視線を感じ、軽く会釈をして二人は水槽の端に寄る。先ほどより声を潜め、彼は眉を下げた。
「きみが楽しんでくれて嬉しいんだ」
「本当に?」
「本当だよ。俺も嬉しくなるからね」
信じてよ。そう言って彼は目を細める。いつもの威厳が弱まり、どこか弱々しくすら思えるこの顔をされると、どうにも強く言えない。自分でも気づいているし、この男も分かってやっている。
「くそっ……、卑怯者め」
「えぇ……?」
肩をすくめた彼は静かに笑う。ほら、全然平気じゃないか。指差して糾弾してやりたいがここは人前だ。伸びかけた人差し指を無理やり押し込み、大きなため息を吐いた。
広い海に暮らす生き物は思いの外たくさんいるらしい。全ての魚の名前を覚えろと言われたらどれぐらいかかるのだろうか。水槽の下に写真と共に並べられた紹介は最初の一つだけは熱心に追いかけたものの、次からはすぐに諦めた。
すごい、綺麗だ。ああ、大きいね。これは、食べられるのかな。彼の感想は、大体この三種類のうちのどれかだ。
大人になったら情緒が消えてしまうのだろうか。本気で思ったが、口に出すのはやめておいた。最近年のことをうっかり言ってしまい、彼がひどく傷ついているところを見てしまったばかりである。
海の底に暮らす生き物たちを見たあと、別館に移動して熱帯魚のコーナーへ。移動すればするほどフィガロの口数は減っていき、今は熱心に水槽を覗き込みながらも曖昧な声を漏らすだけだ。どこか気が散って上手く話せず、まるで家で映画を観ているときぐらい沈黙が続いていた。
こんなはずではなかったのに。
とろんと下がった目で背の高い水槽を見つめる彼は、光る青がよく似合う。それも怖いぐらいに、まるで飲み込まれてしまいそうだ。
「……あなたは」
「うん?」
いつもよりも気の抜けた返事と共に、彼は僕の方を向く。相変わらずニコニコとはしているものの、疑り深い今の自分にはどこか作られた笑顔に見えてしまった。
「楽しい?」
「……楽しいよ」
はい嘘、ダウト。沈黙の後の言葉など誰が信じられるだろうか。疑いの目を向ければ、彼は困ったように笑う。今日はこんな顔をされてばかりだ。
「本当だよ」
「誰かさんのせいで僕は疑り深くなっているんだ」
「おかげって言ってよ」
近くにあったベンチに二人で座り、彼は目の前の大水槽を見上げた。
「嫌いじゃないんだよ。ちゃんと楽しい」
笑いながら、彼は泳ぐ魚たちに目で追いかける。
「うん」
「でもね、なんだろう」
ゆっくりと目を閉じた彼は小さく息を吐く。目の前を通り過ぎる人々は魚に夢中でこちらを気にする様子はない。人が沢山いるのに、誰も僕らのことを見えていない気さえしてしまう。
「ずっと胸の辺りをさ、ぐっと押されている感じがするんだ。大きな水槽たちに圧倒されているのかな、それか寝不足かも。分からないけれど」
先ほどの無言が嘘のように彼は饒舌に話す。きっと、言いたくて。けれど、言えなかったのだろう。おそらくその理由が自分にあることが辛い。
大人だから、年上だから。ずっと同じことを言われ続けてきた。一生埋まらない年の差はまるで心の壁のようだ。
きっとこの人は、自分の弱さを全て見せてくれることはないのだろう。最近は忘れかけていた歯痒さが蘇った気分だ。
「……今もか?」
「まあ、ちょっと苦しいかな」
「……」
彼のちょっとは本当に信用ならない。こちらはこの人が自分の体調不良を過小に評価する癖を知っているのだ。激務と寝不足で一日寝込んだことを家でのんびりしてて、なんて言われたときは絶句だった。それは疲労による限界というのだ、あれだけ散々言ったのにまた同じことを繰り返すのだろうか。
けれど、分からないのだ。電車に乗っているときは普通だった。入り口のイルカの水槽を見ているときもいつもと変わらなかったと思う。室内をただ歩いただけで急激に体調の変化が訪れるものなのだろうか。
単純な疲れなのか、精神的なものなのか。それともオカルトみたいにこの場所に何かあるのだろうか。曖昧な言葉からはうまく読み取れない。
それに、彼の言う押されている感じとはどのようなものだろうか。試しに胸の辺りに置いた手で力をかけてみるものの、ただ骨がきしむだけだった。
「……病院、とか」
「えぇ、ないない。それは大丈夫だよ」
「でも……」
彼はニコニコと笑いゆるゆると首を振った。もう一度目を見つめられ大丈夫と言われたものの、やっぱり信用ならない。
第一、素人では分からない原因を解明するために病院は存在するのだ。分からないなら行った方がいいに決まっている。
また、何か隠しているのだろうか。急に胸の奥が冷えていく。何度目だろう、この感覚。
少しずつ慣れてきた。けれど、決して傷つかない訳ではないのだ。いい加減分かって欲しいのに。
「……飲み込まれそうだなって」
「飲み込まれる?」
静かに告げられた言葉を上手く咀嚼できず、そのまま聞き返す。
彼を丸呑みできるほど大きな動物はいただろうか。比喩だと分かっていながらも、つい考えてしまう。
水槽に当たる陽は、暗めの室内をキラキラと照らし出す。一際強い白い光は、ガラスの水槽を通り抜け、フロアに真っ直ぐ一本道を作る。彼は優しい目で眺めながら、静かに口を開いた。
「水に沈む感覚と近いのかも」
「……溺れた経験が、あるのか?」
彼が泳げるかは知らない。けれど、溺れるようなタイプではない気がする。何事も器用にこなすこの人が水中でもがく姿はどこか想像しづらかった。
「溺れたことはないかな。でも分かるんだよ」
「……どうして?」
「どうしてだろうね」
曖昧な答えに首を傾げれば、彼はゆっくりと立ち上がる。
話は終わり、言葉ではなく行動でそう言われたみたいだ。
気分は大丈夫なのか。体調は問題ないのか。もっと休んだ方がいいんじゃないのか。言いたいことがたくさん出てくる。
けれどどれも声に出せなかった。何を言っても、きっと彼は話してくれない。少しだけ気だるげに反応されるだけだ。そんなことをされてしまえば、きっと虚しさしか残らない。
ああ、もっと自分が頼られる存在であったらよかったのに。己の弱さを浮き彫りにされた気分である。
「……大丈夫なのか?」
言葉足らずな自分に嫌気が差す。けれど、きっと彼なら理解してくれる。そんな傲慢な気持ちもあった。
何もできないかもしれない。それでも、心配なのだ。この気持ちだけでもどうか伝わって欲しい。
キラキラした水面が地面に反射する。暗いのに明るい、まるで海の中にいるみたい。明るい光は影となり、彼の顔に影を落とす。
海がよく似合う人だと思った。どんな派手な魚よりも存在感があって、オーラがあって。目を離すことができない。まるで自分が囚われてしまったみたいだ。
いつからこんな風に思うようになったのだろうか。ずっとずっと昔からのようにすら思えてしまう。まだ出会って少ししか経っていないのに、とても不思議な感覚だ。
彼は曖昧に微笑みながら僕をじっと見つめて、そしてまた笑う。
「うん。……ありがとう」
どうしてそんなにも嬉しそうな顔をするのだろうか。僕には分からない。
それでも、どうか。
あなたに許される限りは、隣に居続けたい。