情あれ君「そう何度も聞かないで頂戴!あんな汚らわしいもの、思い出したくもありませんのよ。
視界に入れたことすら後悔しておりますのに」
ヒステリックに叫ぶ女性の声の甲高さに、取調室の壁はヒビが入るかと思われた。
事件現場付近で怪しい人物を見た証人として呼び出され、容疑者と同一人物か
確認を頼んでいるところである。
場所は貧民街にほど近い路地。この女性の身分であれば滅多に近づくこともない
治安のよくないエリアである。なにかしらの事情があり通った際、目の前に
浮浪者のような身なりの男が現れ走り去ったという。
しかし何度訪ねても詳しくは見ていないと繰り返すばかりで確証は得られず
お引き取り願うこととなった。
すっかり疲れた顔をしている担当刑事を、部屋の隅にいる検事二人が眺めていた。
バンジークスとその従者である。
本件を担当している二人は、今ある証拠の再確認をしておりこの証言も
そのひとつだった。結果は芳しくなかったが。
「あの様子では信ぴょう性が疑わしい。他に目撃者か証拠を探さなくては」
バンジークスが取調室を出て、これからのことを思案しているとふと視線を感じた。
共に部屋を出て傍に控えていた従者が、主の様子をじっと伺っている。
「どうした」
従者へと体を向きなおし、やや首を傾げて見つめ返す。仮面の奥、陰りの向こうにありながら
瞳は強い輝きを放ってバンジークスを射抜く。
「貴方の瞳に、私は映るのですね」
従者は職務外の会話を制されている。その中の発言ですら短い返事や単語が多い。
今のような仕事に関係がなさそうで、しかも文となっている言葉はずいぶん珍しい。
「どういう意味だ」
聞き返されて初めて、声に出していたことに気がついたらしい。
仮面越しでも伝わるほどの狼狽で、ひたすら無言で首を横に振る。
バンジークスとしては会話の制約はもどかしいばかりで、もう少し話を聞いてやりたいという
気持ちがなくもないが今は時間が惜しかった。話を切り上げて執務室へと急ぐ。
後ろを着いていく従者が、その黒衣の下でそっと左胸に手を当てていたことなど知る由もない。
-完-