「サイダー」「白昼夢」 ぱちぱち、しゅわしゅわと小さく空気が弾ける音がする。
古びれた扇風機からは必死に回るモーターの音と、不自然で人工的な直線の風がいったりきたり、扇風機の首振りに合わせて行ったり来たりしている。
「あ、寝たふりですね。」
鈴を転がしたような声、とは女の澄んだ声色を指す慣用句だが、まさしくそんなころころと耳心地の良い笑みを含ませた女の声がうたた寝を無理やり延長している自分へ向けられた。「もうバレてるよ。」と、だめ押しの一言に添えてひやりとした感触が額の上に当てられる。少しだけ水気を帯びたその感触に慌てて目を開くと、サイダーが注がれたコップの底が目の前に浮いている。
「おはようございます。」
「ああ、おはよう。…おはようございます、恋雪さん。」
「氷が溶けちゃう前にどうぞ。」
「ありがとうございます。」
体を起こすと、半袖から出た腕にしっかりと畳の目が痕になっていて、再びころころと鈴が転がって赤くなった箇所を詰めたい細指で撫でられる。自分よりも小さくて、か細くて、冷えやすいその指が擽ったく「やめてください。」と笑い返す。鈴が転がるとき、決まって自分も気が弛んでしまう。
テーブルの上には、サイダーだけ。広い屋敷の中もしんとしている、いつもは俺や恋雪さんを足しても敵わないくらいの賑やかさを誇る師匠も、奥様も、どうやら不在のようだ。機械的に首を振る扇風機の風に悪戯に当てられて風鈴が時折音を立てている。
「お父さん、先に行くって聞かなくて。」
「そうか。」
「お母さんも止めないで、二人で先に行っちゃったんですよ。」
「二人の時間が欲しかったんじゃないですか?」
「あら。」
あらあら、まあまあ、と照れ臭そうに頬を赤くする横顔が眩しい。「気を遣ってくれたのかも。」と照れる横顔に追い打ちを放つと、見ているだけでこちらまで熱くなるような照れっぷり。熱が移らないように、それを誤魔化すように、サイダーを流し喉に落ちる清涼感に息を吐く。
「杏寿郎さん、間もなくいらっしゃる頃かな。」
「そうだな、暗くなる前にはと言っていたから。」
「でも、陽は長いですよ?」
「きっと夕飯前だ。」
「あら、何か用意しなくていいかしら。」
「杏寿郎の食欲は、恋雪さんの手に負えませんよ。」
「ふふ!それもそうね。」
呼び鈴が静かな部屋の中に響く。
縁側から覗ける玄関先に、見間違うことのない姿が、燃えるような日輪の男が立っている。
半分ほど残ったままのサイダーに口を付けて、その呼び鈴が聞こえていないふりをする。狸寝入りと同じ、無意味に時間を延ばそうという悪あがきだった。
刻々と過ぎる時間を、秒針が、扇風機の風が、無理やり揺らされる風鈴の音色が、少しずつ傾いていく陽光が告げている。
「ほら、いらっしゃったみたいよ。」
「恋雪。…恋雪さん。」
「なあに。杏寿郎さんをお待たせしたら申し訳ないわ。」
「また、来年。」
「そんな寂しいこといわないで。私は何時でも狛治さんと一緒に居ますよ。」
「はい。ありがとうございます。」
飲み干したコップをテーブルに置く。気の長いほうではない訪問者がもう一度呼び鈴を鳴らす。
また、鈴が転がる音がして、手元に落とした視線を上げると眩しいくらいの笑みで、花の咲く瞳が慈しみを滲ませていた。小さくて、か細くて、夏場でも冷えやすい細指が、こんな時には鈴の音を移せない俺の頬を撫でる。
「猗窩座さん。杏寿郎さんと仲良くね。」
「はい。」
コップに残った氷が音を立てるのと、不用心に鍵の開いている戸が開かれるのは同時だった。
*
小さな素焼きの皿はあまりにも殺風景で、家族と過ごした時に使っていた春の花をあしらった皿を焙烙の代わりにした。適当に皿の上に並べたおがらを、几帳面に組み直す杏寿郎の手元を見る。
「慣れたものだな。」
「毎年のことだからな。」
真っ白な盆提灯から火を移し、立ち上る煙を見送る。