コショウ、ジンジャー、シナモン、◯◯ 水洗いしといたレンズ豆と、缶詰から出したひよこ豆が、スープの海にとぷんと沈む。
ぶくぶく沸いてきたら弱火にして……えっと、どのくらい煮込むんだっけ。まあ、とにかく、ジャミルの目が覚めるまでコトコト煮とけばいいだろ。
動かし続けてた手を止めたら、ふわあと大きな欠伸があふれでた。背もたれもない小さなスツールを引き寄せて、ちょいと腰を下ろして一休み。
こども用みたいにちっこくて丸い木の座面、その端っこには、黒茶けた焼け焦げの痕が残ってる。それを指先でなぞって、オレはふふっと笑う。いつだか、オレが厨房を爆発させちまった時の傷だ。
ごめんなあ、と詫びるような気持ちで触れたのに、木肌のやさしい指ざわりは、ほこりとオレの胸をあたため返してくれた。
このスツールに座って、鍋をかき混ぜるジャミルを見てた。たまねぎの皮剥き大臣に任命されたときや、豆剥き大臣を任されたときも。
このスツールと、ジャミルが一緒だった。
座ってしまえばもう、他には動く者のいない厨房に、朝の気配がひたひた満ちていく。オレが騒がしくする前の静謐が戻ってきたようで、だけど鍋から立ち昇る湯気と、このスツールのぬくもりは、コトコト、ぬくぬくと辺りを暖めて……ふわあ。また一つ、大欠伸。
ジャミルは今頃、よく眠れてるだろうか。
突然の拉致から、突然帰還したのは昨日のこと。保険医のメディカルチェックを済ませたと思えば駆け足で帰寮して、オレとスカラビアの実情を確認し終えたらプツンと倒れるように寝ちまった。
話したいこと、聞きたいこと、してやりたいことはいくらでもあったはずなのに。
こんなときじゃなくたってオレは、美味いものを腹いっぱい食べさせたり、歌や踊りやパレードで楽しませたり、誰かを労うことや喜ばせること、オレにできることを考えてやるのが大好きだと思ってたのに。
今はただ、休息を邪魔したくないって思いだけがオレの中をいっぱいにしてる。こんな気持ちになることもあるんだな……って、いけねえ、また欠伸が湧いて出た。
眠気に誘われた涙を指の腹で拭って、そうだ、味見をしとこうと思いつく。じっとしてたら、物思いに耽ってるのか眠りこけてるのか、わからなくなってきたから。
ことこと、ぷくぷく、泡の浮き上がる鍋を覗いて、あっつい湯気が鼻の先に当たったのにびっくりして顔を引っ込める。
あっぶなかったー! って、そうか。ジャミルも食堂のシェフゴーストたちも、こういうときは湯気を手で扇ぐみたいにして嗅いでたっけ。
芳ばしく色づけてからスープにした玉ねぎや挽肉と、一緒に炒めたコショウやジンジャーのいい匂い。それにシナモンも、ジャミルがやってた通り丸ごと一本、炒めて煮たからしっかり香ってる。
うーん、でも、ジャミルが作ってくれるヤツとはなんか違うんだよなあ。
ジンジャーがもっと強かったような? 量が足りてないのか、炒め方や煮込み方に問題があるのか……まあいいや、味見しながら増やしてみよう。
「こら」
「ひゃわあっ」
「危なっかしいな、鍋に近すぎだ」
肘を取られて後ろに引かれて、飛び上がらんばかりに驚いたオレが飛びあがっちまわないよう受け止めてくれたのは、ジャミルの胸だった。
火が危ないからだってのはわかってるけど、抱き込まれるようにくっついた背中の方がうんっと熱い。
背中だけじゃなくほっぺたも、それから目まで、ぎゅうっと熱くなってきちまう。その硬さに、あったかさに、匂いからも、本物のジャミルがここにいるって思い知らされて。
「……ジンジャーが足りてないな」
「お、おう! オレもそう思ってたんだよ」
「一人で作ったのか」
「ああ、玉ねぎやトマトはジャミルが切ってストックしてくれてたヤツを使わせてもらったぜ」
「味見はまだか」
「ああそれもちょうど今、」
「……よかった。不在を狙って、食材に手を加えた不届者がいないとも限らない。毒味と仕上げのついでだ、俺がやる」
オレを抱き込んだまんまで(下手に動かないよう捕まえられてるとも言う)ジャミルは手を伸ばし、味見の小皿にスープをすくう。
ふっと息を吹きかけて、軽く嗅いで、すうっと口の中に流し込むまでオレは、見たこともないくらい近くでその様子を見つめてた。
「……うん」
「ジャミルの味に、ちょっとは似てるか?」
寒い冬に。熱を出したときに。何日も食欲がなかったときにも、オレの体と心をぽっかぽかに温めてくれたジャミルのスープ。
おそらく、まともな食事なんて摂れずに帰ってきたはずだ。まったく同じには作れなくても、何もしてやれることがなくっても、少しでもジャミルにあの気持ちを味わわせてやれてたらいいんだけど。
「そうだな、塩加減とジンジャーに調整は必要だが……」
ぐっと息を呑んで、ジャミルの口から出される「答え」に耳を澄ませてたら、その目つきと声音が、つと変わった。
料理と向き合ってるときの真摯な面持ちから……オレをからかうときの色に。
「ああ、『ホッとする味だ』とでも言えば、満足か?」
「あ……!」
言われて初めてオレは、オレ自身の本音に気付かされ声をあげちまう。
昨日、帰ってきたジャミルのこぼした言葉が、どんなに嬉しかったかってこと。
一分一秒でも長く休ませてやりたいなんて、無償の愛でも知ったような気になって。その実オレは、もう一度あの言葉を聞きたくてスープを作ってたんだってこと。
大きな鍋いっぱいにぐつぐつ煮え立ってるものは、オレの期待そのものだ。
そう見えるようになった途端、感じたことのない恥ずかしさが吹き荒れてオレを襲う。
「ジ、ジャミル……!」
無自覚な行いを、それも見透かされてたことを、謝りたいのか礼を言いたいのかわからないままアイツを見上げれば、
「あ、慌てすぎだろ」
からかってきたはずの当人が、オレよりもっとうろたえた顔を真っ赤に染めて目を逸らす。
「なんでジャミルが照れるんだ」
「お前が照れすぎるからだ」
「そうさせるつもりで言ったんだろ」
「失言だ、忘れろ」
「どっちがだ? 昨日のか? それとも今のが?」
どっちだとも答えずに、アイツは鍋に塩を振る。相変わらずオレを腕の中に捕まえたままで。
追加のジンジャーも魔法で綺麗にスライスされて、水泳の選手みたいに飛沫も立てない美しさで鍋に飛び込んでいく。
……「昨日の方」を忘れろって言ってるんじゃないといいけど。でも、いくらジャミルの頼みであっても、忘れられるわけがないな。胸の内で詫びつつ片目をつむるオレに、
「みてみろ、これこそお前が『ホッとする』ような味だ」
フン、と勝ち誇ったように鼻を鳴らして、味見の小皿が差し出された。
長い指が支える小皿を、オレは尖らせた唇で、ふ、ふ、と吹く。
コショウとジンジャーとシナモンの香り——それとジャミルの、腕の熱。
味わう前からもう、ぽっかぽかにあったまってる体が眩暈を起こさないように、オレは慎重に目を伏せて。ゆっくり、ゆっくりとスープに口をつける。
——2022.6.19.ジャミカリ深夜の真剣一本勝負『無意識』『下心』