冬の夜外套から伸びた腕が厚い革手袋を外して頭巾を後ろに払うと、流れる黒髪に濃茶色の瞳が現れて、近くの卓にいた客が揃って振り向く。
ぴゅう、と下世話に飛んだ口笛はしかし、その後ろから現れた体躯の良い銀髪の剣士が目をすがめて中を見遣る視線に尻すぼみに引っ込められた。実際は灯りが眩しいのに目を細めていただけではあったのだが。
「雪を落とせ。マントが濡れる」
さらに後ろから声がして、たたずむ剣士の肩に薄く載った雪が乱暴に叩いて払い落とされる。
ああ、と返されたその人影は、自分は雪の気配のない外套を目深に被ったままだった。
「三人、お願いします」
よく通る涼やかな声の持ち主の額には、翠の石を抱く賢者の冠が嵌められていた。
***
広いホールになった酒場をぐるりと見渡すと、人々――ちらほらと人ではないものも――がそこかしこで賑やかに夕餉をとり酒を酌み交わしている。外のちらつく雪の気配は、中央であかあかと燃える暖炉の炎と厨房から上がる湯気、それに何よりも賑やかな人々の熱気で微塵も感じられなかった。
あちこちの卓の間を忙しく立ち回る店員の一人を捕まえて何品かと麦酒を注文し、エイミは店の中をぐるりと見渡した。
「北国の方が建物の中は暖かいって、本当なのね」
頑丈な煉瓦造りの壁に設られた窓は小さく、よく見れば二重窓になっている。その分天井近くには硝子の採光窓が多く嵌められていて、少ない太陽光を少しでも活かすためのつくりなのだろうか。
外から見た街の様子は日も暮れていたせいか冷え冷えとしていたが、明るく暖かい室内との印象の違いに驚くエイミにヒュンケルが言う。
「南のような設備ではとても冬が越せないのだろうな」
長い距離を歩いてきたので末端まで冷え切っているということはないが、それでも雪の舞う外気に晒された身に暖かさは嬉しい。エイミは重たい外套から解放された腕をぐうと伸ばして微笑む。
ラーハルトはそもそも普通の人間ほど寒さを感じないらしく、被ったままの外套の裾を捌いて「むしろ暑い」とぼやいていた。
「おまちどおさま!」
慣れているのか、外套を脱ぐ様子のない客にも特に怖気付く様子も見せず、店の若い男が中身が溢れる勢いでどんと麦酒の杯を置いていく。
置かれた三つの杯の中には、浮かんだ白い泡の下に黄金色が光っていた。
「じゃあ、乾杯」
「「――乾杯」」
重ねた声と軽く打ち合わされた杯の音に目を細めるヒュンケルに、エイミがにこりと笑って、ラーハルトは唇を引き結んだまま器用に片眉だけを持ち上げた。
「……おい、勢いで飲むな。知らんぞ」
「馬鹿にしないでくれる?適量は弁えてます」
流れるように麦酒を傾けるエイミを見て、ラーハルトが顔を顰めて言う。
「潰れたらそこに置いていくからな」
「あなたに心配されなくても大丈夫よ」
二人がばちばちと音がしそうな勢いで視線を戦わせたところで、大皿に載せられたパイ料理と人数分のスープ、木の実の燻製の皿が一度に置かれていった。食事の出てくるのが速いのは注文が入る前からある程度の数を用意してあるのだろう。仕上げに再度火を入れているらしくパイからは香ばしい香りが漂っていた。
ナイフを持ったラーハルトがそつのない流れるような動きでそれを六等分にするのにヒュンケルとエイミは揃って無邪気にそのナイフ捌きを褒める。
「いつ見ても綺麗過ぎて怖いくらいね」
「本当に、上手いものだな」
「……お前に比べたら誰でもな……」
以前ヒュンケルにナイフを持たせた時は縁がぐしゃりと潰れ、真ん中から具材がはみ出て零れ落ちた見るも無惨な何かを皿に盛られることになった。少し崩れた程度では文句を言うつもりもなかったが、さすがに食欲をそそらない見た目には溜息が出た。
「すまんな、慣れていなくて。まあ味は変わらない」と全く悪びれない表情で言うのに、ラーハルトはそれ以降さっさと自分で切り分けるに限ると決めたのだった。
戦場での冴えと、生活能力の無さの落差が未だに掴めない。だいたい剣士のくせにナイフの扱いが上手くないとはどういうことなのか、とラーハルトは切り分けたパイの皿を二人の方へ押しやって、言っても仕方ない言葉の代わりに麦酒をあおった。
ふとパイの一切れを齧ったヒュンケルが突然動きを止めて俯く。ラーハルトとエイミが同時に「どうした」「どうしたの⁉︎」と言うのにヒュンケルが眉をひそめて顔を上げた。
「……中に、何か」
ヒュンケルが口から離した食べかけのパイの中から、小さな白いものが覗いている。取り出して拭ったそれは、指先ほどの大きさの陶器でできた天使像だった。
金色の線で天使の微笑みと柔らかな髪が描かれたその像は、灯りを弾いて乳白色に淡く光る。
「あ、フェーヴ!」
「当たりだな」
小さな像を手のひらに載せたまま意味が飲み込めていない様子のヒュンケルにラーハルトが言う。
「厨房の間違いじゃない。そういう風習だ」
「風習?」
「パイを焼くときに入れる幸せを運ぶ像――それよ。フェーヴって言うの。それが入っている一切れに当たった人には、その年に幸せが訪れるって言われてるの。もうそんな時期ね」
挽肉と野菜がぎっしりと詰め込まれたこのパイ料理はごく一般的な家庭料理だが、年が明けるとこの運試しの風習のために定番として出されることが多かった。
少し警戒した様子で残りのパイを眺めるヒュンケルにエイミは大丈夫よ、と笑って言う。
「フェーヴは一個しか入っていないから、残りは食べられるわよ」
「……そうか」
ヒュンケルがかなりゆっくりとした動きでパイの残りを噛む横で、ラーハルトが欠片のひとつも落とさずに、数口で一切れをあっという間に無くして麦酒を呷る。
「入れているなら一言言っておけばいいものを。間違って飲み込むやつが出るぞ」
「好意で入れてくれてるんだから、いいじゃない」
エイミがパイをさくりと齧ってそれを眺める。
「懐かしい。小さい頃、家で食べててフェーヴが当たらなくて大泣きしちゃったの思い出すわ」
「……家でもこういう形で出てくるのか?」
「そうよ、新年が明けると食べるの」
興味深そうにふむ、と頷くヒュンケルにエイミは続ける。
「家族で食べたらフェーヴが姉さんに当たったの。それが羨ましくて泣いてたら、姉さんが『仕方ないわね』ってくれたんだけど……後で姉さんもやっぱり本当は欲しかったって泣いちゃって」
「親の苦労が偲ばれるな……」
「ほんとうに小さい頃の話だもの、仕方ないでしょ」
横から一言を付け足したラーハルトにエイミが膨れて言う。
「……どうしたんだ、その後」
『――エイミに幸せがきたらいいなって思ったのは、ほんとよ』
でもわたしだってほしかったんだもん、と泣く姉に、でも、と小さいエイミは俯いた。
きらきらと輝くフェーヴはどうしたって欲しかった。でもたしかにこれは姉さんに当たったものだった。でも、でも、一回くれるって言ったのに。
色んなことがぐるぐると頭の中を回って鼻の奥がつんと熱くなる。また涙が出てくると、もう止められなかった。
二人揃って泣き出した娘たちに、父と母は顔を見合わせてから『じゃあ、どうしたらいいか考えようか』と優しく問いかけた。
「……どう考えても私の我儘だったけど、もう引っ込みもつかなくて、わんわん泣いちゃったのよね。そうしたら姉さんが、じゃあ二人のものにしよう、って言ってくれて……いつでも見たい時に見られるように、って、宝箱に入れて二人で部屋に飾ったわ」
ヒュンケルがまじまじとエイミを見つめた後、すうと手のひらに乗せていたフェーヴを差し出してくる。
「……?」
「いるか」
ラーハルトが吹き出す横でエイミは頬を赤らめた。
「――今のは、小さい時の話!もう当たらなくても泣きません」
「……そうか」
「……っ、自分でしまっておけ。お前は運が悪すぎる。多少はマシになるかもしれんぞ」
「あなたは笑いすぎよ!」
笑いを引きずりながら言うラーハルトを睨みつけたエイミは、引っ込められた手を見て折角彼がくれると言うのだから貰ってもよかったかも、とも一瞬考えたが、それは振り払った。
――幸せを運んで欲しいのは、私じゃなくて。
「ヒュンケルが、持っていて。……幸せが訪れるわ」
「……分かった。そうしよう」
ありがとう、と微笑んで言うヒュンケルに、うん、と小さく口の中で呟いてエイミもまた微笑んだ。
姉さんも、こう言う気持ちだったのかしら。
「オレが持っていよう。見たくなったら、言ってくれ」
手のひらに握ったフェーヴを懐にしまって、ヒュンケルが子どものような顔で笑う。
珍しい表情にぱちぱちと瞬きをしたエイミは、彼が先程の姉との話をなぞっているのだと気付いて「もう!」と頬を膨らませた。
***
だいじょうぶ、歩ける、と言い張って宿屋の階段の途中でふにゃりと笑顔のまま座り込むエイミを、痺れを切らしたラーハルトが抱えて部屋に放り込んだ。
「何するのよ!」と怒って振り返ったエイミの肩越しに荷物と部屋の鍵も投げ入れてドアを閉めると、部屋の中から何今の持ち方、とかちゃんと歩けたわよ、とか文句が聞こえていたがそれを後ろにラーハルトはすたすたと廊下を行き自分達の部屋の鍵穴に鍵を差し込んだ。
「持ち方が悪かったんじゃないか。怒っていたぞ」
「あそこで寝られては困る。考えてみろ、意識のないエイミを引きずっていたらオレたちはどう見ても人攫いだぞ」
「……それは、違いない」
弁解のしようもない絵面を想像してふ、と笑うヒュンケルに「笑い事か」と言うラーハルトもまた笑って首を振る。
「雪の中放り出されるのは流石にごめんだ」
「さっき暑いと言っていただろう。程よく冷えていいんじゃないか」
寝台の横に荷物を放ったラーハルトがふり向きざまにヒュンケルを指差して言う。
「その時は道連れだ。凍って泣くのはお前だぞ。人攫い」
「怖い人攫いに脅されていたんだ。オレも攫われてきた」
両手を上げて嘯くヒュンケルに「よく言う」と鼻で笑ってラーハルトは外套をばさりと下ろす。
笑いながら寝台に腰を下ろして自分も上着を脱ごうとヒュンケルが懐に手を入れると、かちりと先程のフェーヴに爪の先が当たった。
取り出してランプの灯りにそれをかざしてみる。像自体はそれほど精巧なつくりではないが、そこに描かれた天使は柔らかにこちらに微笑んでいた。
その微笑みはここにはいない桃色の髪の少女を思い出させて、懐かしさにヒュンケルは目を細める。
「一人でにやつくな。気味が悪い」
ラーハルトの声に我に返って、ヒュンケルは自分の口角が緩んでいたのに気づく。「ああ」と顎を摩ってからラーハルトの呆れ顔を見てふっと息を吐いた。
「初めて当たったからな。嬉しくて、つい」
「本当に適当なことを言うようになったな……。おい、知っているか?」
なにを、と返すと上着を脱いだラーハルトがヒュンケルの持つフェーヴを顎で示した。
「フェーヴは必要なやつに当たるようになってるんだ。主に子どもに、な」
こちらを見る友の目にうっすらと稚気が過るのを見て、酒場でのやりとりを思い返す。
「……どれに入っているか、分かっていたのか?」
さあ、と呟いてラーハルトはわざとらしく肩をすくめる。
「――どうだったかな。だが、選んだのはお前だろう?」
片頬を上げてにやりと笑うラーハルトに、ヒュンケルはそうか、と小さく笑ってまた手のひらの上でフェーヴを転がした。
幸せを運ぶ像など、自分が持つのには相応しくない。だが、二人が持っておけと言うのなら、しばらく預かっておいてもいいかもしれないと思った。
――そう、この永遠には続かない、旅の間くらいは。