恋心を忘れる魔法薬を飲んで7年分の記憶を失うジェイドの話 最終話 ハーツラビュルでの一悶着を終えてオクタヴィネルに戻り、アズールと別れてからジェイドはひとり悶々と考え続けていた。
結局、トレイと自分が一緒にいるのが嫌だとはどういう意味だったのか。
アズールが何も言わないからつい詰問するような口調になってしまったけれど、それにしてもあのアズールがあんな事を口走るなんて。
─だってお前がトレイさんと一緒にいるなんて言うから─
その時の事を思い出してジェイドはまたむぅっと眉を顰めた。
「だって」なんてそんな、まるで子供がだだをこねるような口調が既にいつものアズールらしくない。
そしてそれがトレイと一緒にいた事が原因だと言うのだから、ジェイドはますます意味がわからなかった。
さっきアズールにも言った通り、順当に考えれば「嫉妬」という言葉が一番近いように感じるけれど、アズールが自分に関してそんな感情を抱くとはどうしても考えられない。
アズールは自分を恋愛対象として見ていないし、まして恋が分からないと言うのだからそんな情緒など持ちあわせているはずもないのだ。
でも、とジェイドは思う。
恋愛感情は別にしても、ほかの人間と親しくする事に嫌悪を感じるくらいにはアズールも僕に執着があるらしい。
僕とトレイさんが一緒にいるというだけでモヤモヤして気が気じゃなくなって、気づいたら足が動いてしまうほどの衝動がアズールの中に確かにある。
そう思うとジェイドは自然と頬が緩んでしまう。
ニヤニヤと笑っている場合ではないのに、アズールが何かしらの強い感情を自分に向けてくれていると思うだけでジェイドはうれしくなってしまうのだ。
しかし「なぜ」と問いかけても分からず、それでもアズールが自分に執着を見せてくれた事はうれしい。
うれしいけれど疑問が解決することはなく、結局また「なぜ」に戻ってぐるぐると同じ思考を繰り返す。
そんな事を延々と考えていたせいで仕事は上の空で手につかず、ミスを連発してとうとうフロイドに「使えねぇから帰っていいよ」と言われてしまった。
「今日は本当に皆さんに迷惑をかけてしまいました……」
ミスを連発する姿をアズールに見られなかった事だけは幸いですが、と心の中で付け足しつつ、それでもジェイドなりに反省はしていた。
私情で仕事が手につかないなんて言語道断。もしもアズールに見られていたら、きっと仕事とプライベートを混同するなと一喝されていたに違いないとジェイドは深いため息を吐いた。
実際のところアズールも同じような状態だったのでジェイドに喝を入れられるような立場ではなかったのだが、モストロラウンジに戻った後は一度も顔を合わせていないジェイドにそんな事を知る由はない。
ジェイドはもう一度深くため息を吐き、寮服を中途半端に脱いだままベッドに腰掛けた。
ジャケットだけはなんとかハンガーに掛けたけれど、カマーバンドもサスペンダーも付けたまま、雑に解いたボウタイはその辺に放り投げてしまった。
首元まできっちりとボタンをしめたシャツは未だに慣れず、いつも部屋に戻るとすぐに脱いでしまうのに今日はボタンをいくつか外しただけで着替える気にもなれない。
何をする気にもなれず、シャワーを浴びにいく事さえ億劫だった。
こんなだらしない姿、アズールにはとても見せられないと自嘲してジェイドはまたため息を吐く。
そして何をしてもアズールアズールと、そればかり考えてしまう自分にまた呆れた。
「アズール……」
どうして君のことばかり。
寝ても覚めても君のことが頭を離れない。
ただそばに居られるだけでいいと思っていたのに、それだけでしあわせだった僕はもうどこかに行ってしまったみたいだ。
もっと触れたくて触れられたくて、僕の気持ちをわかって欲しくて。
そしてできることなら、君に僕と同じ気持ちでいて欲しい。
そう思ってジェイドはハッとした。
わかってくれなくていいなんて、本当は微塵も思っていなかった自分に気付いて絶望したような気分になる。
もしかしたら以前の僕も、自分の欲望を抑えきれなくなって薬を飲んだのかもしれない。
記憶を失う前、7年もの間ずっと告げずに隠してきたのに、アズールに知られてしまった事で想いが溢れ出してしまったんじゃないだろうか。
隠す必要の無くなってしまった気持ちを自分で抑えきれなくて、アズールに拒絶されたことよりも、自分を抑制できなくなってしまった事が僕に忘れる事を決断させたのかもしれない。
記憶のないジェイドにとってそれは単なる推測に過ぎず、確かなことは何も分からない。
けれどもしそうだとしたら、その時の自分はどれだけの想いをひとりで抱えていたのだろうと思う。
今の自分はアズールへの想いを自覚してほんの数日で、それでもこんなにアズールで頭がいっぱいなのに、それを7年分。
それはとても、途方のないことに思えた。
今の自分に、できることはなんだろう。
何も望まない「フリ」をしてそばに居続けることか、それともいっそ完全に離れてしまうことか。
そうすればきっといつかは気持ちも薄れて、忘れてしまえる日が────
「………来るわけない」
堪えきれずジェイドは呟いた。
忘れても忘れられなかったのに、もう一度恋をしてしまったのに、そばを離れたくらいでこの気持ちが消えてなくなるとは思えない。
そう確信するほどに、何が正解かわからなくなってジェイドはもっとその顔を歪めた。
いや正解などないのは分かっている。
アズールと自分の想いが同じでない以上そこが交わることは絶対にない。
だから正しくはなくとも、交わらない上での最善を見つけたいと思うのに、その最善すらすれ違っている気がして。
結局、アズールと僕は合わないという事なのかもしれない。
お互いに本心を言えず、すこし素直になれたかと思えばまたすぐにすれ違って。
このままそばに居てもきっと僕たちは同じことを繰り返していくに違いない。
それならばやはり、いっそ離れてしまえば……
そんな風にずっと堂々巡りを繰り返し、それでもそばに居たいという想いと、離れた方がいいのかもしれないという想いが錯綜する。
しかし離れようかと考える度、ジェイドはアズールがかけてくれた言葉を思い出す。
これからもずっと右腕としてそばに居てほしいと、そう言ってくれたのはアズールだ。
アズールの望む全てを叶えたい。
それが自分を隣に置くことなら、それは願ってもないことのはずなのに。
それを実現しようとすることが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
堂々巡りの思考に決着は付かない。
付かないけれど、巡り巡る度その心は重く苦しくなっていく。
このままずっとひとりで抱え込んでいたら、その内にここから一歩も動けなくなってしまうのではないかと思うようなその苦しさにジェイドはまた深く沈み込む。
いっそ何も知らない稚魚のままでいられたなら良かった。
恋など知らず、ただ自由に海を泳いでいられたら。
アズールに出会うこともなく、いつまでもフロイドとふたりきり。
一瞬そう考えて、ジェイドはすぐにそれを打ち消すようにふっと笑った。
フロイドと過ごす毎日は楽しかった。
でもずっと永遠にふたりきりで同じ海を泳いでいるだけなんて、それはきっととてもつまらない。
暗い海の中にアズールを見つけてジェイドは変わった。
自分にはとても思いつきそうにもない事を次々と考え出すアズール。
小さい頃はただ弱く臆病な墨吐きでしかなかったあの子が、みるみると変貌していく姿を以前の自分は全て見ていたのだ。
それはきっと僕の好奇心を刺激して満たしてくれるような、素晴らしい発見の毎日だったに違いない。
アズールに恋をしたから陸に興味を持って、魔法を学びジェイドの世界は広がった。
ただ海の中を泳いでいるだけでは知り得なかった知識をたくさん吸収して自分も成長し、アズールの隣に並び立てるまでになった。
おそらく新しい発見と喜びに満ちていただろうその日々を、ジェイドはもう捨て去ろうとは思えない。
もうどうしたって、僕はアズールから離れることはできない。
自分の想いの深さを改めて痛感し、ジェイドは結局同じところに辿り着く。
これからもずっとアズールのそばに居たい。
彼の一番そばで、彼に寄り添える存在でいたい。
彼に一番に頼られるのは自分でありたい。
その位置を誰かに譲るなんて考えられないし、フロイドを他にすれば僕よりも彼の役に立てる人間など絶対にいない。
であれば、やっぱり僕の居場所はそこしかないのだ。
アズールの左にはフロイドが、右には僕が。
その間にある感情が恋ではなくとも、僕がアズールを愛する気持ちは変わらない。
ようやく、答えが見えた気がした。
きっとこれからも僕は何度も同じ問いを繰り返すだろう。
その度にぐるぐると悩んで同じ道を辿ってしまうかもしれないけれど、結局行き着くところは変わらない。
ただ自分が、アズールの隣にいたいということ。
少し気分が晴れて、ジェイドもやっと気力が湧いてくる。
僕は僕にできる事をしなくては。
とりあえず、こんなだらしない姿のままいつまでもだらけている訳にはいかない。
さっさとシャワーを浴びて身なりを整えよう。きっとアズールはだらしない僕など見たくはないだろうから……と、ジェイドがベッドから立ち上がったその時だった。
コンコンコンと、ドアをノックする音が聞こえてジェイドはサッとドアに目をやった。
ラウンジが終わってフロイドが帰って来るにはまだ早いし、それ以前にフロイドがノックをするはずもない。
わざわざ部屋を訪ねてくるなんて誰だろうとジェイドが訝しんでいると、ドアの向こうから聞きなれた声がした。
「ジェイド、いますか?」
耳慣れたその声に、ジェイドはぎょっとして固まってしまう。
どうしてアズールが。
アズールが訪ねてくるなんて考えてもいなかった。
すぐに出なくてはと思った瞬間、ジェイドは自分の姿に気付いてハッとする。
ジャケットは脱いでしまったしボウタイはどこかに落としてしまった。それにシャツのボタンもいくつか外したままのだらしない姿をアズールに見られるわけにはいかない。
とりあえずシャツをきちんと着るべきかジャケットを羽織るべきか、ボウタイはどこにやっただろうとキョロキョロと目を走らせているとまたアズールの声がする。
「ジェイド?いないんですか?」
すこしだけイラついた様に、焦燥を乗せたその声にジェイドはまたあたふたとする。
身なりを整えるのが先かドアを開けるのが先か、まずは返事をするという事すら失念しているともう一度ノックが繰り返されて、「ジェイド?」とさっきよりも大きな声が呼ぶ。
そして痺れを切らしたアズールが、「入りますよ」とドアノブを捻った音が聞こえてジェイドはその場に固まってしまった。
万事休す。
なんですかそのだらしない格好はと咎められても仕方ないとジェイドは身構えた。
ドアを開けて中を覗き込んだ瞬間、目の前に立っていたジェイドが視界に入ってきてアズールは「なんだいるじゃないですか……」と言ってすぐにパッと目を逸らした。
「す…っ、すみません、着替え中ならそう言って下さい」
そう言って少し顔を赤らめたアズールにジェイドは思わず「え」と声を漏らす。
着替え中だったのではなくただダラダラしていただけなのだが、咎めるどころかアズールが気まずそうに謝った意味が分からない。
仮に着替え中だったとしても、本来の姿なら裸が当たり前に見慣れた関係で今更どうという事もないのに。
しかしアズールからしてみれば、普段きっちりと隙なく着込んでいるジェイドが着崩している姿はなんとも言えず目の毒だった。
とは言え通常のフロイドとそう変わりない姿のはずなのに、それがジェイドというだけで変に動揺してしまう。
なんと言うか、ひどく扇情的で、端的に言えばそそられる。
自分がジェイドに対してそんな感情を抱いていることに驚きつつ、アズールが気を取り直してジェイドに向き直れば、当のジェイドはぽかんと間抜けな顔をしていた。
「あ……、お見苦しい姿をお見せしてすみませんアズール……、すこし休んでいたもので」
「……そうですか、別に自室でどんな格好をしていても構いませんよ。突然来たのは僕なので」
「あ……、はい」
何を思ってかすこしうれしそうにしたジェイドに首を傾げつつ、とにかく本題を告げなくてはとアズールはスッと表情を引き締める。
「すこし話があるのですが、座っても?」
アズールが慎重にそう言うと、ジェイドの表情にもすっと緊張が走った。
ジェイドはまだ固い動きのままアズールに椅子をすすめ、自分はまたベッドに腰を落として向き合う様に座る。
そして向かい合ったところで、アズールがすぐに話し始める事もなくお互い床に目をやったまましばしの沈黙が落ちた。
「……あの、アズール。話というのは?」
沈黙に先に耐えられなくなったのはジェイドで、意を決してアズールを覗き込めばアズールもようやく床に落としていた視線を上げた。
「ジェイド、お前に話さなければならないことがあります」
ここまで改まって言うのならば相当大事なことに違いないと、ジェイドは緊張して背筋を伸ばし、アズールが「ふたつ」と続けたことで逆にふっと緊張が緩む。
「ふ…、ふたつですか?」
「はい。ひとつ目は、」
どんな話をされるのか心構えもできない内に早速話始めたアズールに、ちょっと待って下さいと言いたい様な早く聞きたい様な、複雑な気持ちでジェイドはぎゅっと唇を結んだ。
「お前の記憶を取り戻す方法が分かりました」
まさかそんな話だとは想像もしていなかったジェイドは、「えっ」と声に出して目をまん丸にした。
「……いつですか?」
「先日、ポムフィオーレに伺ってヴィルさんに話を聞いた日です」
「え……」
「間違いなくそうだと断定できるものではありませんが、ヴィルさんに伺った限りでは僕もその可能性が高いと思います」
「……すみませんアズール、話がよく読めないのですが」
記憶を取り戻す方法がわかったと言いながら、断定できるものではなく、しかしアズール自身その確立が高いと言う。
そんな不確かな情報をなぜアズールが信じたのか分からないが、自分に話しているからにはそれなりに確信があるのだろう。
しかし、その方法とは?と考えるとジェイドには想像もつかない。
「詳細は省きますが、ヴィルさんに教えて頂いた症例がお前に当てはまるとすれば、お前が記憶を失った原因は魔法薬ではなく呪いです」
ジェイドは一瞬思考が停止した。
そのワードはもちろん知っている。
おとぎ話の中だけのものではなく、現実に存在する事も。
しかし、その「呪い」が自分の身にふりかかっているという実感は全くない。
「あの……、それは一体どういう?」
「お前が戸惑うのも分かります。僕だって最初に聞いた時は耳を疑いました」
あぁ良かった。
アズールでさえそうならば僕のこの動揺も仕方ない…………というか呪いとは????
分かったようで全く分からない、突飛な展開にジェイドの頭にはひたすらクエスチョンマークが浮かぶ。
「ふ……、そうなりますよね分かります。順を追って説明しますが、元々あの薬に恋心以外の記憶まで奪う作用はありません」
「えぇ……、それなのに7年分もの記憶が抜け落ちてしまった原因が不明だったのですよね」
ジェイドは自分自身でもおさらいするように改めて口にした。
以前の僕は、アズールへの恋心を忘れるために魔法薬を飲んだ。
しかしその結果、忘れるはずのなかった7年分の記憶までごっそりと失ってしまった。
それはなぜなのか、原因が分からず記憶を取り戻す手がかりが掴めなかったのに、遂に判明したその原因が「呪い」とは?
「僕は一体いつ呪いにかけられたというのですか?それに誰がそんなことを……」
わけが分からず混乱するジェイドを、アズールは沈痛な面持ちで見つめていた。
ジェイドが困惑するのは最もだ。
アズールとて未だに信じられない。
信じたくはなかった。
ジェイドがその想いを呪いに変えてしまうほど、自分への恋を忘れ去りたいと強く望んでいたなんて。
「タイミングはお前が魔法薬を飲んだ時。それがトリガーになったのは間違いありませんが、呪いをかけたのはお前自身です」
「僕自身……?」
それを聞いてジェイドはますます困惑した。
呪いの存在を疑いはしないが、ジェイドはヴィルのように呪いに長けているわけではない。
それを専門に学んだ事もないし、誰かにかけようと試みた事もない。
まして自分自身を呪うなんて。
「……僕が自分で自分に記憶を失う呪いをかけたと言うのですか?」
「そうです。最も……、そうしようと意識してかけたのではなく、お前自身の強い意志と魔力が相乗して魔法薬に本来とは別の効果を付与してしまった、と言う方が正しいかもしれません」
「それが『呪い』だと?」
「状況からして、その可能性は高いと思います」
「……断定できるものではないというのはそういう意味だったのですね」
「えぇ。ですが、確かめる方法はあります」
「……それは?」
「呪いを解く方法を実行してみること。それでお前の記憶が戻れば、お前が記憶を失った原因が呪いだったと実証することができます」
「呪いを解く方法が分かっているのですか??」
「最初に言ったでしょう。『お前の記憶を取り戻す方法がわかった』と。この仮説が間違いでなければ、呪いを解くことと記憶を取り戻すことはイコールなんです」
そう断言しながら、アズールはどこか居心地が悪そうにジェイドから視線を外した。
「ですが……、その方法を試してみても必ず呪いが解けるとは限りません」
「……? それは、記憶を失くした原因が呪いではなかったということなのでは?」
「いえ、必ずしもそうとは限りません」
確証はないと言いながらアズールはジェイドの記憶喪失の原因が呪いだと確信しているようで、その呪いを解く方法が分かったと言いながら必ずしも解けるわけではないという。
どこかちぐはぐな印象を受けるアズールの言葉に、ジェイドはどことなくモヤモヤした気分が湧いて来る。
アズールにしてはずいぶんと歯切れが悪い。
自分から「話さなければならないことがある」とやって来た割には、結論を告げるのを先延ばしにしているような。
「アズール、分かっているならそろそろ教えて下さいませんか。その呪いを解く方法とはなんなのですか」
俯いていたアズールの視線が再びジェイドを捉え、その瞳が不安気に揺らぐ。
今のアズールにも怖いことはあるのだろうか。
ジェイドはその答えを知らない。
「真実の愛のキス」
ジェイドは、アズールがなんの話をしているのかわからなかった。
真実の愛のキス?
アズールは一体、急に何を言い出したのだろう。
「それが呪いを解く方法です。ヴィルさんが言うには、いつの時代も呪いを解くものはそれなのだとか」
「は……………、それは、つまり」
「つまり、僕とジェイドがキスをするということですね」
ジェイドの脳は急激に処理能力を低下させた。
全ての神経回路が混線して全く上手く機能しない。
論理的思考どころか瞬きも忘れ、呼吸の仕方すら忘れてその内に心臓の動かし方さえ忘れてしまうのではないかというほどの無に陥る。
「ジェイド、聞いてます?」
しかし現実にそんな事が起こるはずもなく、名前を呼ばれて引き戻されたジェイドの脳が今度は急激に冷静さを取り戻していく。
全て合点がいった。
アズールとフロイドがポムフィオーレから帰って来た時、アズールがあんなにも気落ちしていた理由はそれだったのだ。
アズールに真実の愛のキスなどできるはずもない。
だってアズールは自分を愛していないのだから、それは即ち、自分が記憶を取り戻す方法は無いと言われたも同然だ。
あぁなるほど、それならアズールの歯切れが悪かった理由も頷ける。
原因を突き止めながらそれを解決する事が永遠にできなくなってしまった。
アズールはそれを嘆いているのだ。
自分の努力でなんでも成し遂げてきた人なのに、努力ではどうしようもできない事を突きつけられてしまった。
それはきっとアズールのプライドを傷付けたに違いない。
僕の浅はかな行動が、まさか巡り巡ってこんな風にアズールを傷付けてしまうなんて。
黙り込んだジェイドが何を考え込んでいるのかアズールには大体想像ができた。
そしてジェイドがそう考えてしまう原因がアズール自身にある事も重々承知している。
だからこそアズールはなんとしてもその誤解を解いてやらねばならない。
そうして考え抜いた結果、アズールは言葉を振りしぼった。
「そういうわけでキスしてみましょうか」
ジェイドは今度こそ心臓が止まるかと思った。
しかしジェイドの心臓は止まるどころかバクバクと煩く鳴り響き、あまりにも煩いその鼓動がアズールにも聴こえてしまうのではないかと思う。
「ア…ッ、アズール……!正気ですか!?」
「えぇもちろん。試してみる価値はあるでしょう」
「そんな……っ、結果など分かりきっているではありませんか!」
「なぜ?」
「なぜ?????????」
ジェイドの混乱もここに極まれりである。
なぜなどと問う方が愚かではないか。
なぜも何もアズールは自分を愛していない。
その上恋もわからないという恋愛情緒ゼロのタコだ。
それなのにそこに「真実の愛」があるはずもなく、結果は火を見るより明らかだ。
仮に、仮にキスをしてみたところでやっぱり愛などないと改めて突きつけられるだけで、とっくにわかっていた事をそう何度も確信させられればジェイドだって傷付く。
それを事もなげに「試しにやってみますか」くらいのノリで持ちかけられてジェイドの情緒は大混乱だった。
まさかアズールとキスをするなんて。
全く想像した事もないかと言われればそうは言えないが、現実に実現するとは考えた事もない。
ジェイドは何も言えないまま口をぱくぱくさせて顔を赤くさせたり蒼白にしたり忙しい。
目の前で百面相を繰り広げるジェイドに同情しつつ、アズールは自分のことでそんなにも表情を変えるジェイドにふつふつと愛おしさがこみ上げてしまう。
「ジェイド、話さなければならないことがふたつあると言いましたよね」
「え……、えっ!?今言うのですか??余りにも非情では???」
ただでさえパニックになっていると言うのに、ここで更に重大な打ち明け話しをされてはいよいよ心臓が持ちそうにない。
それなのにアズールはそんなジェイドの心情など無視してきっぱりと言い放つ。
「えぇ今言います。今言わなければ意味がないので」
「そんな無慈悲な……」
「むしろ慈悲しかありませんからお前も覚悟を決めて下さい」
さっきまで浮かべていた憂いはどこへやったのか、アズールはもうきっぱりと決意した様な瞳でジェイドを真っ直ぐに見つめていた。
そしてそんな風に正面から見つめられてしまえば、ジェイドとてその決意を受け取らないわけにはいかない。
ジェイドは一度ごくりと唾を飲み込み、決意してアズールを見つめ返す。
「……わかりました。僕も覚悟を決めます」
まだ大混乱しているであろう頭の中をなんとか落ち着け、向き合ってくれたジェイドにアズールは感謝する。
ここまで来たらもう嘘や誤魔化しは通用しない。
いやもう誤魔化すつもりなどないのだが、いよいよジェイドにきちんと向き合う時が来たんだなとアズールも気合を入れ直す。
「驚かないで聞いてくださいね」
自分で言いながらまぁ無理だろうなと思う。
せいぜいジェイドが卒倒しなければいいが。
「ジェイド、僕は子供のころお前のことが好きだったんです」
ジェイドの反応がない。
多分理解できていないのだろうがここは畳み掛けるしかないなとアズールは言葉を続けた。
「お前が僕を好きになるよりも前の話です。それよりももっと前から僕はずっとお前に憧れていて、いつの間にか恋をしていました」
ジェイドはまだ処理落ち中だ。
これ以上言っても理解できないのでは?と思わなくもないが、質問は後から受け付けるものとしてとりあえず事実を伝えてしまう事にした。
「でもその恋が絶対に叶わないと思った僕は、祖母に頼んで魔法薬を飲んだんです」
そこまで言ってようやくジェイドがぴくりと反応する。
「魔法薬……?」
「そう。お前が飲んだのと同じ、恋心を忘れる魔法薬です」
ジェイドはしばらく固まって黙り込んでいた。
きっとブラックアウトしていた脳がやっと再起動して急速に情報処理を始めているところだろう。
アズールはジェイドが正常に機能するのを黙って待つ事にする。
しかしようやく再起動して口を開いたジェイドは正常とは言い難かった。
なにせ表情がない。
「嘘です」
「嘘ではありません」
「そんな事あり得ません」
「なぜそう言い切れるんです?」
「だってあなたが僕をすきになる訳がないじゃないですか」
「なぜ」
「なぜ?」
「僕からすればお前があり得ないと言い切る理由の方がわかりませんが」
「だってあなたは恋愛感情がわからないとおっしゃっていたではありませんか」
「それは薬が原因で忘れていただけです。むしろお前の初恋よりも前から恋を知っていましたよ」
淡々と説き伏せてやるとジェイドは困り果てたように眉を下げた。
やっとジェイドの顔に感情が浮かんだ事にアズールは安堵する。
「でも……、あり得ません」
「なぜそう思うんですか」
「あなたが好きになって下さるような要素がありません」
アズールはその言葉に心底驚いて目を丸めた。
それはもう、これ以上開くことなどできないくらい限界まで開いてもまだ足りない。
この男、これだけ優秀なくせにどれだけ自己評価が低いんだ????
「お前それ本気で言っているんですか?嫌味を通り越してもしかして天然だったんです?」
「おっしゃる意味がわかりませんが……」
「お前、自分のどこを見て好きになってもらえる要素がないと言うんです」
「では逆に聞きますがあなたは僕のどこを好きになって下さったと言うんです?」
「どこって……」
そう言われてアズールはジェイドをまじまじと見返す。
今は変身薬で人間に擬態しているとは言え、どこからどう見てもいい男じゃないか。
「だって僕はウツボですよ」
「は?」
は?だ。
それしか言うことがない。
「あなたは偉大なる海の魔女と同じ希少な蛸の人魚で、僕はただ泳ぎが速いだけのウツボです」
「それが……?」
「あなたのように美しい身体も無ければ自在に操れる八本の脚もない。あなたに追いつきたくてどれだけ努力をしようと到底追いつけません」
「待て待て待て……!お前僕が美しいなんて本気で言っているんですか?その上僕に追いつけないだなんて???」
「本気ですが何か?」
「はぁ!?じゃあお前は僕が蛸の人魚だから好きになったとでも言うのか?見た目が好みだったなんてそんな馬鹿げた事を言うんじゃないだろうな!」
「まさか。憧れの魔女と同じ種族である事はもちろん尊い事ですが、だからあなたを好きになったのではありません」
「じゃあ僕の何が好きだと言うんです」
「それは……、ひと言ではとても言い表せません。書面でよければ後日レポートにまとめ」
「結構です」とアズールの言葉がジェイドの言葉尻を遮る。
この男は本当に何を言い出すんだ。
僕の事を美しいだとか、どれだけ努力しても追いつけないだとか。
そう思っていたのは、僕の方なのに。
「……僕は、ウツボのお前が羨ましかったですよ」
「え?」
「お前は『泳ぎが速いだけ』なんて言いますけど、海の中でそれがどれだけ重要な事かお前にも分かるでしょう」
海の中は弱肉強食だ。
弱いものは食われ強いものが生き残る。
強い弱いには大きさだって需要な要素で、巨大なサメに襲われればのろまな蛸はひとたまりもない。
でも力強く泳げるヒレがあれば生存能力はぐっと高まる。
大きさでは圧倒的に不利でもスピードで勝れば生き抜く事は可能なのだ。
だからクズでノロマだったアズールが、誰よりも力強く泳ぐジェイドに惹かれたのはごく自然な事だった。
「それに、僕の方こそお前を美しいと思っていましたよ」
「え……っ」
ジェイドはそんな事思いもよらなかったという顔で絶句し、その顔がみるみる赤くなっていく。
こいつ、本当に自分の容姿が優れている自覚がないんだろうか。
「お前がその長い尾ひれで力強く泳ぐ姿を見るのが好きだったんです。誰も寄せ付けずぐんぐんスピードを上げて、フロイドとふたりで泳いでいると暗い海の中にお前たちの発光体だけが浮かび上がって本当にきれいだった」
「あの……、お言葉ですがそれならフロイドでも良かったのでは」
「まぁそうですね」
「え……っ」
「自分で言っておいてショックを受けるんじゃない」
「ですがそこは否定されるべきでは?僕の純情を弄ぶなんてひどいです」
「ふふ、まぁいいじゃないですか。フロイドでも良かったはずなのに僕が好きになったのはジェイドだけだったんですから」
そう言ってやるとジェイドは「うっ」と言葉に詰まってまた頬を染める。
こいつ面白いくらいに単純だなと若干不安になりながら、アズールは更に念押しの言葉を続けた。
「それだけじゃありませんよ。誰に対しても丁寧な言葉で落ち着いて接するお前のことを尊敬していましたし、冷静で頭の回転が早いところもずっとすごいと思っていました。だからお前は年長者にも信頼されていたし、先生たちから信用を得ているお前を見て僕は他人への接し方を学んだんです。怯えて何も言えないようじゃ舐められるのは当然ですけど、攻撃的な言葉ばかりでも信用は得られない。だから僕もお前を真似て丁寧に話すようになって、その内に僕を取り巻く環境はどんどん変わっていきました」
「……それはあなたの努力あっての事です。僕がした事じゃない」
「そうかもしれませんが、きっかけを作ってくれたのはジェイドです。これでもまだ僕が好きになる要素がないと?」
「……わかりません。あなたに好きになってもらえるとは考えたこともなかったので」
「じゃあ今考えてください。お前はあの頃のクラスメイト達より自分が劣っていたと思いますか?」
「別にそうは思いませんが、あそこですこし成績が良かったくらいのことはなんの自慢にもなりません」
「成績だけではありません。運動能力だってお前は優秀だったでしょう。それに優等生のような顔をして裏ではフロイドと散々な悪戯をしていた事も知ってますよ。とんだ悪知恵の働くクソガキでしたね」
「それは褒めていないのでは?」
「いいえ褒めていますよ。悪戯だって知恵と度胸がなくてはできませんからね。絶対にバレないように綿密な計画を練ってやり遂げる様はさすがでした」
「あなたにはバレていたようですが……」
「僕はそれだけお前達の事をよく見ていましたからね」
「それはそれは……。あなたも僕に負けじと執念深いところがあるんですね」
「おや知りませんでしたか?僕はいじめを根に持って名門校で寮長にまで上り詰めた男なのでそれはそれは執念深いですよ」
アズールの言葉にジェイドはふっと頬を緩ませて笑う。
しかしその笑みも長くは続かず、ほんの少し口角を上げたままジェイドは伏し目がちに視線を落とした。
「まだ信じられませんか?」
「……申し訳ありません。あまりに突然のことで整理がつかなくて」
今語られたことが全て本当なら、アズールが自分を好きでいてくれた事はもちろんうれしい。
うれしいけれど、アズールが言ったのは「子供の頃好きだった」という話だ。
今のアズールが自分をどう思っているのか、ジェイドはまだそれを聞かされていない。
「ジェイド」
項垂れているところに声を掛けられて、ジェイドはおずおずと顔を上げる。
「そういうわけでキスしてみましょうか」
本日二度目のお誘いである。
そして一度目と同様、ジェイドは我が耳を疑った。
「は!?どういうわけですか???」
「だから今言ったじゃないですか。僕はお前のことが好きだったんです」
「ですから、それはあくまで子どもの頃の話ですよね?『だった』というだけで今好きでないのなら意味がないと思いますが」
「それを確かめるためにもしてみようと言っているんです」
「いやいやいやちょっと待ってくださいアズール。呪いを解く条件は『真実の愛のキス』なんですよね?確かめるも何もあなたに好意がない時点で無理じゃないですか」
アズールは反論もしない。
しかし、諦めた様子もない。
「アズール……、あなたまさか、僕に好意があるのですか?」
「……わかりません」
ほんのちょっとでも期待した僕がバカだったと、ジェイドは目を逸らして小さくため息を吐く。
「無駄なことはやめましょうアズール。自覚もないのに試してみても結果は見えています」
「分からないから試すんじゃないですか」
「分からないのに試される僕の身にもなって頂けます??試してみて好意がないとわかれば傷つくのは僕なんですが」
「こ…っ、好意はあります!」
「は?あなたさっき分からないとおっしゃったじゃありませんか」
「それは……、恋愛的な意味かどうか分からないということであって……、お前のことはすきです」
「え……、あ、そうですか……」
恋愛的な意味かどうか分からないと前置きはされたものの、アズールに直接「すき」と言われてうれしくないはずもない。
まるで本当に告白でもされたかのようにソワソワとして落ち着かず、じわじわと体温が上がってくるような感覚にジェイドはつい本題を忘れそうになる。
しかし喜んでいる場合ではないとすぐに思い出してハッとする。
そうだ僕は今キスを迫られていたのだ。
「いえでも!真実の愛のキスといえばやはりそういう意味ですよね?友人としての好意ではやはり無駄かと思うのですが」
「だから……!これが友人としての好意かどうか、僕も知りたいんです」
「………自分で分からないとかあります?」
「分からないから困ってるんじゃないですか」
「困ってるんですか……?」
「困ってますよ。お前がトレイさんといると腹が立つ意味もわからないし、分からないのにモヤモヤしてしまうし、……困ることばかりです」
俯いたアズールはもごもごと不服を漏らすようにそう言うって、すこし怒っているようにも照れているようにも見えるその絶妙な表情がジェイドにはやけに可愛く見える。
そしてこれはやはり、嫉妬なのでは?という思いがジェイドの中にまたむくむくと膨れ上がる。
アズールがなぜそこまでトレイに固執しているのかは分からないが、とにかくアズールはジェイドがトレイと親しくすることが嫌で仕方ないらしい。
トレイとは同じ副寮長同士、学年は違うが交流も多い。だからといって特別に親しいということもないのに一体何がそんなに引っかかっているのだろうとジェイドは不思議に思う。
「そう言えばジェイド……、さっきトレイさんが言っていた話というのはなんのことです?」
「え?」
「ほらさっき……、その、タルトを落としてしまう前のことですけど……」
アズールはバツが悪そうにそう言って、ジェイドはようやく「あぁ」と思い出す。
「なんのことはありませんよ。トレイさんがタルトの感想を教えて欲しいと仰って」
「は?」
「ハーツラビュルの皆さんはあまり舌が肥えてらっしゃらないそうなので僕たちの感想を聞きたいと、フロイドとアズールの分も詰めて下さったんです」
「は?タルトの感想??」
「そうですが……、それがなにか」
「なにかって、あの人あんな意味ありげに……」
「意味ありげ?」
きょとんとしたジェイドの様子にアズールはハッと気付く。
ハメられた。
あの男、僕の前でわざと含みを持たせた言い方をして「いい返事を待ってるよ」だなどと。
あの言い方で誰がタルトの感想だなんて思う?
あれはあからさまに僕への挑発だったじゃないか。
その上でジェイドの頭を撫でようとするなんて………………、あぁ。
トレイの意図に気付いてアズールは死ぬほど恥ずかしくなる。
この僕ともあろう男が、まんまと彼の掌で転がされていた訳だ。
「アズール?」
「お前……、警戒心が無さすぎるとは思っていましたが少しくらい疑ってかかったらどうですか。他人を信用しすぎです。お陰で僕まで騙されて……」
「はい……?なんの話でしょうか」
「あぁもう……、トレイさんのことですよ。あの人わざと僕を試すようなことをして……!」
「あなたを試す?」
「そうですよ。いやに含みを持たせた言い方をするなとは思ったんです。しかも『いい返事を待ってる』なんて……、そんな言葉聞いたら何か僕に言えないような話でもしていたのかと思うじゃないですか」
「あなたに言えないような話とは?」
「例えば……、転寮を勧められただとか…」
「ふふっ、そんな事はありませんよあなたじゃあるまいし」
ジャミルにしきりに転寮を勧めている身としては大変耳が痛いが、アズールは本気で心配していたのだ。
それに、アズールが危惧していたのは何も転寮についてだけではない。
「……別にそれだけじゃないですよ。お前まで『いい返事ができると思います』なんて言うから、その……、もしかして告白でもされたのかと……」
転寮までは愉しそうに笑っていたジェイドも、「告白」と聞いてさすがに目を丸めた。
「アズール、あなたそんな事を考えてらしたのですか」
「考えてましたけど悪いですか」
「いえ悪いと言うか……、あなたは大変想像力が豊かでいらっしゃるんですね……」
「嫌味はいいです。だって仕方ないでしょう!お前はお菓子なんかに釣られてホイホイついて行くし、それは僕たちのラウンジよりも大事なことなのかって思うじゃないですか!それに迎えに行ってみればお前はいやにトレイさんににこにことしているし、そんなにあの人がいいのかって、ムカムカして……」
「それでタルトを台無しにしたと」
「う……っ、それは、本当に僕が悪かったです。トレイさんにはきちんと僕から謝りますので……」
その件についてはどうやら本気で反省しているようで、段々とトーンダウンして俯いてしまったアズールを見てジェイドはにまにまと笑う。
「アズール、もしかしてトレイさんにヤキモチを妬いていたんですか?」
それはもはや嫉妬とほぼ同義であるというのに、アズールはなぜかそれがすとんと腑に落ちてしまった。
「……そう、かもしれません」
そして一度認めてしまえば、その時のモヤモヤがまた蘇ってアズールは堪らない気持ちになる。
ジェイドが自分の知らないところでトレイと話している事も嫌で、ジェイドがトレイに笑顔を向けることすら腹が立った。
ジェイドがすきなのは僕のはずなのに、それなのに僕以外にそんな風に笑うなんてと、自分の中に湧いた理不尽な怒りをアズールはまだ覚えている。
そしてそれはすべて、トレイにジェイドを奪われるのではないかという焦りが招いた感情だった。
「……お前と離れるのは嫌なんです。どこにも行ってほしくない。ずっと僕のそばにいて欲しい」
まるで溢れ出す自分の感情を抑えきれなくなったかのように、苦々しく吐き出したアズールをジェイドはじっと見つめる。
目の前のこの人が恋をしていないなんて、そんなことあり得るだろうか。
だって僕の目に映るアズールは、まるでアズールを想う僕自身を見ているようだ。
アズールはその気持ちの正体が分からないと言うけれど、離れるのが嫌で、どこにも行って欲しくなくて、ずっとそばにいて欲しいというその感情の答えは、もうとっくに出ているんじゃないだろうか。
「……アズール、そんなに僕が大切ですか?」
アズールの感情を乱さないように、ジェイドは最大限優しい声でアズールに尋ねる。
そうすればアズールは、その優しさに応えるように愛おしげな視線をジェイドに返してくれた。
「当たり前でしょう。誰にも渡したくない。トレイさんにとられるなんてもってのほかです。あんな腹黒インチキメガネ」
それはご自分のことでは?という言葉を飲み込んでジェイドはふっと笑った。
そしてアズールの方へ手を伸ばし、その手を恭しく掴んで引き寄せる。
「アズール、僕に触れられるのは不快ではありませんか?」
「……まさか。もしお前が望んでくれるなら、また同じベッドで一緒に眠りたいです」
期待していた以上の答えに、ジェイドは困り果てて眉を下げてしまった。
あぁこの人はどうしてここまで来ても分からないんだろう。
アズールはこんなにも、僕を求めてくれているのに。
「そう思うのは僕にだけですか?それともフロイドも一緒がいいですか?」
「……フロイドはいても構いませんが、できれば…今度はふたりがいいです」
アズールは自分でもなぜそんな事を口走っているのかわからない。
しかし心の底から湧いてくる素直な言葉だけが、勝手に口を溢れ出る。
「アズール、もっとこちらへ」
ジェイドはベッドに座ったままアズールの手を引き、アズールは引かれるがまま椅子から立ち上がって一歩前に出る。
するとそのままもっと引き寄せられて、気づけばアズールはジェイドの足の間に挟まれるように向き合って立っていた。
そしてジェイドがアズールの腰に両腕を回せば、すこしバランスを崩したアズールが咄嗟にジェイドの肩を掴む。
「あ…、あの、ジェイド、」
「なんですかアズール」
「なんですかって……、近いんですが……」
「だってキスをするんでしょう?離れていてはできませんよ」
「で…っ、でもお前さっきはしたくないって…!」
「したくないとは一言も言っておりません。むしろしたいです」
「は…っ、はぁ!?」
「ふふ、あなたこそどうなさったんですか?さっきまでやる気満々だったのに、さては怖気付きました?」
「ま、まさかそんなことはありません!ありませんけど……」
ジェイドの両腕にがっちりと捕らえられたまま、アズールはあたふたとして目を泳がせていた。
とにかくジェイドの顔が近くて目のやり場に困る。
いつもは見上げるほど高い位置にあるその顔が、今は下からじっと自分を見上げているのもまたたまらない。
そんな風にジェイドが痛いほど見つめてくるから、アズールはどんどん顔が火照って熱くなってしまう。
それと一緒に心臓の鼓動も跳ね上がって、ここへ来た時とは完全に形成逆転してしまった事にアズールは更に動揺する。
あれ?
どうしてこんなことになったんだっけ?
なんで僕はジェイドに腰を抱かれて見つめあっているんだ??
「アズール」
現状に頭が追いつかず、ドギマギしているとまたその声に名前を呼ばれる。
低くて甘い、落ち着いたその声で名前を呼ばれるのがアズールは好きだった。
これからも何度だって呼んで欲しい。
飽きる事なくずっと、繰り返し繰り返しいつまでも。
「ジェイド……、本当にいいんですか?」
「えぇもちろん。覚悟は決めました」
ジェイドの左手はしっかりとアズールの腰を支えたまま、右手がアズールの頬に優しく触れた。
そしてそこに垂れるやわらかな髪を指先で弄んで、それからまた頬を軽く撫でる。
こそばゆいような心地いいような、ジェイドに触れられるたび感じるその不思議な感覚にアズールは思わず笑みを漏らした。
もう迷うことは何もない。
アズールはジェイドの肩を掴んだまますこし屈み、ジェイドは下から見上げる様にしてそれを受け入れる。
アズールとジェイドの距離は少しずつ近付いて、お互いに触れた手に無意識に力がこもる。
さっきまで余裕を見せて笑っていたジェイドの手が少し震えて、その震えは逆にアズールに勇気をくれた。
ジェイドだって本当は怖い。
でもどんな結果になっても、僕はそれを受け入れる。
それはジェイドも同じ気持ちだった。
どんな結果になっても、自分の居場所は変わらない。
ふたりは最後の最後の距離を失って、ついにひとつに重なった。
暗い海の中にいた。
でもそこにいるのは今の僕じゃない。
もっと幼い頃、まだぶくぶくと太っていてクズでのろまだった、あの頃の僕。
でもこの僕は「もう」恋を知らない。
ジェイドにはじめての恋をして、傷付いて、恋を忘れた僕だ。
これはそう、ジェイドがやたらと僕に興味を持ち始めた頃。
呼んでもないのに毎日のようにやって来ては僕の蛸壺を覗き、好き勝手に居座って気が済むと帰っていく。
最初はうっとおしくて仕方なかったジェイドが今日は来ない。
蛸壺の外でなにか音がするたびに僕は耳を澄まし、ピクリと反応しては勘違いに落胆する。
いや落胆なんかしていない、来ない方が勉強に集中できていいと僕は気にしていないフリをする。
でもやっぱり気になって、僕は蛸壺の外にすこしだけ顔を出した。
辺りは静まり返っていて誰もいない。
当たり前だ、ここは僕が見つけたいっとうお気に入りの隠れ家なんだから。
それなのにいつの間にかジェイドが勝手に入り込んで我が物顔で入り浸って。
全く迷惑だったら仕方ない。
迷惑だから、文句を言ってやらなくちゃならない。
僕は蛸壺を出て泳ぎ出す。
ジェイドを探して誰もいない海を。
だけど僕に早く泳げるヒレはない。
代わりに八本の脚を懸命に動かし、ゆっくりゆっくりと珊瑚の海を揺蕩うように泳ぐ。
タコの僕が超スピードで泳ぐウツボを見つけようなんて百年はかかりそうだ。
だけど僕は諦めず、根気よくあちこちを見て回る。
でもやっぱりジェイドはどこにもおらず、代わりにフロイドを見つけた。
今よりもずっと小さい。
多分ジェイドよりもすこし小さかった頃のフロイドだ。
僕はフロイドに聞く。ジェイドはどこにいるのだと。
でも声は聞こえない。
フロイドにも僕の声は聞こえていないらしく、フロイドの声も僕には聞こえない。
それなのにフロイドはある方向を指差して笑った。
何か言っているようだけど何を言っているのかは分からない。
でも僕はフロイドの指差した方へ向かってまた泳ぎ、大きな岩場を見つけた。
そしてそこを覗き込んでみれば、おおきな岩と岩の間に器用に入り込む様にしてジェイドが巻きついて眠っていた。
上の方からは完全に死角になっていて、フロイドが教えてくれなかったらきっと見つけられなかっただろうと思う。
その姿が見えたところで僕はジェイドと呼んだ。
でもやっぱり声は届かず、僕はもっと近くまで泳いで行ってもう一度名前を呼ぶ。
それでもジェイドには聴こえていないようで、ぐっすりと眠っているジェイドが瞼を開くこともない。
僕は必死になってジェイドの腕を引いた。
グズでのろまな僕も腕力にだけは自信がある。
ジェイドが巻き付いた岩から引き剥がすようにぐいぐいと引き、上半身がふわりと浮いてようやくジェイドが目を覚ます。
ジェイドは心地よい眠りを妨害されたことに怒っている様子はなく、ただ驚いたように目をぱちくりとさせた。
それもそうだろう。
このジェイドは、僕との時間をすっかり忘れてしまったジェイドだ。
ジェイドはどうしてすこし話したことがある程度の僕が自分を無理矢理起こすような事をしたのか、まるで分かっていないようすで不思議そうに僕を見る。
そして何か言ったけど、それもやっぱり僕にはわからない。
僕はもう一度「ジェイド」と呼ぶけど、ジェイドはやっぱり不思議そうに首を傾げるだけで返事をしない。
あぁもう二度と、僕の声はジェイドに届かないんだろうか。
僕が呼んでも返事もしてくれないなんて、ジェイドが僕を呼んでくれないなんて、そんなのは絶対に嫌だ。
僕は何度も何度もその名を呼んだ。
ジェイド、お願いだから返事をして。
その声で僕を呼んで。
僕のことを思い出して、僕のところに帰ってきてジェイド。
そう心から懇願する僕は、いつの間にか今の僕に戻っていた。
目の前でぽかんと目を見開く稚魚のジェイドよりずっと大きい。
そして僕は稚魚の頃よりももっともっと力強くなった腕でジェイドを岩場から引っ張り上げる。
両手でジェイドの腕を引き、八本の脚をジェイドの尾びれに絡ませて逃げられないように引きずり出す。
そしてそのまま上へ上へと泳いでいく。
ジェイドとフロイドが僕を狭い蛸壺から広い海へと連れ出してくれたように、今度は僕が、ジェイドを記憶の海の底から連れ出す番だ。
ジェイドに何本かの脚を絡めたまま、残りの脚を不恰好に動かして僕は懸命に泳ぐ。
その姿がどう見られるかだなんてどうでも良かった。
僕はただ、ジェイドを連れて帰らなくては。
出口がどこかも分からない海をひたすら上へと向かって必死に泳いでいると、僕の後ろで音がした。
音というか、それは声だ。
「アズール」と、僕を呼ぶ声。
僕は泳ぐ脚を止めないまま振り向く。
するとさっきまで稚魚だったジェイドが、すこし大人びた顔立ちになっている様に見えた。
「アズール、迎えに来て下さったんですね」
ジェイドは僕の脚をするりと抜けて自分の力で泳ぎ、僕の正面まで来てにっこりと笑う。
そうして笑ったジェイドは、僕の知っている、17歳のジェイドだった。
アズールが目を開けると、そこは暗い海の底ではなかった。
海の中は海の中でも、オクタヴィネル寮のジェイドの部屋だ。
そしてほとんど唇が重なり合うほどの距離にジェイドがいる。
アズールは状況を思い出してパッと顔を赤らめ少し顔を離して、それでもまだ間近にあるジェイドの顔をじっと覗き込む。
たった今キスをしていたのだと思うと死ぬほど恥ずかしいが、今はそれよりも、確かめなければならない事がある。
「ジェイド……」
アズールはおそるおそる呼んでみる。
僕の声は、聴こえているだろうか。
するとジェイドが「はい」と微笑んで、まずはきちんと声が届いた事に安堵する。
そして今度こそ、いちばん大切なことを確認しなければならない。
アズールは目の前にあるジェイドの顔にペタペタと触れ、それが本物であることを確かめながらもう一度、今度はしっかりと名前を呼んだ。
「ジェイド」
「はいアズール」
ジェイドは力強く、そしてアズールの大好きな声でその名を呼び返してくれた。
「僕のジェイドですか?」
アズールはジェイドの頬を両側から包み込むようにおさえ、身動きを取れなくされてしまったジェイドはふっと笑う。
「えぇ、あなたのジェイドです」
「ジェイド……!」
アズールは力いっぱいジェイドを抱きしめた。
蛸の姿の時ほどではないにしろ、その華奢な体のどこにそんな力があるのかと思うほどアズールの腕力は強い。
ジェイドは一度「ぐえっ」と押しつぶされたような呻きを漏らしながら、自身も同じようにアズールを強く抱き返した。
「良かったジェイド……!」
「えぇ、遅くなって申し訳ありません」
ジェイドはアズールを抱きしめたまま、あやすようにその背中を優しく撫でる。
まさかこの腕にもう一度アズールを抱ける日が来るとは思ってもいなかった。
アズールが自分の気持ちを受け入れてくれる事など絶対にないと思っていたのに、今その腕の中に間違いなくある幸福をジェイドは改めて噛み締める。
ひとしきりその幸福を満喫したところで、すこし体を離して見つめ合えば、アズールは不思議な変化にハッとする。
まじまじと見れば見るほど、ジェイドが格好良く見えるのだ。
「ジェイド……?お前こんなに男前でしたっけ?」
「ふふ…っ、僕はずっと変わっていないと思いますが」
「えぇ本当ですか…?なんだかすごく格好良く見えるんですが……」
「おやおや、もしかしてアズール、僕に恋しちゃいました?」
「恋……」
うれしそうに目元を緩ませ、それはそれは愛おしげに自分を見つめるジェイドを見ていると、アズールの鼓動があり得ないほどに早鐘を打つ。
端的に言えば、ものすごくドキドキする。
とっくに見慣れていたはずのジェイドの顔を見るだけで鼓動が高鳴って、いつもの二割……いや五割増は男前に見える。
これは目の錯覚か?
いや心理的作用によるものか。
恋は盲目だと言うし、良くないものも良く見えて、良いものはもっともっとよく見えるということなのか。
今までずっとこの気持ちの正体がわからなかったけれど、こうなってしまえば何もかもがすとんと腑に落ちた。
これはどう考えても僕はジェイドに
「恋…しちゃいました………」
モストロラウンジが閉店して店内清掃も終わり、一般のスタッフ達を帰した後でフロイドはひとりVIPルームで締め作業をしていた。
あとは売上の最終確認をして金庫に仕舞い、帳簿を付けて施錠すれば今日の仕事は終わりだ。
結局アズールは戻ってこなかったけど、またケンカしてこじらせてんじゃねぇだろうなとフロイドがぼんやり考えていた時、VIPルームのドアが開いた。
「ご苦労様ですフロイド。遅くなってすみません」
「あ、おかえりアズール」
どうだった?と聞こうとして、フロイドはアズールの後ろから入ってきたジェイドに気付いて口をつぐんだ。
「お待たせしましたフロイド」
アズールが意味あり気に言って、スッとジェイドの前を空ける。
そして姿を現したジェイドを見て、フロイドは立ち上がった。
数え途中だったマドル札がバラバラと床に落ちた。
アズールは「あぁ」と一瞬嘆いたけれど、大股に向かってくるフロイドを見た時にはもうその顔は笑っていた。
「おかえりジェイド」
最後はひとっ飛びに距離を詰めたフロイドがジェイドに勢いよく飛びつく。
反動で倒れそうになったのをなんとか堪え、ジェイドはその体をしっかりと抱き返した。
「ただいまフロイド」
ジェイドが記憶を取り戻した日、あの後三人はVIPルームで一緒にトレイのタルトを食べた。
ひしゃげた箱の中でぐちゃぐちゃになってしまったそれを見た瞬間フロイドは「ウワッ」と言ったし、アズールは「この時間に甘いものはちょっと……」なんて言っていたけれど、「アズールのせいでこんな変わり果てた姿になってしまったというのに……しくしく」とジェイドが白々しい泣きまねをするとすぐに観念した。
「では僕がお茶を淹れますね」とジェイドが言って、「じゃあ僕はフォークを持ってきます」と言ったアズールが持ってきたのは本当にフォーク三本だけだった。
普段は料理には見た目も大事だとか盛り付けの皿がどうだとかマナーがなんだとかうるさいアズールも、どうせもう崩れてしまっているんだから突っついて食べればいいじゃないですか洗い物も減るし、という事らしい。
他人と同じ皿を(今日は皿ですらないが)つつき合うなんて自分達以外なら絶対しないくせにと双子がニヤニヤしている事など放って、アズールはぐちゃぐちゃのタルトにきちんと「いただきます」をした。
双子もそれにならって「いただきます」と口をそろえ、三人で箱の中のぐちゃぐちゃにフォークを突き刺す。
そして同時に口に運んで第一声、「「うっま…!」」とアズールとフロイドの声がシンクロした。
「ふ…っ、んふふ……っ」
「何笑ってんのジェイド」
「いえ、ハーツラビュルの皆さんの気持ちが分かるなと思いまして。これは確かに『おいしい』しか言えなくなってしまいますね」
「いやだって本当においしいですよこれ!プロ並み…いや下手なプロよりよっぽど美味しいです!どうにかしてこれを商品化できませんかね……、あぁ完全な状態で食べられなかったのが本当に惜しい!」
「こうなったのはあなたのせいですけどね」
「う……っ、それは分かってますけど!そうだ、お詫びに行くついでにトレイさんのケーキをうちで販売させてもらえるよう打診してみましょう!トレイさんが育てているフルーツもついでに卸してもらう契約にすればコストも……」
頭の中でまた新たな計画を練り始めたアズールの横顔にジェイドは思わず頬を緩めた。
「あなた本当に懲りないですねぇ」
「なんとでも言いなさい。僕はただでは起きませんよ、揶揄われたままではシャクですし」
「ふふ、それでこそアズールです」
アズールはタルトの二口目を口に運んでああだこうだとブツブツ言って、それからジェイドの淹れた紅茶に手を伸ばす。
そしてひとくち含んで飲み込み、アズールは「あ」と気付く。
「……やっぱりお前の淹れた紅茶が一番美味しいです」
記憶を失くしたジェイドが一生懸命練習して淹れてくれた紅茶も美味しかったけれど、やっぱり僕はこの味が一番すきだなとふっとジェイドの方を見る。
するとジェイドも嬉しそうにアズールを見つめ返し、ふたりの間だけほわほわした空気が漂う。
「見つめ合っちゃってやらし〜」
フロイドが茶化すように言って隣に座っていたジェイドににじり寄り、その肩に顔を乗せてジェイドを覗き込む。
「ねージェイド、アズールとちゅーしたんでしょ?ファーストキスどうだった?」
「ふふ、それはそれは刺激的でしたよ。アズールがなかなか積極的で」
「ちょ…っ、おまえたち!」
「いいじゃん教えてよ。オレまだしたことないし〜、感想ききたぁい」
「え……、お前兄弟のそんな話本当に聞きたいですか?ちょっと引きました」
「なんかそう言われると聞きたくねー気ぃしてきたからもういいや」
フロイドは一瞬で興味を失った様子でスンとしてジェイドから離れ、タルトをもぐもぐと口に運んでから「あ」と思い出したように声を上げた。
「ジェイドの記憶も無事に戻ったことだし、ベタちゃん先輩への対価早く用意しないとね」
「あぁそうですね。ヴィルさんには大変お世話になりましたから、今回も絶対に品質を落とすわけにはいきません」
「品質……?」
その場にいなかったジェイドは「対価」がなんなのかは知らない。
だがしかし、「今回も」と「品質」という言葉を聞いて、更にアズールとフロイドがニヤリとこちらを見ていることに嫌な予感しかしない。
「あ、あの、次があればコインで決めるという約束では……?」
「あぁ?しらねぇなぁ。そんな契約したっけアズール」
「いえ、僕も記憶にありませんね。元はと言えば今回のことはジェイドが魔法薬を飲んだことに原因があるわけですから、本人に落とし前を付けてもらうのが筋でしょう」
「そうそう、ウチのモットー忘れたわけじゃねぇよなジェイド」
「ひぇ……」
美味しいタルトの余韻はどこへやら、前回の恨みを決して忘れていないフロイドに容赦なく尾ひれを絞り上げられる想像しただけで、ジェイドはゾッと背筋を凍らせ顔面を蒼白にした。
「全く酷い目にあいました……」
週末にこってりと絞り上げられ、歩くことも出来ず土日を丸々部屋で過ごした後、やっと歩けるまでに回復したジェイドは嫌味を言うことにいとまがない。
定例の寮長会議に向かう為アズールとふたりで廊下を歩きながら、ジェイドの口はひっきりなしに動いている。
「せっかく記憶を取り戻したというのに趣味の散策に出向くこともできずラウンジに出てあなたのお役に立つことも出来ず本当に散々でした。バスルームに向かうことすら大ごとでしたからフロイドがシフトでいない時は死ぬかと思いました……。痛みのせいでテラリウムにも集中できず楽しみといえばフロイドが作ってくれたごはんを食べることしかありませんでしたしあんな思いはもう二度とごめんですね」
「はいはい大変でしたね。だから僕がわざわざ新しい痛み止めを調合してやったでしょう」
「はい。あの薬はよく効いてとても助かりました。さすがアズールです。これで次回あなたが担当される番も安心ですね!!」
圧が強い。
ジェイドをぎっちりがっちりと絞り上げた後、これを二か月に一度提供しますと言った時のジェイドのゴネは凄まじかった。
結果、次回はアズールが絞られ役を担当するという契約までかわされてしまったわけだ。
「全くあなたともあろう方が詰めが甘すぎませんか?フロイドがゴネていなかったら毎月アレをやらされていたかと思うとゾッとします。二か月に一度でも十分拷問ですがせめてもう一月くらいどうにかならなかったのですか?それ以前にもっと別の対価を提示していてくだされば……」
「あーもううるさいな……!仕方ないでしょうお前のためだったんですから」
痺れを切らしてアズールがそう言えば、ジェイドはしおらしくなるどころかニンマリといやらしく笑う。
「なるほど、『僕のために』アズールは仕方なく決断なさって下さったわけですね。ふふふ、それはそれは……、深い慈悲とお心遣い痛み入ります」
「お前すこし黙っていられないんです?」
「真実の愛のキス」とやらを成功させて(?)無事記憶を取り戻したかと思えばジェイドは相変わらずこの調子だ。
こいつ記憶がない方がよっぽど素直で可愛げがあったなとアズールが深いため息を吐いていると、誰もいなかったはずの廊下で眼前に急に逆さまの人影が現れる。
「ひ……っ!」
この学園には様々な種族がいるとは言え、そんな登場の仕方をする者は一人しかいない。
それは重々分かっているのに、アズールはその姿を見るたび毎回律儀に驚いてしまう。
「リリアさん……!その登場はやめて下さいと何度も…!」
「すまんすまん、会議室に向かっておったらちょうどお主らが見えてな」
「ふふ、こんにちはリリアさん」
「うむ、『久しぶり』じゃなジェイド」
くるりと床に降り立ってジェイドを見たリリアはニヤリと目を細め、それと反対にジェイドは驚いて目を開く。
そしてリリアはジェイドとアズールを順繰りにまじまじと見つめ「くふふ」と笑った。
「お主らようやく呪いが解けたようじゃの」
「え……っ、リリアさんご存知だったんですか!?」
「もちろんじゃ。ワシの目を侮るでないぞ」
純粋に驚いているアズールの前でえっへん!とふんぞり返るリリアに、ジェイドは「それはお恥ずかしい」といつもの胡散臭い笑みを浮かべ、それよりもとリリアを見下ろす。
「リリアさん、お主『ら』と言うのは」
ジェイドがそう言って初めてアズールはきょとんと目を丸め、そんなアズールの様子にリリアは至極愉快そうに笑う。
「なんじゃ気付いておらなんだか。呪いにかかっておったのはジェイドだけではないぞ。アズール、お主はもうずいぶん長い間呪われておったのだぞ」
「はっ!?僕がですか??」
考えてもみなかった言葉にアズールは我が耳を疑った。
呪いによる悪影響を受けていた自覚もないし、自分が呪われているだなんて思ったこともない。
そんなまさか自分が呪いにかかっていたなんて、一体いつから、なんの呪いがかけられていたというのだ。
「うむ。入学式でお主をはじめて見た時はずいぶん難儀な呪いにかかっとる若者じゃなと思っておったが……、なるほどなるほど」
アズールは何がなんだかわけが分からないと言うのに、全てを知っているリリアだけは終始ニコニコと満足気だ。
「リリアさん、僕は一体なんの呪いにかかっていたと言うんですか」
「くふふ、どれご祝儀代わりに教えてやろうかの」
リリアはスッとジェイドの方を見上げて、その顔をじっと見つめて口を開いた。
「ジェイドにかかっていたのが『自分の恋に関する記憶』を失う呪いだとすれば」
リリアはそう言って、今度はアズールをじっと見る。
「アズール、お主にかかっていたのは『恋』そのものを忘れる呪いじゃ。お主は恋する気持ちを忘れ、二度と恋をしないという呪いにかかっておった」
「え……っ」
「ほんに難儀なことよのう……。それだけ苦しい恋を経験してしまったのかもしれんが、うら若き若者が恋を忘れるとはなんとも哀れなことよ……」
リリアは目をつぶってうんうんと頷きながらしみじみそう言っていたかと思うと、またアズールとジェイドを交互に見てニンマリと笑う。
「しかしそれがふたり同時に解けたということは……くふふ、青春じゃのう」
そう言ってリリアはまたくるりと逆さまになり、次の瞬間には窓の外でふよふよと浮いていた。
「若い二人の邪魔をしては悪いでな、ワシは先に行っておるぞ」
「もうケンカするでないぞー」と言い残してリリアの姿がパッと消えた後、放心状態で呆然と立ち尽くすアズールの横でジェイドが堪えきれず笑い出す。
「ふ…っ、…んふふっ」
「……何がおかしいんですかジェイド」
「いえ……、まさかあなたまでご自分に呪いをかけていたとは。んふふ…っ、どおりで恋愛情緒が稚魚だったわけですね」
「元はと言えばお前が原因でしょう!」
記憶を取り戻したジェイドに、アズールが魔法薬を飲むきっかけになった会話のことを覚えているかと尋ねてみれば、ジェイドはあっさりと「覚えています」と答えた。
しかもジェイドがアズールに好意を持ち始めたのはそのすぐ後のことで、ジェイドはずっとその時の会話を後悔していたらしく、それを聞いたフロイドが「お前らどんだけタイミング悪いの」と呆れ返ったのも無理はない。
「えぇ本当に申し訳ありません。いたいけなあなたの恋心を深く傷つけてしまったことは悔やんでも悔やみきれません。しくしく」
「はぁ〜……またお前はそうやって」
そうしてアズールがうんざりした顔をするのを、ジェイドはにこにことうれしそうに眺める。
「それにしても、失恋して魔法薬を飲んだ挙句自分自身に呪いをかけてしまうなんて僕たち本当に似たもの同士ですね」
「同族嫌悪に陥りそうです」
「ふふ、そんなつれない事をおっしゃらないで。そんなに悪いことばかりではなかったでしょう?」
そうか?とアズールが不服そうに隣のジェイドを見上げれば、ジェイドは不満気なアズールの瞳を見つめて頬を緩める。
「そのおかげであなたの深い愛情を知ることができました」
「……お互い様ですね」
「えぇ本当に。……ずいぶん遠回りしてしまいましたが、僕らには必要なことだったのかもしれませんね」
この長い長いすれ違いがなければ、お互いの想いはこんなにも深いものになっていなかったかもしれない。
もしももっと早い段階で両思いだと気付いていたら、逆に今日に至る前に恋が終わっていた可能性もある。
可能性は可能性でしかなく実際にどうなっていかは分からないけれど、今確かなのは、ふたりが想い合って隣にいるということだ。
ジェイドが不意に立ち止まり、どしたのだろうとアズールが顔を上げると、スッと体を折って覗き込むようにしたジェイドがアズールに唇を重ねた。
ジェイドは悪戯に成功した子供のような顔をしてすぐに離れたけれど、不意打ちを食らったアズールは顔を真っ赤にして心臓をバクバクさせていた。
「こ…っ、こら!校舎でなんて事するんだお前は!調子に乗るんじゃない!!」
「ふふふ、大丈夫。誰も見ていませんよ」
「見られてなきゃいいって事でもないでしょう全く……!」
アズールは照れ隠しをする様にわざと大袈裟に怒って見せて、しかし「お嫌でした?」と眉を下げ、ちょこんと首を傾げたジェイドに秒で絆されてしまう。
「嫌……ではないですけど」
「それは良かった」
パッと表情を変えてにっこり笑うジェイドの顔がなんとも憎らしい。
憎らしいけれど、同じくらい愛おしくてアズールはつられて笑ってしまう。
しかしやられっぱなしは性に合わない。
やられたやり返すのがアズールだ。
「嫌ではないですが、足りなかったのでもう一度」
アズールはジェイドのネクタイをぐいと引き寄せて強引に唇を奪う。
そして一瞬と呼ぶには長い時間ゆっくりと合わせ、離れる間際ぺろりとひと舐めしてやれば、耳まで真っ赤に染めたジェイドにアズールは満足して笑った。