両片思い師弟が酒の勢いでいたしてしまった翌朝の話 頭の内部から金槌でがんがんと叩かれているような不快感、やけに渇いて張り付いた喉、ずっしりと重い体と胃。
カーテンの隙間から突き刺さる朝の光が薄暗い室内に慣れた目には眩しすぎて、小黑はうっすらと開けた目を再びぎゅっと閉じ直した。この状態には覚えがある。二日酔いだ。
昨晩无限に酒を勧められ、晩酌に付き合った所までは覚えている。小黑は无限ほど酒が得意ではない。全く飲めないと言うわけでもないが、少し飲んだだけでもふわふわと宙を踏むような心地になるし、記憶もよく飛ばす。外では気をつけていたが、何せ昨日は无限と二人だ。緩みきった気分のままに飲んだ酒は殊の外口に合い、おかげで途中からの記憶が全くない。
幸い今日は予定もない。ベッドで自堕落にゴロゴロ過ごそうと朝日に背を向けるように寝返りを打って、
「……うん?」
とてつもなく至近距離ですやすやと寝息をたてる師の寝顔に遭遇して動きを止めた。无限に対する恋心を自覚してからは慎重に距離を詰めすぎないように努めていた小黑にとっては、実に久しぶりの距離感だ。寝ぼけて潜り込んだのか、もしくはへべれけになった自分が何かとんでもないわがままでも言ったのか。
二日酔いと寝起きのダブルコンボであまり動いていない頭でかすみのように遠い記憶にぼんやりと問いかけながらも、小黑の視線は目の前のきれいな人に吸い寄せられる。
昨夜はしこたま飲んでいたような記憶があるが、むくみの気配すらない滑らかな頬に流れ落ちる髪、影を落とす濃い睫毛、うっすらと開かれた唇はなぜか少し腫れぼったく、目尻が赤いように見える。
今日はなんだか首筋から肩へのラインがやたら色っぽく感じるなーと夢と現実の狭間で呑気に考えていた小黑は、そこでかっと目を見開いた。ざっと血の気の引く音がする。
服を着てない。
少なくとも掛布から覗く无限の肩は衣服を纏ってはいない。そして、ここが一番大事なところだが、なんと自分も服を着ていない。上も、下も、そして恐ろしいことに下着すらつけていない。
(いやいやいやいやいや……)
落ち着こう。小黑はばくばくとうるさい心臓を宥めるように大きく息を吸って吐いた。
大方、酒に酔った自分が暑くなって脱いだんだろう。師父は……多分、自分がうっかり粗相でもしてしまって汚れてしまったから脱いだんだきっとそうだそうに違いないそうであって欲しいお願いだから。
小黑は无限に恋をしている。いつからだったかなんて覚えていない。世界で一番優しくて、きれいで、かわいくて、強い人。そんな人から目一杯の愛情を受け続けて、好きにならずにいられるわけがなかった。小黑の一番きらきらした特別な席には、もうずっと无限だけが座っている。
だからといってそれを伝えるつもりはなかった。无限に一番近いのは自分だという自負はあったし、望む形ではなかったとしても愛されていると言う自覚もあった。无限の相棒として、一番近い隣にいられればそれでよかった。
それなのに。よりによって、こんな形で。
小黑は震える手でそっと掛布を掴み、恐る恐る持ち上げた。
失敗した。
眠りの淵から引き寄せられ、夢と現実のあわいを揺蕩う間もなく一気に覚醒した瞬間に无限の脳裏浮かんだのはその一言だけだった。小黑が目覚める前に全ての後始末を終わらせている予定だったのに、あまりにも幸福な時間に浸り切っていたらこのざまだ。
小黑はとっくに覚醒していて、まるでこの世の終わりとでもいうような真っ青な顔で无限を見ている。
「しゃ、小黑……」
慌てて飛び起きた途端体の節々に走った違和感と小さな痛みに思わず息を詰め、察しのいい小黑は无限の様子に何を思ったかくしゃりと顔を泣きそうに歪めた。
「しふ……ごめ、」
「どうして謝るんだ。私が、悪いのに」
无限は小黑のことが好きだった。もう、ずっとだ。初めてそれを自覚したときには罪悪感でメンタルが死にそうになったが、何をどう頑張っても小黑のことが好きなままだったので結局は諦めた。純粋に慕ってくれる小黑の笑顔を見るたびに盛大に胸が痛んだが、この想いを抱えたまま生きるのも悪くはないと、そう思っていたのに。
昨夜の記憶がどっと呼び覚まされる。長期の任務明けで久しぶりに小黑に会えた嬉しさから好きな酒を開けた。喧騒から程遠いホテルの深い夜は穏やかで、隣に小黑がいるのが嬉しくて楽しくて、ついつい飲みすぎてしまったのを覚えている。常よりもよく回った酒に理性を溶かされ、普段からは考えられないほど近くにある小黑のゆるゆるの笑顔を見ているうちに、気づけば引き寄せられるように口付けていた。ただただ触れ合わせるだけの児戯のようなその接触に、すっかり出来上がっていた小黑の目がゆっくりととろけて、そうして──
埋まりたい。
頭をもたげた罪悪感を奥深くに押しやって目先の幸福を追いかけた結果がこれだ。酒が入っていたからといって到底許されることではない。
「小黑、すまない……」
絞り出した声がみっともなく震える。そっと伺った先で、ゆらゆらと揺れていた瞳からとうとう大粒の涙がぼろりと零れ落ち流のを見てしまって、无限は胸が引きちぎられそうになった。次から次へとあふれる涙をぬぐってやりたくて手を伸ばした手をそっと下ろす。あんなことをしておいて、泣いてほしくないだなんてどうして言えるだろう。
「小黑……」
「ごめん、ごめんなさい、俺が……」
「違う、私が悪いんだ、私が……」
酒の勢いで抱いてもらおうだなんて。相手の意思を無視する最低な行為だ。
「……好きだなんて言い訳にもならない」
「……うん?」
ぱち、と瞬いた小黑の大きな瞳から、涙がころりと転がり落ちる。さっきまでえぐえぐと盛大にしゃくりあげていた小黑の喉が、名残のように小さく音を立てて、そして止まった。
「好き……って、誰が?」
「……私が」
「……誰を?」
「小黑を」
断頭台に上がる心持ちで、それでもせめて真摯にそう口にする。血の気の引いた手足は冷たく、音は遠い。
言葉尻が空気に溶けて数秒、全く身じろぎもしなかった小黑の尻尾がぼふりと逆立った。
「好き⁉︎」
じわじわと顔を赤らめていく小黑に、无限は内心首を傾げた。何やら思っていたのと違う方向に話が進みそうな気配がしている。詰られ軽蔑されると思っていたのに。
地底深くまでめり込んでいた无限の気分が、ほんの少しだけ浮上した。
小黑は首まで真っ赤に染め上げて視線をあちこちに彷徨かせている。内心の動揺を表すように耳はぴるぴると震え、尻尾は忙しなくシーツを叩いていた。
「待って待って待って、え、師父が?俺を?好き?」
「……うん」
「ほんとに?嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
この反応は。そわりと顔を出した期待が嬉しげに手を振ってくるのを奥に押し込め、无限は首を振った。いやいやまさかそんな都合のいい。
小黑はふるふると小さく震えたかと思うと、何故かその場に勢いよく突っ伏してしまった。丸出しの尻から伸びた小黑の尻尾はなおいっそう激しさを増してシーツをべしべしと叩いている。
「両思いじゃん!」
くぐもった声がシーツに吸い込まれる。无限は今しがた聞いた言葉を鸚鵡返しに呟いた。りょうおもい。
その小さな声が届いたか、小黒はがばりと体を起こし无限の両肩を掴んだ。
「俺も!師父が!好き!」
なるほどそれは両思いだ。
叫んだ勢いのまま抱きついてきた小黑に押し倒されるようにベッドへと沈む。ホテルのそっけない天井を見上げながら、无限はもう一度呟いた。両思い。
「あ!」
さっきまでの涙が嘘のようにご機嫌で无限の首元に懐いてはゴロゴロと喉を鳴らしていた小黑が唐突に体を起こす。ぱちくりと見上げた視線の先で、ひどくショックを受けたように硬直している小黑に、无限は目を丸くした。
「小黑?」
「俺……なんにも覚えてない……俺と師父の初めて……」
それはそうだろう。小黑は酒に弱い。吐くことこそないものの、ある程度飲めば記憶を無くすことも多い。昨夜だって、これはおそらく覚えていないだろうなと確信があったからこそ无限も流れに身を任せたのだ。
「もったいない……」
嘆く小黑の滲んだ涙を今度こそ拭ってやり、无限は小黑の頬を指先でするりと撫でた。
「もう一度やり直せばいいじゃないか」
ゆっくりと瞬いた小黑の瞳孔が、大きく開いた。