藍曦臣の袖からふわりと広がった香りに、江澄は眉根を寄せた。
白檀にかぶせるようにして、甘い気配がただよう。常であれば清涼で透明感のある白檀の香が、まるで霞がかっているかのようだ。
かつて、江澄が金鱗台を訪れたときには親しんだ香りだった。常に金光瑤の隣に立つ藍曦臣からただよっていた香りそのものだ。
「今日は姑蘇からいらっしゃったのではなかったか」
「いいえ、金鱗台から参りました。本当は一昨日には雲深不知処に戻っているはずだったのですが、あいにく雨に降られてしまって」
「それは災難だったな」
藍曦臣は微笑んで窓から空の様子をうかがった。
長い黒髪が重たそうに揺れる。
「また、雨ですね」
「ここのところ雨続きでな。しかし、弱い雨だ。明日には上がるだろう」
「ええ……」
江澄は机について、藍曦臣にも座るようにうながした。
「それで、今回はどのようなお話かな」
「次回の、清談会のことで」
そう、とつぶやく藍曦臣は机の前ではなく、江澄の隣に座る。どういうつもりかと尋ねる前にぱっと手を握られた。
白檀と同時に甘い香りが江澄にまとわりついた。
「江宗主、今晩は雨です」
「そうだな」
「街に下りるのも大儀ですので、こちらに泊まってもよろしいでしょうか」
江澄は藍曦臣を見ない。じっと見つめてくる視線を感じながら、あえて前を向いたまま答えた。
「もちろん、客房を用意させよう」
「できたら」
藍曦臣の手に力がこもる。
「こちらに泊まりたい」
「ここは俺の房室だ」
「知っています。だから、清談会のご用で私を呼んだのでしょう?」
にっこりと笑む藍曦臣は江澄の手を持ち上げて、軽く腕を引いた。
江澄も逆らわずに、すっぽりと袖の中におさまった。
「じうじうはらんそうしゅとなかよしなの?」
「仲良しなどではない」
「でも、おじうえはらんそうしゅとなかよしだよね」
「そうだな。金宗主と藍宗主はいつも一緒にいるだろう?」
「いっしょにいる!」
「同じ香りがするだろう?」
「する!」
「それは仲良しだからだな」
江澄は夜闇の中に身を起こした。
懐かしい夢を見た。
あの頃の自分が聞いたら目を向いて怒りそうだと江澄は苦笑した。まさか、その香りに囲われるようなことになっているとは。今でも幻想ではないかと思う時がある。
しかし、隣で眠る人のぬくもりは幻想にはほど遠く、体に残る重みと痛みはいやに生々しい。
江澄のため息は、蓮花湖に落ちる雨音にかき消された。
弱かったはずの雨足はいつのまにか打ちつけるほどになっていた。
「江澄……?」
「ああ、すまない、起こしたか」
「いえ……、どうかしましたか」
伸びてきた手のひらが江澄の頬に触れた。ほどいた髪をすいて、背中をやさしくなでていく。
「体が痛い?」
「いや、ふと、目が覚めただけだ」
「そう……」
江澄が横になると、再び腕が腰をつかまえて引き寄せる。
藍曦臣のまとう香りはまだ消えず、さわやかなはずの香りが、やけに重たく感じる。
「おやすみなさい」
体をぴったりとくっつけて、まるで大切なものを閉じ込めるように抱きしめられる。
藍曦臣のくせである。
江澄は再びため息を落とした。
こんなふうに扱われては、本当の恋人にでもなったように勘違いしたくなる。けしてそうではないと知っている身には少々つらい。
(でも、明日には)
これで、甘い香りは消えているだろう。そうして、江澄の部屋の香りが、きっと少しだけでも移ってくれる。
雨はいつまで降るだろう。雨の間は藍曦臣は蓮花塢にとどまるしかない。
江澄は目をきつく閉じた。
雨が長引けばいいとは、とてもではないが願えなかった。