かいねこのすすめ。薄暗い部屋の中に、かすかにすすり泣くような声だけが木霊している。
ぐすぐすと悲壮感を煽る泣き声。
止めどなく溢れる涙は黒曜石の瞳をしとどに濡らしては元は真っ白だったシャツの袖口を灰色に変えていく。
涙を拭う度に首についた鈴がチリチリと鳴って、酷く耳障りだ。
可愛そうな彼女は泣きながら、その煩わしい元凶を外そうと何度目かわからない抵抗を試みる。
震えてもつれる指先で、首輪代わりらしい鈴が括りつけられたリボンを外そうと結び目を探るが目視が出来ない状態でぎっちりと固結びされたそれを解くのは至難の技だ。
結び目を探して滑る指と腕を持ち上げ続ける疲労で限界を訴える非力さを呪いながら、また何度目かわからない諦めでぱったりと腕を落とした。
そうして己の無力さを嘆いて彼女は一向に止める気配の無い嗚咽を零しながら唯一身につけているシャツに隠れるように小さな身体を丸める。
それは正しく猫のようで。
彼女自身も皮肉にもならないそれに思い当たると、ますます泣き声が止められない。
そもそも被害者に過ぎない彼女が無理に泣き止む必要もないのだが。
ガチャン、バタン、と外から聞こえる音で彼女のすすり泣く声以外は静かな室内が少しだけ騒がしくなる。
そうするとまた彼女は悲しそうにしゃくり上げた。
「どうしたの、のあちゃん」
帰宅したばかりの女が一人で留守番をしていた『猫』へ、心配そうに話しかける。
びくり、と小さく跳ねた肩を気にする事なく顔を覗き込むと、僅かに首を傾げながらじろじろと無遠慮に彼女の全身を眺めると不思議そうにつぶやく。
「うーん、何が悪いのかな。動画の子達は楽しそうだったのに」
女がたまたま見つけて、最後まで見終わった時にすかさずお気に入りに入れた【猫カフェ】の動画。
客と従業員の猫が楽しそうに遊ぶその動画を見て、女は自分もやってみたいと思った。
それを真似して、つい先日飼い始めたこの猫にも動画で見たとおり、同じようにしてあげているというのに。
動画では猫の方から人間に撫でて貰いに行っていて可愛かったのだが、『のあちゃん』と名付けたこの猫はずっと鳴いてばかりで女にはちっとも懐いてくれなかった。
おかしいなあ、と女は首を傾げるばかりだ。
どうしても、動画と同じ猫が飼いたくて。
動画の投稿者や実際に撮影されたらしい店の担当者に連絡して断られても諦めなかった。
その店と同じ猫を扱っているというブリーダーと運よく知り合う事が出来、更にはすぐに希望した猫を手配して貰えた。
早速家に来た猫はメスで、長くて黒い毛並みの子猫だった。それがのあちゃんだ。
動画で見た猫よりは小さくて、ブリーダーから聞いた話ではまだ子猫になったばかりで人見知りはするが、その分しっかり世話をしたら飼い主によく懐くと言っていたのに。
女は生き物を飼った事が無かった。
可愛いとか好きとか、特にプラスの感想もなく、嫌いとか怖いだとかのマイナスの感情もない。それは単純に女が自分以外の生き物に対して興味が無かったからなのだが、それがたまたま見た動画がきっかけでこんなに猫にハマるとは思ってもみなかった。
だから余計に、見本である動画の真似をしているだけなのに、のあちゃんが懐かないのか理解出来なかった。
「…まあいっか」
考えてもわからないものは考えたって無駄でしかない。
女はあの動画のようになりたいのだから、あの動画を真似するのが正解に決まっているのだ。
のあちゃんはまだ子猫だから、あの動画みたいになれないってブリーダーも言っていた。
それにしても。
昨日は大変だった。
女が見ている動画の猫はみんな毛が短かった。
ブリーダーの人に聞くと、初心者が飼うには毛の短い猫の方が世話をしやすいとのことだった。
家に来たばかりののあちゃんは『長毛種』だ。
正直なところ女には長毛種とか短毛種とかよくわからないが、長いなら切ってしまえばいいと思った。
だからのあちゃんの毛を切ってあげた。
まだ家に来たばかりで落ち着かない様子で隅の方で固まっていたのをいいことに、後から切りそろえればいいやと適当に鋏を入れている最中。
のあちゃんが「嫌だ」と叫んだのを聞いて、女はひどく困惑した。
せっかく買った子猫がにんげんみたいな言葉で鳴くのは、少しばかり近所迷惑だ。
猫の世話をしているだけなのに、これではまるでにんげんを虐めているようではないか。
女は勿論それが間違いで有る事を知っているが、近所の人間があらぬ誤解をして余計な事をされては困る。
あの動画みたいに、猫らしく、にゃあ、と鳴くように躾けないといけない。
動画の猫はお尻を叩くとにゃあにゃあ可愛く鳴いていたのを思い出す。
子猫って鳴き方を教えるところから世話が始まるのか。
猫を飼うとは思ったより手間がかかるものだ、と昨日の女はそう思いながら飼い始めたばかりの子猫の尻を叩いてあげたのだ。
はじめはにんげんのように「いや」とか「やめて」とか鳴いていた子猫も、にゃあと鳴くんだよと教えてあげれば賢い子のようでやがて小さな小さな声でかわいらしく鳴くようになった。
だから、今日は、ブリーダーから貰ったご褒美をあげるのだ。
「ねこってまたたびが好きなんだって。なら、のあちゃんも好きだよね」
動画の猫も喜んでいたから、この猫も当然好きだろうと、女は買ってきたばかりのペットボトルにペースト状になった『マタタビ』を入れてよくかき混ぜた。
はじめは、水に混ぜて飲ませるのが良いとブリーダーが言っていた。
「飲んで」
口元に出されたペットボトルに、のあちゃんという猫のように呼ばれているがれっきとした人間の彼女は、怯えたように首を背けるが、昨夜しつこい程に打ち付けられてまだ肌には赤味とダメージが目に見えて残っている尻をバチンと一際大きな音を立てて叩かれた。
思わず口から悲鳴が漏れそうになるのを飲み込む代わりにぼろり、と大粒の涙が零れるが、諦めて差し出された得体のしれない薬物が混入された水を受け取り、ごくりと一息に飲み下す。
マタタビと呼ばれているそれが本物ではない事ぐらい、賢い少女にはすぐに理解出来るが、同時にぐらりと視界が揺れ、身体が言う事を聞かなくなる。
なにか、考えてる事がまとまらなくなって、ぱらぱらと簡単にほどけていくような感覚。
「良い子だね、のあちゃん。ご褒美あげなきゃね」
動画でもやってたんだけどね、猫ってお尻叩かれるの気持ち良いんだって。
女はにこにこしながらのあちゃんに話しかける。
動画の猫はよく尻を叩かれていた。
危険な事をした時や、言う事を聞かなかったり、鳴いてばかりでうるさい時は躾として。
逆によく懐き、可愛らしくしっぽを振っている時はご褒美として。
動画に出てくる飼い主はよく道具を使っていて、躾とご褒美で使い分けているようでそれも一つずつどころではなく色々な種類があるようだった。
女もいずれは全部同じ物を買い揃えなければと思うが、試しにブリーダーに聞いてみると全部揃えるとなるとなかなかの金額だと聞いて驚いた。
中小企業の一般OLである女が出すにはすこしばかり逆立ちしても無理な金額だった。
のあちゃんと暮らすにあたって、食費だとか雑貨だとか、他にも必要な事を考えるとそればかりにお金はかけられないので、それを伝えるとひとまず道具自体は必須ではなく、手でもいいとのことなので一旦道具は保留する事にした。
可愛いのあちゃんのために、たくさん貯金をしなければと女は決意した。
そんな飼い主の心など猫にはわかるはずもないが。
「いっぱいきもちよくなってね」
そういいながら女は利き手を高く振り上げると、躊躇無く可愛がっている猫の尻に叩きつけた。
パアン、と乾いた音が響くと数瞬遅れてびりびりと痛みが走って、猫の喉が震えてか細く鳴いた。
女の言う躾も、褒美も、現在痛めつけられていると相違ないのあちゃんからしたら、言っている事とやっている事が乖離しすぎていて得体の知れなさが不気味だ。
下手に「痛い」などと口走ろうものなら、女が褒美と呼ぶこれがすぐに躾と称されて強かに打ち付けられる事になるのは昨日で学んだ。
彼女は賢い少女だった。
拉致されて眠らされたあと、目覚めたら自分を猫と呼び本当にそう思っているらしい異常者の女の家で監禁同然の生活を余儀なくされても。
ずぅっと大事に伸ばしていた自慢の髪を適当な鋏で適当に短く切り落とされても。
家族や保護者、恋人にも手をあげられた事のない彼女が初めて晒される理不尽な暴力が尻叩きであっても。
猫のように「にゃあ」と鳴く事を強要されても。
羞恥と恐怖と困惑と屈辱とかその他色々な飲み込みきれない感情も全部ひとまとめに飲み込んで、認識の歪んだ異常者を刺激しないように『のあちゃん』を精いっぱい演じていた。
それでも涙は勝手に出てくるが、女は都合よく解釈しているらしいので放っておく。
女が言っている動画が本当に猫カフェなのか信じがたいが、ひとまず女に『のあちゃん』を可愛がる意思はあるらしいのが救いといえば救いか。
大人しい猫を演じていれば家族と恋人が絶対助けに来てくれる、と彼女は信じているのだ。
(はやくきて)
口には出さずに、女から与えられるご褒美に、彼女は小さな声で「みゃあ」と泣いた。
***
「のあちゃんこれ見て!のあちゃんと同じ猫ちゃんだよ!」
はやくお揃いにしてあげたいんだけどまだブリーダーさんと連絡が取れないんだよね。
そう言いながら女に見せられた動画の『猫』は異様に短い手足をして身体に直接痛々しい装飾を施されていた。
「ーーー」
のあちゃんは思い切り泣いた。