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    鶴田樹

    @ayanenonoca

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    鶴田樹

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    弓道江の続き、わんわんとこてくん回です!

    【 西日本大会 個人戦決勝】想像してみてほしい。

    体育館に入ったら床一面にモスグリーンのシートが敷かれていて、真ん中には体育館を横断する境界線のように真っ直ぐに畳が並べられている。その手前には横5脚、縦4脚を1単位としてパイプ椅子が整然と並べられ、そしてその一番奥には、黒い横断幕のようなものに星的がこれもまた5個単位で並べられている。

    それが昨日の今頃私の目に飛び込んできた風景だ。


    体育館試合。

    地域の道場を借りて行われる試合とは雰囲気の全く異なるその場に、私は初めて立っている。

    体育館には魔物が潜んでいると言っていたのは誰だったか。去年何度も辛酸を舐めた先輩たちが時折その言葉を口にするのを不思議な気持ちで聞いていたことをうっすらと覚えている。

    こんなに頼もしい先輩たちを脅かすほどの存在がいる。それも他大学の選手としてではなく空気感のような曖昧さで存在している。それを肌で感じることになるのか否か。昨日の朝の時点では想像することができなかった。

    そして団体試合が終わった今もその疑問は私の中で燻り続けている。



     第☓☓回西日本大会

    [ 義弘 ]大学 選手権登録表

    大前 篭手切(1)
    二的 五月雨(2)
    中  村雲 (2)
    落前 桑名 (3)
    落  豊前 (3)

    控え 横須賀(2)
       福井 (2)



    好調だった4年の稲葉先輩を就職活動で、3年の松井先輩を臨床心理の特別講習で欠いた義弘大は団体決勝を3位という苦渋の結果で終わらせた。でもそれは体育館の悪魔に呑まれたからではない。主戦力が欠けていたのだ。私には団体戦の惜敗は当然の結果のように思われた。だけどもし選手として出場していたのが私でなく、控えの福井先輩や横須賀先輩だったら……。いや、私の的中も悪くはなかった。問題はいつも全国レベルの活躍を見せる常勝の大学と、今回盤石な的中を叩き出してきた国立大まで総的中数(そうてきちゅうすう)がいま一歩届かなかったこと。ならば体育館の悪魔はいつどのような形で現れるのか。その悪魔とやらの顔を拝むことのないまま、2日に渡って行われた競技は残すところ個人決勝のみとなっていた。


    運営係の人からの指示に従ってずらりと並べられたパイプ椅子にゼッケン番号順に整然と座っていく。比較的番号の若い私と豊前先輩は早めに椅子へと案内された。

    「あったまってるぜぇ」

    隣に座っている豊前先輩が弽(かけ)をつけた手で鎖骨をゴツッと叩く。その位置は桑名先輩のほくろのある場所だ。

    豊前先輩の願掛け。

    私から見れば圧倒的な実力をお持ちの豊前先輩でも願掛けをする。私はその事実に漠然とした不思議さを感じていた。

    なんだか先輩の人間的な一面を見たような気がする、と言ったら大袈裟だと笑われるだろうか。でもたまに思ってしまうんだ。あんなにも人間的で温かくて人情深い豊前先輩の見せる表情が時にとても無感情で、どこか遠くへ一人で行ってしまいそうで、引き止めなければ豊前先輩が簡単に消えてしまうような怖さが鳩尾から這い上がってくる心地がすると。どうしてそんな思いに囚われるのかはわからないけれど、だからこそ豊前先輩が試合前に願掛けをするのを見るとホッとする。豊前先輩には桑名先輩がいるから大丈夫だって思える。その考えは後輩らしからぬ上から目線に見えてしまうかもしれないけど。

    一方で私は残念ながら願をかけられるようなものは持ち合わせていない。常に頭の中はやるべきことでいっぱいで試合の進行や仲間の的中(てきちゅう)が常に気になっている。

    私にもなにか集中できるような願掛けがあった方がいいんじゃないか。弓道の試合はこれが初めてではないのに、なんなら中学の3年間ずっとやってきたことなのに、どうしてか今になって色々と考えてしまう。ソワソワして落ち着かない。ここに控えている以上、集中力を高めていかなければいけないのに。

    「篭手切、緊張していますか」

    緊張。ああ、私は緊張しているのか。介添(かいぞえ)の五月雨先輩に話しかけられて、私ははじめて自分が緊張していたことを知る。

    冷静なつもりでいたけれど、一度自覚すると確かに視野が狭まっている感覚がする。そして場内のガヤガヤとした喧騒もどこか遠い。けれどそれ以上に高揚感もあって、体の中で冷たい水と熱湯が混ざり合うことなく渦巻いているような、そんな心地がしている。

    「緊張してます、少し……」

    「少しですか。頼もしいですね。」

    フッと五月雨先輩が笑みを零したので、私は幸先がいいなと心の中で安堵した。五月雨先輩は普段はクールな方なので、こういうふうに笑顔を見れるのは貴重な体験だ。それは私が入部してまだ2ヶ月も経ってないということも大きな理由の一つなのだけど。

    私はまだ皆さんのことをよく知らない。それは先輩方とお話する時間よりも練習にたくさんの時間を割いてきたからだ。

    入学前から道場に通わせてもらって、的前(まとまえ)にも立たせてもらって。1年の中ではぶっちぎりの的中を出していた私は1年生の中でたった1人、4月下旬から始まる県北リーグに出してもらえることになった。

    県北リーグとは、サッカーでいうJ1J2のようなものだ。県北部の18大学を前年の結果で上位から6校ごとに1部、2部と区切っていって、その6校の中で総当たり戦を行う。そして各グループの1位と2位は上部グループの5位と6位と入替戦をする。

    この春、義弘大は異例の早さで1部に昇格した。その奮闘ぶりは目覚ましく、義弘大の大躍進に他大学の注目も集まった。その躍進ぶりは部員の目から見ても妥当なものに思えた。まず、松井先輩、桑名副将、豊前主将のお3方がとにかく抜け知らずなのだ。その3人を4年の稲葉先輩と2年生の五月雨先輩と村雲先輩が上手にサポートしていく。

    五月雨先輩は縁の下の力持ち的なポジションが落ち着くらしく、先日のリーグ戦では村雲先輩と共に体力的にキツイ中盤から後半にかけてをしぶとく、しかしそれを全く顔には出さずに粘り抜いてくれた。

    五月雨先輩の射は型が独特だ。斜面打起しという、私達の用いる『正面打起し』とは違う型を用いており、弓構えから打起しに移る前に一度斜め下に向けて弓を少し押し開く動作がある。

    先輩はその一般的にマイナーで指導者も少ない射形をこれは恩師に対する義理のようなもの、と言って変えたがらなかったそうだ。この射形を捨てるくらいならと一度は弓道を辞めることも考えたそうだが、そんな折に義弘大の存在を知り、部員のタイプも射形もバラバラ、みんなやりたいようにやっている様子を見て義弘大で弓を続けることに決めたらしい。

    そしてそんな五月雨先輩を桑名先輩の横でずっと見ているのが村雲先輩だ。

    村雲先輩と五月雨先輩は幼馴染だ。新歓コンパで聞いたところによると、二人は同じ産婦人科で5分ほどしか変わらず生まれてから今まで、小学校も中学も高校もずっと一緒だったそうだ。けれど村雲先輩が持病の腹痛で出席日数が足りず留年してしまったので、五月雨先輩は1年浪人して、というか季語探しの旅に出て、翌年二人で義弘大に入学したという異色の経歴の持ち主だとふんわりとだが聞いている。もともとは豊前先輩達と同学年で面識もあったため、話す時はタメ口だし、呼び方も、豊前、雨、雲、とフランクだ。

    そんなこんなでいつも五月雨先輩にべったりの村雲先輩は、ピンチの時ほど好戦的スイッチが入るタイプの先輩だ。脱力感が持ち味の先輩は弓も13キロと女子の平均的な重さの弓を使って、かつての私のようにふわっとした放物線を描く軌道で的に矢を届けていく。そんな村雲先輩のすごいところは、雨風に左右されやすい射にも拘らず雨の日ほど勝負強さを発揮するところだ。その雨天の的中率の高さが入部してからずっと不思議だったのだが、その謎は今でも解けていない。そんな先輩のちょっと変わったポテンシャルのおかげもあって、早めに梅雨入りした今年の北部リーグで1部へ昇格することができた。

    そのリーグ戦に、私は1年生ながら大抜擢してもらい、交代要員ではあるものの試合の場に立たせてもらった。それでもスタミナが追いつかず、大雨と入替戦の日程調整のせいでリーグ戦の日程の間にぽこっと顔を出す形になったインカレではメンバーに選んでもらえなかった。その悔しさをバネにまた練習に打ち込んでいたら、部員の方々との交流を深めることが後回しになってしまっていたというわけだ。

    こういう経緯(いきさつ)で今声をかけてくださっている五月雨先輩のことを正直言ってよくは知らない。先輩はいつもクールな表情で、たまに難しい句を諳んじて一人で笑っている。いや、村雲先輩といる時は蕾が綻ぶような笑顔を見せてくれる時もある。だけどその笑顔が私に向けられていたことがあったかは……正直自信がない。

    そんな私にとって微妙な関係の五月雨先輩が介添を務めてくださっているのはひとえに義弘大の人員不足ゆえだ。弓道部にはマネージャーというものが存在しない。誰もがプレイヤーで、かつ必要な準備も皆で整える。まぁ準備というのも多岐にわたるので、自分の道具の準備や整備のように個人でするもの、的張りや安土の整備など手分けしてするものとそれぞれあるのだが、こういう試合の場でも試合に出場する傍ら、試合結果の記録や仲間の試合中の射形を動画で撮影したりなどいくつかの仕事が存在する。その中のひとつが介添だ。

    介添というのは選手のサポートをする人を指す。弽や押し手につける滑り止めの粉を持ち歩いたり、試合中に弦切れなどのトラブルに見舞われた際に、弦の張り直しをサポートしたりする。それ以外にも話をして選手の緊張をやわらげたり、試合中の射形を見てアドバイスをすることもあるなかなかに重要なポジションだ。

    この介添、他大学を見渡したらわかるように、男子の競技中は女子が、女子の競技中は男子が務めることが多いのだが、義弘大には今のところ女子部員がいない。これは義弘大が女子部員を禁止しているとかそういった理由ではなく、たまたまそういう年が続いたというだけの話なのだけど、そういった事情によって義弘大は遠征時に深刻な人員不足に陥っている。

    そういうわけで義弘大は試合の際、選手は選手同士で巻き藁を見合い、控え選手は後から見返すための試合風景をビデオで撮影したり、部員全員分の貴重品の管理をしたり、介添をしたりとなかなかに忙しい。団体戦の時は控えの福井先輩が介添に入っていてくれたが、福井先輩と横須賀先輩は残りの競技が個人戦のみとなった今、個人戦の決勝に漏れた先輩方とバトンタッチして巻藁(まきわら)で昨日練習できなかった分を取り戻そうとしている。

    「お〜〜い!篭手切!豊前!」

    2階の応援席の柵にもたれかかって僕達に手を振っているのは、個人戦には重きを置いていないんだよねぇと個人予選であっさり一本目を抜いて早々に離脱した桑名先輩だ。それに気付いた豊前主将は弽(かけ)をつけた右腕を突き上げて桑名先輩の応援に応えている。

    桑名先輩のお隣には「腹痛なので棄権させてくださ〜い」と個人戦を蹴った村雲先輩が五月雨先輩に手を振っている。お二人の手元には松葉色に白の筆文字で GO と染め抜かれた大きな必勝旗が柵にビニル紐で結び付けられている。松葉色は義弘大のブランドカラーだ。

    創設者が松倉というところの出身だということで、大学のロゴなど様々なものに松葉色が使われていて、義大弓道部でも主将就任式の際に主将、副将、主務の3人が礼射をしたり、学校の表彰式に出席する時など、特別な行事における礼装も深緑の袴と決まっている。私はまだ緑袴を履かせてもらったことはないが、必勝旗と同じ筆致でGOと書かれた深緑色の義大弓道部パーカーを着ると、気持ちが引き締まり、尊敬する先輩や同期ともっと高みを目指すんだという意欲が湧いてくる。

    今の私にはなかばアイドルの追っかけのようなふわふわした気分で入部を決めた頃のミーハー気分はどこにもない。

    もっと的中(てきちゅう)を。

    もっと精度を。

    そうやって自分を追い込んで行かなければ選手層の厚い義弘大弓道部ではスタメンになれない。

    この西日本大会、夏には関東で行われる全日本大会。それが終えれば秋口に大本命の全九州大会が行われる。

    その大本命の場で自分の100%の力を出せるように、いや、120%の力で勝てるように、この体育館試合で経験を積まなくては。

    しかしその思いが私に色んな疑念をも抱かせる。私の射は、心構えは今のままでいいのか、と。本来は練習の段階で定めていたはずの数々の疑念にどうして今苛まれてしまうのだろう。もしかしてこれが体育館の悪魔の仕業なのだろうか。いないと思っていたそれに、私はすでに直面していたのだろうか。

    いやだ。そんなのはいやだ。
    こんなところで自分の実力じゃないものに心を惑わされるなんて。

    私は私の実力でここに立っていて、私の実力で優勝を掴みたいのに。

    「篭手切?もしかして腹痛ですか?」

    再び黙り込んだ私を心配して五月雨先輩が話しかけてくれる。

    「いえ、そうではなくて、ああ、でも」

    要領を得ない返事でも五月雨先輩は私の言葉の続きを待ってくれる。

    「黙っていると余計なことばかり考えてしまうので、その、話を……五月雨先輩の話を聞かせてくれませんか?」

    五月雨先輩はきょとんとしつつも「私の、話……。それは私と雲さんがどうして高校を留年したか、という話ですか。」と私の真意を酌んでくださった。

    五月雨先輩は時々すごい天然っぷりを発揮するけれど、察しのよさも持ち合わせている。その感覚は鼻が利く、と言ったほうが良いのかもしれない。

    「すみません、ずっと気になっていて。今なら教えてもらえるんじゃないかと思って。」

    もちろんデリケートな話題だということはわかっている。けれども聞けるなら今しかない。そう私の直感が告げている。

    私の介添として側に控えてくださっている五月雨先輩は、実は豊前主将の高校時代の同級生だ。今はひとつ学年に差があるけれど、同じ学校に通っていたというお二人はとても仲がいい。私が義弘大弓道部に入ってすぐに県北リーグが始まり、練習漬けの試合まみれになっている間にその辺のことを聞きそびれてしまったのが惜しく感じる。

    そのあたりのデリケートな真相を知りたいと切り込んだのだ。神妙な顔をされたのは当然だ。

    「そこそこ長くなりますので今じゃない方がいいかと思いますが……。話の途中で試合が始まっても気になるでしょうし」

    今じゃない方がいいということは絶対に話したくないということではないようだ。要するに、私次第ということ。

    「でしたら私が当て続けたら、続きを話してもらえませんか」

    ピクリと眉を上げた先輩の神妙な顔つきは、どうも私の予想していた理由、つまり居心地の悪さとは別のものだったらしい。

    「千夜一夜物語、ですか」

    五月雨先輩の口元ははにかむように綻んで。

    「篭手切は乙なことを言いますね。いいですよ。では、1本目を中てていただいて、そこから話を始めましょうか。」

    隣では豊前先輩がくつくつと笑っている。

    「可愛い後輩にあんまプレッシャーかけてやんなよ?」

    豊前主将は完全に面白がっている。

    「私は可愛い後輩を信じてますから。」

    「それもそーだな!」

    豊前先輩が口角をニヤリと吊り上げたところで進行係からご起立くださいと指示があった。椅子の最前列に座っていた私達は促されたとおりに立ち上がり、敷かれた畳の前に立つ。いつもならば板張りの道場だけれど、体育館試合の今日はこの一直線に並べられた畳が射位になる。畳にはシールが貼ってあり、選手が立つ位置が示されている。そしてまっすぐに目線をやるとそこには黒い幕の上に設置された星的がある。

    その的の大きさは。

    「大きく…見える。」

    ぽつりと漏らした私の声を拾って五月雨先輩が淡く微笑む。

    「篭手切、自分らしく引いてきてください。」

    「はい。」

    進行の射位へお進みくださいの声がかかると、立ち上がっていた選手達が一斉に執り弓の姿勢をとる。ぴしりと合ったその動作に、さっきまでざわざわと歓談していた会場の空気がキリッと締まる。個人決勝が始まる。ここから先は一本抜いたら即終了のサドンデス形式。一瞬の気の緩みも許されない、が。

    やはり的が大きく見える。

    的というのは月に似ている。

    的は私が好調の時はなぜか大きく見え、不調の時はひどく遠くにあるかのように小さく見える。それは肉眼で見ている時はくっきりとその模様まで見えるのに、いざスマホで撮影しようとすると小さなぼやけた光のかたまりになってしまう月に似ているように思えるのだ。

    そして今の的の大きさはほんの1m先にあるかのように大きく見えている。

    普通に引いたら普通に中たる。

    直感というべきか、確信というべきか。

    普段の練習や試合でもなかなかたどり着けないゾーンに今日は簡単に入り込めている。ということは体育館の悪魔は私に味方をしてくれる気になったのだろうか。

    その確信のとおり、番えた1本目はすっと的に吸い込まれていった。

    1本目、中たり。

    案外呆気なく、そして私の気持ちもまた高揚感より冷静さの方が勝っている。もしかしたら私は興奮すればするほど冷静になるたいぷなのかもしれないな、とふと思う。

    「篭手切、素晴らしいです。よく的を狙えていましたよ。」

    そうか、五月雨先輩の目に私の射はそう映っていたのか。1本目の射技を終えた私と豊前主将は二人とも的中だったので退場せずに待機場所に残る。するとゼッケン番号を確認した係の人が私達を再度パイプ椅子へと案内した。

    弓を杖がわりにしないように気をつけながらパイプ椅子へと腰を下ろすと、五月雨先輩と目が合った。

    五月雨先輩は私の期待の眼差しに応えてふっと笑みを零す。

    「いいですよ。隠すようなことでもないですから。私と雲さんと豊前と桑名と松井は同じ高校の同級生で、一年のときに同じクラスでした。その後、クラスが別れても学習コース別の合同授業などで一緒になることが多くありました。

    私が、留年したきっかけは夏休み前に届いた一報でした。祖父に癌が見つかったと。発見した時には身体中に転移していて、覚悟を要すると、そういう内容でした。私は根っからのおじいちゃんっこでしたので、いてもたってもいられず祖父の元へ向かいました。私に弓道を教えてくれたのも祖父でした。そんな祖父が亡くなるなんて私には受け入れられませんでした。

    けれど、祖父の家を訪ねた私を待っていたのは旅支度をしている祖父でした。死ぬ前にこの足で行きたいところがあると。死んで幽霊になったら化けて出たとしても足があるかわからないからと祖父は快活に笑いました。私はちょうど夏休みに差し掛かるところでしたので、そのまま学校を休んで祖父の旅に付き合うことにしました。」

    夢中で聞き入る私の膝を、隣に座っていた豊前主将がぽんぽんと叩く。そろそろ呼ばれるぞ、と知らせてくれたのだ。

    「では、2本目もお手並み拝見ということで。」

    五月雨先輩の声に送り出されて射位へと進み出る。畳に貼られたシールを目印にして1礼。左右の足を順に開いて胴造り、的は、やはり大きい。

    打起し、引き分け。

    弓の反発力を感じずに引けているのは身体の使い方が正しいからだ。あるべきところに肘を納め、両方の肘を結ぶ身体の線が真っ直ぐに的へと向かっていることを確認して会(かい)を持つ。すぅ……と力を均等にかけ続けたところで自然と離れが出た。

    2本目、中たり。

    あれ。こんなものか。

    なんだか拍子抜けするくらいに中たりがついてくる。体育館試合という非日常と中てなければ五月雨先輩のお話を聞けないプレッシャーが私の肩に乗っているはずなのに、あっさりと中てられてしまう事態に逆に戸惑う。

    「篭手切?浮かない顔ですね。」

    「いえ、そんなことは。これは私の真面目な顔です。それよりさっきの続きを」

    本当は介添えの五月雨先輩に相談すべきだったのだろうか。でもそれより私は五月雨先輩の話の続きが気になるし、中てたら中てたで考え込んでしまうなんて本末転倒じゃないか。

    五月雨先輩は、もしかしたら私の逡巡に気づいていたかもしれない。けれど「では」と先程の続きを話してくれた。

    「祖父との旅は楽しかったです。向かう先すべてに季語があって。祖父と詠んだ句を見せあって。時が経つのはあっという間でした。夏休みの終わりもすぐそこまで来ていました。そして私は両親に、このまま祖父と旅を続けたいと告げました。両親は突然のことに驚いていましたが、大検の勉強をしながらだったら旅を続けてもいいと理解を示してくれました。」

    「祖父と私の旅が終わったのは3月の頃。まだ肌寒い季節でした。同級生は受験も終えて、学校に来ている生徒の方が少ないくらいでした。私は出席日数が足りないので、留年の話をするために学校へ行きました。その時に初めて知りました。雲さんもまた、出席日数が足りず留年するということを」

    「雲さんは留年者など出るはずのないこの進学校で私が1人下級生と机を並べる孤独を案じて、自ら留年を選んでくれたんです。それなのに雲さんは、雲さんが学校に行けないくらいお腹が痛かった時、私がいたからお腹の痛みが弱まったのだと。私がいなければ俺はとっくの昔に留年していたと、そう言って笑ってくれたのです。」

    「私がどれだけ雲さんに感謝しているか。私の話はここで終わりです。ですがこの先も中て続けてください。」

    初めて知る噂の裏に隠された事実。いや、五月雨先輩と村雲先輩の心の中だけにある真実。クールな五月雨先輩と必勝旗に肘をついてこちらを眺めている村雲先輩の精神的な繋がり。

    私だったらそんな風に自分の人生の行く先を誰かのために曲げることができるだろうか。いや、そんなことはできない。私はひどく自己中心的な人間だ。誰かのために生き方を変えることはできない。けれどお二人はそれをやってのけてしまったというのだ。それほどまでに誰かと深い繋がりを持つなんて、なんて尊いことなんだろう。

    はぁ、と甘美なため息が漏れた。
    上質な文学に浸ったかのような陶酔に心が満たされる。ありがとうございましたと自然に唇が紡いでいた。それに五月雨先輩は、わん、と五月雨先輩独自の感情表現で応える。そんな五月雨先輩に聞いていいことなのか迷いつつ、やはり聞かずにはいられないのが私という人間のよくないところだ。

    「1つ聞いてもいいですか?」

    「質問ですか。いいですよ。」

    「では次の一本を当てたら教えてください。その…言いにくいことかもしれませんがおじい様は……?」

    五月雨先輩は、こてん、と小首を傾げた。まるで犬がそうするように。

    「祖父ですか?健在ですよ。癌ともうまく付き合っているようですし、何より旅を終えて検査したところ、癌が小さくなっていたそうです。ああ、旅を一旦切り上げたのは検査のためで、それからも祖父はよくふらっと旅に出ています。」

    私の懊悩がなんだったのかと拍子抜けするくらい呆気なく疑問は解けた。しかし五月雨先輩のお話が終わってしまったのもまた事実。私は好奇心という燃料が切れてなお中て続けることができるのだろうか。

    いや、一度に訪れている謎のふぃーばーがどうしてなのかを解析するにはちょうどよかったのかもしれない。

    この好調をいつでも自分で引き出せるようにできなければこれからの試合を戦っていけないのだ。

    先輩が私をここまで押し上げてくれて、それと同時にその魔法は今解けた。

    残されたのは私の実力のみのはずなのだが、やはり私は体育館試合という大舞台でいつも以上に気持ちが高まっているのかもしれない。射位に立てども立てども抜く気がしない。実際に矢は的に危なげなく届いていく。

    なんだか魔法にでもかかったみたいに調子がいい。それは昨日の団体予選の時から感じていた不思議な感覚だった。

    大会会場であるこの体育館に足を踏み入れた時から感じていたもの。高揚感、いやもっとはっきりと胸に込み上げてきた全能感、無敵感。

    それらのすべてが原動力となって私は次の3本目も中たりを納め、4本目の八寸的まで辿り着いてしまった。

    八寸的は通常使用する的が直径36cmなのに対し、直径が24cmしかない。それが28mも離れたところにあるのだから見え方は大豆くらいの小ささに見える。最も隣にいる豊前主将は更に小さい直径15cmの花的の枠や、昼食のコンビニうどんのトレーを洗ったものなどを的に見立てて自由練をしていたりするからこれくらいの大きさには慣れているのかもしれないが。

    それでも今日は調子がよくて、八寸的にかけかわっての1本目を無事に的へと納めることができた。

    左右を見れば個人決勝に入った時には30人ほどいた選手達は八寸的に変わった途端ぽろぽろと脱落して今では6人にまで数が絞られている。そして義弘大で残っているのは私と豊前主将だけになっていた。

    「なぁ、こて。俺のこと抜いちまってもいいんだぜ?」

    これまでもずっと私のことを気にかけてくださっていたのであろう豊前主将が私の顔を見ていたずらっぽく笑う。

    「え…は、はい!胸をお借りします!」

    図々しいような気もしたが、豊前主将は私の失敗を喜ぶような人ではないと知っていたので、迷いなく言い切った。

    「んっとにお前は頼もしいな!でもさせねーよ。俺には勝利の女神がついてるからな」

    豊前先輩が弽をつけた拳でゴツンと叩いたのは鎖骨のあたり。そこにほくろがある人物こそ豊前先輩の勝利の……女神ではないけどとにかく絶対的な神様だ。

    「でしたら私は体育館の悪魔を味方につけます」

    「いいぞ、篭手切。その調子だ。」

    ビッグマウスだと笑われるだろうか。だけど、私の中には滾々と自信が湧いてきていた。

    入部してからずっと、いや、あの体験入部の日からずっと豊前先輩の引力に導かれてここまで来た。

    あなたの背中を追いかけて追いかけて、かけた矢の本数分あなたに近づけると思って練習に励んできた。

    でもあなたは私の練習よりもっと多くの練習を重ねて私を引き離そうとする。

    肩を並べて戦いたいのに、追いつくことを許さず私に見せてくれるのはその背中だけで……。



    豊前先輩、あなたが遠いです。

    あんなにいつも笑顔を見せてくれるのに、私の脳裏に焼き付いているのは的を見据える真剣な眼差しで。

    その先に私はいなくって。

    私はこんなにもあなたに焦がれているのに。

    ずっとそう思いながら練習を続けてきた。

    でも今、はっきりとわかる。

    豊前先輩の見据える先に誰かが存在することなどないんだと。

    目の前にあるのはいつだって的だけ。

    それならば私が豊前先輩に存在を認めてもらうためには横に並ぶしかない。

    スタメンとして。もしくはライバルとして。

    教えてください、豊前先輩。

    私は今、あなたの脅威になれていますか。



    「選手の方は起立して射位にお進みください。」

    射位に立ち、本日何度めかの月を見る。

    あの月を射落とすのだ。的を見定めて、胴造りをする。

    手元にあるのは凡庸な己の腕のみ。その中で練習して練習して練習して、努力して努力して努力して、それでも最高の腕を持つ方々と肩を並べるのは難しい。

    だけど、神は私に勝負運という名のギフトをくださったのだろうか。今私の目の前にある的は今までで一番と言っていいほど大きく私の目に映っている。

    身体の中で冷たい水と熱湯が渦巻いてる感覚はまだ私の中にある。

    冷静さと興奮とが入り交じる胸中。

    そこにひとつの声が届く。

    「はっはー!楽しいな!篭手切。」

    もちろん射位でおしゃべりなどしてはいけない。聞こえてきたのは豊前先輩の心の声だ。

    的に向けてしっかり顔向けした豊前主将の口角が上がっている。背中から気持ちが伝わってくる。

    この時間がずっと続けばいいのに。

    そう願えば願うほど矢は的に吸い込まれていく。

    ピリピリとした緊張感の中での射技は体力と集中力を削られる。それでもなぜか中て続けていられるのは五月雨先輩が道筋を示してくださり、豊前主将が引っ張り上げてくれたからなのだろうか。

    そして今、私は的に豊前先輩の背中を見ている。

    忘れもしないあの体験の日の3本目。音も私達も置き去りにして、あなたはどこか遠いところへ駆け抜けていくようだった。その時に思ったのだ。私があなたを引き止めなくては。あなたを振り向かせる存在にならなくては、と。もし、豊前先輩に食らいつき、振り向かせることができるとするならば、それは今しかない。

    それと同時に豊前先輩との楽しい時間を終わらせたくない。

    その思いを裏切るように、放った矢は12時方向に逸れて、が看的ボードには✕の板がはめられる。


    やってしまった。

    終わらせてしまった。

    私の手で。この手で幕を引いてしまった。

    12時の方向に刺さったということは押し手の力が強くなりすぎてしまったということ。この大舞台で気負いすぎてしまったということでもある。

    いや、本当の原因はそうじゃない。

    この場で勝利を掴むものは、最後までこの場は自分だけの舞台だと真に信じきった者だけなんだ。

    私にはこの場を支配するだけの自信と傲慢さが足りなかったのだ。

    一礼して射位を下りる。もう一度的場に視線をやると、体育館を天井から照らす無数のライトが目に入ってきた。

    もしかして、私はこのライトのおかげでこの場を自分のすていじだと思えることができていたんじゃないか。だからいつもより調子がよかったんじゃないか。

    そのことに今気がついたのは遅すぎたのだろうか。それとも今後のために今気づけて良かったのだろうか。

    「以上で個人決勝射詰めを終了します。集計と閉会式の準備ができ次第、召集の放送をいたしますので、閉会式にご参加される方は放送にご注意ください。」

    会場内にパチパチと拍手が鳴り響く。

    それは私の個人決勝準優勝と、豊前主将の優勝を祝福するものだった。



    閉会式を終えた私達は、体育館併設の駐車場でブリーフミーティングのために集まった。豊前主将のブリーフミーティングはいつもの「みんなよくやったよ。じゃ、帰るまでが試合だかんな。みんな気をつけて帰れよ。」という本当に短いもので、今回も例に漏れず10秒ほどで解散の運びとなった。

    事前に調べていたバスの時刻をお知らせしようとスマホを取り出したところで豊前主将が私の肩をぽんと叩いた。

    「篭手切、おつかれさん。それからおめでとう。」

    私は豊前主将が笑顔で突き出したグーに、グータッチで応える。すると豊前主将はほんのわずか、神妙な顔をした。

    「篭手切、俺さ。射詰めで篭手切が抜く気がしなかったよ。でも最後の最後でブレた。篭手切は自分があの場で一番輝いてるって、自分を信じてたか?誰かの背中を追っかけてなかったか?」

    ずばりと私の胸中を言い当てられて息が詰まる。

    「そういうのがダメとは思わねーんだけどさ、俺は自分を信じてる時の篭手切が最強だって思ってっから。」

    「篭手切が自分を信じて中て続けられるような自信っつーかなんつーか、そういうのを掴んで欲しいんだよ。」

    俺達がいるうちに。

    そうだ、稲葉先輩みたいに先輩方が引退後も部活に残ってくれるんじゃないかっていう思いが頭の片隅にあったけれど、それじゃいけないんだ。私は一人の射士として成長して自立していかないと。

    私が立っていたあの個人決勝の場。

    それは紛れもなく1度限りのすていじ。

    誰に導かれるでもなく、自分の足であの場に立たなければいけない。

    その方法はプレッシャーを誰かにかけてもらうのでも誰かの背中を追いかけるのでもない。

    自分を信じる。

    あまりにシンプルで、それでいてとても難しいたったひとつの方法でしか成しえないのだ。

    「豊前先輩、私、悔しいです。」

    涙は溢れなくても悔しさはとめどなく溢れてくる。それを唇を噛み締めて堪えた。

    「その悔しい気持ちを忘れなかったらお前はもっと伸びるよ。篭手切が努力家だってことは部員全員が知ってっからさ。」

    ぽんぽんと豊前主将の優しい手が私の背中を撫でる。

    「一番がいいです、優勝したいです。」

    悔しくて悔しくて、引き絞るような嗚咽が漏れた。

    そんな私を、慰めるでもなく村雲先輩が茶化す。

    「一年生で最優秀射士賞掻っ攫っといてそれ言っちゃう〜?俺なら浮かれて天狗になっちゃうけどな〜」

    「雲さんは犬から天狗に鞍替えですか?」

    「うそうそ。雨さん前言撤回。」

    慰めなんて私は必要としていない。それを先輩たちはわかってくれていて、村雲先輩と五月雨先輩の掛け合いにみんなが笑顔になる。私の気持ちが晴れたのを察して、豊前主将はパンパンと手を叩き、「いつまでもたむろってたら邪魔になっちまう。みんな移動すんぞー」と声をかけた。そして本人は私の弓袋と矢筒をすっと奪い、自分のとともに桑名先輩に押し付ける。

    「桑名、わりぃ。俺とこての弓袋と矢筒道場に持って帰ってくんねーか?俺こてとラーメン食って帰るわ。」

    いつもなら「え〜、それなら俺もラーメン食べに行きたい〜」と言い出しそうな村雲先輩が「じゃあ俺こての持ったげる〜」と桑名先輩から弓袋と矢筒を奪う。

    「ではこれを味玉の足しに。」
    五月雨先輩が私の手のひらに1枚の100円玉を握らせる。

    じゃあこれはお祝いの替え玉に、と福井先輩と横須賀先輩もそれぞれ100円を私の手に握らせる。

    「みなさん、ありがとうございます!」

    私は左手に2つのトロフィーの箱を持ち、右手に300円を握りしめるなんとも幸せな格好になっていた。そこへ「おーい、みんな!」と1台の車の窓から聞き慣れた声が響く。私達の側に幅寄せしてきたターコイズ色の車体は先輩方が松井号と呼んでいる松井先輩のご家族の車だ。

    「豊前、個人優勝おめでとう。それから篭手切、個人準優勝と最優秀射士賞おめでとう。それからみんなも団体3位、お疲れ様。」

    桑名先輩が「僕が連絡したんだよぉ。あ、松井。車に弓載せさせて。みんなでラーメン食べに行こうよ。」と言いながらもうトランクを開けて弓矢を積み込んでいる。

    片側の後部座席を手際よく倒しているあたり、これはいつものことなのかもしれない。松井先輩も今日は桑名先輩に文句を言わないし。

    「じゃあ、豊前と篭手切乗ってくれ。あとのみんなは悪いけど自力で頼むよ。弓矢を道場に下ろしてから向かえば同じくらいに着くだろう。それじゃあいつものとこで」

    松井先輩がアクセルを踏んで、先輩たちはじゃあまたあとで〜!と松井号に手を振るのに私も先輩方に手を振り返す。後部座席の私の右手には先輩方がくれた300円が程よくあったまっていた。


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