とにかく前向きな宋嵐【雪渡】
宋子琛道長が義城を出てさいしょにむかったのは町からそう離れていない水飲み場だった。かつては街道が敷かれ、人の往来もあったのだが、義城が廃れてからの数年間人が寄り付かないばかりか積極的にそんな町があったことを忘れさせるように街道が架け替えられ役目を終えた。
宋道長は水飲み場や休憩のためのあばら家のわずかに残った基礎部分の近くをうろうろと注意深く歩き回り、やがて双眸を川に面する林へと向けた。
花崗岩を多く含む落石は木漏れ日を受けてときおり乳白色にきらめき踏み入る者の目をくらませる。宋道長も迷いの森の誘惑に抗うように一歩一歩と歩を進め朽ちた大木のウロで足をとめた。
「みつけた」
と音のない唇がつぶやく。
彼は大木の前に膝を着き生い茂る草をむしりとると注意深く薄暗い穴の中へ両手を差し込んだ。結わえることも忘れた髪が頬を滑り毛先が泥に汚れる。が、彼はそれに気づいていない。引き抜いた両腕には朽ち果てた衣服と干からびた遺体が抱かれていた。
彼女の名前を道長は知らなかった。
彼女も宋道長の名前を知らぬままだろう。名前を名乗ることすらわすれていたのだから。仙門公子たちがそう呼んでいたからようやく彼女の名を知ることが出来た。
一度、にど、彼の喉が小さく震えたが結局声はでない。
「すまなかった。おそくなった」
そう伝えたかった。
悪党の手によって目を潰され舌を抜かれた彼女は肉体を抜け出し、生きているとも死んでいるとも言い難い状態で長く義城に縛り付けられていた。彼女自身は公子たちの手で手厚く弔われたが、置き去りにされた肉体がどこにあるのかはいまや宋道長しか知りえないことだった。いや、宋子琛自身も霊識を奪われとぎれとぎれの朦朧とした視界でしかこのことを覚えていなかった。
彼は悪党を退治してくれるのか、と声を弾ませた少女にかけるべき言葉を違えた。はやく家路に付け、とそれではいけなかった。盲目の道士を連れて一刻も早くかの地を離れるよう伝えるべきだったのだろう。負けるはずがないという傲りがあったのだろうか。憎しみにとらわれ視界を失っていたのだろうか。いずれにせよ、後悔後絶たず、だ。深い悲しみが宋子琛に残された気高い魂を染めあげてゆく。
日の当たる、風の気持ちの良い場所に小さな亡骸を埋めると彼はしばらく次の行き先を思案した。
自身の時間だけが止まったまますでに10年近い年月が流れている。郷里も身寄りも破壊され、きっと見知らぬ人々が新たな営みを築いている。たとえ旧知がいたところでこの身の上では会うことはままならない。
しばらく思案して、宋道長は過去をたどることをやめた。凶屍は怨霊の一種だ。怨霊は過去の無念をくりかえし、くりかえし反復し自らの魂を傷つけながら執着を増やす。そうして肥えた憎しみや怨みや怒りが強烈な陶酔をもたらし一瞬にして理性を奪い去る。
まだ見たことのない土地を探すことすら今はすべきではない。それは志しを共にする友と語らい歩んだ過星を懐古するにほかならない。そうして幸福な記憶のあとに血にまみれた呪わしい記憶を連れてくる。この体はそういうものなのだ、と宋子琛はすでに理解している。
瞭望台も仙門も有力な道閣や社寺のない土地を巡ろう。戦火に踏みにじられた土地を巡ろう。風水の悪く地力に乏しい土地を巡ろう。さいわいこの体は邪気にすこぶる強いうえ、食料も寝床も必要としていない。得られた資源をすべて貧しい人のために与えることが出来る。これ以上悪いことなど起こりようがないのだと奮い立つ宋子琛の心が三つ並んだ影を次の場所へと運ばせた。