まだ、体の芯に熱がくすぶっている。
江澄は唇を薄く開けて、小さく息をこぼした。
(だからだめだと言ったのに)
心中で藍曦臣に恨み言を投げつけつつ、ふと彼はひとりで何をしているのかと気になった。客坊にはなにもない。雲深不知処とは違って蔵書も少ない。「気にしないで行っておいで」と笑顔で送り出されたが、退屈させていないだろうか。
江澄の憂いはそのまま顔に表れて、眉根がギュと寄る。
そこへ通されたのが向張豪だった。
江澄はさっと立ち上がるとしかめ面のまま拱手した。
「ようこそおいでくださった、向宗主」
「こちらこそ、急に申し訳ない」
向家は蓮花塢の東、川の北の地域を治める世家である。宗主の向張豪は六十歳に届く年だが、威張ったところはなく、年下の江澄にも常に丁寧な態度を取った。
「なにかありましたか」
江澄が茣蓙に座ると、向張豪もならって座った。
向家は小さな世家ではない。門弟を数百人と抱える世家である。その宗主が急ぎお会いしたいと文を寄越したのは三日前のことだった。
あいにく、それが藍曦臣の滞在と重なった。向家を待たせるわけにはいかず、その結果藍曦臣はあからさまに拗ねて今朝の事態となったのである。
江澄はぐっと腹に力を入れた。
余計なことを思い出していい場面ではない。
「いえ、その、お恥ずかしいことですが」
向宗主は白髪のまじる頭をかきつつ口を開いた。
「一番下の娘がですね」
「はあ」
江澄は拍子の抜けた声で応じた。
向張豪には五人の子どもがあった。一番下はたしか今年十五歳になったはずである。名前はなんだったか。
「こちらに入門すると言って家を出まして」
「はあ」
「最近入門した者の中に向陽紗という仙子はおりませんでしょうか」
江澄はすぐに師弟に言いつけて名簿を持って来させた。向張豪と一緒に目を皿のようにして名前を探すが、七日ほど遡っても向姓の入門者は見つけられなかった。
向張豪から安堵とも、落胆ともとれるため息が落ちた。
「お手数をおかけいたしました」
「いや、役に立たず申し訳ない」
「いえ、もし、向陽紗と名乗る娘が現れましたら、その……」
「分かっている。保護しておこう」
「ありがとうございます」
向張豪は三度も頭を下げた。
老いてからの子はかわいいとは言うが、向張豪にとって向陽紗はそれこそ目に入れても痛くないほどのかわいがりようだった。そんな親に心配をかけて、なんという不届きな娘だろうか。
向張豪が退出すると、江澄はすぐに客坊へと向かった。
外廊を渡る途中、古琴の音が流れてきた。涼やかな音色は江澄の眉間からしわを取り除き、荒っぽい足取りを穏やかな歩みへと変じていく。
「ここは雲深不知処じゃないぞ」
江澄は笑いをこらえつつ、行き先を変えた。この古琴は私室に置いてある江澄のものだった。
江澄が藍曦臣と逢瀬をする仲になって一年が経つ。会えるのは月に一度か二度、先ごろの清談会が終わるまでは宗主の職務に忙殺されて、ひと月ぶりにようやく会えたところだった。
三日も蓮花塢に滞在するという藍曦臣を、どうやってもてなそうかと散々悩んだ。ほんとうであれば今日は舟で遊びに出るつもりだった。
江澄は日を仰いだ。すでに天頂を越えているが、今からでも間に合うだろうか。舟の上でいっしょに食べようと蓮の実の包子も用意させているのだ。
江澄が私室に戻ると、藍曦臣はすぐに演奏をやめた。もったいないとは思ったが、舟に誘うとうれしそうに応じてくれた。
秋の湖にはなにもない。
それでも、藍曦臣は空を仰いだり、湖面をのぞきこんだりと、そわそわとすごしている。
「気に入ったか」
「ええ、とても。川を行くのとはずいぶん違いますね」
「そうか?」
たしかに、川は道であり、遊びで舟を出すのとは違う。
江澄は櫂を操る手を止めて、己の手のひらを見つめた。そういえば、自分で舟を出すのはずいぶんと久しぶりだ。
「あなたと二人だから、どちらも楽しいですが」
藍曦臣は視線を水面から江澄に移した。
「ここは他の舟もないから、あなたをひとりじめできて楽しいです」
まったく、なんということを言うのだろう。江澄は顔を背けた。日差しが強いわけでもないのに耳まで熱くなってしまう。
「江澄、おいで」
しかし、藍曦臣のいうとおり、ここには人目がない。江澄は手招かれるまま、彼の足の間に腰を下ろした。
すかさず背後から両腕が回り込んできて、江澄を抱きしめる。
首筋に吐息が触れて、江澄はわずかに身をふるわせた。
「阿澄」
どこまでもやさしい、よく熟れた瓜を思い出すような声だ。
この声で名を呼ばれると、江澄はぜんぶを預けてしまいたくなる。
そろそろと顔の向きを変えれば、にっこりと笑む藍曦臣に口づけられた。合わせられた唇はやわらかく江澄の唇を何度もついばむ。
「藍渙」
「なに」
くちづけの合間に名を呼ぶと、とろけそうな瞳が間近にあった。
江澄は自分から唇を合わせて、舌をすべりこませた。
もっと深く触れたかった。足りないと体が訴えはじめている。
「んっ」
しばらくは江澄の好きにさせてくれた藍曦臣だったが、そのうち耐えかねたように江澄をきつく抱きしめると、口を離した。
その視線が包子の入ったかごに移る。
「包子は、あとでもいいかな」
「すぐに腐るものじゃないからな」
お互いの目のうちに同じものを見出して、江澄は立ち上がった。
再び櫂を手に取り、へさきを回す。せっかくの舟遊びなのに、とは思わなかった。
朝から体の奥に残っていた熱が、いまや指の先にまでたどりついてしまっていた。