年を重ねて 細い鋼に重く槌が振り下ろされる。工房に鋼を打つ高い音が響いた。
かん、かんと槌が素早く正確に鋼を打つ響きは規則正しく鍛冶場を満たし、周りを囲む森の木々の中に吸い込まれていく。
やがて赤色に変化した鋼の先にノヴァがうすく削った木屑を押し付けた。しばらく待つとぶすぶすと燻る音がしてうすく煙が上がり、ぼうと炎が立ってノヴァの引き結んだ口元と頬を照らす。火床にそれを静かに置くと、油の染みた焚き付けを揺れる炎が包み込み、朝日もまだ射さぬ早朝の工房に橙色の明かりが灯った。
「風を」
「はい」
短くそう言うとノヴァが揺らめく炎から目を離さぬまま頷いて、吹子の取手を引く。ごうと音を立てて竈に空気が吹き込まれ、それを何度か繰り返すと瞬く間に火は勢いを増して火花がぱちりぱちりと音を立てて煌めいた。
一年の始めに行う火入れの日。鋼を叩いて火を作り出すことは鍛冶屋にとって大事なもので、特に年初めのこの日に失敗すれば、火の精霊に見放されその年に作るものの出来は悪いと言われている。もっとも、この程度の作業で失敗するような輩は元々大した腕ではないから駄作しかできないのだ、とロンは思ってはいるが。
ノヴァがその弾ける火の粉を見てふう、と小さく息を吐いた。
「気を抜くな」
「……はいっ」
強く燃える火の中でしばらく熱された玉鋼は、熱をはらんで赤く溶ける。音を立てて燃える窯の炎は肌を炙っていくが、ノヴァは冬だというのに時折額から流れ落ちる汗を拭うこともなくその熱の塊を見つめていた。
炎の中から引き出した橙色を金床に乗せて槌を振り下ろすと、再び高い音が工房に響いた。
鍛治で鋼を精錬するには根気と丁寧さが必要だ。溶けた熱塊から不純物を打ち出し、目的に合った形を作り出し、時を見極めて油に浸して焼き付ける。打つ槌が遅すぎれば熱を失った塊は思い通りの形を描かず、焼き付けて熱を落とす瞬間を見誤ればたちまちひびが入り使い物にならなくなる。
鋼のそのさまを見ればすべきこともそれをなすべき瞬間もロンには手に取るように分かる。だが、この微細な感覚は言って伝わるものではない。気の遠くなるほど槌を振り、ひび割れて曲がった塊を幾つとなく並べ、どこが誤っていたのか、どうすれば良かったのか、と自問自答を繰り返した先にしかその瞬間は見えてこないのだ。
手に伝わる振動、耳に聞こえる音、目に映る鋼の煌めき。持ちうる全ての感覚を使って鋼の声を聞く。ロン自身が手を使えない以上、それはロンの「手」となったノヴァ自らが自分のものにするしかない。
最初は訳もわからず力任せだったノヴァの槌の音は、今はふと鋼の様子を伺うように時に静かに、時に強く響く。
この僅かな一年ほどの間だけで、白く日に焼けたあともなかったノヴァの顔は、炎に炙られて赤みを増した。まだどこかに伸び代を残していた手足は、槌をもち鋼を打つようになってふた周りほど太くなった。
ぱちりと飛んだ火花が頬へと飛んだが、ノヴァは瞼の一つも動かすことなくかん、かんと槌の音を続ける。
鋼の赤を見つめる黒の瞳が力強い炎の色に彩られる。赤から橙、黄色、そして白。手に持つ槌の鈍の色。全てが映り込むその瞳の色は、あの日見た生命の輝きと同じだ。
不思議なものだ。雪国の生まれ、得意とするのも氷の魔法のはずだがあの日以来、ノヴァには火の要素が宿ったように見える。全身を使って鋼を打つその様子は、そう、まるで今窯を満たして燃える炎のようだ、とロンはふと思った。
***
一日の修行が終わった夜の食卓に置かれるのは、色良く焼かれた鴨。
赤いソースで飾られた肉の一皿を中心に、いつもより彩りの良いサラダにスープ、狐色に炙ったパンに多めに盛られたぽてりと黄色いバター。今日は濃い紫のジャムまで添えられている。
どこにしまってあったのやら白いテーブルクロスなどを敷き、普段は出していない蝋燭の灯りまでいそいそと出してくる。暖炉の薪の燃えさしを片手にしたノヴァが蝋燭に火を灯すと、何重かの光の輪が淡く卓に落ちた。
食卓の上を暖色の光が照らすのを見ながら、こういうところにつくづくお育ちの良さを感じるな、とロンは面白い気持ちでそのぴんと張られた布の織目を僅かに動く指でなぞった。生家では何かのときにはこうやって食卓が飾られていたのだろう。その豪華さはおそらくこの食卓とは比べるべくもないのだろうが。
「スティーヌさんが分けてくれたんですよ、そのジャム。肉汁で溶いてソースにもしました」
「ジャム? 甘くないか……それは」
「前、先生が美味しいって言ってたのと同じです。この間豚肉に添えたジンジャーソース、あれも林檎のジャムで作ったんですよ」
「ああ。あれは悪くなかったが」
ノヴァの故郷は冬は雪に閉ざされ実りは少ない。少ない栄養源を確保するために保存食を食事に使う手法が発達しているのだろう、塩や砂糖で漬けて加工したもので作る料理が多いようだった。
弟子入りした当初は、飯を作ると言っては固くまっすぐに芯の通った芋やら海水でも煮たかと思うほどの塩辛いスープを出してきたりしたものだが、めげずにスティーヌのところにせっせと通ってはめきめきと腕を上げていった。おそらく包丁も握ったことのなかった状態から自分なりに工夫して故郷の味を再現するまで漕ぎ着けたのは、言ってはやらないが見上げた根性だと思う。
工房に住み始めてから、料理だけではなくて家の中のものもやたらと作り始めた。ふらりとやってきてそれを面白がったジャンクがやたらと熱心に作り方を教えたり部品を調達してやったりするのも勢いに拍車をかけて、片隅に適当な寝台が置いてあるだけだった工房にはあれよと言う間に手製の椅子と机が置かれ、織物が敷かれ、棚があちこちに設えられた。
ロン自身は棲家には寝床があればいい程度で快適さなどは二の次だ。そもそも使用人でもあるまいし、身の回りのことまでさせるつもりで弟子にしたわけではない。しかしそれを告げるとノヴァはこう言ったのだった。
『やってみたいんです。恥ずかしい話ですけど、今まで自分の生活に必要なものがどうやってできてるかなんて、考えたことがなくて……』
今までは差し出されるものを手にするばかりであっただろう身の回りのものを、自らの手でも作ることができると気づいたのだろう。作り出すことの面白さを楽しみ、自分のものにしようとしているのだ。
手を動かし、何かをつくりだすことには言い知れぬ魔力がある。頭の中にだけあるものを図面に書き起こし、道具と手を使いこの世界に具象化させることの、取り込まれるような愉悦。あれは経験したことのないものには説明しても分かるまい。まずはそこに惹かれ、のめり込むことができるかどうかが職人というものに必要な素養だ。その点では、ノヴァは職人向きの気質はまず備えている、とロンは思う。
そのあとは自らの理想という姿をした魔物との戦いだ。脳裏に描いた姿と、自分の手から作り出されて現れる現実の差。理想が美しくあればあるほどその差は時に絶望的に自らの目に映る。それに腐ることなく手を動かし続けられるかどうか。
ロンはこの弟子の底なしのがむしゃらさについては認めている。さて、果たしてそれがどう化けるのか――。
そうとりとめもなく考えていると、かるい金属音をたてて銀色に光るフォークとナイフが机に置かれた。これもノヴァが鍛治の練習として作ったものだ。並べ終わったノヴァが椅子を引く。
「先生、お待たせしました」
「おい、グラスはないのか?」
「さっきも飲んでましたよね。今日の分の酒、もう終わりじゃないですか?」
最近『酒は一日一本まで』などと抜かし始めた弟子は、ロンの座る動きに合わせて椅子を戻しながら、呆れたような声でそう言った。
「二人分だ」
「いや、ボク飲めませんよ」
もう、と小さく溜息をつくノヴァに、ロンは揶揄うように続けた。
「酒はやらん。誰かが口うるさいから貴重なんでな。棚に葡萄酒のなり損ないがある」
貯蔵用に設られた棚を顎で指すと、ノヴァが驚いたように振り返った。
「えっ。わざわざ用意してくれたんですか?」
「いくら坊やでも、年の変わりの日に飲むもんが水じゃあ味気ないだろう」
「じゃ、じゃあ。それはいただきます。年のはじめと――先生の、お祝いですから」
少し顔を上気させて半ば走ってグラスを取りに行く様子はまるで子どものようで、ロンは声を出して笑った。
「お祝い、か」
――それは随分前にノヴァが、先生の歳は幾つなんですか、と尋ねた一言が切っ掛けだった。
『歳……?さあな』
『さあな、って……自分の歳を覚えてないんですか?』
驚いた顔で言うノヴァにロンはふんと鼻を鳴らした。
『生まれた日を祝うという習慣が、そもそも魔族にはない。歳も知らんことはないが、生が長すぎてどうでもよくなるんだ。二百七十……八十くらいか。忘れたな』
にひゃく、と口の中でつぶやいた弟子は目をぱちりと開け閉めし、しばし黙りこんだあとにこう言った。
『じゃあ……年が変わる日に、数えても良いですか?』
『数える? 何をだ』
『先生の歳をです』
『奇妙なことを言い出すな、お前は』
『ちゃんと知っておきたいんです。先生とボクの時間がどれくらい違うのか。先生の生きてきた永い時間に、ボクは自分の持てる時間で追いつかないといけない。――短いボクの人生で、どれだけ多くのことを学ばなければいけないのか、はっきり数えておきたいんです』
真剣な瞳のままそう言うノヴァをしばし見遣ったロンは、お前がそうしたいなら好きにしろ、と口の端を上げたのだった。
とぷとぷと音をたてて赤紫の果汁がノヴァのグラスに注がれる。ロンの前に置かれたグラスを満たすのは薄淡く光を透かす透明の酒。
「――そういえば、先生は結局何歳なんですか。そろそろ真剣に思い出してくださいよ。二百七十歳、ですか? 二百八十?」
「まあ、そんなもんだ。どうしても決めたいなら間でもとっておけ」
「間って……適当だなぁ」
「お前はいくつになったんだ?」
「十七ですよ! 覚えてください」
「覚えてるさ。ヒヨッ子だってことはな」
「そりゃあ、先生に比べたらそうですけどね」
「細々とやかましいな。食事にするんじゃないのか」
口を尖らせていたノヴァが分かりましたよ、と笑ってグラスを差し出した。まだ十分には動かぬ手をロンはグラスに添える。
「――先生、今年もよろしくお願いします。二百七十六歳、ですね」
「……ああ」
赤紫と透明、異なる中身を湛えたグラスが、重なってきんと軽く澄んだ音を立てる。
もう長いこと、年齢を数えることに意味など見いだせなかった。何かに情熱を傾けることもなくただ諾々と続く永い生に倦いていたからだ。
だが、ノヴァの持つ透明の器の中に揺れる果実の色を見て思う。人間の身体という器はこのグラスのように脆い。いまその器を満たしてなお伸びる生命力は、何十年もたたぬうちに流れ出て、やがて肉体は枯れていくだろう。しかし、その限りある生命の中で何を残せるのか。
ノヴァはまるで火の玉のような勢いで、自らの残すべきものの形をさぐり、向き合おうとしている。
その炎のような光の行方を傍で見ていられるなら、重ねる年を数えることも悪くない。そう、思えた。