誰が為に雨は降る のんきなリズムで鳴ってた下駄の音が店の手前で止まって、驚いたような声が俺を呼んだ。
「旦那? ……何やあ、締め出されたんか」
「ご挨拶だな。んなわけあるかよ」
お前を待ってた、なんて俺の口からは言えたもんじゃなかったが、頭をかいて言うことを考えてるうちに依織は大体察した顔をしてうなずいた。俺たちは昔からこの調子だ。
「ほんなら、何の話」
今日店に行く、って連絡はプロモーションのためにやらされてるSNSに届いてた。画面を見つめて黙ってる俺を西門が呆れたような困ったような顔をして見た。
──もう、いいんじゃないのかい。
諭すような声音を思い出して舌打ちする。お前が決めることじゃねえよ。全部の意味でだ。 依織はいつまでも話し出さない俺に小さく笑って、旦那、ってまた呼んだ。片手にぶら下げてた紙袋を寄越されたから覗く。いつだか貸した上着が入ってた。
「ぁー……お前これ、クリーニング出したのか。わざわざ悪いな」
「人様のもんなんやから当たり前やろ〜。にしても旦那、ほんまにゴッツい上着好きやんなあ」
タグを取って羽織る。そろそろかって思って適当な格好で外に出てたから普通に寒い。知らない洗剤の匂いがした。依織が懐かしいものを見るように目を細めて俺を見る。
「……中で出来へん話? それとも、このままどっか行くか」
「それもいいかもな」
依織がのんきに笑って俺に会いに来る時、それそのものが目的じゃないんだろうってのはわかってた。このきな臭い大会の渦中にいる俺たちの無事を確かめに来てるのかもしれない。あるいは何か偶然にでも新しい情報を得られないかと思ってるのかもしれない。あいにくその期待には応えられてねえんだろうが。
歩き出すとすぐに隣に並んでくる依織の揺れた髪からトップのキツい香水の匂いがして、思わず「うわ」って声が出る。
「ン?」
「お前香水変えてねえんだな」
「なんや、旦那もやろ」
「……まあな」
お前俺の香水、って言いそうになって、人のこと言えたもんじゃねえから黙る。依織が俺の香水を覚えてるのは単に物覚えが良いからだろう。やたらとスパイシーなコレがすぐトんで果物と花のだだ甘いミドルノートに変わる瞬間を俺が覚えてるのは、また違う話だ。家を出てからせいぜい仕事始めの瞬間までしか香らないクセの強い匂いを、あの頃は俺くらいしか知らなかった。
「家からまっすぐ来たのか、今日」
依織の飾り気のないいでたちと立ち居振る舞いにコイツが乗っかってる時間が好きだった。いつまでもガキみてえな顔に目つきだけが異様に大人びてる、あの頃の依織のアンバランスさにそれが一番似合いだったからだ。今依織の近くにいる奴らは、この匂いと今の依織がどんな組み合わせに見えてるんだろうか。
「ご明察や! 旦那、探偵にでも転職するんか?」
「馬鹿言え。俺に務まるかよ」
からから笑った依織の手が自分のうなじを撫でる。「旦那の勘は良う当たるからなあ」って言いながら降ろされた手を捕まえると、依織は一瞬驚いたように俺を見てから仕方なさそうに笑った。
「過保護やなあ。冷たないやろ、今日は」
「そうだな。いつもこのぐらいにして来い」
「中に着込むん嫌いやねんもん。ギチギチしてかゆいやんか」
「もんじゃねえよ、かわいこぶんな……」
俺も仕方なく笑う。こういう笑い方をいつ覚えたんだったか。依織は平熱が高めだからか真冬でもあまり厚着をしない。昔はオヤジにモコモコしたモモ引き(オヤジのだ。俺だって御免だな)を穿かされそうになっては逃げ出して、平気な顔して出歩きながら俺のことを寒がりだって笑ってた。普段は熱いくらいの手が石みたいに冷えてても。
今は俺の手よりも熱い。握ったままで少し黙った俺の顔を見ながら、依織がその手を暇そうに振る。
「おてて繋いでどこ行こうか」
歌うような調子だった。それで、手を離し損ねた。
「……昔、何回か行ったバーはどうだ。お前気に入ってたろ。この間通りかかったから覗いたら今もやってた」
「おお、ろくに客の入りなかったけど続いとったんか。儲かってもなさそうやのにずーっとある店ってあるよなあ……おっと」
「依織テメェ、ケンカ売ってんのか?」
「なっはっは」
依織が顔を上に向けて機嫌良さそうに笑う。手を握ったまま歩く。依織の手が俺の手を握り返す。目が合って、依織が笑みを引っ込めて、俺を呼んだ。たずねる声で、促す声だった。
「旦那」
「……そうだな。依織、お前今日、……飲んだあとで、」
今夜抱くって言っても、来るか。
依織が口をポカンと開けて俺を見た。意味合いはまるで違うが、依織は昔もよくそういうマヌケ面で俺の顔を見てた。どうも俺の顔が好きだったらしい。俺にはとんとわからねえ話だ。
「なんや今急に耳遠なって変なセリフ聞こえたわ。もっぺん言うてくれるか」
「今夜飲んだあとで抱くって言ってもこのまま来るか?」