かくして使徒は地に堕ちる ちりりん。
鈴の音のような微かな気配が、戦闘で過敏になったポップの神経をぴんと弾いた。
「うひっ!?」
驚いてすっとんきょうな声をあげかけ、ポップは慌てて口を押さえた。まずいまずい。今はモンスターたちとの戦闘中だ。変なリアクションで集中を乱したら怒られる。魔法で攻撃と前衛の援護をこなしながら、ポップは頭を並列に使って“さっき”の気配をもう一度探った。
「……っ!」
気のせいじゃなかった。ちりんちりん、微かだが確かに感じる。膨大な邪気に満ちた断空神殿のなかで、《絆の勇者》一行が発するそれとは別の、ひとかけらだけ混じった聖なるオーラ。
「女神の、オーブだ」
ポップはごくりと唾を飲んだ。テランの湖のほとりでゼバロに手酷くやられたあと、やつの魔力に黒く染められて空の彼方へ飛び散ったはずの、女神の神殿へ通ずる3つのカギ。
気配は勇者パーティほか調査隊が進む神殿の深奥部へのルートから外れた方向から感じ取れた。ポップは一瞬迷って……神殿内を進む仲間たちからそろそろと離れると、気配を追ってひとり駆け出した。
(確かめるだけ。確かめるだけだ)
走りながら自分に言い聞かせる。正直こんなところに飛び散ったオーブがあるとは思えない。様子を確認するだけだ。勘違いだったらみんなに合流すればいい。でももし、本当に本物のオーブだったら。手に入れることができれば。
ゼバロとの一件以降、士気が下がっている仲間たちを、ダイと《絆の勇者》を。少しでも勇気づけてやれるかもしれない。
「……まじかよ……」
神殿内の小広間。微かな光の気配を辿った先のその場所に、確かにオーブは浮いていた。
「まさか、本当にあるなんて……」
ポップは戸惑いながら、異様なオーラを発つ真円におそるおそる歩み寄った。
確かに湖の石板に埋め込まれていたオーもブだ。宝石のなかにどす黒くおぞましい邪気が渦巻いている。先ほどまで自分を呼んでいたはずの聖なる気配は欠片も見当たらない。そわ、と、背中に不安が這いのぼった。それでは、おれをここまで呼んだのは何だったのか。
「それに、空の彼方へ飛び去ったはずのオーブがなんだってこんなところに」
「そりゃあ、当然、あれだよ」
キミを誘き出すための罠……だからに決まっているじゃないか。
独り言のつもりの言葉に応えた、甘ったるくにやけた声。ぞわぞわ、と背筋が粟立ち、ポップはがばと声の方向を見た。
広間の片隅の、途中から砕けてへし折れた神殿の柱。その上に道化師のような格好の男がひとり。巨大な鎌を携えてたたずんでいた。
「てめえ、キルバーン……!」
「そのほかにないだろう? ねェ。……ゼバロ君?」
杖を構えるポップを気にすることもなく、死神の異名をもつ暗殺者はポップの背後に向かって話しかけた。ハッとしたポップは反射的に振り返り、
「ぜ………」
振り返った無防備な胸元にぬっと突き出された、漆黒の法衣をまとった腕。そこから放たれた凄まじい魔力が炸裂し、爆裂し、ポップを吹き飛ばした。弾け飛んだポップの身体は、受け身も取れず広間の石壁に激しく叩きつけられた。
「がはっ……!」
杖が手から離れ、落下してカランと音を立てる。一瞬で大ダメージを負ったポップはそのままどっ、とうつ伏せに倒れた。
「う……ぐ、ぐうっ……」
【惨めだな。勇者一行の魔法使い】
虫の息で呻くポップを、地鳴りのような声が静かに罵倒する。ゼバロの声か。頭では辛うじて理解しながら、それ以上の行動を起こせない。全身バラバラになったような激痛に意識は朦朧として、指一本さえ動かせなかった。
「ほんと。ほんとに、惨めだねェ」
倒れたポップのすぐ脇に降りてきたキルバーンが、くすくす、けらけらと嗤う。
「これで何度目かな? キミがこうやって、勝手に行動して術中に嵌まるのは」
「うっ………」
「やーいやーい! 間抜け! 役立たず!」
突きつけられた事実とピロロの罵倒が、ポップの心臓を貫いてそれこそ息の根が止まりそうになる。こいつらの言うとおりだ。確証がないなら誰かに相談すればよかった。なのにまた、ひとりで突っ走って罠にかかって、無様にやられて、みんなに迷惑をかけちまった。
力の入らない拳を悔しさに握りしめる。ちくしょう。
ちくしょう。ちくしょう。
「ウフフッ。まあボクとしては、キミが相変わらずの間抜けで助かったよ。キミはなんだかんだ、ダイや他の連中に発破をかけてその気にさせるのが上手いからねェ」
あちらの世界じゃそれで何度面倒なことになったか。うちひしがれるポップを見下ろして、キルバーンは大仰に首を振ってみせた。
「《絆の勇者》までそれに感化されたら大変。ゼバロ君だって困るだろう? だから、勇者一行が体制を建て直す前に、まずはキミを潰しておこうと思ったわけさ」
【…………いらぬ世話を】
気を利かせてあげたと言わんばかりの死神の言い分につれなく応じ、ゼバロは宙空に浮かぶオーブを手に取った。幼児のおもちゃのように手のひらでもてあそぶ。
「つれないなァ。オーブの侵食を弄って聖なるオーラをほんの少し露出させた、それだけでここを嗅ぎつけるような鼻のきく邪魔者は排除しておいた方がいい。キミだってそう思ってるんじゃない?」
【…………フン】
この場は、そういうことにしておいてやろう。寄りかかるようなキルバーンの言葉をいなしつつ、ゼバロは倒れたポップの前に浮かんだ。
【まずはひとり。他のものたちもすぐに後を追わせてやる。絶望と共に噛み締めるがよい。絆など、いくら寄せ集めてどれほど強化したところで、所詮破断の力には敵わぬことを】
ぴくり。
その、憐れむような嘲るような言葉を聞いて。ポップの身体がぴくりと反応した。
【………………死ね】
ゼバロがゆっくり片手を掲げる。あれを振り下ろしたとき、ポップの命は虫けらのように潰される。分かっていて、勝ち目のないことを分かっていて、
「…………っ、う」
それでもなお、譲れないものに突き動かされて。
「…………う、おぉお……っ!!」
ポップは無我夢中で手のひらを突き出し
「雷(いかづち)よっ!!」
雷系属性の魔法を発射した。異空神を目掛けて飛んだ電撃の砲弾は、全身を覆うどす黒い霧に飲まれて本体へは届かない。
ポップはその隙に全身の力を振り絞って身体を起こし、そのまま根性で立ち上がった。
【……無駄な足掻きを】
脆弱な魔法使いが再び立ち上がったことに、流石のゼバロも意外そうな反応を見せた。ポップはぜえはあと肩で息をしながら、それでも光を失わない眼差しで異界の魔神を睨みつけた。
「まったく、ここまで愚かとは思わなかったよ。ポップ君」
キルバーンがやれやれと呆れたように嘆息する。
「それとも、たったひとりで絆の力にすがってみるかい? 本当にそんな小細工でゼバロ君を倒せると思うのなら」
「う……うるせえ。死神野郎。おれたちの……絆の力を、戦いの道具かなにかみたいに言うんじゃねえ」
「なに?」
キルバーンの声が、訝しさから一瞬だけ道化を忘れて低くなった。ポップは歯を食い縛り、死神と異空神を相手に真っ向から反論する。
「おれたちのこの絆は、てめえらと戦うためのものなんかじゃねえ」
この胸の温もりは、優しさは、強さは。戦いのために繋いで、深めてきたんじゃない。
「《絆の勇者》が好きだ」
生まれたばっかりの、どたまかなづちを本気で最強の武器だと信じ込むような天然で物知らずで、けれど戦いには勇気を携えて立ち向かうあいつが好きだ。
「ダイのことが好きだ」
大魔王バーンだけでなく異空神ゼバロなんてものの討伐まで担わされて、それでも小さい体で必死に頑張るあいつが好きだ。
いつも自分のことを後回しにみんなのために戦って、だけどゼバロにボロ負けして、落ち込んで、なのにそれを押し隠して振る舞うあいつらのことが大好きだ。
「あいつらのために……何かしてやりたいと……そう思うこれが! この心が、絆だろうが!!」
相手にいつの間にか愛着がわいて、共に過ごす思い出が増えて、呼び掛ける名前が舌に馴染んで。相手のことが好きだとか嫌いだとかは関係なく……そいつが敵にやられそうになったり、悩んで落ち込んだりしているのを見てられないと思うのが。絆だろうが。
【…………】
ポップの啖呵に、ゼバロは何故か沈黙して動かなくなった。キルバーンも然り、不気味な静寂が小広間を支配する。
今のうちにと、ポップは全身の魔法力をありったけかき集めた。勝てるどころか一撃当てることさえできる気がしないが、このままなにもせず殺されるなんて御免だ。やってやる。命を捨てる覚悟で、最後まで足掻いてみせる。
(諦めねえ。絆の勇者パーティの魔法使いを舐めるなよ……!)
【…………知っている】
腹をくくったポップの耳に届いたのは、先ほどまでの地鳴りのような声とは異なる、まるで“人間のような”揺らぎをたたえたゼバロの言葉だった。
「は……?」
【知っている。“誰よりも”。おまえたちなどよりもずっと】
「なにを、言ってやがる……!?ウウッ!?」
困惑するポップの身体が突然宙に浮き、空間に固定されたように動かなくなった。ゼバロの魔力か。どんなにもがいても拘束から抜け出すことができない。
「クソっ……! 離しやがれ!」
【我は、我こそが誰よりも理解している。絆とは何であるか。その忌むべき真の姿も、何もかも全て】
ゆえに壊すのだ。
絆を。
世界を。
女神が産み落とした、全てを。
ゼバロが不気味に口角をあげる。
笑ったのだ、と、それを認識した次の瞬間。オーブから手を離したゼバロが、先ほどと同じようにポップの胸元に手のひらを向けた。
「ぐあああぁあーーーーーーーッ!!」
突如、経験したことのないような凄まじい苦痛がポップに襲いかかった。まるで精神に異物を捩じ込まれるような、魂に齧りつかれたような、耐え難い苦しみ。
(ま、まさかっ……!)
霞む目で辛うじて捉えたのは、ゼバロの手のひらから生まれた黒い霧が胸元からどんどん吸い込まれ……同時に、周囲にまとっていた霧までもがポップの体内に取り込まれていく光景だった。
(こいつ……! 直接手を下しておれを操るつもりなのかっ!?)
【魔法使い。おまえには災いの使者になってもらう】
「わざ、わい……?」
「ベンガーナに集まっている人間どもに猜疑心と敵対心を植えつけ争わせるのさ。キミが運びいれた、闇に染まったそのオーブを使ってね」
「ふ、ふざけんな……っ! だ、誰がそんな……!」
言い返す間にも意識がどんどん自分でないものに塗り潰されていくのが分かった。まずい。いくら《絆の勇者》の力がゼバロの力を打ち消すと言っても、これほどの魔力には敵わない。だめだ。このままでは、ポップは意図せずベンガーナの街を、人々を、仲間たちを傷つけてしまう。
「ち、く、しょおおっ…………!」
ゼバロが手放したことで、オーブは再び宙空に浮かんでいた。ポップは必死に腕を伸ばし、闇に染まったオーブをしっかり掴んだ。なんとか。なんとかこのオーブを。こいつをダイやみんなのところへ。《絆の勇者》のもとへ。せめて、オーブに輝きさえ戻れば。頼む。女神の光よ。甦ってくれ。あいつらのために。みんなのために。おれがおれでなくなる前に。おれがみんなを傷つける前に。
「あ……う…………」
苦痛はいつの間にかとろけるような心地よさへと変わっていた。脳髄が痺れてなにも考えられない。酷く眠かった。眠れば二度と目覚められないと分かっていても抗うことができない。
(ちくしょう…………)
すまねえ。みんな。すまねえ。
いつもいつも足を引っ張って、余計なピンチばかり招いて。
《絆の勇者》を、ダイやみんなを、助けたかったのに。
(……みん…………な…………)
いつもいつも、役に立てないおれで。
ごめん。
邪悪に染まりきったオーブに、ちりん、と一瞬、緑色の光が灯る。
それを目視することなく、“ポップ”の意識はぷつりと途絶えた。