ブルガリない!ない!ない!!
聡実は焦っていた。
大学の先輩から格安で譲り受けたキィキィと軋む音を奏でる赤い自転車。
その鍵が見つからない。
古いけれど、なんとなくハンドルが歪んでいる気がするけれど、譲る前にラッカーが残っていたからと、飼ってもいない犬の犬小屋を制作した先輩が塗り直してくれた赤い車体のママチャリを、聡実は気に入っていた。
近場での買い物にも、歩けない距離ではないけれど、乗っていけば格段に楽になるバイト先の道程にも便利な、キィと鳴く愛車。
その鍵が、見つからない。
玄関横の冷蔵庫の上。そこが定位置。
靴を脱ぐのと同時にいつのも場所へ置いたはずなのに、出掛ける直前に、手を伸ばしてもシルバーのキーリングが付いた鍵はそこになかった。
え?なんで?
隙間に落ちたのかと、スマホのライトで冷蔵庫と壁の間を照らせど見当たらない。滑り込んだのかと冷蔵庫の、下も。
昨日来てた服のポケット!といっても、上はTシャツ、下は今も履いているデニム。
そのポケットを探っても叩いても、ビスケットのように増えも見つかりもしない。
背負ったバックパックの中身をぶち撒けても、そこには財布と数冊の本と丸まったレシート。
高速回転で家に帰ってからの自分の行動を思い出せど、鍵をどうしたのかは記憶は残っていなかった。
出掛ける時間はとっくに過ぎている。
仕方なく、床の荷物を乱暴にバックに放り込んで、駅へと急ぎ飛び出した。
「岡、何か今日元気なくね?」
半額の焼きそばパンの端っこを齧る聡実へ、隣から丸山が覗き込むように声をかける。
「や、別に…」
メロンパンより腹に溜まる焼きそばパンは当たりなのに、食が進まない。
「やっぱ週5はヤバいだろー」
疲れてんの?
「ホンマ、何も…。ちょっとチャリの鍵が見つからへんだけ」
「チャリの鍵?スペアキーないの?」
「あぁ、うん…スペアキー、うん。あるよ」
自転車は確かに気に入っている。し、乗れないのは困る。
けれど、鍵は丸山の言った通り、スペアキーが引き出しに仕舞ってあるのだからそれを使えばいいだけだ。
そう。だから鍵が、ではなくて…
授業を終えて、バイトまでの隙間時間。急ぎ戻った部屋で、慌てていたから見つからなかっただけかもしれないと、今朝見た場所をもう一度順番に探る。
冷蔵庫と壁の隙間。
『聡実くんの愛車、かっこええな!』
冷蔵庫の下。
『ほな、これ。鍵につけといて』
鞄の中。
『俺からの御守代わりに』
自転車の鍵よりも大きな、銀色のリング。
はぁ…あらへん…
座り込んだ台所の床。
無くしたと言っても、絶対に怒ったりなんてしない。
『今度はでかい音鳴る鈴がついたんにしよか!』
何でもないように、新しいキーホルダーを渡してくるのだ、あの男は。
ありがとう、と言って受け取った。
未だに素直になれないでいて、大袈裟に喜んだりは出来なかったけれど、嬉しかった。
本当は、自転車の鍵になんて付けず、綺麗に残しておきたい気持ちもあった。
でも、受け取ってそのまま直ぐに自転車のちいなさ鍵に付ければ、嬉しそうに目を細めて笑ったから。
アパートまで乗って帰って来たし、余所で落としたんはない。から、階段の下とか部屋の前で落としてしもて、誰か拾ったんやろか…。
力が抜け、ずるずると台所の床へ身体を投出した。
見上げた合板の天井が、じわりと滲んだ。
一応、警察に届け出しとこかな…
と、身体を起こすために体勢を変えた目線の先に、クリーム色のゴミ箱。
昨日!!
勢いよく起き上がった聡実は、ゴミ箱の蓋を跳ね除けて躊躇なくその中へ手を差し込んだ。
昨日、買ってきたものを冷蔵庫にしまった後のレジ袋を、丸めてゴミ箱へ捨てた。
課題のことを考えながらだった。
比較的上の方に重なっていたレジ袋をサルベージして千切る勢いで広げてみれば、そこに、銀色の輪が紛れていた。
あっ…た……
先ほどとは違う意味で、身体から力が抜ける。
それでも手のひらに乗る銀色の輪だけは、確かにぎゅうと握り締めて胸の内へ抱き込んだ。
よかったぁ……あった…
ホンマ、もう…あほか僕は
しばらくの放心の後、聡実の口から安堵と自虐が入り混じった笑いが漏れる。
あぁ、洗わな。
握り込んでいたキーリングを丁寧に水で洗い、キッチンペーパーで丁寧に水分を拭き取った。
それから、少しの躊躇を挟んで鍵をリングから外した。
外した鍵は定位置の冷蔵庫の上へ。間違いなく。
バイトまで、まだ時間の余裕はある。
いつものように仮眠を取るため、聡実は敷きっぱなしの布団へとに横たわった。
人差し指と親指の間に挟んだリングをカーテン越しの窓に向ければ、柔らかな光を帯びる。
光を纏わせたまま、左の薬指へ、到底指輪のサイズではないぶかぶかすぎるリングを通して、もうずっと顔を見ていない男に、夢の中ででも逢えれば…
そう思いながら、聡実は目を閉じた。
了