シュンシュンとか細く湯気を吐き始めたケトルが目にはいった。出久はすかさずコンロの火を消し、壁掛け時計を見やる。短針がもう少しで七に差し掛かりそうだった。
リビングの灯りはまだ点けておらず、点けているのは出久がいるキッチンの蛍光灯のみ。薄暗い部屋の中で吐かれたその湯気は、昨日よりもはっきりと見て取れた。
遮光カーテンを開けレースカーテンのみにしているが、朝日はまだわずかに気配を滲ませているだけだ。ここ最近、朝の訪れが随分とゆっくりになった。スリッパを履いた素足にありえないはずの風を感じながら、出久はコーンスープの素の封を切りマグカップに投入していく。用意したマグカップの数はふたつだ。
自宅で気を張ることなんて早々ない。だから朝食の準備をのんびりとしているところに突然、背後からずぼっと勢いよく自身のTシャツの中に入ってきた冷たい両手があれば「ひゃ!?」と出久が奇声を上げてしまうのはしょうがないと思う。
「ロディ~……」
跳ね上がった肩と心臓を落ち着かせてから出久は後ろへ視線を流す。咎めるように呼んだ名前だけれど、それでも甘さが隠しきれていない自身の声に出久は苦く笑ってしまう。なにせこんな恋人の姿は珍しい。
首の可動域と眼球の限界に挑戦しても恋人であるロディの姿すべては見て取れないが、後ろから出久の肩に額を乗せ、もぞもぞと出久のTシャツの中で腹を撫でたり脇腹を掴んでみたりしているのはわかるわけで。
「おはよう、ロディ。どうしたの」
そうしているうちに出久の履くスウェット地のハーフパンツと出久の骨盤の間に居場所を見つけたらしい。ずっと動き続けていた冷たい手が、両サイドの腸腰筋に沿うように手のひらを肌に密着させると動きをピタリと止めた。その細い手を一瞥してから、出久は口元をむずりとさせる。きわどいところだなあ、なんて。
出久の肩に額を埋めたままのロディの赤みが混じる茶髪に鼻頭を埋める。ロディのつむじを探るように鼻頭を動かすと、低い唸り声が触れ合った肌から直接出久に伝わってきた。
「いきなり寒ィ、日本意味わかんねえ……」
昨日の夜は暑かったじゃねえか、と呻くようにロディは言った。そしてぐり、と出久の肩に埋めた額をさらに擦りつける。まるで事務所の近くに住む人懐こい猫のようだ。よく出勤のときに出久の足元にすり寄ってくる白と茶色のかわいい子に動きがそっくりだった。
猫を連想させる動きと、出久の頬に触れたしっかりとした太さを持つ髪の毛がくすぐったい。その上あんまりな言い分に出久はふはっと漏らす息と一緒に笑い声を出さざるを得ないわけで。自然とほころんできた表情を隠すことなく、出久は口を開いた。
「確かに今回は極端かも」
「日本は春夏秋冬あるんだろ? これ冬じゃねえの。秋は?」
「ん~……冬はもっと寒いね……これは秋だなあ」
「Oh……」
なるほど。このロディの珍しい行動はどうやら出久で暖を取りに来たらしい。
ロディが日本に来るようになったのは今年の春からだ。だからいまいち日本の気候の変化に慣れることが出来ていない。四季があるのは理解しているが、それでも体感しなければわからないことはたくさんある。
ロディが普段暮らすオセオンは日本と比べれば温暖な気候だ。冬はしっかり寒いが、それでも日本よりは温かいし、年間を通して温度変化は緩やかで。だから、こんな急激な温度変化には驚いたのかもしれない。なにせ今のロディと出久の服装と言えば、半袖にハーフパンツ。素足にスリッパである。寝るとき体にかけたのはタオルケットだったので、今朝出久は寒くて目が覚めた。隣で寝るロディが随分丸くなっていたので、自身が使っていたタオルケットを追加で被せてからキッチンに来たのだが、あの丸さはやはり寒さから来ていたんだなと妙に納得した。
今朝は急激に冷え込んだ。秋の入り口に立ったばかりだというのに「この秋一番の冷え込み」なんてニュース各局で言われるほどで、日本の北の方では初雪が観測されたらしい。
日本人の出久でさえ驚いたのだ。ロディは随分と驚いたのだろう。
「ここからどんどん寒くなるよ。そういえばロディ、部屋着の長袖とか上着とか持ってたっけ」
「ねえ……日本でこんな寒ィの初めてだっつの……用意もしてねえし……」
相当寒いらしいロディは出久の背中から離れないし、薄い両の手のひらも出久の腰に張り付いたままだ。手のひらから伝わるロディの手の温度はじわりと温かくなってきたようだが、そろそろTシャツの裾がわずかにめくれているため出久の腹が冷えてきた。
ロディが離れてくれる気配は未だにない。ちらりと沸いたケトルを見る。せっかく沸いたお湯がこのままでは冷めてしまう。
「とりあえず今朝は僕のパーカー着なよ。それでコーンスープ用意したから温まろう」
「……暖房」
「今つけたら冬越せないよ、ロディ」
くすりと頬を緩ませ出久がそう言うと、ぐ、と言葉をつめたロディの額がようやくあげられる。わずかに赤くなった額のロディと本日ようやく目を合わすことが出来た。ロディはというと、至極真剣な表情で出久を見つめてくる。出久がそのグレーの光彩に釘付けになっている間に、引き結ばれていたロディの唇がほどかれていく。
「……真冬の日本来るのやめとくぜ」
「ロディ!?」
飛び出してきた言葉に、ケトルを掴もうとしていた手を止めがばりと振り返った。ロディの両肩を勢いよく掴むと、ロディがあははと口の中を見せつけるようにして笑い出した。
「嘘だよ、マジになんなって」
「いや、いまのは目が本気だった」
「仕事がなかったら春が来るまで来なかったかもしんねえな」
「ほらあ!」
「あははは」
笑い続けるロディの手は未だに出久の腰に当てられたままだ。色気のない触り方と言えど、場所が場所なので反応してしまいそうで、おそらく微塵もそんな気がないロディにバレればきっとさらに笑われてしまう。甘えてくるロディはかわいいが、いつまでたってもこのままではさすがにいられない。なにせふたりとも今日はお仕事だ。残念ながら休日ではない。休日であれば、まあ、その、うん。でも違うので。お仕事なので。
意を決して出久は自身とくらべれば細い手首をばっと掴み、ずぼっと自身のズボンの隙間からその両手を引き抜いた。
突然の出久の行動に驚いたのか、笑うのをやめきょとんとした表情になったロディがたまらなくかわいくて、出久はその唇に己の唇を重ねた。ロディの手首は掴んだまま、わざとちゅっと音を立ててみる。至近距離で合ったロディの目は人間の目はそんなに丸くなるのだろうかと思うくらいまあるくなっていて、出久は朝から翻弄され続けていた己の気持ちを、ようやく、少しだけ、昇華できたのだった。