その朝、蓮花塢の気温はぐっと下がった。
秋の深まりを思わせる朝もやの中を藍曦臣は朔月に乗って空に上がった。
江澄はそれを自室の露台から見送った。家僕が卯の刻になるや否や起こしに来てくれなければ、その姿も見られなかっただろう。
別れのあいさつはできなかったがきっとこれでよかったのだ。
どういう顔をして会えばよいのか、今になってもわからない。もし、藍曦臣の目が江澄をあきらめてしまっていたら、まともに立っていられるかどうか。
江澄は牀榻に戻ることなく、再び家僕が様子を見に来るまで露台で空を見上げていた。
そのあとはいつもどおり、支度を整えて政務についた。周囲の者は何かを察して遠巻きにしていたが、江澄は努めて平常通りにふるまった。昼を越えるころにはすっかりいつも通りに戻っていた。
「宗主、大変お手数ですが、試験場においでください」
江澄が午後の政務をはじめようとしたところで、師弟が慌てたように呼びにきた。ちょうど前庭で入門希望者の試験を行っている頃合いであったと、江澄は思い出した。
「なにかあったか」
「それが……、その、師兄でも手に負えない者がおりまして」
江家の入門試験は実力検査である。たいがいは希望者同士が木剣にて立ち合い、体力の尽きるまで打ち込み合う。まれに剣の実力が長けている者がいるが、そういう者の相手は師兄が担う。そもそも、師兄が出張ってきた段階で、その者は合格に値する。
江澄はすぐさま腰を上げた。
「俺が出よう。そんな奴がいるなら、ぜひともうちに入れたい」
「左様ですが、その、なんと申しますか」
「不都合があるか」
「実は、向陽紗と名乗っておりまして」
江澄はいきおいよく師弟を振り返った。彼は短く悲鳴を上げたがそんなものは構っていられない。
「向陽紗は、十五歳の、仙子だぞ」
「左様でございます」
「向家の子女と言えど、まだ十五歳だぞ」
「左様でございます」
「その娘に師兄が負けたというのか」
信じられないことであった。江家はそもそも武功に重きをおく世家である。その江家の師兄を倒せる十五歳がいるとしたら。
江澄の脳裏をかつて大師兄の笑顔がよぎった。
その娘は彼に匹敵する実力を持っているということだ。
江澄は足早に外廊を抜けると三毒に飛び乗った。
「宗主」と叫ぶ師弟を置き去りにして、前庭上空へとすべる。
「だれか! ほかに私にかかってくるやつはいないの」
少女の大声が響く。
結い上げた長い髪をなびかせて、仁王立ちになる娘は片手に木剣を持っている。
あれだ。
向家の一番下の娘、向陽紗。
(あのやろう)
江澄は歯ぎしりをした。向家宗主は娘の実力について、口の端にも上らせなかった。巷間のうわさになったこともない。
彼の隠したかったことは間違いなくこれだろう。ことにもよるが、向家にそのまま送り返すかどうかは考えたほうがよさそうだ。
江澄は三毒に命じると、向陽紗の前に降りた。
「騒がしいな」
「江宗主!」
「いちいち叫ぶな。向陽紗と聞いたが、向家の娘だな」
「そうだ」
彼女はさっと木剣を顔の前に出し拱手した。
「江宗主、お願いがあってまいりました」
「それも聞いた。入門希望だと?」
「いえ、どうか父の前で私と勝負してください」
「は?」
まったく予想外の言葉に江澄は眉間のしわをいっそう深くして聞き返していた。
向陽紗は顔を伏せたままつづけた。
「私と勝負して、どうか、負けていただけないでしょうか!」
まったく大した度胸である。
十五歳の仙子が、四大世家の宗主を前にして、勝負を挑むばかりでなく、負けてくれ、と言うとは。
「俺をあなどっているのか」
江澄の手で紫電がバチリと音を立てた。
慌てたのは事の成り行きを見守っていた周囲である。
若い師弟らは恐れおののき、中には腰を抜かす者もあり、年かさの師兄の一人がようやくふるえる声で「宗主」と声を上げた。
江澄は舌打ちをして、軽く手を振った。大丈夫だ、わかっていると伝えたつもりが、なぜか周囲はざわめいた。
「そ、宗主、おやめください」
「そうです、その者は無礼と言えどまだ十五歳で」
「向家のご息女でも」
「ええい、うるさい! わかっている!」
江澄は今度こそ紫電で地を打った。
土煙が立って、風に流されていく。
江澄がそれだけの怒りを表しても向陽紗は拱手の姿勢をくずさなかった。
「お怒りはごもっともです。大変失礼なことを申し上げておりますので」
「失礼とわかっていて何故言った」
「私には、もう術が残っておりません。江宗主のお情けにすがりたく」
「意味がわからん」
江澄は腕を組んで、つま先で地面をたたく。
回りくどいのは好きではない。
「私、このままだと嫁に出されるんです。私以上に強いお人でなければいやだと言ったら、父が」
ぽたり、と地面に染みができた。
「江宗主に勝てたら考えてやると」
その瞬間、紫電が暴れた。バチバチと雷光を発しつつ、何もない地面を這う。
(次に会ったときには覚えてろよ)
江澄は胸中で誓った。
あの腰の低い向宗主という男は、つまり、江澄に敬意を払ってなどいなかった。
知っていたことだ。宗主になったばかりのころはそんなやつらばかりがむらがってきた。経験の浅い江澄を守ってくれたのは藍宗主だけだった。
江澄は紫電を戻した。
「お前、気づいているのか」
「なんのことですか」
「それで俺に勝ったら、俺の嫁に出されるぞ」
向陽紗はがばりと顔を上げて、目を見開いた。
この娘もまた父親の手のひらの上で踊らされているのだ。とはいえ、家を出て、直接江澄に会いに来る度胸はすばらしいものがある。
江澄は大きく息を吐いて、師妹を呼びつけた。
「入門を認める。案内してやれ」
「え、どういう、どういうことですか」
「とりあえず、江家に入れ。時間が空いたら俺も考えてやる」
江澄は外廊を私室へと戻った。
やっかいな問題が起きたものだ。ひとまず、向家へ連絡だけは入れなければなるまい。
かつてはこういうときに藍宗主から立ち回りについて助言をもらえた。宗主になって何年も経つが、彼の教えてくれたことはずっと江澄を助けてくれている。
これからはもう聞くことはできないが。
私室に戻ると、部屋の隅に置き去りにされた古琴が目に入った。
藍曦臣が奏でる音が、鮮やかに耳によみがえった。