送り狼には気をつけて「ねぇ、充。送り犬って知ってる?」
空は暮れ始めた頃。二人の少年が縦に並んで森を歩いていました。前方を歩く少年――城に帰る途中の光王子は振り返らずに、後方の少年に話しかけます。
「……いいえ。なんですかそれは」
初めて聞いた言葉に充は、光王子には見えませんでしたが首を横に振って、興味ありげに聞き返します。
「東洋に伝わる化け物で、送り狼ともいうらしいんだけどね? 夜中に山道を歩いていると後ろをついてきて、転んだ人を食べてしまうんだって」
「へぇ、それは怖いですね。……どうして急にそんなことを?」
「正しく対処すれば守ってくれるとも聞いたんだ。充はいつも後ろについてきて守ってくれるでしょ? それで思い出したんだ」
「ここは東洋ではありませんし、山と言うより森ですから安心ですね。……その代わり人狼には気を付けなくちゃ」
充の冗談めかした口調に光王子も「そうだね。彼らは人間に化けるのがとても上手だから」と同意を示します。すると充は含み笑いを溢して歩みを速め、光王子の前に立ちふさがりました。
「そうだ。いつもの道をはずれるんですけど、お城まで行く近道を知ってるんです。案内しますよ」
光王子のものと似た深い海のような髪を冷たい風が靡かせます。充は手を後ろで組んで上体はやや前のめり気味に、いかにも人の良さそうな微笑みを湛えており、暗くなる前に光王子をお城に帰してあげようという心遣いからの発言なのでしょう。
しかし、この森に決して詳しいわけではない光王子はすぐに首を縦に振ることはしません。
「でも、通ったことのないところに行くのは怖いよ」
「大丈夫。僕は光王子よりもずっとずっとこの森に詳しいんですから」
ね? ちいさく首を傾けて放った一音には、小さな子供に言うことを聞かせるときの強制が込められているようでした。
「そこまで言うなら、いいよ。案内して」
丸め込まれるかたちで光王子が言うと、充は「あっちです」と今歩いているところより足場の悪そうな木々の生い茂りを指さしました。言われたままに進んだ光王子を先導することはなく、やはり充は光王子の後ろを一定の間隔を空けてついてきます。
「ねぇ、こっちで大丈夫? できれば前を歩いて欲しいな」
張り出してきた枝をかき分けなければ顔を怪我してしまうばかりか、日が当たらなくて背の低い木もあり真っ直ぐ歩くこともままならず、光王子にとっては初めて森に入ったときよりもずっと険しい道でした。
膝下まであるブーツを履いてきてよかったと思う一方で、手袋をしてくればよかったと少しだけ後悔しながら光王子は叫ぶように訊ねます。
「送り狼はいなくても、この森はたくさん狼がいます。僕が後ろにいた方が安全なんです」
充も葉を踏み枝を折る音に負けないよう声を振り絞ります。
事実、充は幾度となく背後から近寄ってきた狼を追い払って光王子の命を救っています。そのこともあり光王子は強く言うこともできず、もう少しだけ充の言うとおりにしようと思いました。
「そっか。……このまま、まっすぐ進めばいいの?」
「はい。もうすぐお城に着きますよ」
虫の一匹を殺すのも渋りそうな爽やかな笑顔を信じて、鬱蒼とした道なき道をまぁるい月明かりだけを頼りに歩きます。
けれど、歩けども、歩けども、お城の影も形も見えてきません。
それどころか見上げる幹の一本一本が大きくなって、見たこともないような植物がたくさん目に入ってきました。
進めば進むほど森の深くに入っていっているように思えた光王子は歩調を遅くして叫びます。
「何度も聞くようだけど、本当に、こっちでいいの?」
「えぇ。もうすぐですよ」
もうすぐ。その言葉と笑顔を信じて歩き続けましたが、光王子の体力はもう限界でした。
「もうすぐっていつ? おれもうお腹ペコペコなんだよ!」
思わず怒鳴ってしまった光王子に、充は鳩のようなくぐもった含み笑いで返事をします。
「奇遇ですね。僕もです」
どこかから狼の遠吠えが聞こえてきて、急に怖くなった光王子は歩調を速めます。ろくに足元も見ず、慣れない道でそんなことをしたために、出っ張った木の根に躓いて転んでしまいました。
膝に感じた熱さはすぐ痛みに変わり、きっと擦りむいていることでしょう。おまけに足首も捻って締まったのかすぐに立ち上がることができないでいると、光王子の背中に重いものがのしかかります。
耳にかかった生温い吐息で、その重みが充であることが分かりました。
暗かったので自分が転んだことに気付かないで巻き添えになったのだろう。そう思った光王子は「ごめんね。大丈夫?」と声をかけますが充は何も言いません。背中に感じる重みと温もりは安心感よりも言い得ぬ不気味さを光王子に与えました。
「……ねぇ、いつまでそうしているつもり? いい加減退いてくれないと、いくら充でも――」
「今、転びましたよね?」
光王子の言葉を遮った充の声は、とっても愉しそうで。例えるとするなら目の前に用意されたご馳走に早く手を付けたい気持ちを抑えているような――
逃げなくてはいけない。理由は分からなくとも逃げなくてはいけない。
複数人で一斉に鐘を激しく打ち鳴らしているような心臓の音に急かされ、光王子はとっさに近くに落ちていた木の棒を握ろうとしました。
「なにをそんなに焦っているんですか? 心臓の音が背中から伝わってきますよ?」
愉しくてたまらない。そんな声が光王子の耳元で囁かれます。
光王子の手は木の棒に届く前に充に捕まってしまいました。手の甲と指の間に差し込まれた毛皮の感触に光王子の喉笛がヒュッと掠れた音を鳴らします。
「言ったじゃないですか。送り狼はいないけど、」
――人狼には気を付けなくちゃって。
どこか熱をはらんだ囁きとともに押し付けられた充の唇は、ちゅっ、とちいさく湿っぽい音を立てて光王子の首筋に赤い跡をつけました。