寂しがりやの不安な夜
そろそろ寝るかと参考書を閉じラジオのスイッチを切る。机の前で固まった筋肉をほぐすように伸びをした瞬間、それは来た。
控えめなノックの音に続いて、自分を呼ぶ中性的な声に返事をする。
「何か用か?」
「よかった、まだ起きてた。あの、ご迷惑でなければですけど……今日一緒に寝てもらえませんか」
開いたドアの向こうで枕を胸に抱えたAが俯きながらオドオドと用件を口にする。いつもなら顔を上げて図々しく強請るのに今夜はやけにしおらしい。
こんな大人しいAでは調子が狂う。何か問題でも起きたのだろうか。
特に断る理由もないので頷いて部屋に通した。ドアをくぐってもAの態度は変わらず、部屋に入るための狂言ではなかったらしい。
「どうした、寝るんじゃなかったのか」
「お邪魔じゃないかと」
「邪魔なら追い返してる。俺の性格ならお前もよく知ってるだろう?」
「はい、兄さんは優しいですよね。普段はぶっきらぼうですけど」
「一言余計だ」
安心したように破顔するA。減らず口を叩けるほどには調子が戻ったか。頬を緩めて柔らかく微笑む彼を放って、寝着に着替え始める。Aはベッドの端にちょこんと腰掛けて支度が終わるのを待っていた。
「大方恐ろしい夢でも見て寂しくなったんだろう」
「何で解るんですか」
「お前と過ごしてると忘れがちだが『A』は寂しがりやだからな、そんな事もあるかと思った」
一つのベッドに並んで座る。隣から見上げるAの瞳は不安げに揺らいでいた。恐る恐る指を伸ばした彼の手が右手に重なる。重ねられた細い手は幽霊のように冷たかった。
「兄さんに忘れられた俺はこの世界から消えてそれっきり。兄さんは弟を忘れて今まで通り日常を過ごすんです。初めから弟(俺)なんかいなかったように忘れた事も忘れてしまって、兄弟は離れ離れになるんです」
「荒唐無稽の塊だな。お前の存在を忘れたくらいでいなくなるなら願ったりだが」
「辛辣ですね、兄さんらしいけど。ただの夢だけど俺は怖かったです。すごく、怖かった」
「……」
「消えてしまうより兄さんに忘れ去られる方が怖かったです」
泣くのを堪えた声で弱々しくAは笑った。
重ねた手から小刻みに震えが伝わって、それは今にも泣き出しそうに。泣くのかと身構えたが、俯いて指を握りしめるだけだった。
ここで兄らしく、優しく宥めてやれば満足するのだろうか。それとも立ち直るまで待っていればまた元気になるのだろうか。慰める事が果たして彼のためになるのか。
「お前は消えたいのか? 俺の前からいなくなりたいのか」
「……消えたくないです。もっと兄さんの傍にいて一緒に過ごしたい」
「なら、そう強く願っていろ。お前は四人の恐怖心と一人の気まぐれから喚(よ)び寄せられた存在だ。強く願えば形になるを地で行った結果だ。だったら消えたくないと強く願えばそれが叶う。簡単だろう?」
「理屈は分からなくもないけど、兄さんは本当にそれ信じてるんです?」
「さあな。ただの気休めだからな、これくらい単純でいい」
「ああ、気休めなら効かなくても気楽でいいですね」
分かりました、とAは顔を上げる。吹っ切れたのか静かに微笑むその顔は清々しさを感じた。もう大丈夫だろう。冷たい手が離れる。
「部屋に戻ります、兄さんも暖かくしてお休みください。お邪魔しまし」
「待て、一緒に寝ると言っただろう」
「確かに言ったけど……」
「寝ないのか」
「……寝たいです」
今度はこちらが腕を掴む。腕を掴まれ、観念したように口の中で呟くA。今更恥ずかしくなったのか真っ赤に染めた顔を俺から逸らして、何やらもごもご呟いている。
よし、と景気よく頷いて腕を放した。
2015.7